5−2:泥濘へ堕ちる美貌の毒華
はっと目を開く。見慣れた天井があった。
あの淀んだカビ臭さも水の気配もここにはない。……いやまぁ、オンボロ寮は古い建物だからカビ臭くはあるんだけど。
「おはよう、ユウ」
「あ……おはようございます」
反射的に振り返れば、シェーンハイト先輩が優しく微笑んでいた。寝間着姿だからまだ起きた直後だろうに、相変わらず一分の隙もなく美しく眩しい。
「うなされてたわよ。起こそうか迷ったのだけど」
「あ……変な夢見ちゃって」
「……そういう時もあるわよね。他に不調は無い?」
「大丈夫です」
「そう」
先輩は少し安心した様子だ。心配をかけてしまったらしい。
「顔を洗ってくるわ。アンタも身支度なさいね」
「はい」
返事を満足そうに聞いて、先輩は洗顔セットを手に部屋を出て行った。
朝日に唸るグリムを撫でながら、見ていた夢を思い返す。
美しき女王が化けた老婆。
今日の夢の中ではずっと老婆の姿だった。憎い相手を殺すために林檎に呪いをかける場面。
その標的は恐らくあの愛らしいお姫様だ。ずっと憎しみを向け続けている。闇の鏡に『世界で一番美しい』と讃えられた美を滅ぼすために。
美しき女王。
世界で一番美しい己を保つためにあらゆる努力を重ねた、『奮励』の象徴とさえされる偉人。
だけど伝わっている彼女の偉業が全て事実とは限らない。彼女を彩る『努力』という言葉の中に『邪魔者を殺す』という手段を選ばない側面を含んでいる可能性はある。
……現に毒薬作りの名手として知られてるし、あのおぞましい毒林檎を思わせるオブジェを、立像でも手にしていた。
でも結局のところ、彼女が現実にどうだったかは問題ではない。
問題は、彼女と似ていると感じてしまう、シェーンハイト先輩の事だ。
夢の中では老婆の姿しか出なかったのに、あの老婆が美しき女王の化けた姿である事が切り離せない。そのせいで女王と似ているシェーンハイト先輩とも重なっているように思えて仕方ないのだ。
世界一の称号を手にするために努力を重ねている先輩が、正面から正々堂々を貫いてきた彼が、夢の中の魔女のような行動に出るとは考え難い。解っている。
そりゃあ、学校の代表という立場にプレッシャーも感じるだろうけど、彼は世界的なタレントだ。そんな場面は今までだっていくらでもあっただろう。今回が特別だなんて考えにくい。ネージュ・リュバンシェへの対抗心だって今回いきなり芽生えたという感じはしない。どちらかというと長年くすぶっているもののように思えた。
だから、先輩があの老婆のような行動に出る理由が無い。無いはずだ。
たかが夢だ。
別に霊能力があるわけでも勘が鋭いわけでもない僕が見た、妙に関連性がありそうな夢、ただそれだけ。
現実と結びつけるのは滑稽だ。他人が聞いたら笑うような事。
…………だけど。
無意識に握りしめていた拳を解く。先輩のいないベッドを振り返り、ひとり小さく頷いた。
誰に話しても意味がないなら、僕一人で警戒すればいいだけの話。
何も起こらなければ何の意味もない。僕が一人で空回って意味不明な行動をしていただけで済む。
出来るだけ先輩の傍にいて、負担を減らすように頑張ろう。夢の事が無くたって、今日まではマネージャーなのだ。タレントが輝くのを助けるのがその役目。与えられた役目を全うするべきだ。
自分の頬を叩いて気合いを入れる。
「……ふな、なんのおとだ?」
「なんでもないよ。おはようグリム!」
これ幸いと布団をひっぺがす。さむいぃ、と布団を追いかけるグリムの首根っこを掴んでベッドから下ろした。
「さ、今日は『VDC』本番だ。気合い入れていこう!」