0:プロローグ
昼食後もまだ仕事はある。というか、本来はゴーストがやっている仕事の中でも簡単なものを、自分たちのために譲ってくれたらしい。すれ違うゴーストたちもなんだかみんな好意的だった。
『生徒に変な事をされそうになったら言うんだよ。みんなで懲らしめてやるからね』
『仕事で困った事があったら何でも聞きな。教えてあげるし、わかる奴を呼んでくるからさ』
『道に迷ったら大声を出せば、近くにいる奴が駆けつけるよ。慣れるまでは僕たちも気をつけておくから』
なんだかくすぐったいけど、助かる事ではあった。本当に右も左もわからないし、常識も元の世界とは全然違う。かと思えば入室の礼儀とかは意外と共通の部分もあって、混乱する所もあった。
「次は、テキストと資料を魔法史準備室に届ける、と」
「荷物運びばっかりでつまんないんだゾ」
『職員との顔合わせも兼ねてるからね~』
「分かりやすくて助かるよ」
『慣れてきたら設備のメンテナンスや生徒と関わる仕事も増えるかもしれないけど、まずは学校の事を知ってもらわなきゃ』
校舎に入れば生徒の目があるけど、さすがにもう慣れてきた。面白がってカメラを向けてくる生徒はゴーストがいたずらのように脅かして止めてくれてる。頼もしい限りだ。
ここも鍵はかかっておらず、自由に出入り出来るらしい。教師が取りやすいよう一番大きなテーブルに置いてほしい、と注意書きが添えてあった。
「失礼します、購買から荷物をお届けに来ました」
一応ノックをしてから扉を開き、声をかけた。どの壁も一面本棚になっている。テーブルは中央に一つしかない。
そこには、黒い毛並みの猫が真ん中に陣取って眠っていた。長い毛足がテーブルいっぱいに広がっている。人の声も物音も気にならないのか、目を覚ます気配はない。
「なんだこの猫、邪魔なんだゾ」
グリムが忌々しげに言い、声を張り上げようとするのを口を塞いで止めた。
「にゃにするんだ!」
「ダメだよ、気持ちよさそうに寝てるじゃない」
「学校に猫がいるのはおかしいだろ」
「魔法史の先生が猫好きなのかもしれないじゃん。どかしたら怒られちゃうかも」
「仕事の邪魔なんだゾ」
「仕方ないよ。いったん台車ごと端っこに置かせてもらって、怒られたら謝ろう」
「ええ~……オマエ一人で怒られろよ。オレ様イヤなんだゾ」
「それでいいから、静かにしてて」
「ルチウス、起きているのだろう。どいてやりなさい」
隅っこにうずくまった僕とグリムの小声の応酬が終わるのを見計らったように、入り口から男性の低い声がした。猫は応えるように鳴いて起きあがり、軽やかにテーブルを降りて声の主の腕に飛び込む。
入り口に立っていたのは、ローブをまとった男性だ。初老と言うには皺が深く、老齢と呼ぶにはまだ若い印象を受ける。ローブの下はかっちりとした洋装のようで、足元まで届く裾がだらしなく見えない。背筋はピンと伸びており、眼光も鋭かった。
「雑用係」
「はいっ」
思わず立ち上がって背筋を伸ばした。腕の中のグリムがにやにや笑っている。
「指定通りに荷物を置きなさい」
「はい、失礼します!」
台車の空き位置にグリムを下ろし、さっさとテーブルにテキストと資料を並べた。その間、グリムは黒猫を睨んでいたようだけど、黒猫はどこ吹く風で相手にしていない。
「終わりました、お待たせしてすいません」
「気にしなくていい。……ルチウスを気遣ってくれて感謝する。今日も庭で昼寝をするものだと思っていた私の落ち度だ」
男性は微笑んでくれた。ほっと胸をなで下ろす。
「私はモーゼズ・トレイン。こちらは使い魔のルチウス」
トレイン先生が名乗ると、ルチウスも応えるように鳴いた。お世辞にも綺麗な声とは言えないが、これはこれで愛嬌のある鳴き声だ。
「文系科目を担当している。これから資料の運搬などで仕事を頼む事もあるだろう」
「はい、よろしくお願いします」
「我が校の図書館の蔵書は学業には十分すぎるほど充実しているが、もしそれで足りぬ事があるなら声をかけなさい。ここの資料を貸してやる事もやぶさかでない」
「ありがとうございます」
頭を下げると、トレイン先生はよろしい、と満足げに頷いた。
「……うちの生徒も、君ぐらい大人しく礼儀正しければ扱いに苦労しないだろうに」
