5−1:冷然女王の白亜城


 その日から週末までの時間はめまぐるしく過ぎていった。
 メインの練習自体はポムフィオーレのボールルームで行う。授業ももちろん普通に受ける。合宿が始まったらそれ以外の生活時間をほぼオンボロ寮で過ごす事になる。
 と、言葉で言えばそれだけだけど、いきなり生活人数が大幅に増えるんだから迎える側はそれどころじゃない。可能な限りの改修と同時に冷蔵庫とかキッチンとかお風呂場の掃除も必要になった。
 改修も水回りをどうとか言っていたけど、キッチンの水道でお湯が出るようになったのと、脱衣所に大きな洗面台がついたぐらいで、給湯の不安定さは相変わらずだ。
 居室は綺麗にした部屋を設備管理課のゴーストたちに点検してもらって、床を補修して家具を入れる事に耐えられる部屋がギリギリ三部屋確保できた程度。他は雨漏りが尋常じゃなかったり床の補修が間に合わなかったり何かと問題があった。
 二人部屋にしても一部屋足りないのでグリムの部屋を空けてもらうしかない。元々あまり使ってなかったから、グリムからは文句を言われなかった。いまだに寝る時は僕の布団に潜り込んでくるし。
 いずれこの建物が寮として機能するのなら、綺麗にするに越した事はない、と思う。グリムの在学中に僕が元の世界に戻れる事になったら、グリムはここにひとりぼっちになってしまうかもしれない。便利にしておけば誰かが泊まりに来れるし、いつか僕と似たような境遇の寮生だって増えるかもだし。やっぱり無駄にはならない、と思う。多分。
 お昼を過ぎてやってきた面々は、可もなく不可もなくって感じの雰囲気だった。日々の改修の甲斐あって、外観ほどは廃墟じゃなくなってるからだろう。
「ボンジュール!ユウくん、グリムくん、これから四週間、お世話になるね。よろしく頼むよ」
 ハント先輩が明るく言い放つ。グリムはやや憮然とした顔で呟いた。
「これもツナ缶のためだ、仕方ねぇんだゾ」
 僕は曖昧な笑いを浮かべておく。
「まず談話室に行って。大事な話があるから」
「あ、談話室こっちです」
 多分、シェーンハイト先輩の話って部屋割りの事だろう。実はまだ決まっていない。
 家具の確保にも手間取ったようで、搬入が今日になってしまったんだけど、却って良かったかも。みんながレッスンを終える頃にはベッドもクローゼットも新しいものが入っているはず。
 とはいえ負けん気が強くて我の強いこの学校の生徒たちなので、果たして合宿でまで相部屋を受け入れられるかは微妙で、雨漏りしてでも個室がいい!という場合を考慮して部屋割りは確定させられなかった。……大丈夫かなぁ……。
 談話室への扉を開くと、大荷物の集団がやいのやいの言いつつぞろぞろ入っていく。
「お邪魔します……」
「おぉ、なんか天井が低い屋敷だな。魔法の絨毯に乗ったらすぐ頭をぶつけちまいそうだ」
「……屋内で飛ぼうとするな」
「お邪魔しまーす」
「ユウ、今日から世話になる。これ、クローバー先輩から」
 僕たちの前で足を止めたデュースが、手に持っていた箱を差し出してきた。明らかにケーキの箱だ。
「ん?箱の中から甘くていい匂いがするんだゾ」
「先輩特製のチョコレートケーキとアップルパイだ」
「別の寮に世話になるんだから、手土産くらい持っていけってさ。お母さんかっての」
 エースが口を尖らせる。確かに高校生ぐらいの年齢とは思えない心遣いだ。……まぁその、これもある意味で縄張り意識の表れなのかもしれないけど。考えすぎかなぁ。
 とはいえ、クローバー先輩のケーキなら最高のご褒美だ。実害が無くて利益のある縄張り争いなら大歓迎。
「あとでみんなで食べようぜ」
