3:探究者の海底洞窟
………………
レオナは騒がしい店内を何食わぬ顔で通り過ぎていった。店の外には空席を待つ行列があり、オクタヴィネルの寮生が混乱した状況をわざわざ説明している。アズールの指示がろくに届いていないであろう事は想像に難くない。
しかしそんな事は獅子には何も関係が無い。
そのまま寮内を平然と歩いて屋外へと向かう。鏡へと向かう道の途中で、大きな耳の少年が後ろについた。建物から十分離れた所で、特徴的な笑い声をあげる。
「うまく持ち出せましたね」
立ち止まり振り返れば、少年は黄金に輝く紙の束を抱えていた。
「お前の手癖の悪さには恐れ入るな」
「絶対盗られたくないなら、ポケットにもしっかり鍵かけとかなきゃ」
ラギーは悪びれた様子もなく言い放つ。レオナは肯定するように静かに微笑んだ。
盗みなどという悪事は、素早く行うに限る。
少々強引な手であったが、サバナクローの寮生たちは実に協力的だった。自分たちの寮の安全な夜を守る事だけが動機ではないだろう。余計な気を使いやがって、と思いつつ、寮生の健気さを憎めない気持ちもレオナにはあった。
「にしても、この契約書の量すごいッスね。五、六百枚はありそう」
「この学園に入るずっと前から悪徳契約を繰り返してコツコツ溜め込んでたんだろうぜ」
目映いばかりの紙束をラギーが興味深そうにめくっている。レオナが手を差し出すと、そのまま手渡した。
「これで契約書はVIPルームの外に持ち出せた」
契約書が無敵である条件は、既に解除されたと見て良い。何せ『アズール以外が触ると電流が流れる』は既に嘘だと暴かれている。それ以外の情報も紙のように信憑性は薄い。
レオナは契約書を見つめる。一番新しい契約書。馴染みのない言語で書かれた彼の名前。
乾いた憎しみが胸に湧く。それを吐き出すように言葉を紡ぐ。
俺こそが飢え、俺こそが乾き。お前から明日を奪うもの。
その気になれば最小限の詠唱で使えるユニーク魔法の呪文を、儀式のように丁寧に口にする。負担を軽減する意図もあるが、レオナにとっては『本気』の現れでもあった。
「待ちなさい!!」
「……おっと、もうおでましか」
詠唱を中断する。
普段は澄ました顔の支配人が、赤くなったり青くなったりしながらレオナの方に走ってくる。わかりやすく契約書を掲げてやると、アズールの足は止まった。
「それ以上こっちに近付くなよ。契約書がどうなっても知らないぜ」
「か、返してください……それを返してください!」
「おいおい、少しは取り繕えよ。おすましごっこはもうやめたのか?」
レオナには面白くてたまらない光景だった。慇懃無礼で腹の底では誰も彼もを見下している面倒な男が、弱者の顔で懇願してくる。
「その慌てぶりを見るに、ユウの予想は当たってたらしいな」
「なん……だって……!?」
アズールの顔が怒りと悔しさに歪んだ。得意のハッタリを、頭の良くないユウに見抜かれた事がプライドを刺激しているのだろう。
「何故だ、何故アイツは僕の邪魔ばかりしてくる!?イソギンチャクを解放したって、アイツには何の得もないだろう!?」
「それについては俺も同意だな。よっぽどイソギンチャクが嫌いなんだろ」
ここ数日、グリムの世話を焼く時、イソギンチャクが目に入る度に顔をしかめていたように思う。自分の頭に生やされるなんてイヤだ、とも言っていた。共感は出来ないが、理解はしている。
それに、アズールとの契約に至ったのはもっと大きな危機感が背景にあったからだ。その事に思い至らない様子なのが、やや癪に障る。
「……そこでだ。なあアズール。俺と取引しようぜ」
「……は?」
「この契約書をお前に返したら、お前は俺に何を差し出す?」
とびっきりの笑顔で、優しい声で、目の前に餌をぶら下げた。
アズールは姿勢を正し、まっすぐにこちらを見つめ懇願する。
「な、なんでもします。テストの対策ノートでも卒業論文の代筆でも、出席日数の水増しでも、なんでもあなたの願いを叶えます!」
きっと嘘偽りの無い言葉だ。契約書を返せば、アズールはこちらの求めるまま奴隷のように働き、自分は悠々自適な学園生活が送れるだろう。
「なるほど、実に魅力的な申し出だ」
アズールの表情が明るくなる。腹の奥の苛立ちが更に強まる。
「なら……」
「だが……悪いが、その程度じゃこの契約書は返してやれそうにねぇなァ」
「……えっ?」
