3:探究者の海底洞窟
鏡の間に集まった全員で、怪しい色の薬瓶を凝視する。
添付の説明書によれば、効果は一口で一時間程度。効果時間は量に依存するし、効果が切れる頃に追加で飲んでも延長される。
説明書を事前に見ていたジャックが、ご丁寧に小さい紙コップまで用意してくれていた。愛想の無い紙コップに注がれた蛍光黄緑色の液体が揺れている。
「……アズールがくれた魔法薬、本当に水の中で呼吸できるようになるのか?」
「疑ってても始まらねえ。とりあえず飲んでみるしかねえだろ」
匂いこそないが、それがより恐ろしくもある。色からして飲むのが躊躇わしい。
「んじゃ、せーのでいきますか」
エースの号令で、全員が同時に中身を呷る。
口の中に言葉に出来ない味が襲ってくる。不味いとかそういう次元を超越した、明らかに口にしてはいけない何かの味だ。吐き出さないのが精一杯。本能が拒絶するのを必死で抑え込んで飲み下した。呼吸すると空気が入ってきて舌に残る風味が昇ってくるのが凄まじく苦痛。
この間もらった治癒の魔法薬は、薬と解る味だったけど爽やかで飲みやすかった。落差が酷すぎる。
「……こ、これはっ……」
「うげぇぇ~、干しガエルと腐ったキノコを混ぜたみたいな味がするんだゾ!」
「どんな例えだ。食った事あんのか、それ。……確かにすごい味だが……」
みんな紙コップを握りしめて悶えている。水を持ってくるべきだっただろうか。
「魔法薬のマズさって割と深刻な問題だと思うんだけど、なんで大人はみんな放っとくんだろーね」
「味より効き目のが大切なんだろ」
「飲みやすくしちゃうと飲み過ぎちゃったり、子どもが飲んじゃうとかかな……」
エナジードリンクとか好きな人は本当に好きだけど、アレもやたら飲むと身体に悪いって言うし。飲みやすいっていうのも難しいよね。
などと言っていると、舌に残る後味が引くにつれて息が苦しくなってきた。
「ん……なんだ?」
「肺が水中呼吸に対応してきたのか?」
「……やべ、ホントに苦しくなってきた。早く海ん中行こーよ!」
みんなにも同じ変化が訪れているようだ。慌ててジャックが鏡に向き合う。
「闇の鏡よ、俺たちを珊瑚の海へ導きたまえ!」
声に応えて鏡が光る。目の前が真っ白になって、周囲の気温が一気に下がった。というか、全身が冷たいものに包まれている。
光が止むと、目の前には見慣れない景色が広がっていた。昼間なのに薄暗く、でも所々に光が注いでいる。
映像でしか見た事のない、海の底の世界がそこにあった。
「がばばばば!いきなり水の中なんだゾ!溺れ死ぬ!」
「……あれ?苦しくない」
「え?あ、本当なんだゾ」
「マジで水の中で息ができてるんだな……」
確かに苦しくない。水の抵抗はあって動きは重いけど、薄く身体に膜でも張っているのか、目を開くのも困らないし服が濡れた様子も無い。水の中に生きられない生き物が海底を目指すには十分な効果だ。
「うわ、一面の珊瑚礁、すっげー眺め!ケイト先輩だったら撮影しまくりそー」
「すごく綺麗だね」
話す合間にも、魚の群れが鱗に陽光を反射させながら通り過ぎ、知らない魚がゆらゆらと泳いで遠ざかっていった。いつまででも見られそう。
一緒に景色に目を輝かせていたジャックが、我に返り咳払いした。
「ゆっくり景色を楽しんでるヒマはねぇぞ。早いところ目的の場所へ向かおう」
「そうだね。この状況だと魔法薬の追加が難しそうだし」
魔法薬は瓶ごと持ってきてるけど、水の中じゃ紙コップに移すの難しそうだ。飲んだ量的に効果は一時間半ぐらいだろうか。鏡の場所から博物館の距離も知らないし、歩く速度も思ったより遅い。時間を気にしておかないと全滅の危険がある。
鏡の場所を振り返り、目印を付けながら海の中を歩いた。綺麗な景色だけど、山の中ぐらい迷いそうな気がする。何せ道がない。付けてもらった目印が無かったら、鏡に辿りつけずに溺れ死ぬ可能性もある。
魔法薬の効果は申し分ないけど、やっぱり魔法薬程度じゃ割に合わない取引の気がする。
「おっ……何か見えてきた」
「あれ、アトランティカ記念博物館じゃね?」
エースの指さした先には、白い人工物っぽいものが見えた。近づいていくと、建物である事が分かる。
細長い塔に流線型の飾りがついた独特の建物だ。外観の白さはオクタヴィネル寮と雰囲気が似ている。
「ふなっ!足が魚みてぇになってるヤツらがいっぱいいるんだゾ!」
グリムの声で、建物の周りを泳ぐ魚に目を凝らした。確かに、人の上半身に魚の下半身がついている。優雅に建物の周りを泳ぎ回り、談笑している様子の者もいた。
「人魚……か?マジで水の中で生活してる奴らがいるなんて」
僕の世界には獣人属もいなかったけど。彼らにとっても常識の違う国は異世界みたいなもんなんだろうな。
