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他プリ春+わちゃわちゃ短編詰め合わせ

何日目になるだろうか、とカレンダーに目を向ける。
那月を守る名目で表に出たまま砂月が生活を送るようになって、随分と経ったように思う。
実際はほんの数日だ。だが、ほんの一瞬表に出る以外那月の奥底でたゆたっているだけの彼にとって、一日一日の濃さはとてつもないものだった。

ソファに身を沈ませて、深く息を吐く。心も体も疲れきっている。自然と吸い込んだ空気には紅茶の香りが混ざっていて、優しく沁み渡っていく気がした。
キッチンに立つ春歌が黙々と紅茶を入れているのだ。その音と香りを感じながら、砂月はぼんやりと天井を見上げた。

春歌は、那月のパートナーである。グループで活動している間はグループの専属作曲家として扱われるが、那月は自身の作曲家としてだけではなく、恋人としても春歌を選んだのだ。
春歌もそれに応え、更には砂月の存在も受け入れた。
那月と砂月の根本は同じだと彼女は言った。だが、だからといって二つの人格に等しく愛情を注げるほど器用な人間ではない。
きっともう限界だろう。春歌のそれは本来那月にだけ向けられるべきものだ。

いつ、那月を返せと言われるのだろうか。
彼女が悲しげに目を伏せる度、怯える自分がいる。それでも、砂月はこの数日を過ごし続けた。

「……俺は…消えようと思う」

沈黙の中こぼれ落ちたその言葉に、返答はなかった。目を閉じていても、彼女の静かな視線を感じる。砂月は皮肉げに口元を歪めた。
この別れは決して唐突なものではなく、砂月という意識がこの世界に生まれた瞬間から決まっていた事。その時が今だっただけだ。

この数日でもよくわかった。那月はもう一人ではない。早乙女学園で出会った仲間たちがいる。彼らと、そして春歌がいてくれさえすれば、那月は砂月が守らずとも自由に生きていける。この目で見て、体感してそれが確かめられれば、今度こそ消えると決めていたのだ。

いや、とそこで砂月の思考が一瞬止まる。守られていたのは砂月の方だったのではないか。
もうとっくに強さを得ている那月が、彼を守ることでしか存在できない弱い弱い砂月を包み守ってくれていたのではないか。
だとすれば。

広がる失望は痛みを伴い、胸元を強くおさえる。

「俺は…」

だとすれば、那月の成長を誰よりも阻んでいるのは、砂月だ。

「……砂月くん」

柔らかな声が、曖昧になりかけていた砂月の意識を捉える。目を開けると、予想通りの笑顔がすぐ側にあり、温かな手が、胸元を掴む那月のそれに重ねられていた。

「……」

離れろと言いたいのに声が出ない。
春歌の小さな手。魔法のような音色を生み出す細い指先。力任せに振り払うのは簡単なのに、かつてはそうしていたはずなのに、今の砂月にはもうできない。それが分かっているのか、どうせわかっていないのだろうが、葛藤する砂月を置いて、ふわふわした笑顔のまま春歌が言った。

「砂月くん…ライブをしませんか?」
「何…?」

意図が分からず眉を潜める砂月に、彼女は続ける。

「砂月くんも、皆さんと一緒にずっと頑張ってきた仲間です。消えてしまうとしても、仲間であることに変わりはありません。だからちゃんと皆さんの前で区切りをつけませんか?」
「区切り…」
「ライブといっても、大がかりなものではなくて…砂月くんを知っている方だけお招きして、それで」

触れあった手に力が入る。それが震えているのに気付いて、砂月は彼女を改めて見つめた。

「曲は…っ、砂月くんの、歌いたい曲にしま…しょ、う…ね?」

彼女は涙を流すまいと必死に堪えて笑顔を浮かべていた。
砂月の方が堪えられず、衝動に任せて彼女を抱き寄せていた。華奢な体は抵抗なく腕の中に収まり、程なく、涙に濡れた小さな声が漏れ聞こえてくる。

「分かっていました…砂月くんがいつか消えてしまうって…ここのところずっと砂月くんのままだったのは、その準備の為だったんでしょう…?」
「!」
「那月くんが成長するために必要なんだって…ちゃんとわかっています…でも」

