0:プロローグ



 ガラガラ、と耳馴染みのない音がする。悪路で車に乗っている時のような、不規則な揺れが体を揺らしていた。
 夢を見ているのか、と思う。視界には何もない真っ暗闇。だけど暗い森の景色が、窓から覗くように見えた気がした。
 やがて景色は遠ざかって闇に沈み、音が止まる。しばらくの静寂。
 そして唐突に、ガタガタと音がし始めた。誰かが自分を揺らしている。直接じゃなくて、入っている箱を。……箱を?
 夢の中だからかなぁ。変な感じ。
『ぐぐぐ……開かないんだゾ……こうなったら!』
 誰かの声がする。若い……男の子っぽい。何か開けようとしているらしい。
「ふなぁぁぁぁ!!!!」
「あっっっっっつい!!??」
 とてつもない熱に炙られ、たまらず暴れた。派手な音を立てて蓋が吹っ飛び、目の前が開ける。
 そこは知らない場所だった。薄暗い部屋の中に、無数の棺桶が浮かんでいる。愕然としていると、横から慌てた様子の声がした。
「起きちまったんだゾ!!」
 声の方を見ると、生き物が立っていた。薄暗くてよく見えないけど、座り込んだ自分と視線が並ぶくらいの高さに青い目が見える。青白い炎が揺らめいていた。
「ならしょうがねえな。おいオマエ」
「な……え?」
「オマエの着ている制服をオレ様に寄越すんだ!」
 制服、と言われて自分の姿を見る。見慣れない服を着ていた。着心地は悪くないけど、ひらひらしてるしフードがあるのか頭が落ち着かない。
「さもないと……!」
 殺気を感じ思わず飛び退いた。青白い炎が自分が座っていた場所を焼く。肌に感じる熱は本物だ。血の気が引く。
 何がどうなってるの。何なのこれ。
 思わず後ろを振り返り、扉があるのに気づいて体当たりで開けた。
「こら、待てー!」
 知らない景色の中を闇雲に逃げる。明らかに現代日本じゃない建築物。嗅ぎ慣れない空気の匂い。逃げているけど、どこが安全かなんてわかるわけもない。
 ひどい悪夢だ。早く目覚めたい。
 建物から外に出たけど、どうやら街中の建造物ではなかったらしい。大きな公園のような整備された道が続いている。建物が点在しているようだが、どこに行けばいいかなんて検討もつかない。空は夜の暗さだった。空気も少しひんやりしている。
 闇雲に走り回り、たまたま目に入った扉に飛びこんだ。そこは図書館らしく、壁一面が本で埋め尽くされている。蝶のような重力を無視した動きで、本がそこらじゅうを飛び回っていた。ワイヤーによる仕掛け物やホログラムなどではない。床に落ちる影も聞こえてくるページがめくれる音も、実体を持った本だという事を示していた。
 ついに足から力が抜ける。目の前の光景が信じられない。
 お約束に一縷の望みをかけて、自分の頬をつねったが痛いし何も起こらない。
 夢じゃない。
「みぃつけた」
 後ろから声がして身を竦める。振り返ると、猫っぽい生き物がいた。体の構造は猫に近い様子だが、青白い炎が耳の部分から出ていて、しっぽはフォークのような形になっている。
「オレ様の鼻から逃げられると思ったら大間違いなんだゾ」
 先ほどと同じ声が、目の前の生き物から聴こえてきた。さっきから喋っていたのはこの生き物で間違いない。乱暴な言葉遣いの割にかわいらしいなぁ、と一瞬思ったが、やってる事は全く可愛くない。
 生き物は僕の混乱を怯えているのだと理解したらしく、狡猾な笑みを浮かべて近づいてきた。その混乱が続いているような顔をして、じりじりと間合いを詰めてくる生き物を見つめる。蹴りの射程までもう少し。
「さぁ、その制服を……ふぎゃっ!?」
 今だ、と思った瞬間に生き物に何か叩きつけられた。咄嗟に動きを止めると、更に生き物をぺちぺちと叩く音が続く。紐状のそれはあっという間に生き物の体を絡め取り、ぐるぐる巻きにしてしまった。
「な、なんだこの紐!」
「紐ではありません、愛の鞭です!」
 また新しい声がする。低い、大人の男性の声だ。
 背後を振り返ると、仮面を着けた男の人が立っていた。すらりと背が高く、カッチリとした洋装に黒い羽根で飾った上着を羽織っていた。年齢はよくわからない。老獪な雰囲気はあるが、仮面の隙間から覗く肌は老いたものには見えなかった。
「全く……新入生が扉を勝手に開けて出てくるなんて、前代未聞です」
「し、新入生?」
「それに、手懐けられていない使い魔の持ち込みは禁止ですよ」
「オレ様は、そいつの使い魔なんかじゃねー!!」
 生き物が抗議すると、紐が口に巻き付いて塞いでしまった。呼吸は出来ているようだが苦しそうだ。男性は生き物を小脇に抱え呆れた様子でため息を吐く。
「はいはい、反抗的な使い魔はみんなそう言うんです」
「あ、いやホントにその、知らないんですけど……」
「そんな事はどうでもよろしい。早くしないと入学式が終わってしまう!」
 男性は自分に立ち上がるよう急かした。ついてくるように言って、早足で歩き出す。っていうか入学式ってどういう事?
