5−2:泥濘へ堕ちる美貌の毒華
………
一行を乗せた魔法の絨毯は、猛スピードで屋外へと飛び出す。『ボーカル&ダンスチャンピオンシップ』のために装飾されたフィールドに人の気配はない。
激しい雷雨の中でも濡れていないのは、コロシアムに結界が張られているためだ。コロシアムは伝統的な建築様式を守っているように見えて、設備は最新鋭のものが揃えられている。魔法による結界を活用した全天候型の競技施設だ。その設備が結果として、屋内から漏れ出してくる毒の霧をコロシアム内に留めている。
「さきほどまで晴天だったのに、激しく荒れ狂う空……まるでヴィルの心を映したかのようだ」
ルークがぽつりと呟く。誰からも応える声は無い。
「カリム、フィールドだとすぐに見つかる。観客席通路に入ろう。ここがまだなら、おそらくあっちもまだ霧が回っていないはずだ」
「わかった」
カリムが絨毯に指示を送れば、絨毯は従順に飛ぶ。
手近な通路の入り口に潜り込み、外から見えない位置に着いて、やっと絨毯は止まった。最初にジャミルが降りて、ルークたちが続く。空になった絨毯は縦になり、主人やその連れを心配そうに見下ろしていた。
「だ、だいぶ楽になった……あの霧、なんなんだゾ?」
「アレは、ヴィルのユニーク魔法で『呪い』をかけた液体が気化したもの、だね。こんな形で味わう事になろうとは」
「笑っている場合じゃないですよ」
「それもそうだね」
ジャミルに指摘され、ルークはすぐに表情を引き締める。カリムもはっとした顔になった。
「そうだジャミル!スタッフや生徒のみんなを避難させねぇと!」
「もうとっくに全員、避難させた」
「そっか、もうとっくに…………え?」
「お前の突拍子もない行動のフォローをし続けて何年になると思ってるんだ」
「え、えぇ!?一体どうやって!!??」
呆れた溜息を吐くジャミルに対し、カリムはグリムと一緒に首を傾げる。
「ネージュに外でゲリラライブをさせた。物見高い連中が見逃すはずがない。それにつられないような他の連中も、エースたちが適当な理由をつけて外に追い出したはずだ」
ちょうど昼食時で、コロシアムに残っている人の数が少なかった事も幸いだった。少ない人員ながら、最小の手間で避難を実現している。
「さっきネージュたちのリハを見た後、ヴィル先輩の顔を見て嫌な予感がしたんだ。どっかの誰かさんたちが蜂の巣を突くような真似をして、最悪の事態を招くんじゃないかってな」
面倒くさそうにスマホをいじりながら、最後は視線をカリムに向けていた。言わんとする事を察したカリムが不満の声を上げる。
「えーーーっ!!なんだよその言い方!?だって、放っておけないだろ!?」
「……それが善意であれ、悪意であれ、結果として蜂の巣は落とされた。あとはどう始末をつけるかだけだ」
「く~~~っ……でも、助かった!ありがとな、ジャミル!」
どこか悔しそうにしながらも、カリムは相棒の機転に素直な礼を述べる。その素直な笑顔を苛立たしげに見つつ、苦々しく呟く。
「ったく、黙っていればネージュ一人の犠牲で済んだかもしれないのに、余計な事を……」
隣に立っていたので聞こえていたらしい悠が遠い目をしているが、誰も指摘しない。ルークは輝くような笑顔でジャミルを称える。
「マーヴェラスだ、ジャミルくん。キミの鋭い瞳は、カリムくんのどんな小さな違和感さえ見逃さない。従者の枠を超えた深い絆……実にボーテ!」
「やめてください。そんなんじゃなく、ただの経験の蓄積です」
誉められたとは全く思っていなさそうな、心底嫌そうな顔でジャミルは答えた。
「大体……このままじゃ、せっかくイメージを回復させようとした俺の計画が、台無しになるだろうが!」
更に苛立たしげに己の欲望を口にする。かつての彼なら内に押し込めていただろう感情だ。身近な者にとっては喜ばしい変化なのだが、ことここに至っては喜んでいる場合ではなく、苦笑するしかない。
「ジャミル先輩!」
そんな微妙な空気のところに、タイミング良く複数の足音が近づいてくる。ジャミルから現在地を連絡されたエースが、デュースとエペルを引き連れて駆けつけていた。
「言われた通り、コロシアムに残ってた関係者は全員避難させたけど……誰もいない事を確認して、最後にオレらが外に出ようとしたら、紫色の霧がコロシアムの出口を覆っちゃってて」
「あの霧、触っただけで肌が焼けるように痛くなってとても突っ切れなかった……あれ、なんなんですか!?」
「一体、なにおごっちゃんだ?」
「……『毒の君』がオーバーブロットしてしまった」
一年生たちが矢継ぎ早に出す質問に、ルークが簡潔に答える。順当に、彼らは驚きに目を見開き声をあげた。
「な、なんでそんな事に……」
「会場を覆った霧は、その発端となったものだ。彼のユニーク魔法で『呪い』をかけた液体が気化したものさ」
「ヴィル先輩のユニーク魔法って、そんなに負荷がでかいものなんすか?」
「……私は彼ではないのでこれは推測に過ぎないが、彼が込めた『呪い』は……『液体を口にした者の死』だ」
あまりに直接的な単語に、誰もが言葉を失う。
「魔法は人の命を奪う可能性もあるが、それは現象の結果に過ぎない」
炎の魔法が身体を焼く。
水の魔法が溺れさせる。
風の魔法が押しつぶす。
魔法で命を奪う手段は数あれど、純粋な『死』をもたらす魔法など存在しないし、研究も許されていない。
「因果を持たない純粋な『死』こそ、ヴィルの願いだったのだろう」
「……純粋な、死」
悠が復唱すると、ルークは頷く。
「ヴィルの『美しき華の毒』は発動時の設定を重視するユニーク魔法だ。今回の場合は恐らく『液体』という状態を発動条件に備えたために、気化した事で『呪い』が変質していると考えられる」
「……そうじゃなかったら、オレたち吸い込んだ瞬間に死んでたって事だろ?」
ルークが頷く。話を聞いたグリムは身震いしていた。
「……一度使っただけでオーバーブロットしてしまうほど、『死の呪い』って重いんですか」
「ああ。とても重い。……人を蘇らせる魔法が存在しないように、因果を超えた『死』というものも本来はあり得ないものだからね」
ルークは悠に顔を向ける。
「キミが気に病む事ではないよ、ユウくん」
「でも、僕が間に合っていれば……変な事を考えずにさっさと話しかけていれば、止められたかもしれない」
「例えそうだったとしても、今は考えるべきではない。そうだろう」