腕の中で春歌が俯く。その拍子にポロポロと落ちる涙は止まる様子がなかった。
那月と共にいる時の春歌の幸せそうな笑顔が浮かぶ。出会った時から、那月はいとも容易く彼女の笑顔を引き出していた。
こうして泣かせてしまうのは、いつも砂月だ。

「砂月くん…」

春歌が顔を上げる。 潤んだ瞳が砂月を映し、切なげに細められた。

止せ。

砂月の脳内でそんな警告が聞こえる。だが、彼は止めなかった。その後に続く言葉が、砂月が今一番欲しいものだと分かっていたから。

「お願いします…もう少し…あと少しだけ、ここにいてください…」
「……っ」

砂月はゆっくりと春歌の涙を拭い、また彼女を抱き締める。
何度も何度も、目覚めの時を待っているはずの那月に赦しを請いながら。








目を覚まし、まだ自分の意識が表にある事に複雑な気分になる。
眼鏡はサイドテーブルに置き去りにし、リビングに向かう。

そこに、小さな寝息を立てている訪問者がいることに気付き、砂月は目を見開いた。

机の上には楽譜や音源データなどが散らばっていて、書類も書き込みだらけになっている。
自室に戻らず合鍵でここにやってきて、そして寝てしまったらしい。

「馬鹿か、お前は…」

呟いた声は掠れていて、幸い眠る彼女には届かなかったようだ。
とにもかくにも、ベッドまで運ぶため春歌を抱え上げる。柔らかで心地よい重みが、砂月の腕に、体にもたらされた。

砂月のライブの準備だけでなく自分の仕事もこなし、毎日激務なのだろう。寝入っている彼女は、これだけ動かしてもまったく起きる気配がない。安心しきった寝顔に、自然と満たされた。

那月は、春歌に心からの愛情を注いでいる。それは、誰の目にも明らかで、それが段々と彼に強さを備えさせていったのだろう。
それでも那月が時々不安定になるのは、砂月に対する優しさ故だ。
砂月もまた、春歌を求めて止まないから。
元は同じなのだから、同じ女性に惹かれたとて不思議はないのかもしれない。しかし、那月と砂月の春歌への想いは重ならない。
だから、不安定になる。

「ん…」

時折漏れる声に反応しそうになり、無意識に彼女の頬へ伸ばしかけていた手を止め、宙で握りしめる。
春歌と共に居ても、砂月の中には常に那月への罪悪感がある。
春歌にふさわしいのは那月。
そして、春歌が砂月を受け入れている素振りを見せるのも那月の為だ。

願ってはいけない。
彼女が欲しいなどと。
彼女は那月の隣にいるべきひとであり、那月も彼女の隣にいるべきなのだ。

そう思えば思うほど、笑顔を向けてくれる春歌が眩しくて、愛しくて、恋しくて、寂しくて。
結局いつも、傷付けて泣かせてしまうのだ。

「…さ…つき…く…」
「!」

春歌の、きつく閉じられた瞼から溢れる涙。

夢の中でも泣かせている。そんな自分が嫌になる。
それでも、彼女との永遠を願いたくなる自分がもっと嫌になる。

「…春歌…」

魘されて、何かにすがろうと宙をさ迷う小さな手。恐る恐るそれを引き寄せ、砂月は柔らかな掌に自身の唇を押し付ける。

永遠など願ってはいけない。
消える為に生まれてきた砂月には、最初から永遠など存在しないのだから。








照明は最低限だけ。
満月の月明かりが十分に届くから、彼の姿は幻想的に浮かび上がって見えた。
ステージに佇む砂月がメロディを歌い上げる。それだけで完成された一つの芸術作品のような美しさがある。

