3:探究者の海底洞窟




 無事に学校まで戻ってくると、思わず安堵の溜息が漏れた。空は少し夕暮れに近づいているけど、日没にはまだ時間がある。
「よし、とっととオクタヴィネル寮に行こうぜ」
「待て」
 ジャックがスマホを手に難しい顔をしていた。
「どうしたの?」
「レオナ先輩から連絡?」
「いや。……どうもアズールが暴れてるらしい」
「えぇっ!?」
「緊急連絡網で咄嗟に送ったみたいで詳細は書かれてないが、……ヤバいかもしれねえ」
「……じゃあどうすんの?行くのやめる?」
 エースが訊くと、顔を上げたジャックが目を吊り上げる。
「先輩が戦ってるのに俺が行かないワケにはいかねえだろ!」
「出たよ熱血くん……」
「うーん、でも僕も、キングスカラー先輩にお願いしちゃった責任があるし……」
 このタイミングでアズールが暴れるって、理由それしかないもん。
 僕の言葉を聞いて、グリムが呆れた顔で腕を組む。
「仕方ねえな。ちゃちゃっとボコって黙らせてくればいいんだゾ」
「そだね。二人は寮に戻っても大丈夫だよ」
「いや、それなら僕も行こう。手は多い方がいいだろ」
「そーね。便乗して一発ぶん殴れればラッキーだし」
 エースがあくどい笑みを浮かべる。デュースも確かに、と悪い笑顔になったが、ジャックに睨まれて咳払いでごまかした。
 ぞろぞろと連れだって鏡舎に向かう。ジャックが言うには緊迫した空気のようだけど、校舎付近にはそんな空気は少しも無かった。
 もしかしたらもう沈静化してるのかもしれない。何せキングスカラー先輩だし。
 特に警戒もせず鏡をくぐる。その先はかつて見た様子とは様変わりしていた。
 オクタヴィネル寮を囲む美しい青い海はどす黒く濁り、空気もどこか重苦しく感じる。何より、鏡舎からオクタヴィネル寮の建物へ続く通路では、戦闘の真っ最中だった。
 上半身は人型、下半身はタコの化け物。インク瓶の頭部を持つブロットの化身。その巨大な化け物のすぐ傍に、同じく上半身は人間で下半身はタコの人物がいた。こちらは普通の人間サイズ。
 ずるりと蠢く巨大な触手を見た瞬間、頭が真っ白になった。悲鳴すら上げられず目を逸らせないのに、恐怖で体中の感覚が遠のいていく。
「な、これって……」
「アズールがオーバーブロットしたのか!?」
 エースとデュースが声を上げる。
 アズールらしきタコの人魚と、キングスカラー先輩がほぼ同時にこちらを振り向いた。
「ユウ!!逃げろ!!!!」
 キングスカラー先輩が聞いた事のない声で叫ぶ。いち早く反応したジャックが僕を逃がそうと動いたが、化け物の足がそれより先に僕の身体に巻き付いた。ジャックの手が遠ざかっていく。
「しまった!!」
「ユウ!!」
「アズール!!ユウを離せ~!!」
 グリムが駆け寄ってくる。異形が槍を振るうと、黒く濁った水が押し寄せてグリムを流してしまった。
 声が出ない。気持ち悪い。思い出したくないものが吐き気と一緒に押し寄せてくる。
 化け物は僕をアズールに差し出した。アズールは笑みを深め、自分の触手で僕の手足を拘束する。全身に寒気が走った。もうとっくに手足の感覚はない。今にも気絶しそうなのに、何故か目の前の光景から目が離せない。
『捕まえた、捕まえた!!僕の契約書を全部砂にしやがって!ハハ、アハハハハ!!』
 素晴らしい歌を披露していた美声は濁り、溺れているような不明瞭な声に変わっていた。
 触手が首から顎を撫でるように這う。絞めるようにして顔を上げさせられた。
『お前は何から奪ってやろうか。演技力?身体能力?……ああ、そうだ……』
 人間の形の手が、僕の眼鏡を外して投げ捨てる。
『この可愛い顔もめちゃくちゃにしてやらないと。男に媚び売って従わせるような真似、もう二度と出来ないように!!』
 先輩たちの攻撃の手が明らかに鈍っている。完全に人質になってしまった。抜け出そうにも全く身体に力が入らない。