諭されれば悠は小さく頷く。その表情はいつにも増して暗く、誰の目にも明らかに落ち込んでいた。
「オーバーブロットって事は、また一緒に出てきたでっかいのをヴィル先輩から切り離すって事だよな?」
「そうなるけど…………あれ、オレ逃げるのに必死で後ろ見てなかったんだけど、ヴィルの他になんかいたか?」
「……そういえば見てねぇんだゾ」
「え、打つ手無しって事!?」
「……カリム、ユウ。俺の時はどうやって出てきたんだ、そのデカブツ」
カリムと悠が顔を見合わせる。
「ええっと、ジャミルが苦しみ出したら、全身からブロットがだばーって溢れてきて……」
「いつも水たまりになったブロットから出てきてる気がします」
「ならば、この気化してコロシアムを覆っている『呪い』が、その水たまりなんだろう」
「えーと、つまり?」
「今は拡散した状態なので姿が無いが、例えば戦闘に入るなどすれば、気化した状態から液体へと戻り、化身として形を成すかもしれない……という事だね」
ルークの言葉にジャミルが頷く。そして方針も決まったようなものだった。
「ヴィルサンと……戦わなきゃいけない」
校内屈指の実力者である、ポムフィオーレ寮長のヴィル・シェーンハイト。
まだ学生、世間的には見習いという立場ながら、魔力量は豊富で成績も優秀。凡夫が何人集まったところで太刀打ちできる相手ではない。
それでもこのまま見過ごせば、彼の命は失われる事になる。
「囮役なら……僕ができると思います」
悠がいつになく大人しい声で、しかししっかりと言い切った。
「シェーンハイト先輩の標的は、僕だから。それぐらいなら……」
「それはダメだ」
「それはいけない」
カリムとルークが同時に言葉を遮った。悠が唇を噛む。
「前に、退こうとしないオレをユウが逃がそうとしてくれた事があっただろ。あの時のオレと、今のユウの立場はそんなに変わらないと思うんだ」
「キミを失う事があれば、……いや、傷つけたという事実だけでも、ヴィルは正気に戻った後に強く後悔するだろう。その最悪を避けねばならない」
どうか解ってほしい、とルークは強く言葉を向けるが、悠は首を横に振る。
「自分の失態は、自分で取り返したいんです。僕が原因かもしれないのに、ただ守られているわけにはいきません」
経緯を知らない一年生は顔を見合わせ、一部始終を見ていた者たちは表情を曇らせた。
「けどよぉ、ユウ」
沈黙に説得の言葉を探す中で、グリムが悠を見上げる。
共に戦いその実力を誰よりも知っているモンスターは、いつになく心配そうな目を相棒に向けた。
「オメーさっき、ヴィルの事、殴れなかっただろ?隙だらけで、真ん前にいたのに」
エースとデュースが悠を見る。その意味を内心で察したような、複雑な表情だった。
「毒の霧の中だって、油断しきってるヤツを普段の子分は絶対見逃さねえ」
「…………それ、は……」
言葉に詰まる相棒の様子を責めるでもなく、グリムは鼻を鳴らした。
「戦えないなら仕方ねえだろ。その分、親分のオレ様が活躍してきてやる。有り難く思えよ!」
グリムが前足を組んで胸を張る。勇ましいその姿を微笑ましく見守る中で、それを言われた当の本人が苦しそうな表情をしていた。
一連のやりとりを見ていたジャミルが長い溜息を吐く。そのあからさまな行動に、一同の視線が集まった。
「もういいんじゃないですか。長々説得したところで、納得できないものには納得しないものですし」
「ジャミル、そんな言い方ないだろ!」
カリムが諫めるのを無視して、ジャミルは悠の正面に立つ。俯く彼の肩に手を置いた。
「こんな状況だ。君の力を借りられるならその方が良い」
「バイパー先輩……」
「ただしこれから言う事はしっかり守ってくれ。君が無事でなければ戦う意味も無いのは事実だからな」
「はい、もちろん」
理解を得られた事が嬉しいのか、悠の表情にわずかに明るさが戻った。それを見てジャミルは微笑み、悠と目を合わせる。
「君は魔法の絨毯に乗って大人しくしていてくれ。決して外には出ないように」
ジャミルが指示を口にした瞬間、悠の目の焦点が合わなくなる。
「はい、ご主人様の仰せのままに」
悠は表情の抜け落ちた顔で答えた。従順な奴隷と化した少年の頭を撫でて、ジャミルは満足そうな笑みを浮かべる。
それを見たカリムは魔法の絨毯に指示を出し、悠を座らせた。
「この通路を回り続けてくれ。もしヴィルに見つかりそうになったら、うまい事逃げてくれよ!ユウの事、頼むな!」
魔法の絨毯の房飾りが『任せろ』と言わんばかりに持ち上がり揺れる。そのまま通路の奥へと消えていった。
あまりにスムーズな作業にスカラビア以外の一同が絶句している空気を無視し、ジャミルはルークを見た。
「ネージュを操っている魔法の維持を優先しますので、ユウの方は長く保ちません。彼が正気に戻る前に決着をつける必要があります」
「……そのようだね。戦いを仕掛けねば何も始まらない」
一同がお互いの顔を見合わせる。
約一ヶ月寝食を共にしてきた間柄だ。お互いを何も知らない頃に比べれば理解は深まっている。それを改めて口にする事は誰もしないが。
誰とも無く通路を出て観客席を降りていく。観客席とフィールドを隔てる柵を魔法を使って乗り越え、今日これから立つステージを前に立ち止まった。
結界の外は相変わらずの嵐だ。その境目には黒い霧が雲のように立ちこめ、今も膨らみ続けている。
『やっと出てきたわね、ジャガイモども』
憎しみすら感じる低い声に続いて、雷鳴が轟く。まるで雷に誘われたように、ヴィルはステージの上に立っていた。作られたばかりのステージをブロットに汚しながら、平然と支配者の笑みを浮かべ仲間を見下ろす。
『あの子をどこに隠したの?』
「隠したなんて人聞きの悪い。宝物は大事にしまうものでしょう?」
ジャミルが不敵に笑う。ヴィルの表情が苛立たしげなものに変わった。
『どいつもこいつもアタシの邪魔ばかり!』
「あなたこそ見通しが甘すぎる。あいつが裏でなんて言われてるか知ってます?」
いつにも増して冷たい視線を向ける。心底から呆れた口調で、続きを吐き出した。
「暴君も獅子も、悪徳商人すら誑かしたお姫様。魔力を持たないのに、在学中に学園を掌握するんじゃないか、なんて噂する輩までいる」
「そ、そんな話になってたのか……」
「そりゃあね。レオナ先輩とアズール先輩があれだけやってりゃ目立つよ」
