1:癇癪女王の迷路庭園
「ボクは……ボクこそが!!絶対、絶対、正しいんだぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
喉を引き裂かんとするような絶叫だ。彼の口から何かがばたばたとこぼれ落ちる。血を吐いたかと目で追った先には、黒い液体が落ちていた。背筋が寒くなる。
ローズハート寮長の顔は見る間に血の気が引いて真っ白になっていった。苦しげに呻く彼の白い服が、徐々に黒く染まっていく。身体の内側から黒い液体が染み出しているようだ。
それどころか服が破れ、違う形に変わっている。喉をかきむしれば襟元のリボンが裂けて、黒い液体が首輪のように這い回っているのが見えた。
彼から溢れた黒い液体は足下に黒い水たまりを作り芝生を汚す。やがて水たまりは大きく盛り上がり、不気味に変形を始めた。人の上半身の形を取り、最後にはハート型のインク瓶が頭部に据え付けられる。継ぎ接ぎだらけで薄汚れたドレスに下半身はないが、その空白からローズハート寮長の両腕と黒い液体で繋がっていた。
全身が粟立つ。身体中の神経が警戒を叫んでいた。
「アレは……ドワーフ鉱山のバケモノ!?」
グリムが叫ぶ。同調を返す余裕はない。
恐怖に固まる僕らをよそに、ローズハート寮長はゆっくりと顔を上げる。黒く汚れ破れた衣装は、後ろの化け物とよく似たデザインに変わっていた。黒い液体がそこかしこに絡み、金属のような光沢を放っている。頭を飾る王冠も顔を彩る化粧も黒い。
自身の変化に気づいているのかは不明だが、ローズハート寮長は楽しそうに笑い出した。溺れているような不気味に濁った声で喋り出す。
『ボクに逆らう愚か者どもは、ボクの世界にいらない。ボクの世界ではボクこそが法律、ボクこそが世界のルールだ!』
さっきも似たような事は言っていたと思うが、一層質が悪くなった印象だ。狂気すら感じる。
『返事は「ハイ、リドル様」以外許さない!ボクに逆らう奴らはみんな首をはねてやる!』
ケタケタと楽しそうに笑っているが、先ほどまでとは段違いにおぞましい。絶対にヤバい。
寮長の後ろにいる化け物は転がっていた薔薇の木を掴むと、生け垣を破壊し始めた。寮生たちが逃げようとすると、薔薇の木を投げつけて阻もうとする。それを見て寮長はまた楽しそうに笑っていた。
「なんて事だ!私がついていながら、生徒をオーバーブロットさせてしまうなんて!」
学園長がまた耳慣れない単語を叫んでいる。
「オーバーブロットってなんなんだゾ!?」
「オーバーブロットは、魔法士が一番避けねばならない状態です。彼は今、負のエネルギーに囚われて感情と魔力のコントロールを失っている!」
「えぇと……つまり?」
「よくわかんねぇんだゾ!」
「僕もだ!」
「平たく言うと、闇堕ちバーサーカー状態って事!」
理解力の乏しい僕らに、ダイヤモンド先輩が補足してくれた。何となくニュアンスは理解する。
「このまま魔力を放出し続ければ、リドル自身の命も危ない」
会場ではさっきからずっと地面が不規則に揺れている。これが寮長の魔力が放出されて起きている事象のようだ。迷惑な地団駄だこと。
「とにかく生徒の命が最優先事項です。他の寮生は私が避難させましょう」
学園長が冷静に提案する。
「ローズハートくんの魔力が尽きる前に正気に戻さねば。命を失う事も最悪ですが、さらに最悪なのは……」
言い掛けて口ごもるが、待っても先はない。
「とにかく、君たちは他の教員と寮長たちに応援を要請して……」
学園長はこちらを振り返って固まる。
「だらああああ!くらえ!!」
「いでよ!大釜!」
「ふなぁ~っ!!」
三人の放った魔法がローズハート寮長に降り注ぐが、その全てを怪物が薔薇の木を振り回して薙ぎ払った。
『……貴様ら、なんのつもりだ?』
寮生に向かっていたローズハート寮長が三人を振り返る。低く殺気立った声にも臆した様子はない。
「ちょちょちょ、お前らなにやってんのぉ!?」
ダイヤモンド先輩の困惑に、三人は振り返らずに返す。
「アイツ、あのままじゃ大変な事になっちまうんだろ!?」
「さすがにそこまでいくと寝覚めが悪い。それに……」
「まだ『ボクが間違ってましたごめんなさい』って言わせてねーし!」
