5−1:冷然女王の白亜城


「マネージャー。打ち合わせしたい事があるから部屋で待っててくれるかしら」
「あ、はい。分かりました」
「悪いわね。アタシもすぐ行くから」
「オレ様は?」
「マネージャー二号はいいわ。新ジャガたちが二十二時までに部屋に戻るように見張ってて頂戴」
「分かったんだゾ!」
 グリムには珍しく文句が無い。見張る立場、というのが意外とお気に召したのかもしれない。ハント先輩といい、グリムの扱い巧いなぁ。
 もうすっかり人の生活にグリムは馴染んでいるんだ。僕がいなくても良いくらいに。
 どこか寂しい気持ちを抱えて二階に上がる。自分の部屋の扉を開けると、もうすっかり二人部屋仕様になっていた。むしろ予定より豪華な気さえする。いや僕の方の家具はクローゼットが机の横に詰められてるぐらいで何も変わっていないんだけど、シェーンハイト先輩のためのベッドは明らかに大きいしクローゼットも立派だし、何よりこのボロい部屋には不釣り合いな三面鏡付きのドレッサーが凄まじい異彩を放っている。
 床抜けたりしないよね?これ……。どうなっても知らないぞ。
「ユウ、開けてくれる?両手が塞がってるの」
 呆然としていたら扉の向こうから声がした。慌てて開くと、シェーンハイト先輩がさっきの大きな鞄を背負い、お湯の入った洗面器を持って立っている。
 言葉を失っている僕に、先輩は優しく微笑んだ。でも何故だろう。めちゃくちゃ怖い。
「早速ストレス発散に協力してもらうわよ」
「ひょわい……」
 先輩は真っ直ぐにドレッサーに向かい洗面器を置くと、だいぶ中身の減った様子の鞄から何本も化粧品の瓶を取り出した。みんなに渡していたものとは少しパッケージが違う、気がする。
「眼鏡外して、椅子を持ってこっちにいらっしゃい」
「はい……」
「別に取って食うワケじゃないんだから。もう少しリラックスなさい」
 無茶を言いおる。
 と言っても仕方ないので、大人しく椅子を持ってドレッサーの近くに移動した。座るように促され、まじまじと顔を見られる。
「アンタもエペルみたいに何もしてないかと思ったけど、意外と荒れてないわね」
「あー。人から貰ったスキンケアセットがあるので、たまに使ってます」
「…………ふぅん。そう」
 ちょっと面白くなさそうな声だった。慌てて補足する。
「冬場は乾燥で痛んだりするので、丁度良かったというか、他意は無いです」
「何の話よ」
「いやなんか……嫌そうだったから……」
「別にそんなつもり無いわよ」
 前髪をヘアバンドで上げさせられ、さっきのアジーム先輩と同じように顔を濡らされる。じっとしてて、と言われて従えば、柔らかい感触が顔を包んだ。
「アンタも自分の顔を嫌ってるみたいだったから。手入れをする習慣があるとは思ってなくて驚いただけ」
 少し間を空けて、ぽつりと言う。
「もしかしてお姉さんから教わったの?」
 頷くと納得がいったらしい。溜息が聞こえた。
「あの子もそういう人がいればよかったのかしら……いえ、無意味な例え話ね。忘れて頂戴」
 声音を聞くに、エペルの事で相当頭を悩ませているみたいだ。
 顔の表面をぬるま湯が滑っていく。お風呂を出た後より顔がさっぱりしていた。
「エペルって、何ていうか、良いおうちのご子息、とかじゃないんですか?」
「貧しい生まれじゃないのは間違いないけど、少なくともアンタの想像するような育ち方はしてないわね、あの子」
 さらりと答えてコットンを手に取る。素人目には大げさなぐらい化粧水を染み込ませてから肌を拭った。
「自分の顔が気に入らないにしても、アンタみたいに武器としての使い方が出来ないのが問題なのよ。あの子の場合」
「武器って」
「苦手を克服したり足りない所を努力して伸ばすのは確かに大事な事。でも生まれ持った長所を気に入らないと無視をするのはあまりに勿体ないわ。無視を貫くなら、それ相応の覚悟と力がいるの」
 シェーンハイト先輩の声は厳しい。エペルには覚悟も力も足りない、と言いたそうだった。
「……エペルには、アンタから学んでほしい事もたくさんあるの。他人を変える事は出来ないから、アタシには気づくきっかけを増やしてやる事しか出来ない」
「先輩は、エペルに強くなってほしいんですか?」
「当たり前よ。だってうちの寮生だもの」
 本当に、当然という調子で言い放つ。寮長って、これぐらい面倒見が良くないとなれないものなのかもしれない。
「でも、アンタにもエペルから学んでほしい事はあるわ」
 手に取った化粧水を肌に押し込むように付けられる。先輩の体温が心地良い。
 少し考える。先輩の手が離れた所でぽつりと呟く。
「顔を隠すなって話ですか?」
「ご明察」
 即答しつつ、乳液を取った手で僕の頬を撫でていく。確かに触れているのに摩擦を感じない。なんか凄いものを体験させられている。
「姿勢は綺麗だし声はよく通るし、人目を引く才能は間違いなくあるのよ、アンタ」
「あ、あははー……」
「学業を優先している状況じゃなければスカウトしてたわ」
「それは……光栄ですね」