同じクラスながら学内の噂には疎いデュースの呟きに、その評価を把握していたであろうエースが呆れた声で応える。
「最初からずっと、あなただけのユウじゃない。そもそもあなただって、あいつが可愛らしく振る舞う事には賛成の立場でしょう?」
『それは……』
「それであいつがあなたの嫌いな奴に好かれたからって、しかも自分よりいい雰囲気だからって癇癪を起こすのは、自業自得にもほどがあるんじゃないですか?」
『黙りなさい!!!!』
黒い魔力の塊がジャミルに襲いかかる。防衛魔法で危なげなく防いだものの、それを皮切りにフィールド内の霧がヴィルに収束し始めた。
『何も知らないくせに……よくも好き勝手言ってくれるわ』
「知りませんよ。知るわけないでしょう。興味もないですし」
ヴィルの怒りに呼応するように、霧の収束は加速していく。集まった霧はヴィルの足元に水たまりとなって広がり、やがてステージを覆い尽くした。
黒い水面が蠢く。水が盛り上がり形を変えた。
水分が変質し、黒いボロ切れのローブを纏った老婆のような『ブロットの化身』が現れる。両手はか細く、手提げかごと色だけは妙に鮮やかな林檎を手にしていた。顔に当たる部分には林檎が王冠を被ったようなインク瓶が据え付けられ、その下に薄汚れた白髪が垂れ下がっている。
「で、出たーっ!!」
「あれが、ブロットの化身……!」
「……あれが霧になってしまう前に、ヴィルとの繋がりを絶つ必要があるという事だね」
「ああ。多分、でかい魔法でドカーン!とかできればどうにかなる!」
「凄い雑!!!!」
「……でかい魔法でドカーン、か」
デュースの呟きに応える声は無い。しかしとっくに臨戦態勢にはなっている。
化身が現れた事で、ヴィルの殺気は更に膨らんだ。嵐のような感情を隠す事なく叫ぶ。
『アタシの醜い姿を見た者は、誰一人生かしておかない!骨の髄まで粉々にしてあげる!』
その声に応えるように、ブロットの化身が猛る。手にした林檎を手当たり次第に投げつけてきた。字面は何とも間抜けだが、巨大な化け物が人の頭より大きいものを投げてくるのだから、襲われる方はたまったもんじゃない。
「林檎投げんな!!!!」
約一名、林檎農家として切実な怒りを叫びながら防壁を展開していた。防壁に弾かれた林檎は客席に落下し、弾けて中身のブロットをまき散らす。用意されていた簡素な椅子が溶かされ、無惨な姿に変わった。
エペルは青ざめた顔で仲間を振り返る。
「アレは林檎じゃねえ!!!!」
「最初からみんな解ってるわ!!!!」
エースは同じ勢いで言い返しつつ、風を操り林檎を打ち返す。制御通りに動くものの、それが当たった所でヴィルにもブロットの化身にもダメージは無い。
「痛いのはこっちだけって事ね」
降り注ぐ毒林檎をかわしながら、ジャミルはヴィルに接近する。走りながら火の魔法をいくつも飛ばすが、魔力の弾に撃ち落とされた。
予想していたと言わんばかりに、躊躇い無く懐に潜り込む。小手調べの拳が軽く払われ、反撃の蹴りが鋭く首を狙ってきた。危なげなく避けながらも、ジャミルはすかさず距離を取る。
身長の分、間合いはヴィルの方が長い。脚に纏ったブロットは一見して柔らかそうだが、座席を溶かしたものと同じであれば気軽に受ける事は出来ないだろう。
ヴィルは不敵に笑う。
『接近戦なら勝てると思った?』
「多少は分があるかと期待したのは事実だが。まぁ想定の範囲内だな」
身体を動かすには明らかに便利が悪そうな衣装だが、ブロットで構成されているという点はジャミルを警戒させる。
「(あいつはよく素手で殴りかかってこれたな)」
羽柴悠は魔力を持たない人間。ブロットへの対抗手段も当然ながら持っていない。一切の防御を持たずに未知の敵に殴りかかるという行動は、ジャミルにとって全く以て理解しがたい。愚かだとしか思えない。
そう、愚かな行動だ。倣う必要はない。
ジャミルはマジカルペンを振る。触れねば攻撃できない手足に防御の魔法をかけて、再び構えた。洗脳魔法の維持も必要な状況で、身体強化までかけるほど魔力に余裕はない。動きやすく作られた特注の衣装で助かった、と誰にも聞こえない大きさの声で呟く。
他の仲間の事を考えるのはやめた。信頼ではない。その余裕が無いだけだ。
自分に言い聞かせ、ジャミルは鋭く拳を振るう。攻撃をかわされては蹴りを避ける応酬を繰り返し、相手の実力を測った。ヴィル自身の近接戦闘の心得は、かなり確かなものだとすぐに推測が立つ。動きにくそうな衣装なのに、その技術は鈍らない。
更に相手はオーバーブロットによって無制限に魔法が使える状態だ。体術と組み合わせての攻撃も可能で、それを繰り出すセンスも持っている。
風の魔法を纏った蹴りを、ジャミルは両腕を交差して受け止めた。その瞬間、交点から爆発したような勢いで風が吹き出し、ステージから客席に叩き落とされる。派手に転がりながら、身体を丸めてダメージを最小限に抑えた。
そこを見計らったように、毒林檎が降り注ぐ。触れた瞬間に弾けて、ブロットがジャミルの全身を覆った。
「ジャミル!!!!」
カリムの反応は速かった。叫んだ瞬間には魔法が発動し、鉄砲水の勢いで注いだ水がジャミルの全身を洗い流す。ずぶ濡れになったジャミルは、敵に向けるより厳しい視線を主人に向けた。しかし主人の方はそれどころじゃない。
「大丈夫か!?どこも溶けてないか!!」
「……あぁ、おかげさまでな」
無限に溢れてくる文句を腹の内に押し込み、ジャミルは風の魔法で水気を吹き飛ばす。
「文句と説教は終わった後だ」
「うん!!」
あまりに嬉しそうな笑顔で返され、ジャミルは言うに言えなくなった礼を飲み込んだ。今はそれどころじゃない、と気持ちを切り替える。
ヴィルの多彩さに比べ、ブロットの化身の攻撃は単調だ。隙も大きく慣れてしまえば避ける事も不可能ではない。ブロットの持つ性質も、対処が速ければ人を侵す前に取り除ける事は明らかになった。
ジャミルへの追撃を防ぐため、一同の攻撃はヴィルに集中している。
一年生の攻撃は簡単に撃ち落とされ、あるいは弾き返されているが、その隙間を縫うようなルークの攻撃はしっかりとヴィルに届いていた。一年生は人数が多い分、手数も多い。攻撃そのものが単調で弱くとも、目眩ましにはなる。
ヴィルは魔法士としては優秀だが、育ちは都会だ。経験豊富で勘が鋭いとは言っても、身体能力は『極限に鍛えた常人』の範囲を超えはしない。