頭が痛そうなダイヤモンド先輩や学園長と異なり、クローバー先輩は意を決した様子だった。
魔法を放とうとする動作を見逃さず、ユニーク魔法を放つ。トランプが三人の頭上に降り注ぎ、ローズハート寮長はくぐもった叫び声をあげた。
「少しの時間なら俺がリドルの魔法を上書きできる。その間に、頼む!」
「君たち待ちなさい!危険です!」
「そーだよ!トレイくんまでなに言ってんの?リドルくんに勝てるわけないじゃん!」
ダイヤモンド先輩はクローバー先輩の肩を掴んで止めようとするけど、彼は首を横に振る。
「あいつを失うわけにはいかない。俺は……あいつに伝えなきゃいけない事があるから」
真剣な表情で寮長を見る。今なら、彼がローズハート寮長の『友人』である事に疑いの余地はない。
先輩の支持を得たからか、エースたちは勢いづいたように笑う。
「勝てる奴にしか挑まないなんて、ダサすぎんでしょ!」
「そんなの全然、クールじゃないんだゾ!」
ダイヤモンド先輩ががしがしと頭をかいている。いつになく乱暴な態度でマジカルペンを取る。
「……あー、くそっ!分かりましたよ。こういうの柄じゃないんですけどねー、ホント!」
言いながら、振り下ろされる薔薇の木を防壁で弾いてくれた。
『どいつもこいつも良い度胸がおありだね……みんなまとめて、首をはねてやる!』
寮長が叫ぶと、呼応するように化け物が薔薇の木を地面に叩きつける。
覚悟が決まった臨戦態勢の生徒たちとは対照的に、学園長はあわあわと混乱していた。
「ああもう……生徒を避難させたら私もすぐに戻りますから!それまで耐えてくださいよ!」
戦う生徒たちに声をかけて、僕を振り返る。
「あなたは避難誘導を手伝ってください。彼らが引きつけてくれるうちに、私は出入り口の薔薇の木をどうにかします」
「はい!」
いつ魔法が飛んでくるかと怯えている寮生たちは、学園長が動き出すと助けを求めるように駆け寄ってきた。時々飛んでくる攻撃の余波を防壁で叩き落としつつ、学園長は出入り口へと向かっていく。
おっかなびっくり駆け寄ってくる寮生に肩を貸し、まだまともに動けそうな寮生に託すのを繰り返した。そのうちに薔薇の木は取り払われて、寮生たちは我先にと外へ向かっていく。
最後の一人を見送った時、視界の端に何か動いた気がした。
「ユウくん、君も早く外に避難を!」
「……学園長は避難した寮生の点呼をお願いします。パニックになってると思うので。僕も確認したらすぐ避難します!」
返事は待たずに走り出す。エースたちが戦闘に集中してるおかげで、こちらに注意が向く事はない。
寮長が暴れた事で割れた生け垣から、会場の隣の薔薇の迷路に入れるようになっていた。奥に進む前に、生け垣に隠れるようにうずくまる寮生を見つける。
「何してるんですか」
「ひぃっ!」
びくりと身体を跳ねさせ、寮生は僕を見上げた。
「早く避難してください、学園長が入り口を塞いでた木をどかしましたから」
「う、ううう、お、俺は……」
煮え切らない態度に首を傾げる。視線を合わせるために隣にしゃがんだ。
「何か気になる事でも?」
「俺は、俺が……寮長に、卵を投げたんだ」
震えたか細い声だったが、確かにそう聞こえた。頭を抱えて、更に縮こまる。
「自分と同じ新入生があんな、正面から立ち向かってるのに、俺も何かしなきゃって思って。だ、だけど怒られたら怖くて、謝らなきゃと思ったけど怖くて、言い出せなくて。周りの奴も何も言わなくて、やっぱり言い出せなくて!」
うやむやになればいいと思ったのだろう。そんな幕引きを彼がするはずないと、彼らだって理解していたはずなのに。
「まさかオーバーブロットするだなんて。……俺のせいだ、謝らないといけないのに、怖くて、でも逃げるのも怖くて!」
「分かりました」
「……はい?」
「ぶん殴られて気絶した状態で避難させられるのと、今すぐ黙って自主的に避難するのとどっちがいいですか」
「人の話聞いてた!?」
「聞いてましたよ。怒られるのは誰でも怖いです。気持ちは分かります。でも今、謝った所でもっと怖い思いをするだけです。最悪死にます」
ひぇ、と寮生が息を飲む。
「かと言って、ここにいて巻き込まれて死んだら、二度と謝る事も出来ません」
「……それは、そうだけど……」