「あ、あの、失礼ですけど、誰かとお間違えでは?」
「何を間違うと?黒き馬車が迎え、その制服を纏っている以上、君は新入生でしょう」
「その新入生っていうのに、覚えがないんですけど!」
「はて、転移魔法の影響で記憶が混乱しているんですかね。まぁ、そのうち思い出すでしょう」
 あ、これいくら説明してもダメなヤツだ。
 無視して逃げる事は出来るけど、さっきの生き物は自動で動いている紐にぐるぐる巻きにされているように見えた。火を吹く化け物といい、なんか常識の通じない、とんでもない所にいる気がする。迂闊に逆らって命の危険があっても嫌だ。
 状況も正直よくわからない。場所をそもそも知らない。情報を得るなら闇雲に探すよりは、命の危険が無い事を前提にだけど、大人しく従って先の展開を見ても良いかもしれない。
 男性は分かれ道を迷いなく進み、大きな建物に入った。何度も階段を登り廊下を曲がって、他とは意匠の違う扉に辿り着く。
 扉を開いた先には、大きな広間があった。シャンデリアなどの照明はあるが中は比較的薄暗く、至る所に棺桶が浮かんでいる。
 多分、目が覚めた時にいた場所だ。さっき飛び出した時にはいなかったと思うけど、今は大勢の人が同じ服を着て並んでいた。多分、自分が着ているのと同じ服。制服だって言ってたし。
 無遠慮な視線や囁き声に居心地の悪さを感じながら、気にしないように目の前の男性の背中を必死で追った。
「さあ、闇の鏡の前へ」
 男性が指し示したのは、広間の中央にぽつんとある大きな鏡だ。豪奢な額縁がついてて、普段家庭で見るようなものではない。舞台の大道具みたいだ。
 っていうか、浮いてるように見える。いや本も浮いてたし今更なのかな。
 前に立っても、鏡はしばらく暗い闇を湛えたままだった。やがてそこに緑色の炎が灯り、仮面のように空虚な顔が浮かび上がる。目や口の形はあるが、その向こうには暗闇しか見えなかった。
『汝の名を告げよ』
「……羽柴悠、です」
 仮面の口が動いて、名前を復唱する。
 ああ、こういう装置があるアトラクション、どこかの遊園地にあった気がする。ガラス板の向こうにモニターがあって、そこに映像映してるんだよね。その時も凄いと思ったものだけど、今時は通信技術が進化しているから、線とか機械部分とか目立たないように作られてるんだろうなぁ。
 状況把握が出来ないあまり、関係ない事を考えているしかなかった。それが何か悪く作用したんだろうか。
『汝の魂のかたちは…………』
 仮面の顔は、考え込むように何度か歪んだ。たっぷりとした沈黙を挟み、告げる。
『わからぬ』
「…………なんですって?」
『この者からは魔力の波長が一切感じられない』
 だから、どの寮にも相応しくない。
 鏡の中の仮面が高らかに宣言すると、後ろの方がざわめきだした。一層居心地が悪い。
 一方、仮面の男性は混乱した様子だった。
「魔法が使えない人間を黒い馬車が迎えに行くなんて有り得ない!!」
 魔法?魔法っつった今?