比較してルーク・ハントという魔法士は、魔力こそヴィルには劣るが、気配を消す身体捌きと観察眼は圧倒的に秀でている。人間より感覚や身体能力に優れる獣人属さえ出し抜けるという事実から見ても明らかだ。息を潜め獣を狩る『狩人』ならではの特質と言えるだろう。
その目は隙を見逃す事はなく、脚は音も無く死角に潜み、魔法は矢となって正確に弱点を射抜く。
『忌々しいジャガイモどもめ……!』
ヴィルの輪郭が黒い霧でぼやける。ベールが翼のようにはためき、その身体が空中に浮かび上がった。ブロットの化身も霧に変わり、彼を追って空を舞う。
「と、飛ぶのは反則っしょ!!」
「ブロットの化身も霧に変わっちまった!」
降り注ぐブロットに防壁を展開しつつも、一年生の声には疲労の色が濃い。ユニーク魔法を維持しながら戦っているジャミルも、そもそも戦闘が得意でないカリムも良い状態とは言えない。
「……ここは私の出番だね」
ルークが呟き、マジカルペンを左手に持ちかえる。魔法石に右手の指先を添えてから、弓を引くように構えた。
その動きは弓を手にしている時のように自然で無理がない。実際には誰の目にも弓矢は映っていない。
しかし既に狩人の手には、獲物を射抜くための鋭い矢が握られている。
「……嗚呼、『毒の君』。恋に堕ち嫉妬に狂い、絶望に青ざめたその顔すら美しい」
気障ったらしい台詞を吐きながら、その目に一切の感情は宿らない。そこに一瞬映した殺気が獲物を射抜く。獲物が気づき、警戒を露わに動きを止めるその瞬間、口元に笑みを浮かべた。
一閃。魔力の矢が空を舞うヴィルを撃ち落とす。
『……ぎゃああああぁぁぁぁぁ!!!!』
壮絶な悲鳴と共に女王が地に墜ちた。地面に叩きつけられる前に、ブロットの化身がその身で受け止める。どこを撃ち抜いたのかは誰にも見えなかったが、明らかにダメージは通っていた。ヴィルは苦しげに呻きながら身を起こす。
『……ルーク……!』
「もう終わりにしよう、『毒の君』。君は人を殺せない。……『毒薬作りの名手』は『冷酷な殺人者』と同義では無いはずだ」
いつもより淡々とした口調だが、それが目の前の彼を想うからこその言葉であろう事は誰の目にも明らかだった。
ヴィルは嗚咽とも唸り声ともつかない声を漏らす。彼の身の下でブロットの化身が液体に変わり、再び背後に立ち上がる。
『アタシ、アタシ、は……』
ブロットの化身が形を成しているにもかかわらず、ヴィルの身体の下のブロットの水たまりは広がり続けていた。不気味に泡立ちながら、舞台を滑り落ち周囲の座席を溶かして崩していく。
『あの子とずっと一緒にいたいの。故郷の事なんか忘れて、ずっと、アタシの傍にいてほしいの……』
よろめきながら立ち上がる。俯いたままの表情は誰にも見えない。
「無理だろ、それ」
エースがぽつりと呟く。
「あいつ、いっつも言ってるもん。元の世界に帰るって」
どこか寂しげな声音だった。本当はエース自身もその言葉を受け入れがたいのだろう。
誰にともなく言い聞かせるように、エースは続けた。
「自分で来たわけじゃねえのに帰れないんだぜ?本人が帰りたがってるのに、こっちが我が儘で引き留めるのは違くない?」
口調はあくまでも軽口だが、目は一切笑っていない。
その言葉を受けてぴくりと、小さくヴィルの肩が震えた。
『帰さない』
深い憎悪がヴィルの口から漏れ出る。ブロットが粘度を高め波打った。
『帰してやるものか、あの子の夢を砕いた世界になんか!!!!』
ヴィルの叫びに呼応するように、結界内に風が吹き荒れる。ブロットが激しく泡立ち、毒の霧を大量に吐き出し始めた。
「夢を砕いた、って……」
『あの子を傷つけるだけの世界になんか帰さない!!ずっとここにいればいい!!アタシがあの子を守るの!!』
怒りに任せ叫んだかと思えば、その表情は悲嘆に暮れる。
『……ああ、でもきっと、あの子はこんな醜いアタシを許してはくれない……』
焦点を結ばない両目から黒い涙を流し、今度は口元に笑みを浮かべた。
『嫌われるぐらいならいっそ、アタシの毒であの子を殺して!!ガラスの棺に飾って、美しいまま傍に置いてあげるの!!』
誰の言葉も絶望した女王の耳には届かない。世界一美しい、愛する人を想う笑顔を一同に見せつける。
『そうしたらずっと、ずっと一緒にいられる!!あの子はこれ以上傷つかなくて済む!!!!』
舞台の上で、ただひとり愛を語る役者の独白のような、完成された場面。
ただ舞台とは違い、語られる狂気にも愛にも一切の嘘はない。
誰もが理解を拒絶し絶句する。言葉など何も浮かばない。
「…………バッッッカじゃねえの」
ただ一人を除いて。
その一言で、己の言葉に恍惚としていたヴィルの顔から笑みが抜け落ちた。
エースは怒りに満ちた表情で、正面から彼を睨みつける。
「アンタ、あいつの事なんにもわかってねーじゃん。勝手に理解者面しないでくんねぇ?」
『……何よそれ』
「傷ついてるとか嫌われてるとか、本人に聞かなきゃわかんねー事じゃん。アンタ何様?」
『黙りなさい!アンタに何が解るって言うのよ!!』
「解らないね、あー、わかんねえよ!!」
悲劇の女王を前に、反逆者は吼える。
「オレはあいつがここに来てからずっと一緒にいるのに、あいつの夢が何だったのかさえ知らねえよ!!!!」
自棄になったような叫び声だが、ヴィルはその気迫に圧されて口を閉ざす。
「顔はかわいいけど微妙にアホで、鋭いくせに変なところ鈍感で、言葉は辛辣な割にお人好しで、やる気なさそうだけど度胸だけは人一倍で!!あんだけめちゃくちゃなくせして、肝心なところは何も教えてくれねえんだよ!!!!」
何も知らない苛立ちを、八つ当たりのようにぶつける。誰も口を挟めない。
「そんなあいつが……アンタにだけは、将来の夢の話なんてしたんだろ。毎日のように一緒にいるオレたちですら知らない事を、アンタは知ってるんだぞ!!その意味を少しは考えろよ!!!!!!」
魂さえ吐き出すような声音。激情には違いないが、そこに含まれているのは決して怒りだけではない。
その言葉は、反撃を前に放心していた女王の心を射抜いた。
『……アタシしか、知らない……意味』
呆然と呟く。言葉の意味を、うまく働かない頭の中で考えている様子だった。ブロットの化身さえ動きを止めている。
誰も動かない静寂の中で一つ、駆け抜ける誰かの足音が響いた。