「にゃっはー!さすがは食えないメガネ、気が利いてるんだゾ」
 和やかに浮ついた空気を、頭上から降ってきた冷たい声が叩き落とした。
「……残念だけど、その手土産は没収させてもらうわ」
「へっ!?な、なんで!?」
 戸惑う僕たちではなく、ここにいない贈り手に対してシェーンハイト先輩は呆れたため息を吐く。
「まったく、トレイは相変わらずね。『良かれ』で甘やかして相手を駄目にする。一番気をつけなきゃいけないタイプの男」
「……なんか、被害に遭った事がある感じのお言葉ですね?」
 思わず感想を口にして、うっかり顔を見てしまった。シェーンハイト先輩はいつになく甘い笑みを浮かべたかと思えば、柔らかく顔を掴んでくる。あともう少し力を入れれば間違いなく激痛が襲ってくる、絶妙な力加減だ。底知れない怒りと殺気を感じる。
「とりあえず冷蔵庫にしまってらっしゃい。処分はこっちで考えるから。……盗み食いなんかするんじゃないわよ。すぐ判るんだから」
「は、はひぃ……」
 怖すぎる。逆らったら二度とケーキが食べられない身体にされてしまいそう。
 ひとまずキッチンに向かった。従順にケーキを冷蔵庫にしまって、速やかに談話室に戻る。
 既にみんな思い思いにソファに座ってくつろいでいた。シェーンハイト先輩は立ち上がり僕に手招きする。素直に隣に行った。
「まずは部屋割りについてよ」
 まともに使えそうなのは二階の三部屋。あとグリムの部屋。みんなが個室を希望するなら雨漏りのする部屋を受け入れるしかない。
「二人部屋を三つ、グリムの部屋を個室としてシェーンハイト先輩の部屋に使って頂くのがいいかなと思ってますがいかがでしょう」
「前者は文句無い。アタシはあんたの部屋に寝るわ」
 一瞬、何を言われたか分からなかった。
「……はい?」
「ベッドの搬入はこれからでしょ。アンタの部屋にもベッド一台とクローゼットを追加するぐらいの空きはあるって聞いた。無理ではないわね?」
「いや、あの、えっと、それはそうですけど」
 嫌な感じがする。
 先輩の細くて長い指が僕の頬にゆっくりと沈んだ。楽しそうな意地の悪い笑みを浮かべて僕を見下ろしている。
「チームの中でアタシだけ個室っていうのも不平等でしょう?それに、せっかくの機会だもの。アンタの事も徹底的に磨いてあげる」
「ぼ、僕の事は放っておいていただいても」
「アンタの世話はアタシのストレス解消になるの」
 何度か頬の弾力を確かめるようにつつかれる。恐怖で何も言えない。
「アンタはアタシたちのマネージャーなの。アタシのコンディション維持のため、ストレス解消に貢献しなさい」
「…………ひゃい……」
「素直でよろしい」
 僕が動けなくなった所で、シェーンハイト先輩はメンバーに向き直る。
「そういう訳だけど。部屋割りの希望はある?」
「俺はカリムと同じ部屋にしてもらえませんか」
 バイパー先輩が挙手して述べると、シェーンハイト先輩は少し複雑そうな顔になった。
「……それだと結局、同じ寮の面々で固まる事になるけど」
「ここは鏡舎を通らない分、スカラビアよりもセキュリティが甘くなるので、念のために」
「……セキュリティって……」
「相変わらず心配性だなぁ、ジャミルは。学園内で刺客に狙われた事なんか入学以来一度もないだろ?」
 刺客、なんて物騒な単語が出たもので、シェーンハイト先輩は何か言い掛けた途中で完全に固まっている。そんな先輩の変化には気づかず、二人はいつもの調子のまま会話を続けていた。
「別にお前の心配をしてるわけじゃない。お前になにかあれば従者である俺の立場が悪くなる」
 昨日まで平和だったからって、今日も同じとは限らない。
