6−1:影闇に揺蕩う悲嘆の暗渠
………
「はぁ~……問題児たちの検査、ようやく全行程終~了~」
イデアは個室で伸びをしながら呟く。
職員向けの作業用個室は余計なものが何もなく、狭くて静かで快適だ。主に一人で集中して作業したい時や取り扱いが繊細な機密事項について作業をする際に使うのだが、その性質上娯楽は一切無いので、永遠にここにいろ、と言われたらイデアもお断りするところである。
検査終了後に被検体と数時間過ごすという損失はあったが、目標としていた時間内には終わらせる事が出来た。
あとは『洪水』を起こして彼らを元の生活に帰すだけ。
謎の多いグリムについては引き続き調査を続けるとして、魔力保有量を鑑みても暴走したところで大事になる危険性は低い。今後も経過観察を続ければ十分だと判断した。
見た目は猫っぽく、挙動も猫に共通点が多いが、人の言葉を話し人に等しい思考能力を持つモンスター。魔獣と何らかの動物を魔法的に掛け合わせた存在であり、耳からは青い炎が出ている。
事前調査では『高濃度のブロットが検出された魔獣』とされており、確かにその通りなのだが、一方で検出されるブロットの数値は不可解なほど不安定だ。桁外れに危険な数値を叩き出した次の瞬間には限りなくゼロに近い数値を出し、ブロットケアを行っても安定しない。最大値を見れば『ブロットの蓄積量が桁外れに多い』と言えるが、どうにも断言できる結果ではなかった。
グリムには何らかの強烈な魔術がかけられた痕跡がある。複雑な魔法が重ねがけされており、『S.T.Y.X.』の保有するスーパーコンピューターでも解析し終わるまでに何年かかるか知れたものではない。何を目的とし何の効果をもたらしているのか、全体像が掴めない。かけられた魔術の比較的浅い階層を解析してみても、分かるのはそれが千年前の原始魔法に等しい、非常に古い魔術である事だけだった。
覗いても底が見えない、という事実が列挙されるものの、ではグリムが何か危険な存在かと言われると、ぜんぜん全くそうは見えない。魔力量は乏しく思考能力が人間と遜色なくても頭は良くない。ストレスは多少感じているようだが、検査の合間には野生を忘れた姿で爆睡している。彼の『相棒』が見たら安堵のあまり脱力して膝から床に崩れ落ちるだろう。
まさかグリムを追いかけて嘆きの島までやってくるとは思わなかった。
彼がポムフィオーレの寮服を着ているのを見た時、イデアは感傷と僅かな嫉妬を覚えていた。
入学式で見た時から『ポムフィオーレだろう』とは思っていけれど、いつもと違うまとめられた髪は寮長のヴィルに似せているように見えて、そこにとてつもない不快感が湧いた。『ああ、やっぱりそうなんだ』と確信を得るには十分だった。
寮長服を纏ったヴィルと並べば、仲睦まじい女王と姫君の完成だ。自分には縁遠い、キラキラと輝く美しい光景が想像できる。
思えば、彼が嘆きの島に来ている事を知った時のヴィルの反応も露骨だった。取り繕ってはいたけど、あんなに嬉しそうな顔をしておいて『何とも思っていない』という事は無いだろう。
二人はお互いが『特別』なのだ。
頭の奥が軋む。黒い感情が抑え込むまでもなく萎れていく。
仮に二人に何の関係も無かったとしても、イデアの人生には何も影響が無い。
言えるわけがない。
自分の人生に彼を巻き込みたくない。彼だって巻き込まれたくないだろう。
この島にずっと縛られ続ける人生なんて、誰だって嫌だ。生まれた時からそれが決まってるイデアだって嫌なのだから、自由に生きている外の人間はもっと嫌だろう。
日の光の下で咲く花は、陽光を失ったら枯れてしまう。
だから、どうあっても自分には届かない。
初代当主の謀反以降、シュラウド家は罰としてファントムを閉じ込めるための牢獄『タルタロス』と、ファントムの墓場『冥府』の管理を押しつけられた。
一族は『冥府』の管理に適合するため、ブロットを焼却する代わりに平時は魔力を消耗する呪いをかけられ、その証として髪の毛は青い炎で出来ている。現世に馴染む事の出来ない奇特な外見は、外に向かう気持ちをより遠ざけさせた。
