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リュウトミルユメ

夏。といえばイベントである。
事務所のアイドルたちは連日のように各所のイベントに参加しており、事務所内の慌ただしさは祭りを通り越して嵐としか言いようがなかった。

時計を見れば、もう夜である。
誰も居ない事務所を見回して、茉莉はため息を飲み込む。
別に、夜遅くまで残業していた訳ではない。至って正規の労働時間だ。
もうすぐ、シャイニング事務所主催のフェスがあり、他の事務スタッフたちも総出でその準備に駆り出されている。
茉莉は万が一に備えての電話番として事務所で 待機するよう言われていたのだ。

しかし、時間的にはもう帰って良いはずだ。誰も帰ってこないが。

仮にイベント準備に向かってもてきぱきと動ける自信はないのでこの仕事の振り分けは正しいのだが、一人淡々と書類仕事をこなしながらの電話番は無力感が半端ではない。

「早く仕事覚えなきゃ……うぅ、どうしよう不採用だったら……」

フェスが終わる頃に、試用期間も終了だ。せっかくチャンスを貰えたのにふいにしてしまったら、と不安ばかりが募ってくる。

エアコンを消し、窓の戸締まりを確認しようと一旦ブラインドを開ける。
視界の隅を光が走ったような気がして、窓の向こうに目を向けた。
間違いなく、こちらに向かってきている。
揺らめくライトの動きから察するに、バイクのようだ。

「……日向さんかな?」

窓を開けて見ていると、バイクは事務所のすぐ横まで来て止まった。ヘルメットを取ってこちらを見上げてきた男性は、やはり龍也だった。

「まだ帰ってなかったのか? 他のやつは!?」
「いえ、まだ皆さん帰って来てないです!」

一階と二階なので、自然と声を張っての会話になってしまう。茉莉の返答を受けた龍也はなぜか沈黙してしまって、茉莉は出窓から見下ろしながら、どうすれば良いか分からずおろおろするしかない。
すると、それに気付いた龍也が「……そっちに行く。窓閉めとけ」と玄関に回り込んでいった。

急いでエアコンを入れ直し、半分消していた電気を点けるか悩んでいると、ちょうどスイッチ横のドアが開いて龍也が入ってくる。
ちらりと茉莉を見たその視線が壁にかかる時計に向く。

「あの、何かあったんでしょうか……?」
「ああ、ちょっとな……」

彼が電源を落としたばかりのパソコンを立ち上げ直しているのを見て、茉莉は事態を察した。
龍也はなにか緊急の案件があって事務スタッフに頼みに来たのだ。だと言うのにここには新人しかおらず、困っているのだろう。
無力感に襲われながら、せめてコーヒーくらいは差し入れて帰ろうかと泣きそうになっていると、龍也が難しい顔をして振り返った。

「あー……高田、残業はさせたくないんだが、もし可能ならこの後仕事頼めるか」
「えっ?」
「……何か、用があるか?」
「無いです! 全然!」

勢いよく首を横に振ると、龍也に手招きされて一緒にパソコンを覗き込む。
簡単に説明を受けて、それなら出来そうだと頷いていると、すぐ横から、龍也が申し訳なさそうに眉尻を下げてこちらを見ていた。

「すまねぇな。試用期間中だし、今までは残業にならない仕事だけ割り振らせてたんだが……」

そうだったんですか、と返しそうになって慌てて飲み込む。あれでかなり負担を減らされていたという事実に愕然としたが、考えてみなくても当たり前だ。お試しの人間にそこまで重要な仕事をぽんぽん与えたりしないだろう。

「どうせ帰ってもあとは寝るだけですから、気にしないで下さい。むしろお手伝いできる方が嬉しいです!」
「そうか。頼む」

ぽん、と頭を撫でられて、ドキリとしたものの笑って誤魔化す。
龍也はそのまま副社長室に向かおうとしたように見えたのだが、その足が途中でピタリと止まる。
肩越しに目が合い、なんだろうと見上げていると、彼は驚くべき事を口にした。

「残業で悪いついでに……その仕事、俺の所で処理して貰えないか。都度こっちと行き来するのも面倒だしよ」
「あっハイ!」

確かに、わからなければすぐに聞けるし、終わったら終わったですぐに渡せる。それに、使う部屋をひとつにした方が電気代も浮くというものだ。
ほとんど反射で返事をしてから、後付けでそんな事をぼんやり思った。