 バイパー先輩らしい慎重な考えの言葉を吐き捨てるように言う。まだアジーム先輩は納得いかない顔だけど。ようやく我に返ったシェーンハイト先輩が咳払いして空気が戻った。
「じゃあ、あとの二部屋も同じ寮同士で分けていいわね?」
「結局お前と同じ部屋かよ……」
「仕方ないだろ。文句言うなよ」
 エーデュースは不満そうながらも納得している。まぁ環境は変わらないに越したこと無いよね。……気が重い。
「アタシとしてもルークが見張ってくれるなら都合がいいし」
 ぼそりとシェーンハイト先輩が呟いた。
 見張る、って……エペルの事か。ちらりとエペルの顔を見れば、ここに来てからずっと発言がない。今も浮かない顔をしている。
 エペルは『VDC』に出たくなかったはずだし、この合宿だって絶対に楽しみではないだろう。同じ寮の人……それも寮長の右腕みたいなハント先輩が同室では羽根も伸ばせない。なんだか可哀想になってきた。
「さて、部屋に荷物を置く前にやる事があるわ」
 そう呟いたシェーンハイト先輩の表情が一層厳しくなる。
「みんな、持ってきた荷物を開けてみせてちょうだい」
「えぇ?荷物広げるなら部屋に行ってからの方が……」
「いいから開けて」
 有無を言わさぬ迫力に誰もが口を噤む。シェーンハイト先輩はそれぞれの開いた荷物を丁寧に確認した。
「……やっぱりね」
 ため息混じりに呟いた後、まずエーデュースを睨む。
「新ジャガ一号、二号。なに?このスナック菓子と炭酸ジュースは。クッキーにキャンディ、チョコレートバーまである!」
 先輩がつまみ上げたのは購買で買えるお菓子たちだ。泊まりで遊びに来る時の定番になっているラインナップ。
「夜にお腹がすくので……」
「せっかくの合宿だし、ユウたちと食おうかなって」
 戸惑った二人の返事を待たず、シェーンハイト先輩は視線をアジーム先輩に向けた。
「カリム。アンタの荷物も、大半が食べ物の入った容器じゃない!」
「おう!ジャミルに作ってもらった揚げ饅頭とクナーファっていう小麦粉の菓子だ。お前らに食ってもらおうと思ってさ!」
 つまり、エーデュースと似たような動機の持ち込みという事だ。苛立ったような表情のまま、シェーンハイト先輩の視線はバイパー先輩の荷物に移る。
「ジャミルは食べ物を持ち込んでいないようだけど……なに?この大きな布の包みは」
「有事の際にすぐ解毒薬を調合できるように、魔法薬と薬草のセットです」
 シェーンハイト先輩が指さしたのは外から中身の見えない、厚手の布包みだ。バイパー先輩は内容をさらりと答え、開けて中身も確認させてくれる。確かに薬瓶やいかにも薬が入ってそうな紙の包みが幾つも見えた。
「魔法薬学に長けたヴィル先輩がいらっしゃるので必要ないかとも思ったのですが、念のために」
「……さっきからなんか物騒ね……まあいいわ」
 咳払いして気を取り直し、シェーンハイト先輩はエペルを見る。
「エペル。まさかお菓子なんて持ってきてないわよね?」
「えっと……は、はい。でも……自分で作った林檎のドライチップはちょっとだけ……」
 緊張した様子でエペルが差し出したのは、保存袋に入ったドライフルーツだ。……いま自分で作ったって言った?……自然派って奴かな……さすがポムフィオーレ。僕、ホットケーキミックスがないとお菓子なんか作れないもん。
「ナッツやドライフルーツは食べ過ぎなければいいわ」
 先輩の返答を聞いて、エペルは明らかにほっとした顔になった。別に怒られてばかりでもないみたい。
「最後にルーク。アンタの事は信頼しているわ」
 右腕を務める副寮長だけあって、荷物はすっきりと整理されていて食べ物の持ち込みは無い。無いけど、明らかに合宿には無縁なものが荷物の真ん中に鎮座している。