この世からファントムさえいなくなれば番人は必要なくなる。
そう考えた歴代当主はブロットの研究に励み、大がかりな海底都市を造りあげ、どこにも負けない最新技術を持った組織へと成長はさせたものの、理想の実現には程遠くただ情報と諦念だけが積みあがっていった。
「僕の運命は生まれた時から決まってる」
この暗くて辛気くさい場所で、亡霊たちと一生を共にするしかない。
万が一にも自分たちが役目を放棄し、『タルタロス』に封じられたファントムたちが地上に溢れ出す事があれば、世界はまた混沌に戻るだろう。平穏であればこそ花開いた文化や娯楽が潰える可能性もある。
イデアにとってそれは、この最悪で救いの無い人生の彩りを失う事に等しい。断固防がねばならない。
否、それは言い訳に過ぎない。
自分が優秀であると自覚がある。だけど、視点を変え発想を変え手を尽くした所で、自分にはどうしようもなかった。結局それは先祖の誰もが駆け抜けた通過点で、自分もそれをなぞったに過ぎない。
そんな自分に何が出来る。
成功する確証も無く、先祖代々積み上げてきたものを気軽に壊す事なんて出来はしない。そんな愚かな勇気は無い。
だって自分は失った。愚かな勇気のせいで、浅はかな好奇心のせいで、取り返しのつかない事態を起こしてしまった。
あんな想いを二度とするものか。
深々と溜息を吐く。呼吸と一緒に感傷を追い出す。
与えられた役割を全うするだけ。先祖の誰もがしてきた事を、自分もするだけ。
地上の連中が脳天気に暮らせるように、犠牲になり続けるだけ。
何も変わらない。変えてはいけない。
死者の国の王のように、迷える死者の魂を導き、誰もが恐れる任務を勤勉に全うする。
その中には皆に愛される可憐な白い花を、枯らさずに地上に戻す事も含まれるのだ。無事に戻せばまた冥府の底から、その輝きを見つめている事が許される。
「……あの問題児どもには拙者に感謝してほしいくらいですわ」
出奔して二度と会えなくなるかもしれなかったのを、自分の判断が防いだのだから。
……それにしても。
「ナイトレイブンカレッジの生徒を収容調査するよう『S.T.Y.X.』に依頼してきたのって誰?」
情報提供者については機密情報として被検体や関係者に話さない事になっているが、実の所今回のケースに関しては『話せる事が無い』と言った方が正しいぐらいだ。
賢者の島を有する『黎明の国』の政府を介して、匿名で通報。逆探知対策も万全で『S.T.Y.X.』の情報技術をもってしても全く正体が掴めなかった。
そうまでして正体を隠すのは通報者に何かやましい事があるからではないか、と思わざるを得ない。疑問が残る。
そこに関連して言えば、そもそも今回の収容調査の発端であるオーバーブロットの頻発も不審だ。
ナイトレイブンカレッジで過去百年にオーバーブロットした生徒は十人以下。たった半年程度で過去百年の数値に肉薄している。現在の在校生が特別問題児揃いであったとしても、それだけが原因とは考えにくい。何せ実際にオーバーブロットを起こした面々には特異性が見つからなかった。
他に考えられる原因として、封印されていたファントムや強力な呪いを解き放ってしまった影響というのもあるにはあるが、賢者の島にそうした『良くないもの』が大量に封じられている場所や遺跡が存在するという情報は無い。
残る可能性。
「まさか……誰かが人為的に、オーバーブロットを誘発させている?」
イデアは呟き、すぐに首を横に振る。
いくらなんでも現実的じゃない。オーバーブロットは起こそうと思って起こせるものではない。
世間一般的にオーバーブロットの原因は、魔法の使いすぎによるブロットの許容量超過、及び術者の負の感情の高まりによるものとされている。だがこれは極めて雑に、好意的に言えば万人にわかりやすい理由をまとめただけであって、現実にはもっと複雑な課程が存在するのだ。
