7−4:虹色の旅路

 ………


 もう何も見たくない。
 ただ薄く開いただけの目は何も映さない。目の前は真っ暗で、自分がどこにいるのかもよく解っていなかった。宇宙の彼方の暗闇に取り残されたみたい。寂しいけど、安心している自分もいた。
 全部投げ出してしまおう、と語りかける恋人の声はとても甘い。もう何もかも諦めて身を委ねてしまえばいいのに、自分は何かを迷っている。
 何かを忘れている。とても大切な事を。
 ……誰か来た。恋人と言い争っている。……違う、同じ声?
 違和感を覚えたら、勝手に視界が開けた。暗闇しか見えないはずの場所で、違うものを見る。
 忌々しい過去の記憶。
 愛しい人を、己を満たすために殺そうとする醜い自分。
 愛を示すはずの口づけひとつで、呪いが全身を巡り、彼は永遠の眠りにつくだろう。
 もう二度と目を覚まさず、微笑むことも無くなり、時の止まった愛しい人をガラスの棺に飾って、永遠に傍に置く。
 もうどこにも行かないように。
 もう自分以外の誰の事も見ないように。
 …………それは醜い欲であって、美しい愛なんかじゃない。
 自分が見たいのは、世界に怯えず絶望もせず、夢を叶え満たされた笑顔を浮かべる彼なのだ。
 冷たい棺の中で、あの柔らかな温もりさえ失って、眠り続ける姿じゃない。
 そう思ったら身体に力が戻り、気付けば駆け出していた。
 何だか悪い夢から覚めた気分。まだ少し頭痛は残っているが、頭は異様にスッキリしていた。
 とはいえ、いま立っている場所が現実でないのは間違いない。自分と同じ顔、それもオーバーブロットした自分が実体を持って目の前にいるなんて、間違いなく悪夢だ。
『何故、邪魔をしたの?』
 溺れているような声で目の前の自分が問いかけてくる。
『あの子を手放したくないのでしょう?他の男に取られたくないのでしょう?』
「……ええ、勿論」
『だったら!こうするのが一番確実で手っ取り早いってアンタは解ってるでしょう!?』
「いいえ。それは最良じゃない。無意味だわ」
 あの時は奪われる事を恐れて、囲い込む事しか考えていなかった。何でもうまくいくネージュを恐れるあまり、あの子の気持ちの事も、自分の気持ちの事も、何も考えていなかった。
「アタシが欲しいのは死体じゃない」
『死体でも愛しいあの子だわ』
「死体じゃ意味がないの。アタシはあの子の全てが愛しいのだから」
 笑った顔も拗ねた顔も、怯える顔も泣いてる顔も、苦笑する顔も天使のような寝顔も、脅威に立ち向かう凛々しい姿も、年相応の男の子らしい姿も、たまに見せるあどけない姿も、優しさも愛らしさも、時折露わになる毒も、何もかも。
「例え傍にいられなくても、あの子の命を奪う事は許せない」
『傍にいないなら、生きていたって意味が無いわ!』
「意味はあるわ。生きているのなら、例え離ればなれになっても再会する可能性はゼロじゃない」
 彼がここに来たのは何かの事故か、あるいは誰かの陰謀に巻き込まれたせいだ。正しい形とは言い難い。正しい形でないからには、彼には相応の負担がかかっている。
 それを無視するのは、あまりに自分勝手だ。
「あの子を元の世界に帰した後で、アタシは正々堂々あの子に会いに行くわ。そこで愛を告げて、それからの将来を共にするの」
『……叶えられる根拠のない、穴だらけの子どもの夢ね』
「ええ、そう。子どもっぽい願望よ。……でも、アタシの始まりだってそう。子どもの夢、だったわ」
 生まれ持った美しさと才能の存在は勿論大きい。それが無ければ見る事も出来ない夢だっただろう。
「そこからずっと努力してきたの。そうしてここまで……世界一に手が届く所まで登ってきたのよ」
『でも一番になるのはネージュばかりじゃない』
 目の前の自分が、忌々しげに吐き捨てる。
『アタシこそがこの世で最高に美しいはずなのに、どんなに真面目に誠実に自分を磨いたって、アタシの努力は報われない』
 憎しみに顔を歪めた自分が目の前にいる。見るに耐えない、哀れみすら湧かない。
『勝つのも愛されるのもネージュばかり!可憐で美しい、ネージュが妬ましい!』
「……なんて醜い姿なの」
『アタシが醜くなったのはアタシのせいじゃない。全部ネージュのせいよ!』
「違うわ。アタシがオーバーブロットしたのは、他の誰でもなくアタシのせい」