「……でも、この分厚いアルバム……無駄がないだけに意味がわからないんだけど、一体なんなの?」
「はは、それはただのライフワークの記録さ。肌身離さず持っておきたくてね」
 プライベートなものだからここで開かれるのは恥ずかしい、と冗談めかしつつ本当にちょっと恥ずかしそうに言った。気になるけど開くのも怖い。
 シェーンハイト先輩も同じ事を思ったかは分からないが、とりあえず冷静に返す。
「失礼ね。アタシも他人のプライバシーを侵す気はないわ」
 ハント先輩は恭しく頭を下げて寮長の裁定に感謝を示した。礼をさらりと受け止めて、シェーンハイト先輩は元の場所に戻る。
「さて、それじゃあ……ここにある砂糖や小麦粉を使ったお菓子、ドリンク類は全て没収よ!」
「えぇ~~~~っ!?」
「なんでだよ。別に毒なんか入ってないぜ?」
「スカラビアコンビは発想がいちいち物騒!」
 不満げな三人に対し、シェーンハイト先輩は目をつり上げる。
「強化合宿をなんだと思ってるの?アンタたちには『VDC』に向けて、心身を曇りひとつない鏡のように磨き上げてもらわなきゃならないのよ」
 確かに、お泊まり会とか部活の合宿とか、割と緩めのものを想定していたかもしれない。お菓子すら許されないとは、と驚愕する僕の前で、シェーンハイト先輩は更にハードルを上げる。
「本番までの四週間、肥満の原因になりやすい単糖類と小糖類たっぷりのスイーツやドリンク、そして肌荒れの原因になる脂質や香辛料を多量に含んだ食事は一切禁止!」
 非難を含んだ驚愕の悲鳴が三人から上がる。
 ケーキやスイーツが山と出てくるお茶会が恒例行事のハーツラビュルと、香辛料がっつり油ばっちりのメニューが多いスカラビアだもんな。縁遠いなんてレベルじゃないだろう。
「心配しなくても、栄養豊富かつ高タンパク低カロリーの食事メニューを考えてあるわ。だらしないボディラインを徹底的に引き締めてもらうわよ」
「はぁ?オレら育ち盛りなんですけど?」
「あら、アタシは深夜にお菓子をつまみ食いしなくてもここまで身長が伸びたわ」
 反発するエースを見下ろしながらシェーンハイト先輩は冷ややかに言い放つ。説得力が段違いだ。
 ……でも野菜嫌いのキングスカラー先輩も、まともな食事してなさそうなレベルの偏食っぽいシュラウド先輩も縦に大きいんだよな、と頭の隅をよぎった瞬間に頭を掴まれた。じんわりと力が入りミシッと骨が軋んだ気がする。
「育ち盛りにとって大切なのは栄養素を過不足無く摂り、しっかりと睡眠をとる事であって、食べたいだけお菓子を食べて、あちこちニキビを作る事じゃない」
 覚えておきなさい、とエースに言いつつシェーンハイト先輩の殺気はこちらにも向かっていた。余計な事を言いません、よく理解できました、という気持ちを小さな頷きに込める。やっと手が離れた。
 シェーンハイト先輩は自分の荷物から取り出した紙袋に没収したお菓子や料理の容器を詰め込み、僕に渡す。
「キッチンに鍵付きの戸棚を置いてあるから、そこに入れてきて。鍵は必ずアタシに返す事」
「い、いつの間にそんなものを……」
「今さっきよ。使う必要がなければただの食料庫になるはずだったんだけどね」
 困ったような溜息を吐きながら、シェーンハイト先輩は小さな鍵を僕に手渡した。机の引き出しの鍵とか、そういう雰囲気のシンプルで小さな鍵。一見すると何の変哲もない。
 すかさずグリムが僕の背中に登ってきてシェーンハイト先輩を覗きこむ。
「なあなあ、オレ様たちは選抜メンバーじゃねぇんだから食ってもいいんだろ?」
「メンバーの前で食べなければ、好きにしていいわよ。食事制限中に他人の無制限の食事を見せられるのはストレスになるからやめて頂戴」
