5−2:泥濘へ堕ちる美貌の毒華
ナイトレイブンカレッジの代表に割り当てられた楽屋には誰もいなかった。人がいた気配も薄い。
マジカメのメッセージは既読がつかない。たまたま見ていないだけかもしれないけど、不安ばかりが膨らんでいく。
「おい、ユウ!」
声に振り返れば、グリムが楽屋の入り口に立っていた。
「どうしたの、グリム。屋台行っておいでよ」
「オメーがいねぇと財布がねえだろ!エースにテキトーに買ってこいって言っといてやったんだゾ」
「あぁ……じゃあ財布預けるから今からでも行ってくれば……」
「ユウも一緒に行くんだゾ。使いっぱしりなんてオレ様イヤだ」
グリムは前足を組んでニヤリと笑う。
「しょーがねーから親分のオレ様がお前の用事に付き合ってやる!」
こうなると絶対聞いてくれないよな。深々と溜息を吐く。
「……別に面白い事するわけじゃないからね。意味があるとも限らないし」
「用事ってなんなんだゾ?」
「とりあえずシェーンハイト先輩を探そう」
楽屋を出れば人の気配は薄い。昼食を摂るために外出している人が多いのだろう。あれだけの屋台が並んでいれば心が躍る気持ちも分かる。
行き先があるとすれば、ネージュの楽屋だろうか。どこの部屋を使っているかまでは分からない。この階はコロシアムの円形に沿って通路が敷かれ、外周沿いに更衣室などの部屋が点在している。それらが楽屋として出場者に割り当てられているが、有名人がいる事もあってどの部屋にどの学校が入るか分からないようになっているのだ。しらみつぶしに当たっていくしかないかもしれない。
早歩きで通路を進んだ。耳を澄まして気配を探す。
そして、進む方向で扉をノックする音が聞こえた気がした。思わず足を止めて、先の様子を身を隠しながら窺う。
「おい、なんで隠れるんだ?」
「しっ、静かにして」
グリムは憮然としつつも口を前足で塞ぐ。再び覗きこむと、シェーンハイト先輩の姿が見えた。楽屋の扉の前に立っている。
ロイヤルソードアカデミー以外の学校の楽屋なら、僕の考えは杞憂だ。
心臓まで鼓動を潜めるような空気の中、楽屋の扉が開く。
「ヴィーくん、どうしたの?」
ネージュが輝くような笑顔で出てきた。呼吸が止まりそうになる。
止めなくちゃ、いやでも何かするとは限らない、と決意がぐらぐらに揺れる。
彼がそんな事をするはずがないと、信じたい気持ちが足を止めさせていた。
「……さっきはすぐリハが始まってあまり話せなかったから。もう少しだけ、アナタと話がしたくて」
「うん!僕もそう思ってた」
ネージュの声は明るい。本心から友人の来訪を喜んでいる様子だった。
シェーンハイト先輩の声だっていつもと変わらない。雰囲気も立ち姿も、何か怪しい所があるワケじゃない。
でも先輩は役者だ。演技出来る。内心の憎悪を微塵も出さずに笑顔で会話するぐらい造作もない。
「……あら、さっきの小さなお友達たちは?」
「ドミニクたちなら、文化祭の展示ブースを見に行ったよ」
ちっともじっとしてないんだから、とさっきも言っていたフレーズを繰り返す。きっといつもあんな感じなのだろう。
「そう、ひとりなのね」
シェーンハイト先輩が呟く。何の違和感もない。
それなのに心臓の鼓動がどんどん大きくなっていく。
「……リハーサルのパフォーマンス、素晴らしかった。アナタの愛らしさは、いつもまわりの人間を一瞬で虜にしてしまう。昔からそうだった」
「ヴィーくんたちのパフォーマンスも、凄かったよ!あんな格好いい曲、僕にはきっと歌いこなせない。踊りもビシッと決まってて、見とれちゃった」
「そう……ありがとう。ふふ、お互い無いものねだりね」
お互いを讃え合う。ただ和やかな風景。認め合ったライバルであり友人関係。傍目にはそう見える。
立ち話だけで終わって。お願い、何もしないで。
不穏を感じておきながら確信は何もない。これが第一線で活躍するタレント同士の交流なら邪魔したくない。自分が割って入れば確実に何も起こさずに済むけど、余計な心配だったらただ迷惑な事をしただけになってしまう。
それが怖い。あなたに嫌われたくない。信頼を失いたくない。