『綺麗事を言うのはやめて!本当は憎くて憎くて仕方がないくせに!愛するあの子の心さえ奪われると怯えたくせに!』
 嫉妬に溺れて濁った声。苦しみにもがき、誰かを同じ所に引きずり込もうとする身勝手な怨み。
『可憐で美しい、みんなに愛されるネージュが憎い!そうでしょう!?』
「ああ……なんてこと。嫉妬と怨嗟にまみれ、美しさの欠片も無い」
 これが、あの時の自分の姿。
 そう自覚をすれば、思わずにはいられない事もある。
「こんな姿のアタシを見ても……アナタはアタシを愛してくれるのね」
 あの時、彼ならきっといくらでも抵抗できたはずだ。
 彼の肉体には呪いに抗う魔力が備わっている。頬でも張り飛ばせば怯ませて、自分から逃れる事が出来ただろう。
 彼はそれをしなかった。呪いの口づけさえ受け入れようとした。
 愛する人が愛してくれている自分の姿を、他でもない自分が目を背けて否定するわけにはいかない。そんな無様に現実逃避する自分なんて、認められない。
「もう目を逸らさない。受け入れるわ、この吐き気を催すほど醜い自分を」
 同じ顔をした化け物に堂々と宣言する。
「これが……本当のアタシ」
 化け物の顔が歪む。濁った声で高らかに笑った。
『そうよ!これがアタシよ!一人だけ崖を登って高みへ行こうったって、そうはいかない。絶対に逃がさないわ……』
 不気味な笑顔が更に歪に形を変えていく。皮膚が垂れ下がり、肌から張りが失われて、色が淀んでいく。深く刻まれた皺は無様なばかり。髪の毛は艶を失い枯れ草だらけの荒野のように荒れ果てていく。
 目の前にいた自分の姿をした化け物は、あっという間に醜い老人へと変わっていた。
『アンタはアタシと一緒に、大岩の下で潰れているのがお似合いよ。骨の随まで粉々になった、世にも醜い姿のまま……永遠に!』
 自分の顔から姿を変えたものがこれなら、きっとこうなる可能性は永遠にあるのだろう、と冷静に考える。
 全てを諦めれば、いつかはこうなるのかもしれない。
 だけどそんな事にはさせない。なってたまるか。
「いいでしょう。ならば、アタシはそこから高みへと這い上がってみせる。醜い欲望と共に!」
 これが自分。嫉妬も欲望も、何一つ欠けても自分ではない。
 望むのは『世界一美しい自分』だ。ならば、こんなものでも捨ててはいけない。
 清らかで曇り一つ無い、そういうものが美しいと言われる事は嫌というほど理解している。
 だけどそれだけが美しさではない。
 己の醜い感情も何もかも飲み下し、それでも尚、人々が『美しい』と讃え跪きたくなる美しさ。それを体現するのがきっと自分の『正解』だ。
 潰されても挫けない。
 物語の悪役のように、エンディング前に退場させられて、そのまま諦めてなどやるものか。
 ご都合主義だけでは回らない現実に、自分は生きているのだから。
 決意に呼応するように目の前の老人が更に変形していく。人間の骨格すら失い、現れたのは巨大なファントムだった。
 あの時、あの子に毒林檎を投げつけて殺そうとした、憎たらしい魔物。
 生身ではきっと敵わない。力が必要だ。
 あの子を守るために。強大な力が。
「…………そうね、受け入れるんだもの。使ったって良いでしょう?」
 誰にともなく微笑み、目を閉じてイメージを高める。周囲にあるブロットが自分に集まってくるのを感じた。
 同じものを纏ったって、あの時とは心が違う。同じ自分にはならない。
 完璧に仕上げた無駄のない身体を黒が彩る。くすんだ黄金が身を飾り、ドレスは綻んでみすぼらしい。マントはクジャクの翼のように広がり、手を動かせば本物のようにはためく。冠から垂れるベールは、権威の象徴に女性的な華やかさを加えた。
「これが、……アタシの偽りない姿。アタシから溢れたブロットが作り出した衣装」
 輝かしき玉座を追われた女王のような、物語の終わりを感じる姿だ。それがまるで自分の事のようにも感じられる。
 ……でも、自分の物語は終わりじゃない。そんな気も無い。
 ダメージ加工のアイテムを着こなすのと同じ。要は見せ方だ。
 どんなに美しい服でも、その美しさを着ている人間が信じられなければ輝きは陰る。
 いつものように背筋を伸ばし、いつものように微笑みを浮かべる。
 今この時、世界で一番美しいのは、自分。
「さあ……世にも醜いアタシの亡霊よ。その心臓をアタシに差し出しなさい!」
 周囲に漂うブロットを巻き込んで、周囲に嵐が吹き荒れる。