「小エビちゃん顔真っ青なんだけど!!アレやばくない!?」
「レオナさん待って、駄目ッス!いま撃ったら絶対ユウくんに当たる!!」
「そんなヘマするわけねえだろうが!!!!」
「レオナさんがヘマしなくても、あの距離じゃ絶対に盾にされる!!冷静になってくださいよ!!」
 無理のある体勢で固定されてるのもあって息が苦しくて涙が滲む。それを目敏く見つけてアズールが更に笑った。
『さっきから黙り込んでどうしたんですかぁ?ああ、監督生さんは人魚が怖いんでしたっけ?』
 仇をいたぶるのが余程楽しいのだろう。アズールの笑顔は実に生き生きしている。
『ほら、可愛い悲鳴を皆さんに聴かせて差し上げてはどうです?オトモダチに哀れっぽく助けを求めてやれよ、ホラ!』
 どんな意図があったかは知れないが、異形の触手も含め、拘束が全て緩む。アズールより少し高い位置に括られていた状態だったので、力の入らない身体はそのままアズールにのしかかった。
『ふえ?』
 意識が朦朧とするまま、反射的にバランスを取ろうとして、触れたものに抱きつく。目を閉じて、それが誰かという認識も微妙に曖昧なままに。
 息を吸っても吐いても気持ち悪いし、ただ手に触れた感触がぬるぬるした触手じゃない事を頼りにして、しっかりとしがみついた。ちょうど頭を抱えるような形になると思う。自分を落ち着けるために手に触れる毛並みをろくに動かない手で一心不乱に撫でていた。下半身は誰かの腕とそうじゃない何かに支えられているが、意識がぼやけてそれどころじゃない。
『あの、えっと……』
 胸の辺りがくすぐったい。吐き気を堪えるのに必死で何も答えられない。少しでも力を抜くと後ろにひっくり返りそうだし、そうしたら何もかも口から全部出そうだし、目を開けたら嫌なものが目に入って今度こそ失神しそうだし、ただ耐えるしか出来なかった。
「デカブツまで呆気に取られてね?」
「……えーっと……なんかよくわかんないけどチャンス!ッス!!」
 困惑した空気が一気に緊迫する。
「いいカンジなんだから水差すんじゃねえよ!『巻き付く尾』ぉ!!」
 水が勢いよく傍を流れていく気配がする。
「焼きタコにしてやるんだゾ!」
「グリムくんに合わせるッスよ!」
「了解です!」
 瞬間的にすっごい熱いものが近くを通った気がする。自分を抱きしめている腕に力がこもった。人間の腕じゃない何かも蠢いた気がしたが、必死に意識を逸らす。
「大釜が弾かれた!」
「あの槍、液体っぽいのに強すぎねえ!?」
「怯むな、あともう一息だ!!」
 何かが迫ってくる気配がしたけど、強い風がそれを弾いた……と思う。見えないので。
「……くたばれ、タコ野郎!」
 乾いた風が傍を流れる。近くにあった威圧感が、その直後に消えた。後ろの方で、何かが水に飛び込んだような派手な音が聞こえる。何かが苦しみもがいて、泡が生まれては消えていく。水に溶けるように泡を生むものは少しずつ小さくなり、それに伴って泡の音も薄れていき、ガシャン、という控えめな音を最後に無くなった。
 ほぼ同時に、自分を支えていた何かが力を失う。一緒に倒れそうになるのを、後ろに現れた別の何かが支えた。
「小エビちゃん、もう離して良いよ、アズール戻ったから」
 自分を後ろから抱えている誰かに言われて、腕から力を抜き恐る恐る目を開く。
 目の前には、ジェイドに抱えられぐったりしているアズールがいた。帽子も眼鏡も吹っ飛んでいるが、人の姿に戻っている。
 周囲の景色も元の美しい青い海に戻り、空気の重苦しさも消えていた。
「ユウ!大丈夫か!」
「…………は」
「うん?」
「吐きそう」
 僕の発言にフロイドが反射的に手を離したので、重力に従って尻餅をつく。痛みと衝撃で更にちょっと腹に来た。ヤバい。