柱を掴んだ手が震える。足が一歩も動かせない。
「ねえ、ネージュ。喉が乾かない?美味しい林檎ジュースを差し入れにきたの」
最近のお気に入りなんだけど、と言いながら取り出したのは、豊作村の林檎ジュースの小瓶だ。本番直前にエペルの実家から届いた差し入れ。みんなで飲むために人数分、楽屋に置いてあった。
血の気が引く。
「あっ、それ!こないだマジカメにアップしてたやつだよね」
ネージュは嬉しそうに声を弾ませていた。本当に、心から嬉しそうな顔。何も疑っていない純粋な笑顔。
「飲んでみたかったんだ。嬉しい!ありがとう」
お礼を言って素直に受け取る。先輩も和やかな雰囲気のまま。
「さあ、どうぞ。召し上がれ」
「いただきます」
今からでは間に合わないかもしれない、と思いながら出ていこうとしたその瞬間だった。
「ネージュくん!!!!」
向こう側から聞こえた声に思わず足を止める。程なく、ハント先輩が彼らの前に現れた。
「歓談中にすまない。本番の演出について聞きたい事があると、スタッフがキミを探していたよ。『白雪の君』……いや、ネージュくん」
いつもの芝居がかった口調で語りかける。ネージュは何かに気づいた顔だったけど、ハント先輩はその反応を見ないようにしている感じがした。
「……その呼び方……もしかして、あなたは……」
「ああ!!走ってキミを探していたら喉が乾いてしまったな」
言葉を遮るようにして、強引に話題を変える。
「キミが持っている林檎ジュース、冷えていてとても美味しそうだ。よかったら私に譲ってくれないかい?」
「は、はい。もちろん!」
「ありがとう。ネージュくん」
ハント先輩はジュースを受け取って微笑む。すぐにその表情が真剣なものに変わった。
「急いでステージへ向かうんだ。そして、此処に戻ってはいけない」
「えっ?それって、どういう……」
「さあ走って!さあ早く!」
「は、はい!」
追い立てられるようにネージュが走り去っていく。それを呆然と見つめていたシェーンハイト先輩が、力なくハント先輩を振り返った。
「……ルーク、どうして……」
「んん~……芳しく瑞々しい林檎の香り。思わずかぶりつきたくなる、真っ赤な林檎が目に浮かぶようだ」
エペルくんの故郷の名産品は実に素晴らしい、と褒める。場の空気にそぐわない発言だが、シェーンハイト先輩は何も言わない。その様子を見てハント先輩は、いつものように柔らかく微笑む。
「一滴残さずいただくよ。『毒の君』」
「あっ……!!」
「ダメだ、ルーク!!!!」
また違う人の声が響いた。続いて、派手にガラスが割れる音。
アジーム先輩がハント先輩の手から林檎ジュースの瓶を叩き落としていた。林檎ジュースが瓶の破片ごと床にぶちまけられている。
「……ま、間に合った……!」
アジーム先輩が肩で息をしている。走ってここまで駆けつけたらしい。
「『黄金の君』!どうしてここに?」
ハント先輩が当然の疑問を口にする。シェーンハイト先輩も驚いた顔をしていた。
僕は完全に出るタイミングを失っている。先輩たちに任せた方が良い気がしてきた。
「さっきネージュのリハを見た後のヴィルの顔を見て、嫌な予感がしたんだ。ホリデー中に暴走した時のジャミルと、よく似た顔をしてたから」
アジーム先輩の目は心配そうにシェーンハイト先輩を見ている。その向こうに、彼の大切な相棒の姿を重ねているのだろう。
「……これ、ヴィルがユニーク魔法で『呪い』をかけたジュースだったんだろ?」
その言葉を合図にしたみたいに、床にこぼれたジュースがボコボコと音を立てて泡立った。春の太陽を思わせる爽やかな黄色が、見る間に毒々しい緑色に変わっていく。
夢の中の魔女が作っていた毒液のように。
「ふ、ふぎゃーっ!色が変わった!?」
足下で見ていたグリムが思わずといった様子で声を上げる。注目がこちらに集まった。思わず身を竦める。
「……グリムくんがいる、という事は」
ハント先輩が力なく呟いた。これ以上隠れてはいられない。
グリムと共に先輩たちの方に歩き出す。誰の顔も見られない。
「……既読がつかないから、捜してて。覗き見るつもりは、なかったんですけど」