自分の言葉ひとつで、目の前の男の表情はコロコロ変わる。それが面白いようでいて、実に不愉快だ。
レオナは如何にも物憂げな溜息を吐く。
「俺はな、今、ユウに脅されてんだよ」
アズールは理解できない、という顔でこちらを見つめている。じわじわと、絶望が迫っている事を予感している顔だった。
「契約書の破棄に協力してくれなきゃ、眠れないように毎晩毛玉と一緒に大騒ぎしてやるってなァ」
「は……?」
「お前にオンボロ寮を取られちまったら、俺が寝不足になっちまう。俺と寮生どもの平穏の為にも、契約書は破棄させてもらうぜ」
「まさか、そんな事で……!?」
「そんな事、か」
確かに『そんな事』だろう。仮に脅迫が現実になっても、対策出来ないつもりはない。教師が使える程度の消音魔法ならレオナだって修得はしている。どうとでも出来る。
好意を抱いたと言っても、そのために他の寮との揉め事など喜んで起こしたくはない。寮生の願いもあって受け入れたが、最初はそこまで踏み入るつもりはなかった。
だが、見てしまった。
あれだけ気丈に戦い、人の好意すら厚かましく利用する人間が、帰る場所を失う恐怖を抱えて涙する姿を見てしまった。
自分に向けられる欲を疎むあまり、無意識でないと温もりに甘える事すら出来ないのだと知ってしまった。
理路整然と自分の行動を説明する事は不可能に近い。弱者に対する庇護欲か恋愛感情か、あまり区別はついていない。
それでも、もう結論は出ている。
レオナの口元に笑みが浮かんだ。
「悪党として、ユウに一歩負けたな。アズール」
「う、うそだ……やめろ!」
青ざめたアズールが必死で手を伸ばしてきた。それが届く前に、詠唱を完成させる。
「……さあ、平伏しろ!『王者の咆哮』!!」
「やめろおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
アズールの絶叫と同時に、契約書の紙束が端から砂に変わる。数百枚の紙が大量の黄金の塵となり、空調の起こす風に流され、オクタヴィネル寮の周囲の海に溶けていった。
「あ、あああ……あああああ……!!僕の、僕の『黄金の契約書』が……っ!」
アズールが嘆きながら地面に頽れる。一連の様子を見ていたラギーが肩を竦めた。
「アズールくんのユニーク魔法『黄金の契約書』。一度サインをした契約書は、何人たりとも傷つける事はできない」
「わざわざ何度も破れないところを見せびらかし無敵だと印象づけていたが……全てにおいて完全無欠の魔法なんかない」
状況から見て、VIPルームの中、あるいはアズールが手にしている時だけ無敵効果が付与されているのではないかとレオナは予想していた。
「俺の魔法で簡単に砂に変えられたとこを見ると、読みは当たったらしいな。契約書自体の強度は、ただの紙同然だ」
不意に、ラギーの視線に気づいてレオナはそちらを見る。
「何だ」
「正直、ここまで手伝ってやる理由がわかんなかったんスけど……よくよく考えたらそうですよね。好きな子に自分の悪巧みの証拠なんて見られたくないッスよね」
「おい」
「やっと最近マジフト大会の事件の事を水に流して接してくれてるのに、蒸し返されたらまた嫌われちゃいますもんねー」
「黙れ、ラギー」
「大丈夫ッスよ、絶対言わないんで!口止め料は帰省のお土産でも選んでもらおっかなー」
強かなハイエナの言葉に苦い物を感じるが、貢献したのは事実なので何らかの形で労う必要がある。当然の報酬を支払うだけで決して口止め料じゃない、とレオナは自分に言い聞かせた。
「………あ………あぁ……………」
どこからか小さな声が聞こえる。ラギーが首を傾げた。
「ああ、ああああ……っ!」
続いて聞こえてきたそれは明らかにアズールの声だった。うずくまった状態で、手足に少しずつ力が入っている。
「あ~~~~っ!!!!もうやだぁぁぁぁ~~~~~~~~~!!!!!!!!」
それが突然爆発した。
アズールは仰け反って絶叫したかと思うと、両腕を地面に垂らし、呆然と天を見上げている。目には涙が滲んでいた。
「消えた……コツコツ集めた魔法コレクションが!僕の万能の力がぁ……!」
アズールは喚きながら地面を殴っている。
あまりの奇行に、レオナたちには理解が及ばない。
「……なんだ?」
「き、急にキャラが……」
「ああ、もう全てがパァだ!!なんて事をしてくれたんだ!!!!アレが無くなったら、僕は……僕はまた、グズでノロマなタコに逆戻りじゃないか!」
