5−1:冷然女王の白亜城


 扉を開くと、伸びやかな歌声が一層大きく聞こえてくる。自然の中で歌声を響かせるのは難しいと何かで聞いたけど、夜の闇の中でも彼の歌声の明るさは健在だった。もっとも、この距離なら聞こえて当たり前なんだけど。
「……んんっ、やっぱここでつまずいちまうな」
「コラッ、カリム!夜ふかしすると鬼コーチ・ヴィルにどやされるんだゾ!」
「おわっ!グリムにユウ!」
 グリムの声でアジーム先輩が仰け反った。すぐに困った顔になる。
「もしかして寮まで声、聞こえてたか?悪い悪い!」
「昼間くたくたになるまで練習したのに、まだやってんのかぁ?」
「いつもこんな感じで、一人で練習してるんですか?」
「ははっ、まさか!こんな事したの、今日生まれて初めてだよ」
 明るく笑って否定しながらも、その表情はすぐに曇ってしまう。
「……オレ……メインボーカルに選ばれなかったの、結構悔しくってさ」
「へ?全然そんな風に見えなかったんだゾ」
「オレも発表された時はなんにも感じなかったけど、さっきベッドに入って目を閉じたらだんだん悔しくなってきて……いてもたってもいられなくて練習しにきたんだ」
 いつも太陽のように笑っている彼には珍しい、真剣な表情だ。
 バイパー先輩がメインに選ばれて、アジーム先輩がコーラスに甘んじるなんて事、これまでに一度も無かったのだろう。実際に、バイパー先輩は最初、辞退しようとしていたし。
 でもバイパー先輩は我慢するのをやめた。結果的に、アジーム先輩にも初めての事態が起きている。
「……オレ、こんな気持ちになったの、初めてでさ」
「はは~ん。さてはオメー、今まで手に入らねぇもんなんかなんにもなかったんだろ!すげー大富豪だもんな。羨ましいヤツなんだゾ~」
「あ、う~ん。そうなんだけど、そうじゃないっていうか……ちょっと違うんだよなあ」
 グリムが意地悪く笑って指摘するけど、アジーム先輩は困った顔で怒ろうとはしない。そして言われた事も否定しなかった。
「オレ、『自分が選ばれて当然だ』なんて考えた事さえ一度も無かった。って事は、それが一度も頭をよぎらないくらい、ジャミルがオレに席を譲ってくれてたって事なんだよな……きっと」
 気が付いたらその地位を手にしている。その課程に疑問すら抱かない。
 恵まれた者の傲慢、と言えばそうなんだけど、結局はそれだけには収まらないのだ。知らないが故に招き寄せる不幸は世の中に沢山ある。
 だから、アジーム先輩が自ら考えて踏み出したこの一歩は、きっと大きな意味があるんだ。知らぬ間に与えられるだけだった彼にとって、自分で掴みたいと思う事は、間違いなく大きな変化だと思うし。
 どういう結果になるとも外野からは見えないけど。
「……悔しいよ。スゲー悔しい」
 でも、いま目の前のアジーム先輩は、前よりずっと人間らしく見えた。スカラビアの騒動の頃だったか、たまに話が通じてない感じがして恐怖すら覚える事があったけど、そういう雰囲気は今は無い。
 そんな変化をどう思ったか、グリムは憮然とした顔で抗議する。
「そんなこと言ったら、オーディションに落ちたオレ様の方がよっぽど悔しいんだゾ」
「あっ、それもそうか。悪い、嫌味を言うつもりじゃなかったんだ!いやぁ、オレ、こういうとこだよな~。ほんとスマン!」
「ウッ、素直に謝られると尻の据わりが悪い。エースたちなら逆に煽ってくるのに……」
 グリムは咳払いして、一生懸命厳しい顔を作った。
「そう思うなら絶対に『VDC』で優勝するんだゾ」
「そうだな。頑張るから応援してくれよ!」
「勿論です」
 笑顔で答えると、アジーム先輩も笑顔を返してくれた。
「騒がしくして他の奴らを起こしたくないし、歌の練習はやめにして、今日は寝るとするぜ」