過去から連なる無数の因果の積み重ねがあって、土壌は形成される。
そして感情を暴走させる引き金は、最も存在証明が難しい『心』だ。
他人が制御しようと思って出来るものではない。そんな事が可能なら『S.T.Y.X.』は必要ない。
そこでまた『共通点』の彼の顔が浮かぶ。五人が一様に懐き、甘やかし、情を向けている相手。
確かに恋愛関係のもつれは負の感情を簡単に生み出せそうではある。だが実の所、確かに好意的ではあるけれど、全員が恋愛感情を抱いているわけではない。仮に抱いていたとしても、見る限り一部は自覚がない。自覚が無いのにそんな強烈な感情を抱けるか、という疑問は残る。
更に言えば、『VDC』以前から彼に目をかけていたというヴィルを除き、彼らが親しくなったのはそれぞれのオーバーブロットの後だ。それまではむしろ敵対者の立ち位置だったはず。というか、巻き込まれた人、という方がしっくりくる。
闇の鏡が帰す事の出来ない場所から来た、魔法が使えない異例の新入生。
この世界の常識に疎く、故に先入観が無く、呪いすら恐れない。
仮に彼が原因に近い所にいたとしても、彼自身はその事を知らないだろう。『オーバーブロットを起こそうとしている者に利用されている』と考えた方がしっくりくる。
とは言え、そうなるとそれぞれのオーバーブロットの原因が彼に関連していなくてはおかしいが、実際の関わりは薄い。彼の立ち位置にいたのが別の人間でも発生していたように思う。
だったらやはり、彼は偶然巻き込まれただけだ。何も関係ない。むしろ巻き込まれた挙げ句に『前代未聞の問題児』たちに懐かれた可哀想な被害者だ。
そこまで考えて、現状では情報が足りないし結局何も分からない、と結論する。
「はぁ……なんで人間には『心』なんて厄介なものが標準装備されてるんだろう。動作が不安定、しかも制御不能なシステムなんて完全にバグだし、初期不良じゃん。デバッギング本当にしたんか?嫌んなりますわ……」
コンピューターの電源が完全に落ちるのを待って、代わりに電源を切っていたスマートフォンを起動する。ゲームアプリの通知に混ざって、メッセージアプリからの通知があった。『マッスル紅』の名前を見て悲鳴を上げる。
「今日は新実装の高難易度クエ行こうって約束してたんだった!忘れてた!」
すぐさま自室に行こうとして我に返る。突然の帰省だったので、自室のパソコンにゲームの最新拡張パッケージをインストールしていない。そんな暇は無かった。それにちょっと周回をこなす程度ならまだしも、新実装の高難易度クエストの攻略なら腰を据えて挑みたい。
それに代理とは言え、今は一応『S.T.Y.X.』の責任者の立場だ。今回の収容調査が終わるまで、下手な事はしない方が良いだろう。
悔しささえ感じながらアプリを開く。
ちょうど今メッセージが来た所だったらしい。大急ぎで『今日は用事が出来てしまったので一人で楽しんできてくれ』と送る。
程なく返事は来た。彼にも予定が出来てしまい、断りの連絡を入れるために連絡を送った事が丁寧に綴られている。
イデアはお互いの不運を嘆きつつ、日を改めて挑戦しようと提案し、相手はそれに快く了承を返した。感謝を述べてやり取りを終える。
お互いに顔も知らないが、イデアにとって『マッスル紅』は信頼できる友人だった。どこか厚かましい仲間意識の集団に馴染めず、ソロプレイに徹していたイデアに声をかけてくれたのがきっかけで、そこから気が合って親しくなり、様々なゲームで苦楽を共にした。
たった二年、されど二年。
現実の人間関係に打ちのめされているイデアにとって、束の間の癒しがここにあった。相手は精神的に成熟した大人であり、共に遊ぶ中でもイデアに対する心遣いを欠かさない。学園で囲まれている同世代の連中には無いものだ。それに対しイデア自身も距離感や礼儀に気を使って、今の信頼が保たれている。相手から信頼を感じる言葉を貰った時は歓喜に震えたものだ。
疲弊しきっていたはずのイデアの表情は、先ほどまでとは打って変わって明るい。