感情のままに叫び、近くにいた二人にも憎しみをぶちまける。普段の澄ました表情は微塵もない。卑屈で攻撃的な少年がそこにいた。
「そんなのは嫌だ……いやだ、いやだ、いやだ!!!!もう昔の僕に戻るのは、嫌なんだよぉ……っ!」
頭をかきむしり髪を振り乱し悶え暴れる。今にも感情の頂点を迎えて失神してしまうのではないかと感じる危うさがあった。
「レオナさんが期待させてから落とすようなマネするからッスよ!」
ラギーはレオナを小突いてから、身を屈めてアズールに視線を合わせようとする。子どもをあやすような口調で語りかけた。
「アズールくん、ほ、ほら。ちょっと落ち着こ。ねっ!」
「うるせぇ~~~~!!!!」
それをアズールは正面から拒否した。
「お前らに僕の気持ちなんかわかるもんか!グズでノロマなタコ野郎と馬鹿にされてきた僕のことなんか……お前たちにわかるはずない!」
卑屈な拒絶を口にして、駄々っ子のように暴れていた手足が、唐突に止まる。不気味な笑みを浮かべ、焦点の合わない目でラギーを見た。
「……ふ、ふふふ。ああ、そうだ……なくなったら、また奪えばいいんだ……」
「あ、アズールくん!?」
「くれよ。なあ。お前らの自慢の能力、僕にくれよぉ!」
自分が膝をついている事も忘れたように、アズールは勢いよくラギーに手を伸ばした。ラギーは素早く身を引いて大きく距離を取る。レオナも後ろに下がった。
アズールは勢いをそのままに地面に倒れる。顔を強かに打ち付けたように見えたが、彼は気にせず起きあがった。目は爛々と輝いている。
不意に、レオナの耳に喧噪が届く。ラギーも気づいた様子で顔を上げ、その視線を追うようにアズールは後ろを振り返った。
オクタヴィネル寮から生徒が大量に出てきている。おそらく、黄金の契約書で縛られていたイソギンチャクたちが自由の身になった事に気づいて出てきたのだ。その証拠に、彼らはアズールの姿を見つけると気色ばむ。
「アズール!てめえよくもこき使ってくれやがったな!」
「ぶちのめしてやる!」
そんな声も聞こえたが、アズールは笑みを深めていた。その笑みの狂気に気づいたものは足を止めたが、そうでないものの方が圧倒的に多い。
先頭の一人が、アズールの胸倉を掴む。いかにも不良という容姿のハーツラビュル寮の生徒だ。その拳は、アズールに軽々と受け止められた。
「ぐ、ぐぁぁ……っ!?」
殴りかかった生徒の体から光が溢れたかと思うと、その光はアズールに同化して消えていく。生徒は力を失って地面に倒れ込んだ。
「なんだ!?何しやがった!!」
「ふ、ふふ、ははは」
次に殴りかかった生徒も、その隣にいた生徒も、アズールに触れると体から光が溢れ、消えると同時に倒れていく。
オクタヴィネル寮の建物から鏡舎までは一本道だ。そのひとつしかない通路には今、多くの生徒が密集している。先頭の惨状を見てアズールから逃げようとする生徒、自由になったからアズールを殴ろうと考えた生徒、それはそれとして帰ろうとしている生徒、思惑が揃わずにただ人の塊が膨らんでいく。
それを見てもアズールの笑顔は変わらない。むしろ邪悪さが増したようにさえ思えた。
「そこのお前の雷の魔法、その隣のヤツの運動能力、全部、全部僕によこせぇ!」
アズールは密集した人間の中に飛び込むようにして、手当たり次第に掴みかかる。一人数秒とかからずに、光が溢れては消え、意識を失い倒れた。
明らかにアズールは何かを吸収している。
「アズールくん、みんなから何を吸ってんスか!?」
「……能力、だろうな」
「はい?」
「アイツのユニーク魔法、契約書を介さないと他人から全ての能力を吸い取っちまうんじゃねえか?そうじゃないと状況に説明がつかねえ」
胸は動いているから、倒れた人間は死んではいない。恐らく強力な魔法をかけられた衝撃で気絶していると考えるのが妥当だろう。
「触っただけで全部の能力吸い取るって、怖すぎじゃないスか!?」
「ああ。そんな禁術クラスの魔法、反動であっという間にブロットの許容量を超えるぞ」
だからアズールは『契約書を交わす』という面倒な手続きをしていたのだ。
条件を設定し得る能力を限る事で魔法の出力を抑えていたのだろう。能力を担保としない契約や、相手を苦痛で支配する絶対服従はその副産物に過ぎない。
既にアズールの周囲には黒い液体が溢れて広がっていた。人の塊はやっと事態が全体に伝わって寮内に逃げる流れに変わっているが、多くの人間が地面に転がっている。最悪の事態は近い。
