3:探究者の海底洞窟

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 アズールはモストロ・ラウンジのVIPルームで、一人過ごしていた。店は先ほど問題なく開店し、ほぼ同時刻にジェイドからは標的が珊瑚の海に向かったとの連絡を受けている。
「ジェイドとフロイドは首尾良くやっているようですね」
 アトランティカ記念博物館は今日は休館日だ。もう時間が無いのだから、忍び込んで盗む事しか出来ないだろう。
 オンボロ寮の監督生は、確かに魔法は使えないが、対人関係における多くの技術を持っている。学園長に取り入った交渉術、食堂で不良を黙らせた気迫、大人しい人間のフリをする演技力など、無視できるものではない。
 契約の時も、ただの生徒には無い慎重さを見せている。護衛のつもりで横にいたであろう厳めしい狼の少年すら、年相応の仔犬に見えるほどだった。
 仮に侵入が失敗したとしても、話術を駆使して彼は目的を達成するだろう。それは間違いない。ある種の信頼すらアズールは抱いていた。
 それにより、ジェイドとフロイドは標的から盗んできた写真を奪い取り、日没後に戻ってくるだろう。
 どんなに身体能力が優れていようと、水の中では人魚に敵わない。あのウツボの双子に陸の人間が勝てるはずがない。
「これでオンボロ寮も、あの写真も、もう僕のものだ」
 アズールの笑い声が室内に響く。
 それを荒々しいノックが遮った。アズールは少し咳払いをして、静かに入室を許す。
「失礼します、支配人!」
「なんです、騒々しい」
 飛び込んできたのはオクタヴィネルの寮生だ。困った表情でアズールに頭を下げる。
「申し訳ありません。モストロ・ラウンジで問題が……」
「なんですって?」
「客同士が揉めて騒ぎになってるんです。今、ジェイドさんもフロイドさんもいないので……」
 オクタヴィネルに肉体派の生徒がいないワケではないが、荒事を解決できる手腕となると双子が抜きんでているのは事実だ。イソギンチャクの奴隷を含めても、今日のシフトでは対応できる人間がいない、という事らしい。
「全く、食事処で埃を立てるなと躾られていないんですかね」
 アズールは心底から呆れた顔で呟く。寮生には自分が出ると伝え、先にフロアに戻るよう促した。杖を手に立ち上がる。
「あちらはジェイドたちに任せておけば大丈夫でしょう。やれやれ……」
 VIPルームを出たアズールは、騒がしさに顔をしかめる。店の状況を見て、更に顔を歪めた。
「な、なんです。開店直後だというのにこの混雑状態は!?」
 テーブルは全て埋まり、それどころか立っている客すらいた。物理的な容量を越える人数の客に対し、イソギンチャクの奴隷と寮生が対応に追われ、テーブルの間を行き来するのにすら難儀している。
 場末の酒場だってもう少し秩序があるだろう、と言いたくなるような混沌とした状態だった。
「道を開けてください、通ります!」
 アズールは意を決して人波をかき分ける。双子の下の地位につけている寮生が、入り口で客に対応している姿が見えたからだ。焦るあまり動きが乱暴になって、人とぶつかった。
「失礼!」
「いーえ、気にしないで。……シシシッ」
 反射的に謝ったが、相手の顔を見ている余裕は無い。揉みくちゃにされながら、どうにか入り口まで辿り着いた。入店できない客に対応していた寮生たちは、アズールを見て縋るように駆け寄ってくる。
「寮長!大量のオーダーが入って本日分の食材の在庫が尽きました!」
「飲み物の在庫も切れそうです!」
「もう!?」
 この状況を見れば想像には難くない。追加オーダーを求める声もひっきりなしに聞こえてくる。
「仕方ありません、金庫からお金を出してきますから、購買部へ買い出しに行って……」
 アズールは無意識に、金庫の鍵が入っている内ポケットを探った。そこにあるはずの感触が無い事に気づいて青ざめる。
「な、ない。金庫の鍵が、ない!」
 寮生が心配そうに見守る中、アズールは服のありとあらゆる所を探った。しかし鍵はどこにもない。真っ白になった顔でアズールは呟く。
「まさか……まさか!」
 判断を求める寮生を無視して、アズールは猛然と店の中に戻っていった。VIPルームを目指し、先ほどよりも力強く押しのけるようにして人波をかき分けていく。もうアズールの耳に店の喧噪は聞こえない。聞こえるのは自分の心臓の鼓動の音ばかりだ。
 何とか抜け出して、早歩きでVIPルームに向かう。乱暴に扉を開くと、来客用のソファに獅子が悠々と座っていた。
「よぉ、タコ野郎」
「レオナ・キングスカラー……!」
 レオナは店の喧噪など知らぬ顔でそこにいる。余裕の表情が、アズールには引っかかってたまらない。
「どうした?いつも澄ましたお前がえらく慌ててるようだが」
「あなたには関係ありません」
 真っ先に言い切る。アズールは、この男に弱みを見せてはならないと思っていた。少しだけ冷静になる。
「それより、あなたはどうしてここに?」
「どうしてって……この鍵。お前のじゃねえか?」
 レオナは懐から取り出した金色の鍵を、高く掲げて揺らして見せた。
「さっきそこで拾ったんだが、お前のモノだった気がして届けに来てやったんだ」
「そ、それは!」
「やっぱりビンゴか」
 アズールが目を見開くと、レオナは笑みを深める。青い目が敵意を以て獅子を睨みつけた。
「返しなさい。窃盗は重大な犯罪ですよ!」
「親切で届けに来てやったってのに、泥棒扱いかよ」
 レオナは心外そうに言う。その言葉だけなら嘘は感じられない。
「いいぜ、返してやるよ。ホラ」
 金色の鍵が宙を舞う。実に的確に投げられていたが、アズールは受け止めるのに慌てふためいた。しっかりと握りしめた所で、安堵の息を吐く。
「俺の用事はそれだけだ。じゃあな」
 そう言うと獅子は立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。部屋に自分以外の人の気配が無くなってやっと、アズールは不安を思い出す。
「け、契約書……!契約書は!?」
 普段の立ち居振る舞いを忘れたように、転びそうになりながら金庫に駆け寄る。いつもの手順で鍵を差し込んでダイアルを回し、重い扉を開いた。
 いつもなら、部屋まで満たすような目映い金色の光が出迎えてくれる。しかし。
「………ない」
 光は溢れてこない。いつも同じ場所に置いてある、光源たる『黄金の契約書』は、そこに無かった。その他の重要書類や現金はそのまま残っているのに、黄金の契約書だけが失われている。棚板を返しても他の物をひっくり返しても、現れる事はない。
「ない、ない、ない!!契約書がどこにもない!!」
 アズールは膝をつく。大きすぎる喪失感が胸を満たしていた。その次に焦燥が湧き、やっと現実的な『犯人』の存在に意識が向く。
 そんなの一人しかいない。
 金庫の鍵を持っていたあの男。
「あの野郎、まさか……!?」


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