「夜の練習はこれから先も怒られそうなんで、特訓するなら別の時間にした方がいいと思います」
「それもそうだなー」
「また明日から頑張りましょう。おやすみなさい、アジーム先輩」
「おう。おやすみ、ユウ。グリム!」
「おやすみなんだゾ」
 アジーム先輩が建物に戻っていくのを見送り、念のため周辺を確認する。……まぁ刺客が潜んでるなら、こんなにもたもたしてるわけないか。
「なぁ、ユウ~。早く部屋に戻ろうぜ。肉球の裏がヒエヒエなんだゾ」
「そうだね。僕たちもとっとと寝よう」
 寒がるグリムを抱き上げて玄関に戻る。出来るだけ音を立てないように扉を閉めた所で、階段を下りてくる足音が聞こえた。
「エース、デュース。トイレ?」
「どぅぉわぁ!?」
「バカ、しーっ!」
 デュースは思わずといった様子で悲鳴を上げ、エースが慌てて静かにするようジェスチャーする。グリムが呆れた顔になっていた。
「な、なんで僕たちだって分かったんだ?」
「足音。うちの階段の音が鳴らない場所をちゃんと把握してるのは二人ぐらいでしょ」
 厳密には、バイパー先輩とハント先輩は既に把握してるっぽい。その上で、バイパー先輩は体重移動が細やかなので足音がもっと小さいし、ハント先輩に至ってはどこにいても足音がしない。……バイパー先輩はともかく、ハント先輩はどうなってるんだ。
「オマエら、何してるんだゾ?」
「やっぱ夕食あれだけじゃ食った気しなくってさあ。冷蔵庫にトレイ先輩のお土産のタルトがある事を思い出して」
 エースは愛想良く笑う。人を持ち上げて都合良く動かす時の、悪巧みしている笑顔だ。
「オレ、食べ物を粗末にするのは良くないと思うんだよね~。トレイ先輩、今日中には食べろって言ってたし」
 グリムの耳がぴんと立った。
「じゃあ食べないとダメなんだゾ!」
「冷蔵庫に入れてるんだから一日ぐらいで悪くならないよ。冬場だし」
「でも作った人の気持ちは大事にしないとじゃん?このままだと捨てられちゃうかもだしさぁ」
「まだそうと決まったわけじゃないでしょ」
「なんだよノリ悪いな~」
「そうだゾ子分。オレ様たちは自由に食べていいんだゾ!」
「没収したものの盗み食いはダメって言われたでしょ。絶対怒られるから」
「バレなきゃいいんだって」
「前科あるくせに強気だなぁ」
「うっせ!前みたいなヘマはしませ~ん」
「エース、早く行くんだゾ!」
 エースはグリムに促され、キッチンの方に向かっていった。どうしよう殴ってでも止めた方が良いかな。もう一回ぐらい雷落とされないと悔い改めないか。
 考え込んでいるデュースを見る。視線に気付いたデュースが胸を張った。
「僕は食べにきたわけじゃないぞ。み、水!水を飲みにきただけだ」
「…………本当に?」
「本当だ。ふたりの事も僕が責任持って止めてくるから。ユウは先に休んでてくれ」
 おやすみ、と言いながらデュースは足早にキッチンに入っていった。僕はその場に立ち止まり考え込む。
 デュースを信用するなら何も起きない。彼らはすぐに出てきて部屋に向かって寝る。これが一番何もなくて良い。
 でも多分それはない。キッチンからは言い争う声も何もしてこない。数分待ってみても戻ってくる気配はない。
 エースにうまく丸め込まれて共犯者になる可能性の方がよっぽど高い。と、なるとせめて調子に乗らないうちに部屋に戻すのが最善の策になる。それが出来るストッパーは三人の中にいない。
 止めてやるのが友情だ、と自分に言い聞かせる。あのシェーンハイト先輩がケーキの存在を忘れるなんてあり得ない。いま見て見ぬ振りをしても結局自分も怒られる可能性が高い。一緒に出てきたグリムが参加している時点で、自分は知らない、と言うのは苦しすぎる。いっそ騒ぎにして怒られてもらうのも手だ。