「レオナさん、どうします?」
「……寮の連中を呼べ。倒れてる奴らを回収させる」
「で、でもアイツに能力吸われたら同じ事に!」
「その間は俺がアズールを引きつける。すぐに呼べ。回収が終わったら寮の中で待機するよう命じろ」
ラギーは一瞬迷った様子だったが、頭を振ってすぐにスマホを手にした。レオナは杖を召喚し構え、寮へ逃げていく人間を追うアズールを睨む。
「アズール!貴方なにをしているんです!」
「うわ、なにこれ、どーなってんの?」
新たな登場人物の声で、アズールの歩みが止まった。鏡から来た双子が、レオナたちを無視してアズールの方へ駆け寄る。
アズールは狂気の笑みで側近たちを迎えた。倒れている生徒を踏み越えて、ゆっくりと近づいてくる。
「ジェイド、フロイド、ああ、やっと戻ってきてくれたんですね。そこのバカどものせいで、僕の契約書が全て無くなってしまったんです」
いつになく険しい双子の表情に、アズールが気づいた様子は無い。
「だから、あなたたちの力も僕にください。ねえ、僕にくださいよぉ!」
「お待ちなさい。貴方のユニーク魔法は強力すぎるゆえに契約書無しには制御できないはず。そんな事をすればどうなるか、自分が一番よくわかっているでしょう!」
ジェイドの声はいつになく真剣だ。主の事を思う従者の諫言と誰でも解る。しかしその声は届くべき者に届かない。
「だって、なくなっちゃったんですよ、全部……アハハ……アハハハッ!このままじゃ昔の僕に戻ってしまう!」
「あのさー、今のアズールって、昔のアズールよりずっとダサいんだけど」
フロイドは率直な感想を口にする。
アズールの意識が双子に向いた時点で、サバナクローの寮生が倒れた生徒の救出に出ていたので、これにはレオナとラギーも内心ヒヤリとしていた。
しかし二人の不安をよそに、アズールはこちらを向いたままだ。狂気を含んだ笑顔が、今度は幼子のような拗ねた怒り顔に変わる。
「あ~~~~~、そうですか。どうせ僕は一人じゃ何も出来ない、グズでノロマなタコ野郎ですよ」
再び卑屈な怒りを口にする。袖口から、襟元から、黒い液体が溢れ出しては衣服を汚し、地面に落ちた。
「なんだよアレ?アズールの身体から黒いドロドロが出てきてる。墨……じゃねーよな?」
「ユニーク魔法の使い過ぎです。ブロットが蓄積許容量を超えている!」
黒い水溜まりが広がっていく。空気層を越えて海にまで滲み、オクタヴィネルを囲む美しい海が黒く汚れていく。
最後の一人が回収された事を確認し、レオナは杖を構えなおした。
「だから、もっとマシな僕になるためにみんなの力を奪ってやるんです。美しい歌声も、強力な魔法も、全部僕のものだ!寄越しなさい、全てを!」
黒い水溜まりが盛り上がる。黒く汚れた巨大な異形が、タコの人魚の形を取る。頭は巻き貝のインク瓶、首回りを真っ黒な珊瑚が襟のように飾り、黒いドレスと青ざめた肌の境目は雑に縫い合わされてる。水溜まりから、細長い槍を取り出した。
哄笑していたアズールが呻く。溢れだしていたブロットが見る間に全身を覆い服を溶かした。現れた青白い肌に黒い鱗が浮かび上がり覆っていく。腰回りから溢れた液体は膨らみ、少年の細い下半身を人魚特有の巨大な軟体へと変化させた。肌質なのか、黒く覆われた肌は所々薄く光って見える。首回りは異形と揃いの黒い珊瑚で飾られていた。
溢れた黒い液体が顔を覆い文様を描く。黒い涙をあしらったような、仮面のような化粧が少年の顔を彩った。後頭部には黒い液体で作られた冠が煌めく。
そこまで外見が変化しても、アズールの表情は狂気の笑顔から戻らない。
「これって……オーバーブロット、ッスよね」
「だろうな」
この中では唯一目撃経験のあるラギーでさえ懐疑的だった。双子は変わり果てた仲間の姿に戸惑いの声をあげる。
「なにアレでけぇ!オレでも絞められねえかも!!」
「アズール……!」
「教えろ。俺の時はどうやって対処した」
「えっと、後ろのデカいのを魔法士から切り離すんスよ」
言われてみれば、異形とアズールは黒い液体で繋がっている。
「聞こえたか人魚ども」
「聞こえたよ!後ろのぶっ飛ばせばいいんでしょ!!」
双子が揃ってマジカルペンを構えると、アズールが笑みを深めた。後ろの異形が蠢き、槍を振り回す。
『さあ、僕と契約しましょうよぉ!!』