「来週が楽しみですなぁ!」
「はぁ~……問題児たちの検査、ようやく全行程終~了~」
イデアは個室で伸びをしながら呟く。
職員向けの作業用個室は余計なものが何もなく、狭くて静かで快適だ。主に一人で集中して作業したい時や取り扱いが繊細な機密事項について作業をする際に使うのだが、その性質上娯楽は一切無いので、永遠にここにいろ、と言われたらイデアもお断りするところである。
検査終了後に被検体と数時間過ごすという損失はあったが、目標としていた時間内には終わらせる事が出来た。
あとは『洪水』を起こして彼らを元の生活に帰すだけ。
謎の多いグリムについては引き続き調査を続けるとして、魔力保有量を鑑みても暴走したところで大事になる危険性は低い。今後も経過観察を続ければ十分だと判断した。
見た目は猫っぽく、挙動も猫に共通点が多いが、人の言葉を話し人に等しい思考能力を持つモンスター。魔獣と何らかの動物を魔法的に掛け合わせた存在であり、耳からは青い炎が出ている。
事前調査では『高濃度のブロットが検出された魔獣』とされており、確かにその通りなのだが、一方で検出されるブロットの数値は不可解なほど不安定だ。桁外れに危険な数値を叩き出した次の瞬間には限りなくゼロに近い数値を出し、ブロットケアを行っても安定しない。最大値を見れば『ブロットの蓄積量が桁外れに多い』と言えるが、どうにも断言できる結果ではなかった。
グリムには何らかの強烈な魔術がかけられた痕跡がある。複雑な魔法が重ねがけされており、『S.T.Y.X.』の保有するスーパーコンピューターでも解析し終わるまでに何年かかるか知れたものではない。何を目的とし何の効果をもたらしているのか、全体像が掴めない。かけられた魔術の比較的浅い階層を解析してみても、分かるのはそれが千年前の原始魔法に等しい、非常に古い魔術である事だけだった。
覗いても底が見えない、という事実が列挙されるものの、ではグリムが何か危険な存在かと言われると、ぜんぜん全くそうは見えない。魔力量は乏しく思考能力が人間と遜色なくても頭は良くない。ストレスは多少感じているようだが、検査の合間には野生を忘れた姿で爆睡している。彼の『相棒』が見たら安堵のあまり脱力して膝から床に崩れ落ちるだろう。
まさかグリムを追いかけて嘆きの島までやってくるとは思わなかった。
彼がポムフィオーレの寮服を着ているのを見た時、イデアは感傷と僅かな嫉妬を覚えていた。
入学式で見た時から『ポムフィオーレだろう』とは思っていけれど、いつもと違うまとめられた髪は寮長のヴィルに似せているように見えて、そこにとてつもない不快感が湧いた。『ああ、やっぱりそうなんだ』と確信を得るには十分だった。
寮長服を纏ったヴィルと並べば、仲睦まじい女王と姫君の完成だ。自分には縁遠い、キラキラと輝く美しい光景が想像できる。
思えば、彼が嘆きの島に来ている事を知った時のヴィルの反応も露骨だった。取り繕ってはいたけど、あんなに嬉しそうな顔をしておいて『何とも思っていない』という事は無いだろう。
二人はお互いが『特別』なのだ。
頭の奥が軋む。黒い感情が抑え込むまでもなく萎れていく。
仮に二人に何の関係も無かったとしても、イデアの人生には何も影響が無い。
言えるわけがない。
自分の人生に彼を巻き込みたくない。彼だって巻き込まれたくないだろう。
この島にずっと縛られ続ける人生なんて、誰だって嫌だ。生まれた時からそれが決まってるイデアだって嫌なのだから、自由に生きている外の人間はもっと嫌だろう。
日の光の下で咲く花は、陽光を失ったら枯れてしまう。
だから、どうあっても自分には届かない。
初代当主の謀反以降、シュラウド家は罰としてファントムを閉じ込めるための牢獄『タルタロス』と、ファントムの墓場『冥府』の管理を押しつけられた。
一族は『冥府』の管理に適合するため、ブロットを焼却する代わりに平時は魔力を消耗する呪いをかけられ、その証として髪の毛は青い炎で出来ている。現世に馴染む事の出来ない奇特な外見は、外に向かう気持ちをより遠ざけさせた。
