−1:その前の話
穏やかな朝の光が瞼を刺す。目覚まし時計の無機質な電子音が耳に障って、意識は完全に覚醒した。
外から聞こえる鳥の声以外、自分以外の何かの気配はない。身支度を済ませる間も、家の中には誰もいない。
両親は中学の頃から海外で仕事してるし、双子の姉はダンスを学ぶために一昨年からアメリカへ留学中だ。一時帰国以外では滅多に会えない。
家族全員が筆不精の電話嫌いなので、メールやらチャットやら通話やらもほとんどしていない。お互いを信頼しているというか、必要な連絡を欠かす事は無いと知っているので誰も気にしていなかったりする。
トーストを焼いてインスタントのカフェオレを淹れ、卵を電子レンジで加熱してオムレツっぽくして、いつもの朝ご飯。今日から高校三年生とか、そういう特別感は無い。買い出し行かなくちゃな、桜の季節が年々前倒しになるな、などと取り留めの無い事を考えながら食事を終える。
持ち物を確認して家から出ようとして、不意に思い立って自室に戻る。そこには誰もいない。ただ勉強机の横に、不自然にぽっかりと空いた空間がある。
ほんの少し前まで、そこには友達が暮らしていた。
大きなウサギのぬいぐるみのような見た目の彼は『うさお』と名乗っていた。地球を外部の侵略者から守る『保護団体』を自称する組織に所属している。
彼らは地球の環境と自主性を保護するために自らの存在を公には隠し、地球人の中から適性を持つ人間を選んで強化装備を与え、侵略者から地球を守るための戦闘員としていた。保護とは言うが善良なだけの組織ではない、とはうさお本人のコメントである。
去年の春、戦闘員として白羽の矢が立ったのは僕ではなく、双子の姉だった。ところが、うさおがうちを訪ねてきた時、姉はアメリカに留学中。現地調査員の情報に齟齬があったとかで、急襲の危機を理由にうさおは僕に代役をさせた。
保護団体はカムフラージュを目的に、地球のいわゆる魔法少女やマスクヒーローなどを模した装備を作っている。それを小規模ながら侵略地域でメディア展開し、侵略の現実性を薄れさせる事で大規模なパニックを防いでいた。
で、そのとき作られていた最新の装備が、女性用だった。今回侵略してきた敵にはこれじゃないと太刀打ちできない、作り直しは年単位で時間がかかるのでできない、遺伝子レベルで姉の適性に合わせて作っているので代わりの女性を見つけるのが難しすぎる、と八方ふさがりの状態で、奇跡的に適性がほぼ同一の存在がいたら、彼らとしてはそこに縋るしかなかった。
そうやって僕は地球を守る『魔法少女』となり、うさおはそれをサポートするため家に居候していた、という事情である。今や空白となった場所には、かつて彼の私物や寝床が置かれていた。
彼が報告のために保護団体の本部へ帰って数日しか経っていない。でもその空白を目にする度に、寂しい気持ちが胸を占める。もう二度と会う事は無いかもしれないのに、あっけなくあっさりとした別れだった。ぽっかりと心にまで穴が空いてしまったようで、まだ落ち着かない。
ふと時計を見れば、家を出る時間が迫っている。さすがに始業式から遅刻はしたくない。
「……行ってきます」
誰もいない部屋にそう声をかけて、扉を閉めた。