………………
レオナは騒がしい店内を何食わぬ顔で通り過ぎていった。店の外には空席を待つ行列があり、オクタヴィネルの寮生が混乱した状況をわざわざ説明している。アズールの指示がろくに届いていないであろう事は想像に難くない。
しかしそんな事は獅子には何も関係が無い。
そのまま寮内を平然と歩いて屋外へと向かう。鏡へと向かう道の途中で、大きな耳の少年が後ろについた。建物から十分離れた所で、特徴的な笑い声をあげる。
「うまく持ち出せましたね」
立ち止まり振り返れば、少年は黄金に輝く紙の束を抱えていた。
「お前の手癖の悪さには恐れ入るな」
「絶対盗られたくないなら、ポケットにもしっかり鍵かけとかなきゃ」
ラギーは悪びれた様子もなく言い放つ。レオナは肯定するように静かに微笑んだ。
盗みなどという悪事は、素早く行うに限る。
少々強引な手であったが、サバナクローの寮生たちは実に協力的だった。自分たちの寮の安全な夜を守る事だけが動機ではないだろう。余計な気を使いやがって、と思いつつ、寮生の健気さを憎めない気持ちもレオナにはあった。
「にしても、この契約書の量すごいッスね。五、六百枚はありそう」
「この学園に入るずっと前から悪徳契約を繰り返してコツコツ溜め込んでたんだろうぜ」
目映いばかりの紙束をラギーが興味深そうにめくっている。レオナが手を差し出すと、そのまま手渡した。
「これで契約書はVIPルームの外に持ち出せた」
契約書が無敵である条件は、既に解除されたと見て良い。何せ『アズール以外が触ると電流が流れる』は既に嘘だと暴かれている。それ以外の情報も紙のように信憑性は薄い。
レオナは契約書を見つめる。一番新しい契約書。馴染みのない言語で書かれた彼の名前。
乾いた憎しみが胸に湧く。それを吐き出すように言葉を紡ぐ。
俺こそが飢え、俺こそが乾き。お前から明日を奪うもの。
その気になれば最小限の詠唱で使えるユニーク魔法の呪文を、儀式のように丁寧に口にする。負担を軽減する意図もあるが、レオナにとっては『本気』の現れでもあった。
「待ちなさい!!」
「……おっと、もうおでましか」
詠唱を中断する。
普段は澄ました顔の支配人が、赤くなったり青くなったりしながらレオナの方に走ってくる。わかりやすく契約書を掲げてやると、アズールの足は止まった。
「それ以上こっちに近付くなよ。契約書がどうなっても知らないぜ」
「か、返してください……それを返してください!」
「おいおい、少しは取り繕えよ。おすましごっこはもうやめたのか?」
レオナには面白くてたまらない光景だった。慇懃無礼で腹の底では誰も彼もを見下している面倒な男が、弱者の顔で懇願してくる。
「その慌てぶりを見るに、ユウの予想は当たってたらしいな」
「なん……だって……!?」
アズールの顔が怒りと悔しさに歪んだ。得意のハッタリを、頭の良くないユウに見抜かれた事がプライドを刺激しているのだろう。
「何故だ、何故アイツは僕の邪魔ばかりしてくる!?イソギンチャクを解放したって、アイツには何の得もないだろう!?」
「それについては俺も同意だな。よっぽどイソギンチャクが嫌いなんだろ」
ここ数日、グリムの世話を焼く時、イソギンチャクが目に入る度に顔をしかめていたように思う。自分の頭に生やされるなんてイヤだ、とも言っていた。共感は出来ないが、理解はしている。
それに、アズールとの契約に至ったのはもっと大きな危機感が背景にあったからだ。その事に思い至らない様子なのが、やや癪に障る。
「……そこでだ。なあアズール。俺と取引しようぜ」
「……は?」
「この契約書をお前に返したら、お前は俺に何を差し出す?」
とびっきりの笑顔で、優しい声で、目の前に餌をぶら下げた。
アズールは姿勢を正し、まっすぐにこちらを見つめ懇願する。
「な、なんでもします。テストの対策ノートでも卒業論文の代筆でも、出席日数の水増しでも、なんでもあなたの願いを叶えます!」
きっと嘘偽りの無い言葉だ。契約書を返せば、アズールはこちらの求めるまま奴隷のように働き、自分は悠々自適な学園生活が送れるだろう。
「なるほど、実に魅力的な申し出だ」
アズールの表情が明るくなる。腹の奥の苛立ちが更に強まる。
「なら……」
「だが……悪いが、その程度じゃこの契約書は返してやれそうにねぇなァ」
「……えっ?」
自分の言葉ひとつで、目の前の男の表情はコロコロ変わる。それが面白いようでいて、実に不愉快だ。