「ちょ、落ち着け吐くな吐くな!!余計体力持っていかれるだろ!?」
 口を押さえて必死で首を横に振る。もう無理。ホント無理。
「グリム、モフられろ!中和しろ!早く!」
「しっかりするんだゾ!もうタコいないからな!!」
 グリムが抱きついて頬を寄せてくる。知っている匂いで少しだけ気持ちが落ち着いた。
「え、エチケット袋を用意した方が……袋なんて持ってない。ええと、そうだ大釜……!!」
「バカ、召喚魔法は消える時にゲロまで持ってってくれねえんだよ」
 少しずつ呼吸を落ち着けて、吐き気を抑え込んでいく。
 グリムを撫でるのは久しぶりの気がする。イソギンチャクが頭に生えてから、どうしても触ってしまいそうで堪えていた。柔らかくて暖かい。
「落ち着いたか、ユウ」
「……うん、ありがと、グリム」
 にひっ、とグリムは笑う。
「はぁ~、焦った。どうにかなってよかったッスね」
「全くだ。肝心な時に人質に取られる奴もいるしな」
「うっ……す、すみません」
「抜け出すどころか捕まってる相手を優しく抱きしめてやるなんて、プリンセスは本当にお優しい事で」
 自分的にはそれどころじゃなかったとはいえ、足を引っ張ったのは事実なので返す言葉も無い。
 しかし、それを聞いたグリムがむっとした顔でキングスカラー先輩を睨んだ。
「ユウはぬるぬるにょろにょろした生き物が大の苦手なんだ!オレ様たちに生えてたちっせえイソギンチャクでも触れないのに、あんなでっかいタコに巻き付かれて平気なワケないんだゾ!!!!」
 グリムは僕を庇うように立って、大きな声で叫ぶ。その場の全員が唖然としている中、グリムは毛を逆立ててキングスカラー先輩を睨んでいた。
 人の弱点を大声で言うのはどうかと思ったが、それはともかく、グリムが自分を庇った事に妙に驚いている。これまでも戦闘で助けてくれた事はあったけど、こんな形で守られるなんて思ってもみなかった。
「……そっか、だから避けられなかったんスね。そりゃ特大サイズのタコの化け物なんて至近距離で見ちゃったらフリーズするか」
「完全に棒立ちだったもんね、小エビちゃん」
 フロイドの言葉に頷いていたジェイドが、はたと気づいた顔になる。
「……もしや、元の姿に戻った僕たちを見て青ざめていたのは、人魚が怖いからではなくて『ぬるぬるにょろにょろ』だったから、ですか?」
 何度か小さく頷く。ジェイドは納得した顔になった。
「それなら、人間の姿の僕たちは何も怖くない、という事ですね」
「どうしてそんなんなっちゃったの?」
「ノーコメントでお願いします」
 言いたくない。説明できない。何より思い出したくない。
 頭上からあからさまな溜息が降ってくる。キングスカラー先輩がしゃがんで視線を合わせてきた。威嚇音を出してるグリムを掴んでジャックに投げ渡す。
「人魚姿のアズールと戦う可能性はお前だって予想ついてただろ。もっと早く言え」
 言葉は突き放す調子だが、僕の頭を撫でる手は宥めるようでなんだかんだ優しい。心配してくれた、という事だろうか。
「自分の時はバチボコに殴られたのに、アズールくんは抱きしめられただけですもんね。羨ましいッスよねそりゃ」
 キングスカラー先輩の動きが止まる。ブッチ先輩はニヤリと笑った。
「ご褒美はちゃんと主張しないと貰い損ねちゃいますよ?」
「……どうやら今すぐ干物になりたいらしいな、ラギー?」
「シシシッ!ご冗談!もうひび割れとかこりごりッス」
 先輩たちのささやかな命がけの追いかけっこを、みんなが呆れた顔で見守っている。ジャックはグリムを抱いたままこちらに歩いてきた。グリムを僕に渡してくる。
「あとはアズールが起きたら、写真を叩きつけるだけなんだが……立てるか?」
「もうしばらく無理」
「そうか」

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