 とは答えつつ、その目は厳しい。
「合宿中の食事はアンタたちの分も同じものを用意するから。要らない時は事前に言うのよ。この寮の食料品の管理は今日からアタシがする。……没収品に限らず、盗み食いは許さないからそのつもりで」
「わ、わかったんだゾ」
「は、はい……」
 グリムと同時に返事をしていた。
 鋭い眼光におののく僕たちを見て、ハント先輩は楽しそうに笑った。
「大丈夫、心配ないさ。何もヴィルはキミたちにダイエットをさせようとしているわけじゃない。食の観点からも、より効率的に身体を引き締め美しくなってもらおうというだけさ」
 それをダイエットと言うのでは?と思ったけど彼らの中では別物のようなのでツッコミは入れないでおいた。
 面白くなさそうな様子のエースとは対照的に、デュースは混乱しつつも感心した様子で先輩たちを見ている。
「さ、さすが。テッペン目指してる人は覚悟が違うな……」
 そんな呟きを、シェーンハイト先輩は鼻で笑った。
「この程度で『覚悟』ですって?これはただの『基本』よ」
 本当にそうとしか思ってないのが嫌でも伝わってくる。強がりでもなんでもない。デュースはますます尊敬の眼差しをシェーンハイト先輩に向けていた。
「じゃあさっさと自分の部屋に荷物を置いてきて。移動したらすぐにレッスンを始めるわよ」
 広げた荷物を簡単にまとめて、各々が割り当てられた部屋に向かっていく。グリムはエーデュースを冷やかしに行った。僕も紙袋を抱えてキッチンに向かう。
 言われた通り、キッチンには食器棚の並びに見覚えのない戸棚が一つ増えていた。人ひとり隠れられそうな大きさで、上下で二つに分かれていてそれぞれの扉に鍵穴がついてる。……念のためにしては大きいんだよなぁ。
 扉を開くと中にはまだ何も入っていなかった。棚板を少し動かして、開けたらすぐ見える位置に紙袋を並べておく。冬場のキッチンは火を使っててもあまり気温が上がらないし、ケーキほど温度管理に気を使うものも無いから大丈夫だろう。
 鍵を閉めてから、他の扉も同じ鍵なのか一応確認した。鍵の複製防止を進言するべきか悩む所だ。あのシェーンハイト先輩の殺気を目にして、盗み食いを働こうなどと思える奴はそうそういるまいと思うものの、でもこの学校の生徒だし。
 悩みつつもキッチンを出る。みんな先にポムフィオーレ寮に向かったのだろうか。短い時間の間にすっかり人の気配は無くなっていた。念のため談話室を覗きこむ。
「アタシの気持ちをお金で買おうとしないで」
 思わず固まってしまう。強い気持ちの籠もった声だった。
 談話室の窓の方を向いているシェーンハイト先輩が、スマホを耳に当てているのが見える。間違いなく、誰かと電話しているのだ。
「どれだけ積まれたって出たくないものには出ない。アタシはただ……舞台の上に最後まで立っていたいだけ」
 盗み聞きはよくない、と踵を返そうとして思わず止まってしまう。先輩には珍しい、弱気な声に思えたからだ。
「……今は『VDC』に全力を尽くしたいの。今回のオファーは断っておいて」
 電話の向こうでは、誰かが必死に何かを訴えているのだろう。先輩の肩が震えているように見えた。
「しつこい!もう『VDC』が終わるまで、かけてこないで!」
 叫ぶように言うと、先輩はスマホを耳から離した。苛立った様子でこちらを振り返り、談話室の入り口に立ったままの僕に気づく。
「ごめんなさい今すぐ忘れます。なんなら殴ってください」
 反射的に頭を下げたが、聞こえたのは長い溜息と、荷物を抱える音だけだった。足音が近づいてくる。
「顔を上げなさい」