 曖昧に笑う事しか出来ない。嬉しくないと言えば嘘になるけど立場上、無邪気に喜べない。
 僕の反応を見た先輩は、不愉快そうに眉をしかめた。ヘアバンドを外して髪を整えながら、頬に触れてくる。
「他人が身勝手な欲望でアンタを見たとして、それはその他人が悪いんであって、アンタの容貌には何の罪も無いのよ」
「……先輩」
「アンタは何も悪くないの。生まれ持った顔を隠す必要なんてないのよ」
 真っ直ぐに目を見て、あまり見ない心配そうな顔で、いつもより優しい声で、そう語りかけられた。
 胸の奥に何かが刺さったような感触がある。むず痒いようなずっと心待ちにしていたような、期待と呼ぶには痛みが強いような、そんな説明しづらい感覚。
 僕が何も言えずに俯くと、先輩の手が顔から離れた。何か別のチューブ型の容器を取り出している。
「手を出しなさい」
 言われるがままに両手を前に差し出すと、チューブからクリームのような物を乗せられた。先輩の手が僕の手を包み込む。
「雑用すると手が荒れるから。ちゃんとケアしなさいね」
「は、はい」
 されるがまま、先輩が僕の手に指を絡めてハンドクリームを塗ってる様子をただ見つめていた。細くて長くて綺麗な、ちゃんと骨ばった部分も力強さも感じる手。
 両手が包み込まれる。先輩の体温や肌の感触を心地よく感じている自分がいた。でも何だか気恥ずかしくなって、もしかしてからかわれているんじゃないかと思ってしまう。
 意地の悪い笑顔を見れば少しは気持ちも落ち着く。
 そう考えて顔を上げて、真剣にこちらを見つめている紫の目と視線がぶつかった。普段の冷たく鋭い視線とは違う、かと言ってたまに見せる優しい目とも違う、少し熱を感じる視線。
 鼓動が強く脈打つ。緊張して体中から汗が出てるような気がした。
 言うなら今じゃないか、と頭をよぎる。
 だってふたりきりだし、いい雰囲気だし、むしろ他にいつ言えるだろうか。
 言わなくちゃ。お礼。自分の嬉しかった気持ち。
 どんな結末になったとしても、元の世界に帰る前に、これだけは伝えなくちゃ。
 口を開きかけた瞬間に、扉が開く音で身を竦めた。
「ふな?オマエら何してるんだゾ?」
 手を握ったまま固まってる僕らを見て、グリムが不思議そうな顔をしていた。先輩の手が離れる。
「グリム。人の部屋に入る前はノックぐらいしなさい!」
「だ、だってここはユウの部屋だろ!」
「今はアタシの部屋でもあるの。全くもう……」
「っていうか、ユウ、顔が赤いんだゾ?」
「何でもないよ。他のみんなは部屋に戻った?」
「おう、オレ様がちゃんと見届けてやったからな!」
 グリムは胸を張る。時刻はもうすぐ二十二時。
「……もう寝ましょう。これ、アンタの分だから。さっきと同じように、毎日ケアする事。リップクリームとハンドクリームは適宜使いなさい」
「あ、ありがとうございます」
 一式をどさっと雑に渡して、先輩は部屋を出ていく。多分トイレに行くのだろう。
 椅子を戻して貰ったものを机に置き、ベッドに腰掛けるとグリムが膝に乗ってくる。
「……で、結局何してたんだ?」
「僕も先輩にスキンケアしてもらってた」
「ふな、いつもよりもちもちしてるんだゾ!」
 グリムが頬に触れて嬉しそうに笑う。肉球の弾力が心地良い。役得。
「……つーか、今日からヴィルも同じ部屋なのか……」
「グリムは自分の部屋あるんだから、落ち着かないならそっちで寝てもいいよ」
「むむむ~……」
 複雑そうな顔をしながら、膝を降りて毛布に潜り込んでいく。やっぱりこっちが良いらしい。
 先輩が来たら灯りを消して後は寝るだけ。
 ……そっか、先輩と一緒の部屋なんだ。と思ったら一気に恥ずかしさがこみ上げてきた。
 シェーンハイト先輩が『ミスター・ロングレッグス』だと判った今も、目の前にするとその事が頭からすっぽ抜けてしまう。そのおかげで余計な事は考えずに済んでいるんだけど。
 流れとは言え憧れの人と同じ部屋で寝泊まりするって、凄い状況に置かれているのではなかろうか。
「ユウ、おいユウ!」
「ふぇ!?」
「外からなんか声が聞こえるんだゾ」
「声?」
 言われて耳を澄ませば、確かに誰かの歌声のようなものが聞こえてくる。慌てて窓の外を覗くと、庭に人影が見えた。
「ヤバい、ヴィルにバレたら怒られるんだゾ!」
「止めに行こう」
 慌てて上着を手に取る。タイミング良くシェーンハイト先輩が戻ってきた。
「あら、どうしたの?」
「ちょっと、庭の様子を見てきます。ゴーストが悪戯してるみたいだから」
「……一人で大丈夫?」
「グリムもいますから。先輩は先に休んでいてください。明日の練習のためにも」
「……そう。何かあったらすぐに呼びなさいね」
「はい。おやすみなさい、先輩」
「……おやすみ」
 曖昧に微笑む先輩に頭を下げて、急いで部屋を出る。軋む階段をなるべく音を立てないように、でも急いで降りて玄関に向かった。

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