目の前の光景はおとぎ話の世界のようだった。美しく穏やかで、不思議なのに不気味ではない。いつまでも見ていたくなる、幻想的な景色だ。
とはいえのんびりもしていられない。魔法薬の効果時間は折り返しに入ってるはずだ。実行する時間は無いにしても、せめて場所ぐらいは確認しておきたい。
そう思って歩き出そうとした瞬間だった。
上方を何かが通り過ぎた。視界が陰り、それが目の前に立ちはだかる。
「あ~、きたきた、小エビちゃんたち」
「ごきげんよう、みなさん。いかがです?海底の世界は」
「ソックリ兄弟!」
グリムが毛を逆立てる。僕も全身が粟立った。
目の前に立ちはだかったのは、グリムの言うとおりリーチ兄弟だ。顔も表情も見覚えがある。
でもその姿はどう見ても人間ではなかった。顔色は青白く変色し、腕は髪に近い色の鱗が覆っている。何より、下半身が長く太い尾に変わっていた。
「あ、あんたらなんだその姿は!?」
「何って、いつもの姿だけど?だってオレたち、人魚だもん」
「地上にいる時は魔法薬で姿を変えているんです。この尾ビレでは陸を歩けませんからね」
事も無げに双子は言う。別に隠している事でも無さそう。
「ってか、めちゃくちゃ長っ!何メートルあんだよ」
「ウミヘビか!?」
「残念、ウツボでぇす」
フロイドがへらへら笑って答える。
じりじりと後ずさっている僕に代わり、グリムが一歩前に出た。
「そんな事より、オマエら何しに来たんだゾ!」
「あはは。そんなの、オマエらの邪魔しに来たに決まってんじゃん」
「やっぱそ~ですよね」
「そう簡単に条件をクリアされては困りますから」
マジカルペンを構えるみんなを見て、リーチ兄弟は笑みを深めた。鋭い歯が見えて、捕食者を前にした弱者の気分が一層強まる。
「あれ、小エビちゃん青ざめちゃってる~。人魚見るの初めて?」
「おや、意外と怖がりさんなんですね」
エースがハッとした顔で僕を振り返る。
「ジャック!監督生頼んだ!」
言いながら、氷の固まりをフロイドめがけて飛ばした。当たらずに水に溶けて消えたけど、フロイドは視線を僕からエースに移す。デュースもジェイドを牽制してるけど、水の中では下手な魔法よりあちらの動きの方が遙かに速い。使える魔法の種類も限られる。攻撃を当てるどころか、こっちが消耗してばかりだ。
「全然当たらねえんだゾ!」
「……くっそ、いつもの魔法さえ使えれば……!」
「あはは、ムダムダ~」
ジャックがフロイドに向かって氷弾を飛ばすが当たらない。まるで弾かれたように方向を変え、海の彼方に消えていく。
フロイドは一切動いていなかった。水流で逸れたとも考えにくい。
ジャックも同じ事に気づいたのだろう。舌打ちして声を張り上げる。
「攻撃が逸らされてる!闇雲に魔法撃っても当たらねえ!」
イソギンチャクたちが驚いた顔でこちらを振り返り、フロイドは笑みを深めた。ジェイドが感心した様子でフロイドの隣に並ぶ。
「へぇ、ウニちゃんはよく見てんじゃん」
「やはり陸の獣は目がいいんですねぇ」
「どういう事だよ!」
苛立った様子のエースに、フロイドは『教えてあげる』と微笑みを向けた。
「オレのユニーク魔法『巻きつく尾』は、お前らの魔法が失敗するように、横から邪魔できちゃう魔法なんだー」
面白いでしょ、と上機嫌に話すフロイドに対し、ジェイドは呆れた顔をする。
「フロイド。ユニーク魔法をペラペラと他人に教えてしまうのはあまり感心しませんよ」
諫める調子のジェイドに対し、フロイドは不服そうに口を尖らせた。
「いいじゃん。わかってたってコイツらには止められねーし」
「はいはい。……今日は魔法の調子が良いみたいで何よりです」
いつもこうだと僕も嬉しいんですがね、とため息混じりに片割れは呟く。
「気分が乗らないと一度も成功しないんですから……困ったものです」
珍しく心底から呆れた様子だった。不調に当たればラッキーだったが、今回は真逆のアンラッキー、という事らしい。
「ほらほら、早く逃げなよ。捕まえたらオレの尾ビレでギューっとしちゃうよ。どいつから絞めてやろうかな?」
捕食者の悪戯のような殺気が嘗めるように這う。恐怖と嫌悪感で腹の中が気持ち悪い。
「アイツら、狩りを楽しんでやがる」
「このままじゃ一方的にボコられちまう!」
「一旦退却!いいな、ユウ!」
僕を振り返ったエースに何度も頷いて返す。グリムが急いで戻ってきて先行し、ジャックが手を引いてくれ、エーデュースが双子を牽制してくれた。
向こうは退く分には追いかけてくるつもりはないらしく、声はどんどん遠ざかっていく。
「アハハ、何度来たって同じだよ!そんな貧相な尾ビレで、海の中の人魚に勝てるワケないじゃん」
「またのお越しをお待ちしております」
余裕の声音がまた腹立たしいが、今はそれどころじゃない。
「く、くそ~!覚えてるんだゾ!」
グリムが月並みな捨て台詞を吐いたが、届いたかさえ分からなかった。