 叫ばれても、鏡が何か言葉を返す事は無かった。男性は頭を抱え、その拍子にさっきの生き物が床に転がり落ちる。生き物が何度かもがくと紐が外れた。自由になった生き物が鏡の前に飛び出す。
「だったらその席、オレ様に譲るんだゾ!」
「あ、コラ!」
「オレ様はグリム。そこのニンゲンと違って、オレ様は魔法が使えるんだゾ!だからオレ様を学校に入れろ!」
「狸に入学資格なんてありませんよ!!」
「オレ様は狸じゃねー!!」
 嫌な予感がして急いで離れた。グリムは口から火を吹き、薄暗い広間が青白く染まる。並んでいた人たちは混乱し逃げまどった。尻に火がついてる人もいる。リーダーらしき人の号令で一部は冷静になったようだけど、グリムはまだまだ炎を吐いて暴れ回っていた。簡単に燃える素材は服ぐらいだろうけど、このまま暴れ続ければ火事になるのは時間の問題、だと思う。
 混乱する室内で、ついに誰かがグリムの前に立ちふさがる。赤い髪の小柄な少年と、銀髪でメガネをかけた少年だ。どちらも広間に集まった大勢と同じ服を着ている。
 銀髪の少年が何か口にしながらペンを振ると、どこからか水が溢れだし炎が消されていった。
 わぁ凄いヒーローショーみたい、と、意識が現実を理解する事を拒む。水が出る仕掛けなんてどこにもないのに、何もない場所から水が出ているのに、困惑も疑問もすっ飛ばして虚ろな感嘆だけ脳の表面を滑っていった。
「『首をはねろ』!!」
 赤い髪の少年の高らかな声と共に、金属音が響きわたる。見ればグリムの首に、金属で出来た板のようなものがはめられていた。
「なんだこんなもの……あ、あれ、出ない……」
 グリムは炎が吐けなくなったらしく、何度も息だけ吹いている。仮面の男性は胸を撫でおろし、グリムを回収してこっちに来た。
「全く、なんなんですか貴方の使い魔は!!」
「だから、さっきから言ってますけど新入生とか使い魔とか、覚えがないんです、人違いです!!その生き物の事も何も知らないんです!!」
 思わず大声で言い返した。やけに声が響いてしまって、室内が静まりかえる。
「……人違い?」
「僕は、転校なんてした覚えはありません。手違いでもあったんじゃないんですか」
「えーっと、だって君は、彼の使い魔では?手懐け損ねてるだけで」
「さっきから違うって言ってるんだゾ」
「こっちは知らないって言ってるのに、そのうち思い出すとか何とか言って、ぜーんぶ聞き流してたじゃないですか」
 グリムまで頷いている。室内の白けた空気は、仮面の男性に向けられる軽蔑の視線を遮らず本人に届けていた。
 この空気から察するに、このテキトー対応、初犯じゃなさそうだな。
「…………いや、まあ、誰しも間違いはある事ですよ!!」
 人の肩を叩きながら、仮面の男性は笑っている。
「ごほん。では、このケモノは学園外に放り出しておきましょう」
 男性が人を呼び、すっかり火が吹けない状態のグリムを渡した。バタバタもがいているがあっさり押さえ込まれている。
「オレ様は……絶対、絶対!大魔法士になってやるんだゾ!!」
 グリムは必死で叫ぶが、声は空しく消えていった。
 何であんなに必死なんだろう。言葉もしゃべれるし、何か事情があるのかもしれないけど、今となっては知りようもない。もう少し話をしたら、教えてくれただろうか。
 本当にちょっとだけ、あんなに強く目指す目標がある彼をうらやましく思った。
「ではこれにて、入学式は閉会です。新入生は各寮寮長の指示に従って、寮に戻るように!……って、ディアソムニア寮のドラコニアくんの姿が見えないようですが」
「アイツがいないのはいつもの事だろ」
 男性の疑問に事も無げに返す声がある一方で、不穏にざわついている人たちもいた。有名人なのだろうか。地域の不良みたいな。
 そんな所に、小柄な人影が入ってくる。
「もしやと思って来てみたが、マレウスは来ておらなんだか」
 やけに古めかしい口調だが、遠目に見える顔は若いように思えた。どうやら寮長不在の寮の関係者のようで、所属者への号令を代わりに行っている。
 こうして室内の人々はぞろぞろと広間を出ていった。数分と経たず、室内は僕と仮面の男性だけになる。
「……さて、大変残念ではありますが、魔力を持たない者をこの学園に置いておくわけにはいきません」
 事務的にそう言われた。まぁそこに不満はない。というか早く帰りたい。夢なら覚めてほしい。
「さあ、鏡の前に立って、あなたの故郷を思い浮かべてください」
 言われるがままに鏡の前に立ち、祈るように自宅を思い浮かべた。
 耳が痛いくらいの沈黙を挟み、鏡が唸る。
『……無い』
「は?」
『この者の帰る場所は、この世界にはない』
 再びの沈黙。
「え、……え?」
「君、出身はどこなんですか?」
「えっと、東京の……え、待ってください。ここ日本じゃないんですか」
 そういえば普通に日本語が通じてる事に疑問を持ってなかった。仮面の男性は首を傾げる。
「ニホン?トーキョー?」
「そもそもここはどこですか?」
「ここは『ナイトレイブンカレッジ』。ツイステッドワンダーランドでも屈指の名門魔法士養成学校です」
「ハァ?」
 訳が分からない。目が回ってきた。
「ま、マホウシって何なんですか?」