………
一行を乗せた魔法の絨毯は、猛スピードで屋外へと飛び出す。『ボーカル&ダンスチャンピオンシップ』のために装飾されたフィールドに人の気配はない。
激しい雷雨の中でも濡れていないのは、コロシアムに結界が張られているためだ。コロシアムは伝統的な建築様式を守っているように見えて、設備は最新鋭のものが揃えられている。魔法による結界を活用した全天候型の競技施設だ。その設備が結果として、屋内から漏れ出してくる毒の霧をコロシアム内に留めている。
「さきほどまで晴天だったのに、激しく荒れ狂う空……まるでヴィルの心を映したかのようだ」
ルークがぽつりと呟く。誰からも応える声は無い。
「カリム、フィールドだとすぐに見つかる。観客席通路に入ろう。ここがまだなら、おそらくあっちもまだ霧が回っていないはずだ」
「わかった」
カリムが絨毯に指示を送れば、絨毯は従順に飛ぶ。
手近な通路の入り口に潜り込み、外から見えない位置に着いて、やっと絨毯は止まった。最初にジャミルが降りて、ルークたちが続く。空になった絨毯は縦になり、主人やその連れを心配そうに見下ろしていた。
「だ、だいぶ楽になった……あの霧、なんなんだゾ?」
「アレは、ヴィルのユニーク魔法で『呪い』をかけた液体が気化したもの、だね。こんな形で味わう事になろうとは」
「笑っている場合じゃないですよ」
「それもそうだね」
ジャミルに指摘され、ルークはすぐに表情を引き締める。カリムもはっとした顔になった。
「そうだジャミル!スタッフや生徒のみんなを避難させねぇと!」
「もうとっくに全員、避難させた」
「そっか、もうとっくに…………え?」
「お前の突拍子もない行動のフォローをし続けて何年になると思ってるんだ」
「え、えぇ!?一体どうやって!!??」
呆れた溜息を吐くジャミルに対し、カリムはグリムと一緒に首を傾げる。
「ネージュに外でゲリラライブをさせた。物見高い連中が見逃すはずがない。それにつられないような他の連中も、エースたちが適当な理由をつけて外に追い出したはずだ」
ちょうど昼食時で、コロシアムに残っている人の数が少なかった事も幸いだった。少ない人員ながら、最小の手間で避難を実現している。
「さっきネージュたちのリハを見た後、ヴィル先輩の顔を見て嫌な予感がしたんだ。どっかの誰かさんたちが蜂の巣を突くような真似をして、最悪の事態を招くんじゃないかってな」
面倒くさそうにスマホをいじりながら、最後は視線をカリムに向けていた。言わんとする事を察したカリムが不満の声を上げる。
「えーーーっ!!なんだよその言い方!?だって、放っておけないだろ!?」
「……それが善意であれ、悪意であれ、結果として蜂の巣は落とされた。あとはどう始末をつけるかだけだ」
「く~~~っ……でも、助かった!ありがとな、ジャミル!」
どこか悔しそうにしながらも、カリムは相棒の機転に素直な礼を述べる。その素直な笑顔を苛立たしげに見つつ、苦々しく呟く。
「ったく、黙っていればネージュ一人の犠牲で済んだかもしれないのに、余計な事を……」
隣に立っていたので聞こえていたらしい悠が遠い目をしているが、誰も指摘しない。ルークは輝くような笑顔でジャミルを称える。
「マーヴェラスだ、ジャミルくん。キミの鋭い瞳は、カリムくんのどんな小さな違和感さえ見逃さない。従者の枠を超えた深い絆……実にボーテ!」
「やめてください。そんなんじゃなく、ただの経験の蓄積です」
誉められたとは全く思っていなさそうな、心底嫌そうな顔でジャミルは答えた。
「大体……このままじゃ、せっかくイメージを回復させようとした俺の計画が、台無しになるだろうが!」
更に苛立たしげに己の欲望を口にする。かつての彼なら内に押し込めていただろう感情だ。身近な者にとっては喜ばしい変化なのだが、ことここに至っては喜んでいる場合ではなく、苦笑するしかない。
「ジャミル先輩!」
そんな微妙な空気のところに、タイミング良く複数の足音が近づいてくる。ジャミルから現在地を連絡されたエースが、デュースとエペルを引き連れて駆けつけていた。
「言われた通り、コロシアムに残ってた関係者は全員避難させたけど……誰もいない事を確認して、最後にオレらが外に出ようとしたら、紫色の霧がコロシアムの出口を覆っちゃってて」
「あの霧、触っただけで肌が焼けるように痛くなってとても突っ切れなかった……あれ、なんなんですか!?」
「一体、なにおごっちゃんだ?」
「……『毒の君』がオーバーブロットしてしまった」
一年生たちが矢継ぎ早に出す質問に、ルークが簡潔に答える。順当に、彼らは驚きに目を見開き声をあげた。
「な、なんでそんな事に……」
「会場を覆った霧は、その発端となったものだ。彼のユニーク魔法で『呪い』をかけた液体が気化したものさ」
「ヴィル先輩のユニーク魔法って、そんなに負荷がでかいものなんすか?」
「……私は彼ではないのでこれは推測に過ぎないが、彼が込めた『呪い』は……『液体を口にした者の死』だ」
あまりに直接的な単語に、誰もが言葉を失う。
「魔法は人の命を奪う可能性もあるが、それは現象の結果に過ぎない」
炎の魔法が身体を焼く。
水の魔法が溺れさせる。
風の魔法が押しつぶす。
魔法で命を奪う手段は数あれど、純粋な『死』をもたらす魔法など存在しないし、研究も許されていない。
「因果を持たない純粋な『死』こそ、ヴィルの願いだったのだろう」
「……純粋な、死」
悠が復唱すると、ルークは頷く。
「ヴィルの『美しき華の毒』は発動時の設定を重視するユニーク魔法だ。今回の場合は恐らく『液体』という状態を発動条件に備えたために、気化した事で『呪い』が変質していると考えられる」
「……そうじゃなかったら、オレたち吸い込んだ瞬間に死んでたって事だろ?」
ルークが頷く。話を聞いたグリムは身震いしていた。
「……一度使っただけでオーバーブロットしてしまうほど、『死の呪い』って重いんですか」
「ああ。とても重い。……人を蘇らせる魔法が存在しないように、因果を超えた『死』というものも本来はあり得ないものだからね」
ルークは悠に顔を向ける。
「キミが気に病む事ではないよ、ユウくん」
「でも、僕が間に合っていれば……変な事を考えずにさっさと話しかけていれば、止められたかもしれない」
「例えそうだったとしても、今は考えるべきではない。そうだろう」