観客は、春歌、友千香、龍也と林檎、音也、翔たち同期6人と先輩の4人。
皆、それぞれ好きな席に座り彼の音楽に聞き入っている。

曲目は砂月が選び、音源は春歌が用意した。
本当はもっと本格的な生演奏をつけてやりたかったのに、砂月がいらないと言って聞かなかったのだ。

ロックから、壮大なバラードまで。多彩な声を操り、優しさと激しさとがないまぜになった彼の声が春歌の中に入ってくる。

区切りをつけようと提案したのは、彼の為ではなかった。
春歌が自分の為に必要だっただけだ。

春歌にとって那月は特別で、けれどいつの間にか砂月も同じくらい特別な存在になっていた。
心のどこかでずっと三人で音楽を紡いでいきたいという願いを持ち続けてきた。

二人に対する春歌の思いは、決して軽いものではなく、嘘偽り無い愛情だと思っている。何せ、初めて抱いた感情だ。戸惑う事も多いけれど、とてもとても大切な、手放せない気持ちだ。
砂月も那月も優しいから、そんな春歌のわがままに合わせてくれていた。
しかしその無理は、いつしか大きな歪みとなる。だから、近いうちに砂月から別れを告げられる日が来ると、予感していた。

「春歌…」

大丈夫かと目で問いかけてくる親友に頷きを返し、春歌は笑顔を浮かべて見せた。
砂月として迎える最後の瞬間まで、彼には笑顔の自分を見ていて欲しい。春歌はもう絶対に泣かないと決めたのだ。

砂月のライブで彼のフリートークなどという時間は存在しない。彼はただただ、歌い続けるだけだ。
歌の中に、彼の思いがすべてつまっている。

次の曲が始まる。
この曲が、最後。
春歌の心臓が早鐘を打つ。この曲が終わったら、砂月は那月の中に還る。ライブの前に彼がそう言っていた。
涙をこらえ、砂月を見詰める春歌。
しかし。

「きゃ…!?」

目を開けていられないほどの強い風が突如音楽堂を襲ったのだ。
それは一瞬の出来事だったが、その僅かな間に、春歌たちの目の前には信じられない光景が広がっていた。

「…え?」

何故か、たくさんの楽器が並んでいたのだ。
これは夢だろうか。皆が首をかしげるが、その間も音源は鳴り続けていて、月も煌々とステージを照らしている。

「…愛島、貴様…」
「む…ワ、ワタシは知りません…!」
「ほう? 珍しく褒めてやろうと思ったが俺の勘違いか」
「ヒニャッ…!」

よくわからないがそんな会話が聞こえる中、観客だった皆が吸い寄せられるように自分達の得意な楽器の前に立つ。
誰かが爪弾いた弦の音。それらが重なり、和音となり、音楽へと変わる。

砂月は目を見開いていたが、怒っている訳ではないようだった。
しばらく皆の演奏を聞いていた彼は、どこか諦めたような顔でその音に歌詞を乗せて歌い始めた。

今までのような激しさはない。とても穏やかで、綺麗で、切ない声だった。

春歌も、真斗に手招きされてピアノの前に立つ。時として纏まりのなくなる皆の音を導くように、夢中で鍵盤を叩いた。

「砂月くん…」

顔を上げると、砂月は笑っていた。
とても幸せそうに。

そして、彼の頬を一筋の涙が流れるのが、春歌には見えた。

「砂月くん…!!!」

春歌は立ち上がって、砂月に向かって手を伸ばす。

でも。

砂月は、その手を取ってはくれなかった。









紅茶の良い香りに誘われるように、春歌の意識が浮上した。
ソファに腰掛けて楽譜をチェックしていたのだが、いつの間にかうとうとしていたようだ。
落としてしまったペンを拾い上げると同時に、後ろから優しい声がした。

「ハルちゃん、お茶が入りましたよ」
「ありがとうございます、那月くん」

差し出されたティーカップを受け取り、春歌は微笑む。
那月もにこりと笑みを返して、隣に腰掛けた。
その分だけ少し沈んだ春歌の体を、彼の腕が自然に掬い上げる。

「わ…那月くん…」
「ふふ。ハルちゃんあったかいです」

力一杯の抱き締めではなく、今までに比べたら触れあう程度のそれは、意識してしまうと逆に恥ずかしい。緊張して紅茶を飲めなくなってしまった彼女を覗きこんだ那月が、眼鏡の奥にある優しげな目を細めた。