「彼が正気に戻ったら、きちんと謝ったら良い。その時は注意だけで終わる事を期待しましょう」
どうしますか、と選択を迫る。一瞬迷った様子だったが、彼は立ち上がった。
「ちゃんと、頑張って謝る。……そのために、今は逃げていい、んだよな?」
「そういう事ですね」
生け垣から顔を出し、寮長たちの様子を伺う。寮生が逃げた事で会場いっぱい使って戦ってはいるが、こちらを気にする素振りはない。
「今のうちです、急いで!」
なるべく盾になる位置を意識して併走する。寮生は足がもつれて転びそうになりながらも、出口まで駆け抜けた。
「建物に入ってください、振り返らないで!」
僕の指示の通り、彼は振り返らずに建物に走っていく。ほっとしたけど、同じように生け垣の迷路に逃げた生徒がいる可能性は捨てきれない。学園長の確認を待ってる間に危険が及ぶかもしれない。
迷ったのは一瞬。一気に駆け抜けようとして、その間寮長への警戒がすっぽ抜けた。
「ユウ!!」
エースとデュースの声が重なって聞こえた。次の瞬間には思い切り突き飛ばされ、芝生を転がる。何かと思う暇もなく、派手な打撃音と共に二人の身体が吹っ飛んできた。
「エース、デュース!!」
二人は倒れたまま微動だにしない。脈と呼吸を確認して、生きている事に安堵した。でも気絶しているという事は、頭に当たった可能性が高い。早く医者に見せないと危ないかも知れない。
さすがに二人同時に抱えては思うように動けない、と迷う僕の背中に不気味な笑い声が降り注ぐ。
『弱いくせに騎士気取りかい?身の程知らずだね。みっともないったらありゃしない!』
ローズハート寮長は心底面白いと言うように笑っていた。今まで聞いた事の無い下品な笑い声。表情までどんどん狂って下卑たものになっている気がする。
ずっと腹の底に溜まっていたものがふつふつと沸いていた。
「子分、エースとデュースは!……子分?」
「グリム、二人を頼んでいい?薔薇の木が飛んできても、グリムなら火で撃ち落とせるでしょ」
「お、お前は何をするんだ?」
グリムがおののいている。質問には答えずに立ち上がり、ローズハート寮長を正面から見据えた。
「自分を庇ってくれた友達をバカにされてるのに、黙って逃げるとか性に合わないんだよね!!」
肌に感じる殺気を押し返すように、指先まで闘志が満ちてくる。その感覚を心のどこかで懐かしいと思いながら、感傷は不要だと頭から追い出した。
僕の様子を見たローズハート寮長は、更に笑い出す。
『魔法も使えない奴に何が出来るって言うんだい?』
答えずに真っ直ぐ走り出した。伸びてくる薔薇の枝を最小限の動きで避ける。多少皮膚が裂けたけど構ってられない。
化け物が薔薇の木を振り回すけど、動きが大振りだから間合いと範囲さえ見誤らなければ、避けるだけならどうにかなる。
地震ももう慣れた。地面が繋がってるなら、身体強化の装備が無くたって走れる。
距離が縮まるほど、ローズハート寮長の表情が苛立ちに歪んだ。
『何なんだお前は!』
魔法を放つも、クローバー先輩の魔法に上書きされてトランプしか出せない。あと一歩、という所で、その身体が大きく後退し距離が離れた。後ろの化け物が飛びすさり、寮長はそれに引っ張られたように見える。
「ユウちゃん、下がって!危ないから!」
「先輩、……後ろの化け物に攻撃を集中してもらえませんか」
「人の話聞いてるぅ!?」
「確かに、アレをリドルから引きはがした方が良さそうだな」
「トレイも何言ってんの!?ユウちゃんを囮にする気!?」
「エースたちが復帰するまで、な。それでいいんだろ」
クローバー先輩は僕を見て不敵に笑う。
「失態は自分で取り返したいので」
返事は待たずに駆け出す。
寮長は先輩たちの攻撃に対応しつつ、こちらにも牽制してきた。寮長の強さには驚くばかりだ。先輩二人がかりでも圧倒出来ないんだから。
火球が飛んでくるのが見えたので、制服の上着を脱いで振り払う。すかさずダイヤモンド先輩が水をかけて消火してくれた。さすがに二回目は耐えられなさそうなのでそのまま捨てる。
『ルール違反のくせに!魔法も使えない落ちこぼれのくせに!!』
暴君の怒りに応えるように、転がっていた薔薇の木が浮き上がった。めりめりと音を立てて枝や根が不格好な槍に変わっていく。先ほどのものと違い、数が多い。さすがに避けきれない。
