3:探究者の海底洞窟
まだまだ事件は終わらない。いやいい加減終わってくれ。
「今日はビジネスの話をお持ちしました」
アーシェングロット先輩がキラキラした笑顔で、オンボロ寮の玄関に立っていた。
「間に合ってます」
「まぁそう仰らず」
閉めようとしたら扉の間に足を入れられた。完全にそっちの業界の人の手口じゃん。
「……モストロ・ラウンジはいいんですか?」
「今日はジェイドに任せてきました。いつもの事ですよ」
しれっと言い放つ。寒い玄関で長居されるのも嫌だし、諦めて談話室に案内した。
「今日はグリムさんはいらっしゃらないんですか?」
「エースたちと遊んでます。クロッケーの練習したいとかなんとか」
「そうですか」
お茶出すのも嫌なので、とりあえずソファに座らせて話を進める。
「まず、こちらの図面をごらんください」
差し出されたのは、オンボロ寮の見取り図だ。色分けした線で色々書かれていて、浮かんでくる文字を読む限り、多分ガスの配管や電気の配線の詳細が書かれている。
「はぁ」
「現在のオンボロ寮の設備は、建設当時の技術力の限界や経年劣化によって現代では想像を絶するレベルの利便性です」
「まぁ、そうでしょうね」
「そこで」
アーシェングロット先輩が指を鳴らす。図面の線や文字が動いた。
「最新技術を駆使する事で建て替えはせず工事は最小限ながら、このように配置を変更する事で利便性の向上が見込まれます」
「具体的には」
「給湯が安定します。洗い物がお湯で出来ますし、シャワーも水にはなりませんよ」
にこにこと愛想良く売り込んでくるが、先の事があるので勿論乗るわけにはいかない。
「工事費用は?」
「勿論タダ!……とはいきませんが。条件を飲んでいただけるならばお安くします」
眼鏡がキラリと光る。この人も懲りないなぁ。
「ちなみに一応訊きますけど、条件とは?」
「オンボロ寮の一部を、モストロ・ラウンジ二号店にテナントとして貸して頂きたいのです!」
「責任者不在のため返答いたしかねます」
「が、学園長の許可は取ってあります!!寮生の許可が取れれば良いと!!」
「いや、うちはそういうのの決定権あるのグリムなんで」
くぅ、とアーシェングロット先輩は悔しそうに俯く。長い溜息を吐いてから顔を上げた。
「……仕方ありません。この話については日を改めましょう」
「この話?」
「はい。続きまして、こちらオクタヴィネル寮としてご迷惑をかけたお詫びです」
差し出されたのはやたら大きくて立派な紙袋だった。覗きこむとシャンプーや化粧品らしき瓶が複数と、カタログらしき紙束。
「…………なんですか、これ」
「とある筋からの依頼で化粧品の開発などもしておりまして。そのノウハウで作ったシャンプーとリンス、ボディソープとスキンケア用品一式です」
「この、カタログみたいなのは」
「この寮の現在の電気設備状況で使えて且つ有用であろう電化製品のリストです。リストの中から一つ選びましたら、一緒に入っているポストカードに必要事項を記入して学内郵便で発送してください。着後一週間以内にご希望の製品をこちらからお送りします」
「費用は?」
「こちらは無料です。お詫びですから。期限は設けてませんので、好きなタイミングでご利用ください」
一応ざっと確認したけど『※別途手数料がかかります』とかの表示は見あたらない。
「……一応、受け取っておきます」
「ありがとうございます。無料ですから、気軽に使ってください」
先輩はにこやかに微笑んでいる。裏がないかと勘ぐってしまうのもなかなか悲しい所だ。いや悲しくないわ。そんだけ酷い目に遭わされてんだよこっちは。
「……他にご用件は?」
「……率直にお聞きしたい。あなたの叶えたい願いは、何ですか?」
何の他意も無い雑談だったとしても、彼の喋り口調だとドラマで出てくる怪しいセミナー感が凄い。僕の訝しげな表情から感じ取ったのか、アーシェングロット先輩は咳払いする。
「いえ、契約にいらした時もイソギンチャクの話しかしませんでしたから。あなた個人の、将来の展望など聞いてみたいと思って」
「将来、ですか」
嫌な感覚がよぎる。思い出したくない何かを思い出そうとしていた。
「元の世界に帰りたいです」
それを遮るように言葉が口からこぼれでる。今この世界で感じている全ての不便を解消する、たった一つの方法。
アーシェングロット先輩は、表情を険しくした。
「学園長ですら調査を要する、異世界への渡り方、ですか」
「叶えたい願いなんて、それしか思い浮かびません」
自分がどんな表情をしているのか判らない。哀れっぽく同情を引くような言葉さえ出ない。
帰りたい、帰るべきだと必死で言い聞かせながら、本当は帰る理由なんて無いんじゃないかと、思ってしまう気持ちを必死で振り払う。
「……なるほど、そうでしたか」
先輩の声で我に返る。
「正直に言って、僕には皆目検討がつきません。僕の今持っている技術では解決できない問題です」
「……そうですよね、すいません」
「ですが」
アーシェングロット先輩は指で眼鏡を直す。レンズが光を反射した。
「出来ないからと言って、何もしない、というのも業腹です」
「そう……なんですか?」
「ええ。ですので、僕なりにこの事を調べておきましょう。学園長でさえ手こずるのに、どれほどの事ができるかはわかりませんが」
「え、いいんですか!?」
「成果が必ず出るとは限りませんが。それに条件があります」
「条件?」
「あなたが僕の目の届く所に……この学園に残る事です」
そうでないと成果が報告できないでしょう?と先輩は微笑んだ。それはそうだけど。
「もしかして学園長に追い出されそうになった時も、すぐ僕にご連絡ください。黙っていただく方法はいくらでもありますから」
「大丈夫なんですかソレ!?」
「大丈夫ですよ、あなたは何も心配しなくていい」
慈悲の精神を持つ寮の寮長らしい顔で、アーシェングロット先輩は微笑む。
「……もしグリムさんがひとりでも立派な生徒になったとしても、あなたはこの学校にいて良いんですよ」
少しだけ、胸が締め付けられるような気持ちがあった。でもそれ以上に、安堵でいろんなものが緩みそうで思わず、唇を噛みしめる。
……早く帰りたい、はずなのになぁ。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。よろしくお願いします、先輩」
アーシェングロット先輩は頼もしい笑顔で頷いてくれた。