「どうしました?」
「な、なんでもないです…」

照れ隠しにどうにか一口含めば、たちまちその美味しさで気持ちがゆるんでしまう。やはり那月の紅茶は天下一品だ。

「お仕事、終わりそうですか?」
「先程提出した分でひとまず終わりでした。お返事待ちですが、少しゆっくりできますよ」

良かったです、と返す那月は本当に自分の事のように嬉しそうである。無邪気にも思えるその反応に癒されながら、春歌はまたティーカップを傾ける。

あの月夜のステージの最中砂月が居なくなってから、既に数ヵ月。目まぐるしく過ぎてしまったというのが正しいかもしれない。
けれどいつだって、春歌の中にはあの夜の彼の歌声が耳に残っている。流れていく涙が頭から離れないでいる。
春歌の中で、何一つ昇華されないまま、砂月は居なくなってしまった。

それを、那月に対して申し訳なく思う時もあった。
けれど、那月が言ったのだ。

『良いんですよ、それで』

どうしてでしょうか。
そう問いかけた春歌に、彼は答えてくれなかったけれど。
今はその理由が、何となく判るような気がしている。

「ねぇ、ハルちゃん」
「はい」
「僕はね、世界一の幸福者です」
「ふふふ。世界一ですか?」

ゆっくりと、ごく自然な流れでティーカップを取り上げられ、反対の手が春歌の髪を撫でる。
心地好くうっとりとしている春歌の耳元で、甘い声が囁く。

「そうです。大好きなハルちゃんが側にいて、一緒に歌を作ったり、こうしてお茶を飲んだりして…そして、僕が困ったときには、たくさんのお友だちが助けてくれるんです。ね? 幸福者でしょう?」
「……はい。そうですね」
「だから…俺は、この選択を後悔しない」
「…!?」

何か、聞き逃してはならない言葉を聞いた気がした。
覚醒して目を瞬かせるものの、すぐ横にある那月はいつも通りの綺麗な笑顔だ。

「那月…くん…?」
「なんですかぁ? ハルちゃん?」
「あ…えと…な、なんでもない…です」
「お茶、冷めちゃったからもう一杯いれますね」
「!」

軽いリップ音は、春歌の額から聞こえた。
真っ赤になって固まる春歌に艶然と微笑んで、那月が立ち上がる。

那月の中にまだ砂月がいる。そんな感覚がいつまでも抜けないのは彼のこの態度に戸惑ってしまうからだ。
そもそもが一つの人格であったので、きっとこれが本来の彼なのだろうが、今までの那月のスキンシップより心臓に悪いことこの上なく、しかも日に日に回数が増している。

純粋な欲求のように見えて、何か策があるような危うさが、時々恐ろしくなる。そんな今の彼に堕ちている自覚がある。
そしてその度に砂月を思い出して、那月の目の奥に彼を探してしまう。

那月の事を愛している。
同じだけ、砂月を愛していた。
不器用な春歌はまだ、その気持ちを一つのものとして見られない。
きっと那月はそれを分かっているから『それで良い』と言ってくれたのだと思う。

「那月くん…」

呼び掛けると、彼はキッチンから顔を覗かせた。
何と言うべきか少しだけ迷って、春歌はその優しい眼差しの前で立ち止まる。

「私も、世界一の幸福者です」

那月が側に居てくれて。こんなに迷ってばかりの自分を愛していてくれて。

「一緒に居てくれて、ありがとうございます、那月くん」

那月が腕を広げて微笑む。それは春歌のよく知る那月の笑みそのもので、安心感に包まれた勢いで、春歌はその腕の中に飛び込んだ。





【砂月消失編・裏】


大きな月から降り注ぐ光が、水面に一直線の道を作っている。音もなく、時間を止めたままの暗い海は、いつだって、痛いほどの静寂に満ちていた。

だから、その浜辺にちょんと座った那月が砂時計を返して遊んでいるのは、とても異質なものに見えた。

「那月…」

つい今まで、ライブで感じていた幸福感を胸の奥に潜ませ、砂月はそっと呼び掛ける。
二人が意識を持ったまま揃うなど、本来ならあり得ない。
この空間は、那月の奥底にある辛い記憶そのもので、砂月が生まれ、普段を過ごしていた場所。そして、砂月が表にいる間、那月が閉じ籠っていた場所。
砂月自身は、幾度となくここですやすやと眠る那月を見ていたが、これまで那月が目覚めた事などなかった。

砂を払いながら立ち上がった那月と向き合う。
ふわりと笑んだままの那月。
眉を寄せ、固く唇を引き結んだままの砂月。
同じ顔であるのは間違いないのに、対面しても別人のようなのがとても不思議だった。