「そこから知らないんですか!?……まぁ簡単に言うと、魔法を使える人間の事ですね。我が校では才能ある若者を集め教育を施し、優秀な魔法士として世に送り出しているのです」
「魔法?え、今の水が出てたのとかも魔法って事?」
「そうですよ。……魔法も知らないんですか?」
「知らないっていうか、おとぎ話の中の存在で、現実に使える人なんて……」
 外向きには『魔法少女』を名乗らされていた自分だが使った事はない。いや強化装備とか魔法の杖という名のレーザー銃的なものとか、仕組みがわかんないものは使ってたけど、アレはうさお曰く『全宇宙の科学技術の粋』だし。
 どう見ても現代日本じゃない景色。どう見ても日本人じゃない人たち。言葉を喋る動物に、『魔法』と称される現実離れした事象。
 もう一回、自分の頬をつねった。凄く痛い。何も起きない。
 夢を自覚しながら夢を見る事はたまにある。その感覚とは違う、と思う。
「……情報を整理します。あなたの周囲には魔法が実用的な技術として存在しない。我が校はおろか賢者の島の名も知らない。当然、入学の意志も無い。更に闇の鏡はあなたの故郷を『この世界に無い』と答えた」
 仮面の男性は少し考えた後、口を開く。
「あなたは……異世界からやってきた、という事になるでしょうか」
「異世界?」
「もしくは宇宙人という可能性もありますが、この場合は大した差ではない」
 問題は、と男性は続ける。
「黒き馬車に連れてこられたあなたには魔力が無く入学資格が無い、上に、我々には元の世界に帰す手段がない、という事です」
「帰す手段が、無い」
 さぁっと血の気が引く。現実味のない話が、じわじわと実体を得てのしかかってきた。
 これが夢ではないのなら、僕はこれまでと全く違う世界で生きていかねばならないという事になる。何もしていないのに。
「こんな事は前代未聞です。黒き馬車が連れてくる人間を間違うなど」
「あの……対処法に、見当などは」
「全くつきませんね」
 室内が静まりかえる。
 こんなにも不安に押しつぶされそうになるのはいつぶりだろう。やっと戻ってきた平穏を噛みしめていた期間のなんと短い事か。
「……帰る方法を、探さないと」
 とりあえず間違いなく徒歩では無理、というか物理的な手段で帰るのは無理な気がする。裏技的な、それこそ魔法のような手段でなくては帰れないだろう。
 訳の分からない生き物と魔法が普通の世界で暮らしながら、元の世界に帰る手段を見つけだす。
 まずは衣食住の確保。それから情報収集。言葉にすると単純だけど実際には途方もない。
 変な話、強化装備を纏えず『魔法少女』になれない僕なんて、普通の高校生なんだ。めちゃくちゃ自活能力があるわけじゃない。出来る事なんて限られてる。
 そんな状態で、右も左も分からない異世界から、自分の家に帰るなんて、不可能な事のように思えた。
 混乱は延々続くが、とりあえず目の前の事に意識を戻す。
「……えっと、その。本来呼ばれるべき生徒さんの制服、ってことですよね、僕が着てるこれ」
「まぁそうなりますね」
「じゃあ、これもお返ししないとですね」
 言いながら、室内を振り返る。
「えっと、僕が入ってた所に、私物とか残ってなかったですか」
「いえ、持ち主不明の私物などの報告は受けていません」
「で、ですよね……」
 着ていた制服も持っていた鞄も、スマホも財布も無い。
「……あまりそう絶望した顔をされるのもいい気分はしませんね」
「す、すみません。久々に夢も希望もない状況でちょっと……頭が回らなくて……」
「ふむ。……私も教育者の端くれです。保護者に連絡のつかない未成年を無一文で放り出すのはさすがに気が引けます」
 こうしましょう、と仮面の男性は人指し指を立てる。
「この学園の敷地内に、今は使われていない建物があります。そこを宿として提供しましょう。寮として使われていた建物ですから、掃除すれば寝泊まりには不自由しないはずです」
「いいんですか?」
「構いませんよ。私、優しいので」
 その代わりに、と仮面の男性は続ける。
「この学園で働いてもらいましょう。掃除や荷物運びなど、仕事はたくさんあります。内容に応じて給金を受け取り、生活を自立させる。元の世界に帰る方法を探すのは、私もお手伝いしましょう」
「ありがとうございます!」
「……黒い馬車が手違いで連れてきてしまったのなら、学園側の責任問題になりかねませんからね」
 ぼそりと呟いた内容を察するに、この世界でも出るトコ出ればそれなりにまずい状況なんだと察する。この話は忘れないようにしよう。
「では、宿まで案内しましょう」
「あ、あの」
「何でしょう?」
「その、こんな決定が出来るなら偉い方だと思うのですが、……お名前を伺っても?」
 男性はきょとんとしていた。ぽん、と拳で手のひらを打つ。
「そうでした、あなたはこの学校の事を知らないんでしたね」
 芝居がかった仕草で男性は振り返る。ひらりと上着が翻った。
「私はディア・クロウリー。このナイトレイブンカレッジの学園長です」
 学園長は優雅に笑っていた。


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