ルチウスが主を慰めるように一鳴きする。僕は苦笑するしかなかった。
正直言って、生徒としての資質はグリムの方がある気がする。喧嘩っ早いけど、向上心あるし負けん気も強い。ただそういう生徒が扱いづらいと言うのは、異世界でも教師の共通認識のようだ。
退室の挨拶をして、準備室を出る。時計を確認すると、そろそろ放課後だ。
「あとは食堂の窓拭きだね」
「うげぇ……めんどくさいんだゾ」
「荷物運びだってほとんど台車に寝っ転がってたんだから、これぐらいはちゃんとやってね」
『台車はオイラたちで返しておくよぉ、このまま食堂に行きな~』
『窓拭きが終わったら、今日のお給金を貰って買い物しようね』
「ありがとう、ふたりとも」
ゴーストたちは照れくさそうに笑って、台車を押しながら飛んでいく。
一日一緒にいただけなのに、すっかり馴染んでしまった。好意的に接されると無碍にはできない。
……プリンセスというあだ名だけはどうにも嬉しくないけど。
「さ、行こうかグリム」
そろりと逃げようとしたグリムの首根っこを掴んだ。小脇に抱えて食堂への道を歩く。案内板を持ったゴーストがいたのでスムーズだった。
食堂は昼食と夕食の間の時間なので、付近にも生徒の気配は少ない。だから近づいてくればイヤでも判るはず。
待ち合わせの時間が来て、五分、十分と過ぎていく。グリムは苛立たしげにしっぽを揺らしていた。
「……いくらなんでも遅すぎるんだゾ!」
「まぁ逃げたんだろうね」
「ふなっ!?」
入学して早々、生徒じゃない人間に突っかかって遊ぶような奴が、素直に罰当番に従事するとは思えない。
「学園長に報告すればサボりも含めて然るべき罰は与えられるから、僕らだけでも……」
と、立ち上がって横を見たらもうグリムはいなかった。廊下の向こうで飛び跳ねている。
「何やってんだ、ユウ!あいつをとっつかまえて窓掃除させてやるんだゾ!」
言うが早いかとっとと廊下を駆け抜けていった。通りがかったゴーストに声をかける。
「一年A組の教室ってどっちですか」
『そこの角を曲がって真っ直ぐ行った所の左奥だよ』
「ありがとうございます」
奇跡的にグリムの行き先と同じ方角だ。お辞儀をしてから走り出した。早歩きじゃさすがに追いつけない。
一年A組の教室が見えた瞬間、グリムが教室に飛び込んだ。慌てて後を追って入る。
「オラァ、エースはどこだ!隠し立てするとただじゃおかねぇ……って、もう誰もいない!?」
グリムの言う通り、教室内はもぬけの殻だった。まぁ放課後なんだから当然だけど。
『いいや、私がいるよ』
それを否定する声が唐突に響く。ぎょっとして声のした方を振り返ると、そこには肖像画が掛けられていた。メガネをかけて髭を生やした紳士が描かれているのだが、絵の中の人物が生きているかのようにまばたきしている。
「絵がしゃべった!?」
『なんだい、喋る絵画なんかこの学校じゃ珍しくないだろう?』
そうなんだ……と、とりあえず飲み込んで紳士の言葉に耳を傾ける。
『それで?君たち誰かを探してるのかい?』
「エースってヤツを探してるんだゾ。顔にハートが描いてある、もさもさ頭のヤツ!」
『ああ、知っているとも。少し前に寮へ戻っていったようだ』
「あの野郎、やっぱり逃げやがった!どっちに行ったかわかるか!?」
『寮への扉は東校舎の奥さ』
「逃がさねえ~~~~!!!!」
グリムは叫びながら飛び出していった。放っておくわけにもいかないから、追いかけなきゃいけないんだけど、めんどくさいなぁ。
ひとまず肖像画を振り返り、深くお辞儀をする。
「親切にお教えいただき、ありがとうございました」
『いや構わんよ。……なるほど、ゴーストたちが騒いでいたプリンセスというのは君かね』
「プリンセスになった記憶はありませんが何故かそう呼ばれています無理があると思うんですけど!」
『うむ、生まれは高貴ではなさそうだが……今はよそう。さっきのモンスターを追うのだろう?』
「はい、あの、失礼します」
もう一度深くお辞儀をして、教室を後にした。廊下にグリムの姿は無い。またゴーストに訊いた方がいいかもしれない。
「あーもう、めんどくさい!」
ひとまず玄関の方向に向かって走り出した。