この世からファントムさえいなくなれば番人は必要なくなる。
そう考えた歴代当主はブロットの研究に励み、大がかりな海底都市を造りあげ、どこにも負けない最新技術を持った組織へと成長はさせたものの、理想の実現には程遠くただ情報と諦念だけが積みあがっていった。
「僕の運命は生まれた時から決まってる」
この暗くて辛気くさい場所で、亡霊たちと一生を共にするしかない。
万が一にも自分たちが役目を放棄し、『タルタロス』に封じられたファントムたちが地上に溢れ出す事があれば、世界はまた混沌に戻るだろう。平穏であればこそ花開いた文化や娯楽が潰える可能性もある。
イデアにとってそれは、この最悪で救いの無い人生の彩りを失う事に等しい。断固防がねばならない。
否、それは言い訳に過ぎない。
自分が優秀であると自覚がある。だけど、視点を変え発想を変え手を尽くした所で、自分にはどうしようもなかった。結局それは先祖の誰もが駆け抜けた通過点で、自分もそれをなぞったに過ぎない。
そんな自分に何が出来る。
成功する確証も無く、先祖代々積み上げてきたものを気軽に壊す事なんて出来はしない。そんな愚かな勇気は無い。
だって自分は失った。愚かな勇気のせいで、浅はかな好奇心のせいで、取り返しのつかない事態を起こしてしまった。
あんな想いを二度とするものか。
深々と溜息を吐く。呼吸と一緒に感傷を追い出す。
与えられた役割を全うするだけ。先祖の誰もがしてきた事を、自分もするだけ。
地上の連中が脳天気に暮らせるように、犠牲になり続けるだけ。
何も変わらない。変えてはいけない。
死者の国の王のように、迷える死者の魂を導き、誰もが恐れる任務を勤勉に全うする。
その中には皆に愛される可憐な白い花を、枯らさずに地上に戻す事も含まれるのだ。無事に戻せばまた冥府の底から、その輝きを見つめている事が許される。
「……あの問題児どもには拙者に感謝してほしいくらいですわ」
出奔して二度と会えなくなるかもしれなかったのを、自分の判断が防いだのだから。
……それにしても。
「ナイトレイブンカレッジの生徒を収容調査するよう『S.T.Y.X.』に依頼してきたのって誰?」
情報提供者については機密情報として被検体や関係者に話さない事になっているが、実の所今回のケースに関しては『話せる事が無い』と言った方が正しいぐらいだ。
賢者の島を有する『黎明の国』の政府を介して、匿名で通報。逆探知対策も万全で『S.T.Y.X.』の情報技術をもってしても全く正体が掴めなかった。
そうまでして正体を隠すのは通報者に何かやましい事があるからではないか、と思わざるを得ない。疑問が残る。
そこに関連して言えば、そもそも今回の収容調査の発端であるオーバーブロットの頻発も不審だ。
ナイトレイブンカレッジで過去百年にオーバーブロットした生徒は十人以下。たった半年程度で過去百年の数値に肉薄している。現在の在校生が特別問題児揃いであったとしても、それだけが原因とは考えにくい。何せ実際にオーバーブロットを起こした面々には特異性が見つからなかった。
他に考えられる原因として、封印されていたファントムや強力な呪いを解き放ってしまった影響というのもあるにはあるが、賢者の島にそうした『良くないもの』が大量に封じられている場所や遺跡が存在するという情報は無い。
残る可能性。
「まさか……誰かが人為的に、オーバーブロットを誘発させている?」
イデアは呟き、すぐに首を横に振る。
いくらなんでも現実的じゃない。オーバーブロットは起こそうと思って起こせるものではない。
世間一般的にオーバーブロットの原因は、魔法の使いすぎによるブロットの許容量超過、及び術者の負の感情の高まりによるものとされている。だがこれは極めて雑に、好意的に言えば万人にわかりやすい理由をまとめただけであって、現実にはもっと複雑な課程が存在するのだ。
過去から連なる無数の因果の積み重ねがあって、土壌は形成される。