諭されれば悠は小さく頷く。その表情はいつにも増して暗く、誰の目にも明らかに落ち込んでいた。
「オーバーブロットって事は、また一緒に出てきたでっかいのをヴィル先輩から切り離すって事だよな?」
「そうなるけど…………あれ、オレ逃げるのに必死で後ろ見てなかったんだけど、ヴィルの他になんかいたか?」
「……そういえば見てねぇんだゾ」
「え、打つ手無しって事!?」
「……カリム、ユウ。俺の時はどうやって出てきたんだ、そのデカブツ」
カリムと悠が顔を見合わせる。
「ええっと、ジャミルが苦しみ出したら、全身からブロットがだばーって溢れてきて……」
「いつも水たまりになったブロットから出てきてる気がします」
「ならば、この気化してコロシアムを覆っている『呪い』が、その水たまりなんだろう」
「えーと、つまり?」
「今は拡散した状態なので姿が無いが、例えば戦闘に入るなどすれば、気化した状態から液体へと戻り、化身として形を成すかもしれない……という事だね」
ルークの言葉にジャミルが頷く。そして方針も決まったようなものだった。
「ヴィルサンと……戦わなきゃいけない」
校内屈指の実力者である、ポムフィオーレ寮長のヴィル・シェーンハイト。
まだ学生、世間的には見習いという立場ながら、魔力量は豊富で成績も優秀。凡夫が何人集まったところで太刀打ちできる相手ではない。
それでもこのまま見過ごせば、彼の命は失われる事になる。
「囮役なら……僕ができると思います」
悠がいつになく大人しい声で、しかししっかりと言い切った。
「シェーンハイト先輩の標的は、僕だから。それぐらいなら……」
「それはダメだ」
「それはいけない」
カリムとルークが同時に言葉を遮った。悠が唇を噛む。
「前に、退こうとしないオレをユウが逃がそうとしてくれた事があっただろ。あの時のオレと、今のユウの立場はそんなに変わらないと思うんだ」
「キミを失う事があれば、……いや、傷つけたという事実だけでも、ヴィルは正気に戻った後に強く後悔するだろう。その最悪を避けねばならない」
どうか解ってほしい、とルークは強く言葉を向けるが、悠は首を横に振る。
「自分の失態は、自分で取り返したいんです。僕が原因かもしれないのに、ただ守られているわけにはいきません」
経緯を知らない一年生は顔を見合わせ、一部始終を見ていた者たちは表情を曇らせた。
「けどよぉ、ユウ」
沈黙に説得の言葉を探す中で、グリムが悠を見上げる。
共に戦いその実力を誰よりも知っているモンスターは、いつになく心配そうな目を相棒に向けた。
「オメーさっき、ヴィルの事、殴れなかっただろ?隙だらけで、真ん前にいたのに」
エースとデュースが悠を見る。その意味を内心で察したような、複雑な表情だった。
「毒の霧の中だって、油断しきってるヤツを普段の子分は絶対見逃さねえ」
「…………それ、は……」
言葉に詰まる相棒の様子を責めるでもなく、グリムは鼻を鳴らした。
「戦えないなら仕方ねえだろ。その分、親分のオレ様が活躍してきてやる。有り難く思えよ!」
グリムが前足を組んで胸を張る。勇ましいその姿を微笑ましく見守る中で、それを言われた当の本人が苦しそうな表情をしていた。
一連のやりとりを見ていたジャミルが長い溜息を吐く。そのあからさまな行動に、一同の視線が集まった。
「もういいんじゃないですか。長々説得したところで、納得できないものには納得しないものですし」
「ジャミル、そんな言い方ないだろ!」
カリムが諫めるのを無視して、ジャミルは悠の正面に立つ。俯く彼の肩に手を置いた。
「こんな状況だ。君の力を借りられるならその方が良い」
「バイパー先輩……」
「ただしこれから言う事はしっかり守ってくれ。君が無事でなければ戦う意味も無いのは事実だからな」
「はい、もちろん」
理解を得られた事が嬉しいのか、悠の表情にわずかに明るさが戻った。それを見てジャミルは微笑み、悠と目を合わせる。
「君は魔法の絨毯に乗って大人しくしていてくれ。決して外には出ないように」
ジャミルが指示を口にした瞬間、悠の目の焦点が合わなくなる。
「はい、ご主人様の仰せのままに」
悠は表情の抜け落ちた顔で答えた。従順な奴隷と化した少年の頭を撫でて、ジャミルは満足そうな笑みを浮かべる。
それを見たカリムは魔法の絨毯に指示を出し、悠を座らせた。
「この通路を回り続けてくれ。もしヴィルに見つかりそうになったら、うまい事逃げてくれよ!ユウの事、頼むな!」
魔法の絨毯の房飾りが『任せろ』と言わんばかりに持ち上がり揺れる。そのまま通路の奥へと消えていった。
あまりにスムーズな作業にスカラビア以外の一同が絶句している空気を無視し、ジャミルはルークを見た。
「ネージュを操っている魔法の維持を優先しますので、ユウの方は長く保ちません。彼が正気に戻る前に決着をつける必要があります」
「……そのようだね。戦いを仕掛けねば何も始まらない」
一同がお互いの顔を見合わせる。
約一ヶ月寝食を共にしてきた間柄だ。お互いを何も知らない頃に比べれば理解は深まっている。それを改めて口にする事は誰もしないが。
誰とも無く通路を出て観客席を降りていく。観客席とフィールドを隔てる柵を魔法を使って乗り越え、今日これから立つステージを前に立ち止まった。
結界の外は相変わらずの嵐だ。その境目には黒い霧が雲のように立ちこめ、今も膨らみ続けている。
『やっと出てきたわね、ジャガイモども』
憎しみすら感じる低い声に続いて、雷鳴が轟く。まるで雷に誘われたように、ヴィルはステージの上に立っていた。作られたばかりのステージをブロットに汚しながら、平然と支配者の笑みを浮かべ仲間を見下ろす。
『あの子をどこに隠したの?』
「隠したなんて人聞きの悪い。宝物は大事にしまうものでしょう?」
ジャミルが不敵に笑う。ヴィルの表情が苛立たしげなものに変わった。
『どいつもこいつもアタシの邪魔ばかり!』
「あなたこそ見通しが甘すぎる。あいつが裏でなんて言われてるか知ってます?」
いつにも増して冷たい視線を向ける。心底から呆れた口調で、続きを吐き出した。
「暴君も獅子も、悪徳商人すら誑かしたお姫様。魔力を持たないのに、在学中に学園を掌握するんじゃないか、なんて噂する輩までいる」
「そ、そんな話になってたのか……」
「そりゃあね。レオナ先輩とアズール先輩があれだけやってりゃ目立つよ」