すみません、と小さく謝る。
「ユウ……い、いつから、そこにいたの……?」
「楽屋からネージュが出てきた時からいたんだゾ」
シェーンハイト先輩の顔がみるみる青ざめていく。よろめいて壁に背中を預けて天を仰いだ。
「終わった」
「……は?」
「終わったわ、何もかもおしまいよ!あは、あははははは!!!!」
絶望しているのに、笑い声ばかり高らかに響く。凄まじい狂気と気迫に、誰も何も言えない。
「な、何言ってるんだよヴィル!何も終わってなんか……」
「おだまり!アンタに何がわかるのよ!!」
睨まれたアジーム先輩が口を噤む。シェーンハイト先輩は頭を抱えて悶えた。
「いつもいつも欲しいものはアイツが奪っていく!主役の座も、栄光も勝利も何もかも!!」
「そんな事ないだろ!まだ大会は始まってないんだぞ!」
アジーム先輩は挫けない。真っ直ぐにシェーンハイト先輩を見つめて、言葉を尽くす。
「オレたち以外のチームが全員ジャガイモに見えるくらい、スゲーパフォーマンスで世界一になるんだって言ってたじゃんか!」
「……そうよ。でもね。わかってしまうのよ。見ただけで、アタシには」
「ヴィル……」
「そう。わかるのよ。アイツにはもう絶対に勝てないって事が!!!!」
やはり同じ事を思ったのだ。自分のパフォーマンスが信じられなくなるほど揺れていたんだ。
「だから、アタシ……アタシは、アタシは、ネージュをこの手で……!」
嘆きに呼応するように、毒液が動き出す。怪しい音を立てて泡立ちながら黒く変色し、床にどんどん広がっていく。泡は黒い煙を吐き出して、視界が黒くくすみはじめた。
途端に息苦しくなってくる。明らかに煙の影響だ。先輩たちが膝から崩れていく。自分も壁に掴まって立っているのが精一杯だ。
顔を上げればシェーンハイト先輩と目が合う。いつもの自信に満ちあふれた眼差しはなく、怯えた色が僕を見ていた。
「見ないで」
震えた唇が喘ぐように呟く。
「お願い、見ないで……アタシをそんな目で見ないで!」
シェーンハイト先輩に駆け寄ろうとするより前に、ハント先輩が僕を背に庇った。
「どうして?世界で一番美しくありたいのに、胸を張って隣にいたいのに、なんでこんなにもアタシは……醜い、醜い醜い!!!!」
自分を責めれば責めるほど、黒い霧が濃く立ちこめていく。止める言葉を考える頭さえ働かない。
「『毒の君』……キミが醜いはずがない!」
「そうだよ!ネージュもルークもジュースを飲まずに済んだじゃないか!お前はまだ誰も傷つけてない。だから……ッ」
「世界中の誰が許しても、アタシは、アタシが許せない!!」
そう叫んだ次の瞬間、シェーンハイト先輩が喉を押さえて咳きこんだ。黒い液体が新たに床を汚す。整えられた金髪の合間から、細い手首を飾る袖口から、黒い液体が溢れだした。
まるで雨に濡れながら空を見上げる映画のワンシーンのように、シェーンハイト先輩の表情が空虚になる。肌が黒く汚れるほどに、その口元が笑みの形に歪んでいく。
「ふ、ふふふ……そうよ。そうだわ」
ひとり嬉しそうに呟いている。苦しむ者には目もくれず、己のために言葉を紡ぐ。
「アタシ以外の人がみんな醜く歪んで溶けてしまえば……アタシは世界一、美しいわよね?」
その視界には誰の姿も映っていない。
途端に黒い液体の勢いが増す。シェーンハイト先輩の姿が見る間に変わっていった。
光に溶けるような金髪は黒い液体に汚され、ひとりでにまとまって冠とベールに飾られる。冠から繋がっているであろう後光のような金の飾りも、薄汚れくすんだ色をしている。
制服は液体と同化するように溶けて、濃紺のドレスへと変わった。金色のコルセットに白い襟、赤い裏地まで洗練されたデザインを思わせるのに、裾は解れどこも黒い液体に薄汚れてしまっている。身にまとったベールは手を動かす度に翼のように広がり、細い身体に威厳を加えた。
顔を伝っていた液体が模様を描いていく。誰もが目を奪われる華やかな顔立ちを、美しくも悍ましく彩った。
