1:癇癪女王の迷路庭園
実験室に飛び込んだのは本鈴が鳴る一分前、クルーウェル先生が入ってくる三十秒前だった。席は決まってないらしく、教卓から遠い席に滑り込む。
本鈴が鳴るまで室内の生徒の視線はほとんどがこっちを向いていた。入学早々、遅刻寸前に入ってきた生徒が珍しい……というワケではないだろう。ひそひそと何事か囁きあう声も、チャイム音の隙間に聞こえた。
そして音が止んだ次の瞬間、鋭い打音が教卓から響いた。生徒の誰もが背筋を正して教卓に注目する。
「おはよう、仔犬ども」
視線はあくまでも冷ややかに室内を見下ろしていた。全員の顔を見渡して、隅っこにいた僕たちを最後に見る。
「授業の前だが、ちょうどいい。今日から群れに新入りが入った」
挨拶しろ、と促される。再び室内の注目がこちらに向いた。
「オレ様はグリム。大魔法士になるんだゾ」
「羽柴悠です。よろしくお願いします」
テーブルに登っていつもの調子で自己紹介したグリムに続き、立って名乗り、いくらか丁寧に頭を下げる。見る限りはこの間のエースほど悪意のある視線はない。腹の内でどう思っているかは知らないが、関わらない限り関係のない事だ。
「特例であっても、学園長が入学を許可した者だ。生徒としては等しく扱う。下らない争いは慎め。己の力は成績で示す事だ」
クルーウェル先生は厳しく言い放つ。返事は、と促され、自然に教室中の声が揃った。どうやらこの人が怖いのは、このクラスの共通認識らしい。
「では、授業に戻る。まず魔法薬学の基本的な知識として、薬草と毒草百種類の名前と見分け方をお前らの小さい脳味噌にたたき込む。菌糸類はまた別だ。散歩中に知識無く口に入れて中毒にならないよう、いずれ覚えてもらうがな」
のっけから無理難題が来た気がする。いやキノコ類が別なだけまだマシなんだろうか。
「……キンシルイってなんだ?」
「キノコの事だよ。シイタケとかシメジとか」
「異世界にもあるのか……」
「みたいだね」
ここ数日過ごしてみて判った事だけど、食べ物については結構共通した食材が多い。動物や野菜の名前はほとんど元の世界と同じだ。この学校での生活は元の世界でいうトコの西洋圏の文化に近いみたいなんだけど、妙に日本っぽい習慣や食べ物があったりするから、なんだか変な感じ。
「草なんか、美味いか不味いかだけわかればいいんだゾ……」
モンスターはそれで良くても人間はそうはいかねえよ、と思ったけどこれ以上私語すると何か飛んできそうなので黙っておいた。
クルーウェル先生の声は朗々として聞き取りやすい。板書も綺麗で的確。ただし進行は早い。ちょっと資料を読むのに手間取るとあっという間に置いてかれてしまう。
初日だから仕方ない、と自分に言い訳しているが、本当に何から何まで解らない。自分だって元の世界の植物に詳しいかというと全然そんな事は無いのだけど、とにかく単語の全てが耳に馴染まない。
終了を告げるチャイムが鳴った時には、脳味噌が焦げ付く寸前だった。
「ハシバ」
挨拶を終えて生徒が実験室を出ていく中、呼び止められて振り向くとクルーウェル先生が手招きしていた。
「初日にしては上出来だ」
先生の教鞭が左腕をつんつん、とつついた。軽やかに光が舞って、どこからともなく現れたリボンが巻き付いた。グリムと同じ白と黒のストライプ柄だ。
「所属を示す腕章の代わりだ、揃いでちょうどいいだろう」
「ありがとうございます」
「今日は隣の不出来な仔犬に教えてやっていたようだから見逃したが、私語は控えるように」
「す、すみませんでした」
僕の返答に満足したらしく、クルーウェル先生は笑顔で頷いて退室を促す。一礼して出ると、エースたちが外で待ってた。
「なんか言われたの……って、それグリムとお揃いじゃん」
「腕章の代わりだって」
「ふたりでセットだってわかりやすくなったな」
「オレ様の方が大きいから、オレ様の方が偉いんだゾ」
「はいはいそうですねー」
グリムがエースに飛びかかり、エースがそれを避ける。ふたりはじゃれ合いながら教室への道を歩いていた。器用な事するなぁ。
「全く、あいつらは……」
「まあ、喧嘩するほど仲がいい、ってね」
授業の感想を述べながら、時間を気にしつつ教室へと向かった。