同じクラスながら学内の噂には疎いデュースの呟きに、その評価を把握していたであろうエースが呆れた声で応える。
「最初からずっと、あなただけのユウじゃない。そもそもあなただって、あいつが可愛らしく振る舞う事には賛成の立場でしょう?」
『それは……』
「それであいつがあなたの嫌いな奴に好かれたからって、しかも自分よりいい雰囲気だからって癇癪を起こすのは、自業自得にもほどがあるんじゃないですか?」
『黙りなさい!!!!』
黒い魔力の塊がジャミルに襲いかかる。防衛魔法で危なげなく防いだものの、それを皮切りにフィールド内の霧がヴィルに収束し始めた。
『何も知らないくせに……よくも好き勝手言ってくれるわ』
「知りませんよ。知るわけないでしょう。興味もないですし」
ヴィルの怒りに呼応するように、霧の収束は加速していく。集まった霧はヴィルの足元に水たまりとなって広がり、やがてステージを覆い尽くした。
黒い水面が蠢く。水が盛り上がり形を変えた。
水分が変質し、黒いボロ切れのローブを纏った老婆のような『ブロットの化身』が現れる。両手はか細く、手提げかごと色だけは妙に鮮やかな林檎を手にしていた。顔に当たる部分には林檎が王冠を被ったようなインク瓶が据え付けられ、その下に薄汚れた白髪が垂れ下がっている。
「で、出たーっ!!」
「あれが、ブロットの化身……!」
「……あれが霧になってしまう前に、ヴィルとの繋がりを絶つ必要があるという事だね」
「ああ。多分、でかい魔法でドカーン!とかできればどうにかなる!」
「凄い雑!!!!」
「……でかい魔法でドカーン、か」
デュースの呟きに応える声は無い。しかしとっくに臨戦態勢にはなっている。
化身が現れた事で、ヴィルの殺気は更に膨らんだ。嵐のような感情を隠す事なく叫ぶ。
『アタシの醜い姿を見た者は、誰一人生かしておかない!骨の髄まで粉々にしてあげる!』
その声に応えるように、ブロットの化身が猛る。手にした林檎を手当たり次第に投げつけてきた。字面は何とも間抜けだが、巨大な化け物が人の頭より大きいものを投げてくるのだから、襲われる方はたまったもんじゃない。
「林檎投げんな!!!!」
約一名、林檎農家として切実な怒りを叫びながら防壁を展開していた。防壁に弾かれた林檎は客席に落下し、弾けて中身のブロットをまき散らす。用意されていた簡素な椅子が溶かされ、無惨な姿に変わった。
エペルは青ざめた顔で仲間を振り返る。
「アレは林檎じゃねえ!!!!」
「最初からみんな解ってるわ!!!!」
エースは同じ勢いで言い返しつつ、風を操り林檎を打ち返す。制御通りに動くものの、それが当たった所でヴィルにもブロットの化身にもダメージは無い。
「痛いのはこっちだけって事ね」
降り注ぐ毒林檎をかわしながら、ジャミルはヴィルに接近する。走りながら火の魔法をいくつも飛ばすが、魔力の弾に撃ち落とされた。
予想していたと言わんばかりに、躊躇い無く懐に潜り込む。小手調べの拳が軽く払われ、反撃の蹴りが鋭く首を狙ってきた。危なげなく避けながらも、ジャミルはすかさず距離を取る。
身長の分、間合いはヴィルの方が長い。脚に纏ったブロットは一見して柔らかそうだが、座席を溶かしたものと同じであれば気軽に受ける事は出来ないだろう。
ヴィルは不敵に笑う。
『接近戦なら勝てると思った?』
「多少は分があるかと期待したのは事実だが。まぁ想定の範囲内だな」
身体を動かすには明らかに便利が悪そうな衣装だが、ブロットで構成されているという点はジャミルを警戒させる。
「(あいつはよく素手で殴りかかってこれたな)」
羽柴悠は魔力を持たない人間。ブロットへの対抗手段も当然ながら持っていない。一切の防御を持たずに未知の敵に殴りかかるという行動は、ジャミルにとって全く以て理解しがたい。愚かだとしか思えない。
そう、愚かな行動だ。倣う必要はない。
ジャミルはマジカルペンを振る。触れねば攻撃できない手足に防御の魔法をかけて、再び構えた。洗脳魔法の維持も必要な状況で、身体強化までかけるほど魔力に余裕はない。動きやすく作られた特注の衣装で助かった、と誰にも聞こえない大きさの声で呟く。
他の仲間の事を考えるのはやめた。信頼ではない。その余裕が無いだけだ。
自分に言い聞かせ、ジャミルは鋭く拳を振るう。攻撃をかわされては蹴りを避ける応酬を繰り返し、相手の実力を測った。ヴィル自身の近接戦闘の心得は、かなり確かなものだとすぐに推測が立つ。動きにくそうな衣装なのに、その技術は鈍らない。
更に相手はオーバーブロットによって無制限に魔法が使える状態だ。体術と組み合わせての攻撃も可能で、それを繰り出すセンスも持っている。
風の魔法を纏った蹴りを、ジャミルは両腕を交差して受け止めた。その瞬間、交点から爆発したような勢いで風が吹き出し、ステージから客席に叩き落とされる。派手に転がりながら、身体を丸めてダメージを最小限に抑えた。
そこを見計らったように、毒林檎が降り注ぐ。触れた瞬間に弾けて、ブロットがジャミルの全身を覆った。
「ジャミル!!!!」
カリムの反応は速かった。叫んだ瞬間には魔法が発動し、鉄砲水の勢いで注いだ水がジャミルの全身を洗い流す。ずぶ濡れになったジャミルは、敵に向けるより厳しい視線を主人に向けた。しかし主人の方はそれどころじゃない。
「大丈夫か!?どこも溶けてないか!!」
「……あぁ、おかげさまでな」
無限に溢れてくる文句を腹の内に押し込み、ジャミルは風の魔法で水気を吹き飛ばす。
「文句と説教は終わった後だ」
「うん!!」
あまりに嬉しそうな笑顔で返され、ジャミルは言うに言えなくなった礼を飲み込んだ。今はそれどころじゃない、と気持ちを切り替える。
ヴィルの多彩さに比べ、ブロットの化身の攻撃は単調だ。隙も大きく慣れてしまえば避ける事も不可能ではない。ブロットの持つ性質も、対処が速ければ人を侵す前に取り除ける事は明らかになった。
ジャミルへの追撃を防ぐため、一同の攻撃はヴィルに集中している。
一年生の攻撃は簡単に撃ち落とされ、あるいは弾き返されているが、その隙間を縫うようなルークの攻撃はしっかりとヴィルに届いていた。一年生は人数が多い分、手数も多い。攻撃そのものが単調で弱くとも、目眩ましにはなる。
ヴィルは魔法士としては優秀だが、育ちは都会だ。経験豊富で勘が鋭いとは言っても、身体能力は『極限に鍛えた常人』の範囲を超えはしない。