 ファントムの投げる毒林檎は風に阻まれ、一つも当たらずに地面に落ちた。ブロットへと解けたそれがこちらに集まっては、ファントムを貫く矢へと変わる。
 利用される事を悟ってか、ファントムはブロットの毒林檎を投げるのを止め、力任せに拳を振るった。しかしその動きは老いた身体のように遅く、空を好きに動き回れる自分には当たらない。
「あら、こちらの方がお好み?」
 鋭いヒールがインク瓶の頭を蹴り飛ばす。華奢な身体から放たれた一撃で、巨体が舞台上から転がり落ちた。
「意外と軽いのね。ユウの邪魔をしないようにしなきゃ」
 あちらはあちらでかなり調子よく戦っている様子だ。偽物の方が自分に助けを求めているようだが、冷ややかな笑みを浮かべるに留める。案の定、すぐに元気よくユウに跳び蹴りを放っていたので、嘘泣きだったのだろう。驚嘆に値する面の皮の厚さだ。
 やはり、アレはあの子じゃない。もっと邪悪でどうしようもない何かだ。
 納得した所で、よろよろと起きあがって飛びかかってくる巨体を舞台の奥に蹴り飛ばす。軽く浮いて両手を広げ、翼で風を起こすイメージで腕を振れば、マントの裾から鋭い矢のような鳥の羽根が飛び出して化け物に降り注ぐ。
『何をする……おやめ!おやめったら!』
 ついに向こうが悲鳴を上げた。もはや誰の声か判らないくらい濁りきっている。
「本当に無様だこと。『絶対に逃がさない』んじゃなかったの?」
 ファントムが咆哮を上げる。もはや人の言葉を話す気も無いらしい。
「……例えこの身が大岩の下敷きになり、骨の髄まで粉々になったとしても……アタシは二度と立ち止まらないわ!」
 芸も無くただ向かってくるファントムに蹴りを放つ。風の魔法を織り込んだ一撃は、巨体を高速で吹き飛ばしステージの大型モニターに突き刺した。
 ファントムは尚ももがき、突き刺さった壁から抜け出して落ちてきた。もはやまともに身体を支える力も出ないのか、醜く這いずってこちらに向かってくる。
 自分はその正面に立ち、インク瓶の頭部を踏みつけた。ガラスにヒールを突き刺すように、脚に力を込める。
「いいこと?覚えておきなさい」
 醜い魔物が巨体を振るわせながら手を伸ばしてくる。気づけば笑みを浮かべて、無様な敗者を見下ろしていた。
「アタシはいつだって、この世で最高に美しい!」
 汚い指先が触れる前に、インク瓶を踏み抜いた。飴でも踏み砕いたような感触。
 頭を失った魔物の身体がざらざらとした黒い砂に変わり、風に流されて消えていく。ステージの上には何も残っていない。
「ふふふ……ははは!あーーっはっはっはっは!!」
 気づけば高らかに笑っていた。凄まじい開放感。
 一頻り笑った所で後ろを振り返れば、愛しい人がこちらへ駆け寄ってくる所だった。
「ユウ!」
「シェーンハイト先輩!」
 飛び込んでくる愛しい人を手を広げて受け止めようとして、はっと身を竦める。それを見てユウも足を止めた。
「どうかしました?」
「いえ、……この姿のアタシ、怖くない?」
 ユウは大きな目を丸くして小首を傾げる。そしてすぐににっこりと笑った。
「僕を守ってくれた先輩の姿ですもん。怖くないですよ」
「……そう」
 改めて手を広げれば、迷いなく飛び込んできてくれる。愛しい人の温もりを噛みしめるように、しっかりと抱きしめた。
「ああ……アタシのかわいいお姫様」
 ずっと空虚に苦しんでいた身体の中に、暖かいものが溜まっていく。長い時間離れていたような気がしていた。気持ちが安らいで、さっきまでの凶暴な自分が嘘のよう。
「色々と聞きたい事はあるんだけど…………ひとまず、どうしたらいいかしら」
「とりあえず、ここを出ましょうか」
 ユウの姿が白い装備からいつもの制服姿に変わる。そしてスマホを操作すると、短剣のようなものが彼の手の中に現れた。緑色の宝石で出来た刀身に、銀の装飾が施された武器には見えない意匠のものだ。
 ユウが短剣を掲げると、光が空に向かって伸び始めた。嵐の空を突き抜けて、その先へと導くように。
「先輩、つかまってください」
 今度は自分がユウに抱きついた。彼がしっかりと自分の背中に手を回したのを感じた途端、一気に上昇が始まる。
 戸惑う間もなく、ぷつりと意識が途絶えた。

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