 合宿の平穏を守るだけ。僕は何も悪くない。
 意を決してキッチンに踏み込む。案の定、デュースは取り込まれていた。アップルパイを片手に、憮然とした顔で入ってきた僕を見て目を丸くしている。
「こ、これはその、エースに無理矢理口に入れられて、だからその……!」
「夜にこっそり盗み食いするおやつは昼間の百倍美味いんだゾ。う~ん、ごろごろ入った林檎が罪の味!なんだゾ!」
「お、やっぱりお前も食べたくなっちゃった?」
「なるわけないでしょ。せめて早く部屋に戻れって言いに来たんだよ」
「シェーンハイト先輩ならどうせ起きてこないっしょ。睡眠不足は美容の大敵、なんだっけ?」
「例え起きてこなくても朝になってケーキが減ってたらバレるに決まってるでしょ」
「現行犯押さえられなきゃ誰がやったかはわかんないって」
「だーかーらー」
 エースはケーキの箱を持ち上げて見せる。チョコレートの細工も愛らしく、きめ細やかなチョコクリームがたっぷり塗られた、見るからに美味しそうなチョコレートケーキがそこにあった。そのおいしさはよく知っている。悔しい気持ちが無いとは言わない。でも僕が屈するワケにはいかない。
「あらあら。夜中にキッチンで何をしているの?子ネズミたち」
 と、思っていたら後ろから聞こえてはいけない声がした。エースたちが目を見開く。
「ふなっ!?この声は……ヴィル!」
 シェーンハイト先輩は無表情でキッチンに入ってくる。僕の隣に並ぶと頭を撫でてきた。
「何かあったらすぐに呼びなさいって言ったでしょ」
「す、すみません……」
 そして厳しい視線をエースたちに向けた。
「言いつけを守れない悪い子には、お仕置きが必要ね」
 エースもむっとした表情になってシェーンハイト先輩を睨む。デュースはかなり動揺してるけど、悪いとは思っているらしい。グリムはエースと同じく憮然としている。
「オレら育ち盛りっすよ!夜中に腹減るのくらい当たり前じゃん」
「ハーツラビュル寮生としては、クローバー先輩の手作りスイーツを無視する事はどうしてもできねぇっていうか……!」
「オレ様はメンバーじゃねえんだから食べたっていいだろ!」
「盗み食いはするなと言ったはずよ。人の忠告も聞かずに、みっともない真似をして見つかって、恥ずかしくないのかしら?」
 明らかにバカにされてエースは苛立ってるけど、さすがに魔法を使ってはこない。デュースは怒られてしょんぼりしているけど、グリムはまだ不満そう。
 先輩はちらりとキッチンの壁にかけられた時計を見る。
「……そろそろかしら」
「はあ?…………うっ!?」
「…………ふがっ!?」
「…………ぐっ!?」
 シェーンハイト先輩の呟きの直後、まるで示し合わせたみたいに三人が同時に呻いて床に倒れた。
「ちょ、ええ!?何事!?」
「か、身体が、しびれ……」
「うぐぐ、立ち上がれねえんだゾ……」
「これは一体……っ?」
「ま、まさか、冷蔵庫の食べ物に毒を……!?」
「……毒じゃないわ。それは『呪い』」
 シェーンハイト先輩が静かに答える。
「アタシのユニーク魔法『美しき華の毒』。手で触れたものに『呪い』を付与する事が出来るの」
 つまり先輩のユニーク魔法による『呪い』が、ケーキに仕込まれていたというわけだ。
 よくよく考えれば、没収品を管理するために鍵付きの戸棚まで用意する先輩が、鍵の付けられない冷蔵庫に何の対策もしていないはずがない。
「この強烈な呪いは、条件を満たすまでアタシにも解けない。そのケーキたちにかけた呪いはこうよ。……『これを夜に口にした愚か者は、翌日陽が昇るまで動けなくなるだろう』」
「そ、そんな事が可能なのか……っ!?」
「それ、毒よりこえぇじゃん!味は変わらないって事だろ!?」
「まぁそういう事ね」