そして感情を暴走させる引き金は、最も存在証明が難しい『心』だ。
他人が制御しようと思って出来るものではない。そんな事が可能なら『S.T.Y.X.』は必要ない。
そこでまた『共通点』の彼の顔が浮かぶ。五人が一様に懐き、甘やかし、情を向けている相手。
確かに恋愛関係のもつれは負の感情を簡単に生み出せそうではある。だが実の所、確かに好意的ではあるけれど、全員が恋愛感情を抱いているわけではない。仮に抱いていたとしても、見る限り一部は自覚がない。自覚が無いのにそんな強烈な感情を抱けるか、という疑問は残る。
更に言えば、『VDC』以前から彼に目をかけていたというヴィルを除き、彼らが親しくなったのはそれぞれのオーバーブロットの後だ。それまではむしろ敵対者の立ち位置だったはず。というか、巻き込まれた人、という方がしっくりくる。
闇の鏡が帰す事の出来ない場所から来た、魔法が使えない異例の新入生。
この世界の常識に疎く、故に先入観が無く、呪いすら恐れない。
仮に彼が原因に近い所にいたとしても、彼自身はその事を知らないだろう。『オーバーブロットを起こそうとしている者に利用されている』と考えた方がしっくりくる。
とは言え、そうなるとそれぞれのオーバーブロットの原因が彼に関連していなくてはおかしいが、実際の関わりは薄い。彼の立ち位置にいたのが別の人間でも発生していたように思う。
だったらやはり、彼は偶然巻き込まれただけだ。何も関係ない。むしろ巻き込まれた挙げ句に『前代未聞の問題児』たちに懐かれた可哀想な被害者だ。
そこまで考えて、現状では情報が足りないし結局何も分からない、と結論する。
「はぁ……なんで人間には『心』なんて厄介なものが標準装備されてるんだろう。動作が不安定、しかも制御不能なシステムなんて完全にバグだし、初期不良じゃん。デバッギング本当にしたんか?嫌んなりますわ……」
コンピューターの電源が完全に落ちるのを待って、代わりに電源を切っていたスマートフォンを起動する。ゲームアプリの通知に混ざって、メッセージアプリからの通知があった。『マッスル紅』の名前を見て悲鳴を上げる。
「今日は新実装の高難易度クエ行こうって約束してたんだった!忘れてた!」
すぐさま自室に行こうとして我に返る。突然の帰省だったので、自室のパソコンにゲームの最新拡張パッケージをインストールしていない。そんな暇は無かった。それにちょっと周回をこなす程度ならまだしも、新実装の高難易度クエストの攻略なら腰を据えて挑みたい。
それに代理とは言え、今は一応『S.T.Y.X.』の責任者の立場だ。今回の収容調査が終わるまで、下手な事はしない方が良いだろう。
悔しささえ感じながらアプリを開く。
ちょうど今メッセージが来た所だったらしい。大急ぎで『今日は用事が出来てしまったので一人で楽しんできてくれ』と送る。
程なく返事は来た。彼にも予定が出来てしまい、断りの連絡を入れるために連絡を送った事が丁寧に綴られている。
イデアはお互いの不運を嘆きつつ、日を改めて挑戦しようと提案し、相手はそれに快く了承を返した。感謝を述べてやり取りを終える。
お互いに顔も知らないが、イデアにとって『マッスル紅』は信頼できる友人だった。どこか厚かましい仲間意識の集団に馴染めず、ソロプレイに徹していたイデアに声をかけてくれたのがきっかけで、そこから気が合って親しくなり、様々なゲームで苦楽を共にした。
たった二年、されど二年。
現実の人間関係に打ちのめされているイデアにとって、束の間の癒しがここにあった。相手は精神的に成熟した大人であり、共に遊ぶ中でもイデアに対する心遣いを欠かさない。学園で囲まれている同世代の連中には無いものだ。それに対しイデア自身も距離感や礼儀に気を使って、今の信頼が保たれている。相手から信頼を感じる言葉を貰った時は歓喜に震えたものだ。
疲弊しきっていたはずのイデアの表情は、先ほどまでとは打って変わって明るい。
「来週が楽しみですなぁ!」