 おそるおそる顔を上げる。先輩は困ったような顔をしていた。しばらく僕の顔を見つめ、また溜息をひとつ吐く。
「ぴゃっ!?」
 そしてデコピン一発。痛い。
「素直に謝ったからそれで許してあげるわ」
「あ、ありがとうございます……」
「あと、鍵」
「あ、はい」
 持っていた鍵を手渡す。
「部屋まで案内しなさい。勝手に触られたくないでしょ」
「はーい……」
 大人しく従っておく。
 家具が増えるのならその分作業する場所がいるだろうし、荷物は僕が使ってる机に置いてもらった。貰った皿を机に置いてる事を後から思い出したけど、先輩は特に何も言わず気にした様子も無い。そりゃそうだ。今まで正体を隠してきてるんだし。
 どんなきっかけで言い出せば良いのだろう。
「……ねぇ」
「は、はい!?」
「アタシってそんなに、意地が悪そうに見える?」
 すぐに質問の意図が飲み込めなかった。先輩の表情は見えない。でも、声の調子はさっきと同じで、いつになく弱気な雰囲気だった。
「……何でもないわ。忘れて」
「先輩はとても綺麗だから、よく知らない人には冷たく見えてしまうのかもしれません」
 声が重なった。振り返った先輩は、不思議そうな顔で僕を見る。
「先輩のは研ぎ澄まされた、鋭い『綺麗』だから。本当の事を言うだけでも冷たく聞こえてしまう。……損をしていると言えば、そうかもしれないです」
「……そう」
「でも、悪い事じゃないと思います」
「……どうしてそう思うの?」
「僕は今の先輩がかっこいいと思うので」
 シェーンハイト先輩が目を丸くする。
「僕もそれなりに外見でいろいろ言われてきたので、なんていうか、先輩みたいに寄せ付けないぐらいの雰囲気になれたらよかったのかな、って思う事もあるんです」
「今からでも目指せばいいじゃない」
「あー……し、身長と顔立ちに無理があるかと」
「顔立ちはともかく、身長はこれから伸びてもおかしくないでしょう?一年生なんだから」
「それがー……あの……」
「何。ハッキリ答えなさいよ」
「僕、十八歳なんです。多分、一応」
「はぁ!!??」
 今度こそ心底から驚いた、という顔をされた。素早く詰め寄られたかと思うと、メガネを外され顔を両手で掴まれる。綺麗な顔が凄いどアップで目のやり場に困った。
 数秒見つめた後、先輩は手を離してメガネを返してくれた。
「……ごめんなさい、取り乱したわ。リリアっていう例があるのに」
「あ、いえ」
「……そもそも、多分って何なの?自分の年齢でしょ?」
「えーっと……それが……僕の地元とここで、暦にズレがあるみたいで、なんて答えたらいいのか分からなくて」
「そう……なの」
「あ、ほら。早く練習行きましょう。みんな待ってますよ」
「……ええ、勿論」
 部屋の扉を開けて促す。ずいぶん話し込んでしまった。みんな待ってるだろう。
「……さっきの電話なんだけど」
 階段を下りながら、シェーンハイト先輩が呟くように切り出す。
「マネージャーからだったの。『レジェンダリー・ソード』の新作の出演依頼が来たって」
「映画ですか?」
「そう」
 マジカメで昔の予告編だけ見た気がする。元の世界で言う所の、世界的な映画スタジオの超大作って感じの作品だ。本編は違法アップロードしかなさそうだったし、さすがに学校から借りてるスマホで動画サービスに課金するのは気が引けたので見られなかったけど。
「主人公のライバルで、敵国の王子。冷血漢だけど作中一番の美形、ですって。どう思う?」
「……めちゃくちゃ外見重視のキャスティングですね……いや美形の若い男性キャラなら先輩の顔面の説得力を無視できない気持ちは解りますけど」
「そりゃあ、映画は外見のイメージも大事よ。演じきれる自信もあるわ。でも、何にしてもいつだって、アタシは悪役ばっかりなの」