レオナは如何にも物憂げな溜息を吐く。
「俺はな、今、ユウに脅されてんだよ」
アズールは理解できない、という顔でこちらを見つめている。じわじわと、絶望が迫っている事を予感している顔だった。
「契約書の破棄に協力してくれなきゃ、眠れないように毎晩毛玉と一緒に大騒ぎしてやるってなァ」
「は……?」
「お前にオンボロ寮を取られちまったら、俺が寝不足になっちまう。俺と寮生どもの平穏の為にも、契約書は破棄させてもらうぜ」
「まさか、そんな事で……!?」
「そんな事、か」
確かに『そんな事』だろう。仮に脅迫が現実になっても、対策出来ないつもりはない。教師が使える程度の消音魔法ならレオナだって修得はしている。どうとでも出来る。
好意を抱いたと言っても、そのために他の寮との揉め事など喜んで起こしたくはない。寮生の願いもあって受け入れたが、最初はそこまで踏み入るつもりはなかった。
だが、見てしまった。
あれだけ気丈に戦い、人の好意すら厚かましく利用する人間が、帰る場所を失う恐怖を抱えて涙する姿を見てしまった。
自分に向けられる欲を疎むあまり、無意識でないと温もりに甘える事すら出来ないのだと知ってしまった。
理路整然と自分の行動を説明する事は不可能に近い。弱者に対する庇護欲か恋愛感情か、あまり区別はついていない。
それでも、もう結論は出ている。
レオナの口元に笑みが浮かんだ。
「悪党として、ユウに一歩負けたな。アズール」
「う、うそだ……やめろ!」
青ざめたアズールが必死で手を伸ばしてきた。それが届く前に、詠唱を完成させる。
「……さあ、平伏しろ!『王者の咆哮』!!」
「やめろおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
アズールの絶叫と同時に、契約書の紙束が端から砂に変わる。数百枚の紙が大量の黄金の塵となり、空調の起こす風に流され、オクタヴィネル寮の周囲の海に溶けていった。
「あ、あああ……あああああ……!!僕の、僕の『黄金の契約書』が……っ!」
アズールが嘆きながら地面に頽れる。一連の様子を見ていたラギーが肩を竦めた。
「アズールくんのユニーク魔法『黄金の契約書』。一度サインをした契約書は、何人たりとも傷つける事はできない」
「わざわざ何度も破れないところを見せびらかし無敵だと印象づけていたが……全てにおいて完全無欠の魔法なんかない」
状況から見て、VIPルームの中、あるいはアズールが手にしている時だけ無敵効果が付与されているのではないかとレオナは予想していた。
「俺の魔法で簡単に砂に変えられたとこを見ると、読みは当たったらしいな。契約書自体の強度は、ただの紙同然だ」
不意に、ラギーの視線に気づいてレオナはそちらを見る。
「何だ」
「正直、ここまで手伝ってやる理由がわかんなかったんスけど……よくよく考えたらそうですよね。好きな子に自分の悪巧みの証拠なんて見られたくないッスよね」
「おい」
「やっと最近マジフト大会の事件の事を水に流して接してくれてるのに、蒸し返されたらまた嫌われちゃいますもんねー」
「黙れ、ラギー」
「大丈夫ッスよ、絶対言わないんで!口止め料は帰省のお土産でも選んでもらおっかなー」
強かなハイエナの言葉に苦い物を感じるが、貢献したのは事実なので何らかの形で労う必要がある。当然の報酬を支払うだけで決して口止め料じゃない、とレオナは自分に言い聞かせた。
「………あ………あぁ……………」
どこからか小さな声が聞こえる。ラギーが首を傾げた。
「ああ、ああああ……っ!」
続いて聞こえてきたそれは明らかにアズールの声だった。うずくまった状態で、手足に少しずつ力が入っている。
「あ~~~~っ!!!!もうやだぁぁぁぁ~~~~~~~~~!!!!!!!!」
それが突然爆発した。
アズールは仰け反って絶叫したかと思うと、両腕を地面に垂らし、呆然と天を見上げている。目には涙が滲んでいた。
「消えた……コツコツ集めた魔法コレクションが!僕の万能の力がぁ……!」
アズールは喚きながら地面を殴っている。
あまりの奇行に、レオナたちには理解が及ばない。
「……なんだ?」
「き、急にキャラが……」
「ああ、もう全てがパァだ!!なんて事をしてくれたんだ!!!!アレが無くなったら、僕は……僕はまた、グズでノロマなタコに逆戻りじゃないか!」