「那月…」
「駄目ですよ」

ようやく言葉を紡ごうとした砂月の唇をおさえ、那月が優しく笑う。

「謝っちゃ駄目です。さっちゃんは僕の為に生まれてくれたんですから」
「けど…」
「謝るのは僕のほうです。さっちゃん、今までごめんね。そして、ありがとう」
「……っ」

するりと、優しく紡がれた謝罪と感謝。
とても嬉しいはずなのに、その言葉が胸に突き刺さるのは何故だろう。受け入れてしまったらぽっかりと穴が開いてしまいそうで、とても怖かった。
それを見て、那月が少し寂しそうに笑う。

「さっちゃんの歌…みんなとの音楽…全部聴こえていました。あんなふうにみんなに思ってもらえて、僕たちは、世界一の幸福者ですね」
「……ああ」

あのような仲間を得られたのは、那月が努力したからだ。那月は今度こそ、あの仲間たちと共に幸せにならなくてはいけない。

だから、伸ばされたあの手は取らなかった。
途中で意識を放してしまったが、まだライブは続いているはずだ。
二つの意識がここに揃ってしまうと、表では今どうなっているのだろうか。
また春歌を泣かせてしまったのは確実なのだろう。

「次にお前が目を開ける時は……俺はもういない」
「さっちゃん、それは違いますよ」

ゆるりと首を振り、那月は砂月の手をとった。無意識に固く握りしめていた砂月の拳を、優しく撫でる。

「僕たちは一緒に幸せになるんです。そうでなきゃ意味がない。いなくなるなんて悲しい言い方はしちゃダメですよ」

だから、と言葉を続けた眼鏡越しの視線の強さに、砂月は否定の言葉を飲み込むしかなかった。

「だから…僕にさっちゃんをください。さっちゃんが見てきたこと、感じてきたこと、伝えたかったこと……全部」

消えるのではなく、一緒になる。
那月が言いたい事は分かる。
だが、砂月が那月の中に還る事で大きな負担をかけるのは目に見えているし、その結果が彼にどんな変化をもたらすのか全く分からない。

今度こそ那月の心が崩壊してしまったら。この暗い海に飲み込まれてしまったら。
勿論、那月の事は信じている。大丈夫だと思うからこの決断をしたのだ。それでも、大事な那月の事となるとどうしても躊躇いが残る。
眉を寄せたまま考え込む砂月の目の前で、那月はただ微笑んでいた。

「……大丈夫。僕にはさっちゃんがいます。みんなだって、居てくれます。それにね、ほら、聞こえるでしょう?」
「! これは……」

指摘されるまで分からなかったその音色は、確かに一つ一つ、あの場にいた皆が未だ奏でているものだった。

「あいつら……」

暗い海に響くその音が、胸に蘇る熱が砂月の迷いを壊していく。

「僕たちの曲です。ハルちゃんが僕たちの為に作ってくれていた、新しい曲」

あの激務の中、仕事とは別にこっそりと春歌が書いていたのを、砂月は知っている。無茶をするなと言いたかったのに、楽譜と真剣に向き合う横顔を見たら何も言えず、少しずつ曲が完成していく様子はただただ楽しみだった。

哀しみが混ざった強く優しいメロディは、後半に掛けて空へと上るような盛り上がりをみせていく。
激しさと、優しさ。
砂月と那月の音が、重なって、融け合って、メロディを織り上げていく。

「ハルちゃんは、いつも僕たちの欲しい言葉を、欲しい音楽を……力をくれますね」
「……そうだな」

彼女と那月が出会えた事は奇跡だったのか、運命だったのか。
静寂を打ち破るその音色に導かれ、砂月は顔を上げた。

「…さぁ。みんなに会いに行きましょう、さっちゃん」
「…ああ」

こつんと額が合わさり、自然と瞼が降りる。暗い海しかなかったはずなのに、瞼に温かな光を感じる。
那月の体温は心地良くて、融け合っていく感覚は微睡みの中にいるようなふわりとしたものだった。

「那月……ありがとう」
「さっちゃん、ありがとう」

那月が微笑んでいるのが、目を開けなくても分かる。
そして、自分自身も。

さよなら。

ありがとう。


どうか、しあわせに。



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