 寮の鍵を閉める僕の横で、先輩は口を尖らせる。普段が大人びているから、とても年齢相応の態度に見えた。
「悪役はいつもエンディングの前に倒されてしまう。……最後まで舞台に立っている事はできない」
 とても悔しそうで、悲しそうな声だった。表情はあまり見ないようにする。
「アタシは……ただ本当に、最後まで舞台に立っていたいだけなのに」
 心からの願いを語る言葉が、ちくりと胸を刺す。
 今や現実味のない、でも確かに存在する記憶の中の『悪役』の姿が脳裏を過ぎった。
 彼女たちだってきっと、最初から望んで悪になったわけではなかっただろうに。
 そんな同情的な言葉を脳内から必死で払う。あの人たちとフィクションの悪役を同列に並べるべきじゃない。
「でも、見た人の心に強く印象を残すのもまた、悪役……のような気はします」
 隣を歩く先輩の視線を感じる。なるべく気にしないようにした。
「彼らが人の道を外れてでも貫きたい思いを、信念を、表現できる人ってきっと限られているんです。そうやって生み出された『悪役』の姿は、人の心に深く突き刺さって抜ける事がない」
 だからこそ人は悪に魅せられていく。
 時に彼らを追いかけて人の道を外れるほどに。
「正義のヒーローなんて、本当は誰でもいいんですよ。たまたまそこにいただけでもなれてしまうんだから」
「…………ユウ?」
 シェーンハイト先輩の戸惑う声を無視して鏡をくぐり抜ける。涼やかで爽やかでどこか甘い花の香りに迎えられた。すぐに追いかけてきた先輩を振り返る。
「でも、先輩の正義のヒーローは見てみたいですね。かっこよさそう」
「……何を言い出すかと思えば」
「ほら、外見とのギャップは鉄板じゃないですか。先輩の美貌で熱血キャラとかでも人気出るんじゃないですか!?」
「オファーが来ない事にはどうしようもないけどね」
「ドラマでも映画でも映像作品の配役って世間のイメージに引っ張られがちですもんねー」
「二人とも、楽しそうだね!」
 驚いて二人同時に振り返る。鏡のある建物の影から、ハント先輩が姿を現した。全然気づかなかった。全く気配がなかった。多分、シェーンハイト先輩も気づいていなかったのだろう。凄く驚いた顔してる。
「遅いから迎えに行く所だったんだ。トラブルでもあったのかと思ったよ」
「あ、ああ。ごめんなさい。打ち合わせのついでに、ちょっと愚痴に付き合ってもらってたの」
「ご心配をおかけしました」
「気にしないでくれたまえ。……他のメンバーは既に着替えてウォーミングアップに入っているよ。二人もボールルームに」
「勿論、すぐに向かうわ。ありがとう、ルーク」
 ハント先輩は僕たちを見ていつにも増してニコニコ笑っている。
「練習は多少遅れても、二人が仲良くなったのならそれはそれで喜ばしい事さ」
 そう言って、唖然とする僕たちを追い越してさっさと建物の方に歩いていってしまった。思わずシェーンハイト先輩と顔を見合わせる。
「も、もしかしてハント先輩怒ってます?」
「心配はしてたかもしれないけど、怒ってはないと思うわ。…………多分」
 ビビってる僕に引きずられたのか、シェーンハイト先輩もちょっと怯えた顔になっている。そんな自分に気づいたのか、少し驚いた顔になって、それから無邪気な笑顔に変わった。さっきまでの悲しそうな雰囲気はもう無い。
「ま、遅刻じゃ怒られても仕方ないものね。急ぐわよ、ユウ」
「はい!」
 元気よく返事をして、早歩きの先輩の後ろを小走りで追いかけた。

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