感情のままに叫び、近くにいた二人にも憎しみをぶちまける。普段の澄ました表情は微塵もない。卑屈で攻撃的な少年がそこにいた。
「そんなのは嫌だ……いやだ、いやだ、いやだ!!!!もう昔の僕に戻るのは、嫌なんだよぉ……っ!」
頭をかきむしり髪を振り乱し悶え暴れる。今にも感情の頂点を迎えて失神してしまうのではないかと感じる危うさがあった。
「レオナさんが期待させてから落とすようなマネするからッスよ!」
ラギーはレオナを小突いてから、身を屈めてアズールに視線を合わせようとする。子どもをあやすような口調で語りかけた。
「アズールくん、ほ、ほら。ちょっと落ち着こ。ねっ!」
「うるせぇ~~~~!!!!」
それをアズールは正面から拒否した。
「お前らに僕の気持ちなんかわかるもんか!グズでノロマなタコ野郎と馬鹿にされてきた僕のことなんか……お前たちにわかるはずない!」
卑屈な拒絶を口にして、駄々っ子のように暴れていた手足が、唐突に止まる。不気味な笑みを浮かべ、焦点の合わない目でラギーを見た。
「……ふ、ふふふ。ああ、そうだ……なくなったら、また奪えばいいんだ……」
「あ、アズールくん!?」
「くれよ。なあ。お前らの自慢の能力、僕にくれよぉ!」
自分が膝をついている事も忘れたように、アズールは勢いよくラギーに手を伸ばした。ラギーは素早く身を引いて大きく距離を取る。レオナも後ろに下がった。
アズールは勢いをそのままに地面に倒れる。顔を強かに打ち付けたように見えたが、彼は気にせず起きあがった。目は爛々と輝いている。
不意に、レオナの耳に喧噪が届く。ラギーも気づいた様子で顔を上げ、その視線を追うようにアズールは後ろを振り返った。
オクタヴィネル寮から生徒が大量に出てきている。おそらく、黄金の契約書で縛られていたイソギンチャクたちが自由の身になった事に気づいて出てきたのだ。その証拠に、彼らはアズールの姿を見つけると気色ばむ。
「アズール!てめえよくもこき使ってくれやがったな!」
「ぶちのめしてやる!」
そんな声も聞こえたが、アズールは笑みを深めていた。その笑みの狂気に気づいたものは足を止めたが、そうでないものの方が圧倒的に多い。
先頭の一人が、アズールの胸倉を掴む。いかにも不良という容姿のハーツラビュル寮の生徒だ。その拳は、アズールに軽々と受け止められた。
「ぐ、ぐぁぁ……っ!?」
殴りかかった生徒の体から光が溢れたかと思うと、その光はアズールに同化して消えていく。生徒は力を失って地面に倒れ込んだ。
「なんだ!?何しやがった!!」
「ふ、ふふ、ははは」
次に殴りかかった生徒も、その隣にいた生徒も、アズールに触れると体から光が溢れ、消えると同時に倒れていく。
オクタヴィネル寮の建物から鏡舎までは一本道だ。そのひとつしかない通路には今、多くの生徒が密集している。先頭の惨状を見てアズールから逃げようとする生徒、自由になったからアズールを殴ろうと考えた生徒、それはそれとして帰ろうとしている生徒、思惑が揃わずにただ人の塊が膨らんでいく。
それを見てもアズールの笑顔は変わらない。むしろ邪悪さが増したようにさえ思えた。
「そこのお前の雷の魔法、その隣のヤツの運動能力、全部、全部僕によこせぇ!」
アズールは密集した人間の中に飛び込むようにして、手当たり次第に掴みかかる。一人数秒とかからずに、光が溢れては消え、意識を失い倒れた。
明らかにアズールは何かを吸収している。
「アズールくん、みんなから何を吸ってんスか!?」
「……能力、だろうな」
「はい?」
「アイツのユニーク魔法、契約書を介さないと他人から全ての能力を吸い取っちまうんじゃねえか?そうじゃないと状況に説明がつかねえ」
胸は動いているから、倒れた人間は死んではいない。恐らく強力な魔法をかけられた衝撃で気絶していると考えるのが妥当だろう。
「触っただけで全部の能力吸い取るって、怖すぎじゃないスか!?」
「ああ。そんな禁術クラスの魔法、反動であっという間にブロットの許容量を超えるぞ」
だからアズールは『契約書を交わす』という面倒な手続きをしていたのだ。
条件を設定し得る能力を限る事で魔法の出力を抑えていたのだろう。能力を担保としない契約や、相手を苦痛で支配する絶対服従はその副産物に過ぎない。
既にアズールの周囲には黒い液体が溢れて広がっていた。人の塊はやっと事態が全体に伝わって寮内に逃げる流れに変わっているが、多くの人間が地面に転がっている。最悪の事態は近い。