足を止めれば全部当たる。そうしたら無事では済まない。駆け抜けても、手足のどれかには当たる。どちらにしろ最悪の場合は死ぬ。
だったら止まるわけにはいかない。自分の足の遅さがもどかしい。強化装備が無ければジャンプ力も走力も十人並なのだ。
致命傷は避けられますように、と祈りながら走っていた。
「ふなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
後ろから叫び声が聞こえたと思ったら、青い炎が宙に浮いた薔薇の木を一斉に焼き払う。
「グリム!」
「にゃはは、世話のかかる子分なんだゾ!……あわわわわ」
慌てて後ろを振り返ると、背中からふわりと着地する所だった。更に後方を見ると、エースとデュースが起きあがっている。風の魔法を使ってグリムを受け止めたようだ。
「やったれ、ユウ!!」
エースが叫ぶ。礼を言う時間さえ惜しんで前を向いた。背中に追い風を受けて、さっきよりも足取りが軽い。
『止まれ!止まれったら!!』
「『薔薇を塗ろう』!」
『うぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!!!』
手からトランプが零れ、寮長が絶叫する。再びの後退は先輩たちの攻撃に阻まれた。
黒い暴君が眼前に迫る。尚も魔法を放とうとする、その真正面に踏み込んだ。
とても力任せに、一番当てやすい胴体に拳をめり込ませる。
『ぐぁっ……!』
硬い革のような感触だったけど、ダメージは通ったらしい。ローズハート寮長はうずくまり、化け物は生け垣をなぎ倒しながら後ろに倒れた。
すかさず襟首を掴んで顔を上げさせた。右拳はまだ解いていない。この程度で終わるワケがない。
叩き潰す。
完膚なきまでに叩き潰す。
そうしないと皆が傷つけられる。取り返しのつかない事が起きる。甘さは不利しか生まない。守るにはそれしかない。
さぞや悔しげな顔をすると思っていた。あるいは、まだ反撃の手はあると不敵に笑うと思っていた。
「ひぃっ……!」
違った。
目の前の少年は、心から怯えていた。純粋に暴力に怯えた顔ではない。
過剰な折檻に怯える顔。
多分、そんな感じだと思う。
心の中で燃えていた怒りが急速に収まった。自分の感情の変化に戸惑う中、脳裏に言葉が浮かぶ。
この子はまだ助けられる。
まだやり直せる。
……あいつらとは違う。
言い訳がましい言葉のようで、それが事実であろう事もどこかで感じている。
振り上げられた拳が降りてこない事に、少年は戸惑った顔をしていた。随分な時間、動かなかったと思うが、誰も彼もが展開を固唾を飲んで見守っていたらしい。時間が止まったように思えた。
どうしていいのか分からないけど、とりあえず拳を解いた。襟首を掴んだ手を離す。
攻撃の意思が無い事は伝わったはずだけど、彼は動かなかった。怯えた目でこちらを見上げて、殴られた腹を守るように抱えている。
その姿がとても弱いもののように思えて、安心させなくては、と思った。しゃがみこみ、抱えるようにして背中を撫でてやる。殴った奴がこんな事をするのもおかしな話だが、そうしないといけない気がした。
少年は抵抗するどころか、徐々に脱力している様子だった。服を掴まれた感触がある。頭を撫でていると、彼と化け物を繋ぐ黒い液体が、ぷちぷちと音を立ててちぎれていくのが見えた。
少年の変化とは対照的に、化け物は猛然と生け垣から起きあがった。少年を取り返そうとしているのか、殺気立った様子でこちらに向かってくる。でも先輩たちが立ちはだかった。
「ケイト、合わせてくれ!」
「まっかせて!」
火の魔法に風が合わさり、炎の嵐が生まれ化け物を押し返す。いつかグリムとエースが使ったものより、ずっと勢いが強い。ぶっ飛ばされた化け物は更に奥に倒れ込み、ついに少年と繋がっていた黒い液体が完全に切れた。
人の言葉ではない咆哮が響いた気がした。化け物の身体は黒い煙に変わり、ボロボロと崩れ始めている。動く度にほつれる腕をものともせず向かってくるが、腕が短くなれば前に進まなくなっていった。
やがてインク瓶だけが宙に残り、支えを失い、地に落ちて音もなく割れる。溢れ広がった黒い液体が砂に変わり、風にさらわれて消えていった。