比較してルーク・ハントという魔法士は、魔力こそヴィルには劣るが、気配を消す身体捌きと観察眼は圧倒的に秀でている。人間より感覚や身体能力に優れる獣人属さえ出し抜けるという事実から見ても明らかだ。息を潜め獣を狩る『狩人』ならではの特質と言えるだろう。
その目は隙を見逃す事はなく、脚は音も無く死角に潜み、魔法は矢となって正確に弱点を射抜く。
『忌々しいジャガイモどもめ……!』
ヴィルの輪郭が黒い霧でぼやける。ベールが翼のようにはためき、その身体が空中に浮かび上がった。ブロットの化身も霧に変わり、彼を追って空を舞う。
「と、飛ぶのは反則っしょ!!」
「ブロットの化身も霧に変わっちまった!」
降り注ぐブロットに防壁を展開しつつも、一年生の声には疲労の色が濃い。ユニーク魔法を維持しながら戦っているジャミルも、そもそも戦闘が得意でないカリムも良い状態とは言えない。
「……ここは私の出番だね」
ルークが呟き、マジカルペンを左手に持ちかえる。魔法石に右手の指先を添えてから、弓を引くように構えた。
その動きは弓を手にしている時のように自然で無理がない。実際には誰の目にも弓矢は映っていない。
しかし既に狩人の手には、獲物を射抜くための鋭い矢が握られている。
「……嗚呼、『毒の君』。恋に堕ち嫉妬に狂い、絶望に青ざめたその顔すら美しい」
気障ったらしい台詞を吐きながら、その目に一切の感情は宿らない。そこに一瞬映した殺気が獲物を射抜く。獲物が気づき、警戒を露わに動きを止めるその瞬間、口元に笑みを浮かべた。
一閃。魔力の矢が空を舞うヴィルを撃ち落とす。
『……ぎゃああああぁぁぁぁぁ!!!!』
壮絶な悲鳴と共に女王が地に墜ちた。地面に叩きつけられる前に、ブロットの化身がその身で受け止める。どこを撃ち抜いたのかは誰にも見えなかったが、明らかにダメージは通っていた。ヴィルは苦しげに呻きながら身を起こす。
『……ルーク……!』
「もう終わりにしよう、『毒の君』。君は人を殺せない。……『毒薬作りの名手』は『冷酷な殺人者』と同義では無いはずだ」
いつもより淡々とした口調だが、それが目の前の彼を想うからこその言葉であろう事は誰の目にも明らかだった。
ヴィルは嗚咽とも唸り声ともつかない声を漏らす。彼の身の下でブロットの化身が液体に変わり、再び背後に立ち上がる。
『アタシ、アタシ、は……』
ブロットの化身が形を成しているにもかかわらず、ヴィルの身体の下のブロットの水たまりは広がり続けていた。不気味に泡立ちながら、舞台を滑り落ち周囲の座席を溶かして崩していく。
『あの子とずっと一緒にいたいの。故郷の事なんか忘れて、ずっと、アタシの傍にいてほしいの……』
よろめきながら立ち上がる。俯いたままの表情は誰にも見えない。
「無理だろ、それ」
エースがぽつりと呟く。
「あいつ、いっつも言ってるもん。元の世界に帰るって」
どこか寂しげな声音だった。本当はエース自身もその言葉を受け入れがたいのだろう。
誰にともなく言い聞かせるように、エースは続けた。
「自分で来たわけじゃねえのに帰れないんだぜ?本人が帰りたがってるのに、こっちが我が儘で引き留めるのは違くない?」
口調はあくまでも軽口だが、目は一切笑っていない。
その言葉を受けてぴくりと、小さくヴィルの肩が震えた。
『帰さない』
深い憎悪がヴィルの口から漏れ出る。ブロットが粘度を高め波打った。
『帰してやるものか、あの子の夢を砕いた世界になんか!!!!』
ヴィルの叫びに呼応するように、結界内に風が吹き荒れる。ブロットが激しく泡立ち、毒の霧を大量に吐き出し始めた。
「夢を砕いた、って……」
『あの子を傷つけるだけの世界になんか帰さない!!ずっとここにいればいい!!アタシがあの子を守るの!!』
怒りに任せ叫んだかと思えば、その表情は悲嘆に暮れる。
『……ああ、でもきっと、あの子はこんな醜いアタシを許してはくれない……』
焦点を結ばない両目から黒い涙を流し、今度は口元に笑みを浮かべた。
『嫌われるぐらいならいっそ、アタシの毒であの子を殺して!!ガラスの棺に飾って、美しいまま傍に置いてあげるの!!』
誰の言葉も絶望した女王の耳には届かない。世界一美しい、愛する人を想う笑顔を一同に見せつける。
『そうしたらずっと、ずっと一緒にいられる!!あの子はこれ以上傷つかなくて済む!!!!』
舞台の上で、ただひとり愛を語る役者の独白のような、完成された場面。
ただ舞台とは違い、語られる狂気にも愛にも一切の嘘はない。
誰もが理解を拒絶し絶句する。言葉など何も浮かばない。
「…………バッッッカじゃねえの」
ただ一人を除いて。
その一言で、己の言葉に恍惚としていたヴィルの顔から笑みが抜け落ちた。
エースは怒りに満ちた表情で、正面から彼を睨みつける。
「アンタ、あいつの事なんにもわかってねーじゃん。勝手に理解者面しないでくんねぇ?」
『……何よそれ』
「傷ついてるとか嫌われてるとか、本人に聞かなきゃわかんねー事じゃん。アンタ何様?」
『黙りなさい!アンタに何が解るって言うのよ!!』
「解らないね、あー、わかんねえよ!!」
悲劇の女王を前に、反逆者は吼える。
「オレはあいつがここに来てからずっと一緒にいるのに、あいつの夢が何だったのかさえ知らねえよ!!!!」
自棄になったような叫び声だが、ヴィルはその気迫に圧されて口を閉ざす。
「顔はかわいいけど微妙にアホで、鋭いくせに変なところ鈍感で、言葉は辛辣な割にお人好しで、やる気なさそうだけど度胸だけは人一倍で!!あんだけめちゃくちゃなくせして、肝心なところは何も教えてくれねえんだよ!!!!」
何も知らない苛立ちを、八つ当たりのようにぶつける。誰も口を挟めない。
「そんなあいつが……アンタにだけは、将来の夢の話なんてしたんだろ。毎日のように一緒にいるオレたちですら知らない事を、アンタは知ってるんだぞ!!その意味を少しは考えろよ!!!!!!」
魂さえ吐き出すような声音。激情には違いないが、そこに含まれているのは決して怒りだけではない。
その言葉は、反撃を前に放心していた女王の心を射抜いた。
『……アタシしか、知らない……意味』
呆然と呟く。言葉の意味を、うまく働かない頭の中で考えている様子だった。ブロットの化身さえ動きを止めている。
誰も動かない静寂の中で一つ、駆け抜ける誰かの足音が響いた。
………