「レオナさん、どうします?」
「……寮の連中を呼べ。倒れてる奴らを回収させる」
「で、でもアイツに能力吸われたら同じ事に!」
「その間は俺がアズールを引きつける。すぐに呼べ。回収が終わったら寮の中で待機するよう命じろ」
ラギーは一瞬迷った様子だったが、頭を振ってすぐにスマホを手にした。レオナは杖を召喚し構え、寮へ逃げていく人間を追うアズールを睨む。
「アズール!貴方なにをしているんです!」
「うわ、なにこれ、どーなってんの?」
新たな登場人物の声で、アズールの歩みが止まった。鏡から来た双子が、レオナたちを無視してアズールの方へ駆け寄る。
アズールは狂気の笑みで側近たちを迎えた。倒れている生徒を踏み越えて、ゆっくりと近づいてくる。
「ジェイド、フロイド、ああ、やっと戻ってきてくれたんですね。そこのバカどものせいで、僕の契約書が全て無くなってしまったんです」
いつになく険しい双子の表情に、アズールが気づいた様子は無い。
「だから、あなたたちの力も僕にください。ねえ、僕にくださいよぉ!」
「お待ちなさい。貴方のユニーク魔法は強力すぎるゆえに契約書無しには制御できないはず。そんな事をすればどうなるか、自分が一番よくわかっているでしょう!」
ジェイドの声はいつになく真剣だ。主の事を思う従者の諫言と誰でも解る。しかしその声は届くべき者に届かない。
「だって、なくなっちゃったんですよ、全部……アハハ……アハハハッ!このままじゃ昔の僕に戻ってしまう!」
「あのさー、今のアズールって、昔のアズールよりずっとダサいんだけど」
フロイドは率直な感想を口にする。
アズールの意識が双子に向いた時点で、サバナクローの寮生が倒れた生徒の救出に出ていたので、これにはレオナとラギーも内心ヒヤリとしていた。
しかし二人の不安をよそに、アズールはこちらを向いたままだ。狂気を含んだ笑顔が、今度は幼子のような拗ねた怒り顔に変わる。
「あ~~~~~、そうですか。どうせ僕は一人じゃ何も出来ない、グズでノロマなタコ野郎ですよ」
再び卑屈な怒りを口にする。袖口から、襟元から、黒い液体が溢れ出しては衣服を汚し、地面に落ちた。
「なんだよアレ?アズールの身体から黒いドロドロが出てきてる。墨……じゃねーよな?」
「ユニーク魔法の使い過ぎです。ブロットが蓄積許容量を超えている!」
黒い水溜まりが広がっていく。空気層を越えて海にまで滲み、オクタヴィネルを囲む美しい海が黒く汚れていく。
最後の一人が回収された事を確認し、レオナは杖を構えなおした。
「だから、もっとマシな僕になるためにみんなの力を奪ってやるんです。美しい歌声も、強力な魔法も、全部僕のものだ!寄越しなさい、全てを!」
黒い水溜まりが盛り上がる。黒く汚れた巨大な異形が、タコの人魚の形を取る。頭は巻き貝のインク瓶、首回りを真っ黒な珊瑚が襟のように飾り、黒いドレスと青ざめた肌の境目は雑に縫い合わされてる。水溜まりから、細長い槍を取り出した。
哄笑していたアズールが呻く。溢れだしていたブロットが見る間に全身を覆い服を溶かした。現れた青白い肌に黒い鱗が浮かび上がり覆っていく。腰回りから溢れた液体は膨らみ、少年の細い下半身を人魚特有の巨大な軟体へと変化させた。肌質なのか、黒く覆われた肌は所々薄く光って見える。首回りは異形と揃いの黒い珊瑚で飾られていた。
溢れた黒い液体が顔を覆い文様を描く。黒い涙をあしらったような、仮面のような化粧が少年の顔を彩った。後頭部には黒い液体で作られた冠が煌めく。
そこまで外見が変化しても、アズールの表情は狂気の笑顔から戻らない。
「これって……オーバーブロット、ッスよね」
「だろうな」
この中では唯一目撃経験のあるラギーでさえ懐疑的だった。双子は変わり果てた仲間の姿に戸惑いの声をあげる。
「なにアレでけぇ!オレでも絞められねえかも!!」
「アズール……!」
「教えろ。俺の時はどうやって対処した」
「えっと、後ろのデカいのを魔法士から切り離すんスよ」
言われてみれば、異形とアズールは黒い液体で繋がっている。
「聞こえたか人魚ども」
「聞こえたよ!後ろのぶっ飛ばせばいいんでしょ!!」
双子が揃ってマジカルペンを構えると、アズールが笑みを深めた。後ろの異形が蠢き、槍を振り回す。
『さあ、僕と契約しましょうよぉ!!』
………………