 しれっと肯定を返され、エーデュースはますます怯えた顔になっていた。
 呪いの内容によっては命も脅かせる魔法だ。いろいろと応用が利くのだろうけど、普通に怖い。
 ただ、スカラビアの割と立場に則した用心を『物騒』と言ってしまえる先輩に、そういう事に使おうという発想は無いのだろうけど。
 盗み食いの下手人たちに恐怖がしっかりと行き渡った所で、先輩は厳しい表情で床に転がる彼らを睨んだ。
「『VDC』本番まで、砂糖や添加物たっぷりの食品は控えるようにと言ったわよね?代表メンバーに選ばれた自覚が無さすぎる!罰として、その硬い床に朝まで転がってなさい」
「ぼ、僕は無理やり口に入れられただけで……っ!」
「言い訳無用!連帯責任よ」
 ぴしゃっと叱られてデュースは口を噤んだ。エースとグリムは恨めしげに呻いている。
「せ、先輩……」
「朝日が昇れば動けるようになるから、こいつらの心配はいらないわよ」
「いえそうじゃなくて。……呪いなんてかけちゃったら、クローバー先輩のケーキはどうなるんですか……?」
「オレらよりケーキの心配すんの!?」
「僕は散々忠告したし。聞かなかったエースたちが悪いんだし」
「冷た~……なんだよそれ」
 僕の発言が予想外だったのか、シェーンハイト先輩はちょっと呆気に取られていた。小さく咳払いする。
「大丈夫よ。昼間に食べれば呪いは発動しないから」
「あ」
「言ったでしょ?『夜に口にした愚か者は』って。没収した他のお菓子やエペルの林檎ジュースもまとめて、アタシの所属してる映画研究会に差し入れようと思ってたの」
 映画研究会、って事は名前通りなら文化部。今はちょうど研究成果の発表を前に忙しい時期、って事だろう。映像編集とか作業中は甘いもの欲しくなりそうだし、なるほど適切な処分先だ。
「じゃあ、捨てられちゃう事は無いんですね」
「さすがにそんな不義理はしないわよ」
「よかった」
 ほっとして脱力していると、また頭を撫でられた。
「じゃ、ここの片づけはしておくから、ユウは先に休んでなさい」
「あ、いや、先輩こそ休んでください」
「ダメよ。アンタはこいつらに情けをかけちゃうでしょう?」
「そ、そんな事は……」
「談話室までならそう距離も無い。なんなら二階の部屋まで運べちゃうんじゃない?」
「……まぁ一人ずつなら……時間はかかりますけど、出来ると思います……」
 僕の返答に、先輩は呆れた顔をした。鼻を指先でつつかれる。
「それじゃ罰にならないの。バカな事をしたとしっかり反省してもらう必要があるからね」
「でも風邪を引いたら『VDC』どころじゃ……」
「その時は風邪が即ぶっ飛ぶような魔法薬を作ってあげるわ。だから大丈夫」
 とても頼もしい笑顔だった。言ってる事は恐ろしいんだけど。エーデュースが青ざめてるし。
「さ、戻って休みなさい。毛布ぐらいはかけておくから」
「……わかりました」
「アタシが戻るのを待たないのよ。戻った時に意識があったら薬で無理矢理にでも寝かせるからそのつもりで」
「は、は~い……」
 そんな事を言われても、逆に眠れなかったらどうしよう。
 困惑しつつ、キッチンの出入り口に向かう。ちょっと罪悪感はあるけど、でもまぁ自業自得っちゃそうだし。
「ふな~っ!ユウ~!オレ様を置いていくんじゃねーんだゾ~!!」
「だまらっしゃい!」
 情けなく声を上げるグリムを、シェーンハイト先輩が一喝する。
「……全く。どいつもこいつも、何故そんな美しくない振る舞いができるのかしら」
 遠ざかっていく先輩の声は、誰に向けるでもなくただ冷たかった。
「アタシにはちっとも理解できない」

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