もはや毒液のなれの果てともブロットとも不明瞭な黒い霧は、周囲を見通せないほど濃く立ちこめている。かろうじて見えるアジーム先輩も立ち上がる気配はないし、ハント先輩も壁を支えにギリギリ立っているような有様だ。グリムは身を伏せて霧から逃れようとしているけど、あまり効果はなさそう。
『苦しみは長く続かないわ。もうすぐ息が止まる。血も凍りついて……もう二度と目覚める事はない』
黒い霧に満たされる中で、シェーンハイト先輩だけは余裕の笑みを浮かべている。聴く者を虜にする美しい声は濁り、溺れているかのように不明瞭だ。それなのに言葉だけはしっかりと聞き取る事が出来る。
シェーンハイト先輩がゆっくりとこちらに歩いてくる。ハント先輩が警戒を露わにしたが、シェーンハイト先輩がやんわりと手を払っただけで床に崩れた。もうかなり限界だったのかもしれない。
「ハント先輩……!」
思わず声を上げた瞬間、喉に鋭い爪が突きつけられた。
『アタシ以外の男を見ないで』
ぎこちなく顔を上げた。普段よりずっと青ざめた、それでも美しいシェーンハイト先輩の顔が至近距離にある。いつもならもっと幸福に胸が高鳴るのに、今は違和感と恐怖が強い。
『アタシのかわいいジュディ』
優しく頬を包まれる。ぞっとするほど冷たい手。
『もうアナタを誰にも傷つけさせない。ずっと、アタシが守ってあげる』
嬉しそうな笑顔。何度も見て知っているのに、今は言葉に表しがたい迫力をやたらに感じた。
『綺麗なまま永遠に眠らせて、ガラスの棺に飾って。ずっと、ずっと大事にするわ。絶対よ』
長い爪のついた指先で僕の髪を梳きながら、愛おしそうに目を細める。その時だけ、大好きな先輩の面影を見た気がした。
『愛してるわ、ユウ。もう誰にも渡さない。ずっとアタシと一緒にいましょう?』
……その言葉、正気の時に聞きたかったなぁ。欲を言えば『VDC』に優勝した後に、ふたりきりの場所とかで。
シェーンハイト先輩の顔が近づいてくる。幸せそうな恍惚とした表情なのに、どこか空虚で視線が合わない。
このまま受け入れれば多分、僕が死ぬ。
振り払えば、きっと彼の絶望は深まってしまう。そうしたら何をするか分からない。動けない状態の誰かが死ぬかもしれない。
……まぁ、もしかしたら奇跡の一つも起きるかもしれない。キスで解ける死の呪いもあるらしいし。
諦めて目を閉じる。ほんの少しだけ、瞼の向こうで安堵するような気配があった。
次の瞬間、唸るような風の音が通路に響く。何かが僕と先輩の間に割って入った。
『なにっ!?』
目を開けた瞬間に目に入ったのは、美しい刺繍が施された布。房飾りが揺れて通り過ぎていく。尋常じゃない風を纏って、シェーンハイト先輩の目の前を塞ぎ、翻弄するように飛び回る。
『おのれ……邪魔をするな……!』
めちゃくちゃに吹いている風が黒い霧を晴らし、互いの姿が見えるようになる。身体の重さも少し楽になった気がした。
「あ、あれは……魔法の絨毯!?どうしてここに!?」
アジーム先輩の声を合図にしたように、足音が近づいてくる。
「……みんな、乗れ!」
「ジャミル!!」
バイパー先輩が目眩ましと霧を払う役を引き継ぐと、絨毯が素早く平行になった。アジーム先輩が脚をもつれさせながらも真っ先に乗り込む。僕はグリムの首元を掴んで絨毯の上に投げた。ハント先輩にも肩を貸して座らせる。
「君もだ早くしろ!」
「いや、僕は……」
残る、と答えるより先に、ハント先輩の手が僕を絨毯の上に引き上げた。バイパー先輩に押されたのもあってあっさりと乗せられてしまい、最後に覆い被さるようにバイパー先輩が乗り込んでくる。絨毯はバイパー先輩の脚が浮いたぐらいのタイミングで動き出して、猛スピードで霧の立ちこめた通路を突っ切っていく。
『逃がすものですか……!』
遠くで憎しみを込めた声が聞こえる。体勢上やむなく後を向いているグリムがひぇぇと声を上げた。
「とととと、飛んでおっかけてきてるんだゾ!!」
「大丈夫だ、アレならこっちの方が速い!」
「絨毯!もっと速く!!外へ!!」
身体を覆う圧力が増したように感じたけど、周りの様子を見る余裕はない。
心だけあの場所に置き去りにされてしまったかのように、頭の中は真っ白になっていた。