幸い、茉莉が使っているパソコンはノート型だったので、龍也のいる副社長室へ持ち込むのは簡単だ。
ソファに腰掛け、電源を確保しつつソファ横のテーブルをスライドさせて机にする。本来は飲み物などが置けるのだろうが、こういう時にも便利なソファである。

指示された内容を打ち直しながら、同時に内容を整理していく。
緊急の案件ではあるが、今皆が取りかかっているフェスの件ではなく、その先に控えているイベント関係の書類のようだ。

内容に大幅な変更が出たというより、使用する会場に変更が出ているので予算編成も考え直さなくてはならないし、スタッフや機材も以前のままでは足りないだろう。その為の社内会議の資料の作成を頼まれたようだ。
殆ど進んでいたはずの案件にこのような無茶苦茶な変更を強いた人物は、一人しか考えられない。

「日向さん、念の為確認なのですが、この変更指示したのって……」
「お前の予想は裏切らないと約束するぜ」
「わかりました……」

龍也の疲れ切った顔と返答で理解して、茉莉はそれについては何も言うまいとパソコン画面に目を戻す。
社長の突拍子のない行動にいちいち何か思っていたら身が持たない、というのがここで働き初めて最も納得した、先輩達からのお言葉だ。

「ええと、日向さん、余計な事かもしれませんが……この資料、もう少し詰めたもの作りませんか?」
「詰めた……って、できんのか?」
「はい、先日教わりましたし」

それに、こういった雑用は、柚木がいつもこなしているのを手伝ってきたのでやり方はわかるのだ。
それも伝えれば、彼はどうやら信用してくれたらしい。

「なら、頼みたいが……いや、時間が」
「帰りの時間は大丈夫ですよ、弟に迎えにきてもらいますし」

先程連絡を入れておいたら終わり次第連絡しろと返事が来ていた。最近車を運転するのが趣味になりつつあるようで、こういう機会があれば喜んで来てくれるとても便利な──いや、優しい弟なのだ。

にこりと笑って返し、資料の作成に取りかかる。予算編成をし直すにしても、時間がないなりに案をいくつか用意して詰めた方が良いに決まっている。
過去のデータを引っ張り出しながらキーボードを叩きはじめた茉莉に、龍也はもう何も言ってこなかった。
椅子にかけ直し、龍也が自分の仕事に取りかかる様子を盗み見て、茉莉はこっそりと微笑んだ。

「終わっ、た……」

結局、何度か龍也に助言を貰いながらの仕上げとなってしまった。
データを保存し、時計を見て既に朝方であることに気付きぎょっとする。
慌てて、手もとにあった携帯電話を見ると、弟からは『先に寝る。もう泊まっておいで』とメッセージが入っていて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

何より、部屋に居座ってしまったので龍也も休めなかったのではと顔を向けてみるが、仕事机には見当たらない。

「え……」

彼の姿は、茉莉の真横にあった。ソファに体を沈め、腕を組んだまま眠っているようだ。
そういえば、途中から隣に座って助言をくれていた記憶はある。思えばその時に彼の仕事は終わっていたのだろう。
茉莉はその後ずっと集中してパソコンに向かっていたのだが、彼はそのまま眠ってしまったらしい。

すっかり着崩しているシャツから覗く喉元は男性らしい逞しさで、近くで凝視してしまい思わず息を詰める。
つい数ヶ月前に結婚の演技をした相手なのだが、その時は緊張であまりきちんと彼を見ることは出来なかった。覚えているとしたら、キスシーン直前の彼の眼くらいだ。

やはりあれはとてつもなく幸運な出来事だったのだろう。
お陰で、今もこうして縁が繋がって、仕事もさせて貰えている。

じっと見つめていても、固く閉じた瞼は動く気配がない。眉間の皺がないせいか、いつもより少し幼く見えるのがなんだかおかしい。
疲れているだろうからこのまま寝かせてあげたい。が、せっかくなら横になって休んで欲しいところだ。
おそらくだが、今まで茉莉が占領していたこの大きなソファは彼のベッドになるのものなのではないだろうか。

いそいそと茉莉の荷物をソファから下ろし、悪いと思いつつ室内を物色してどうにか掛け布団を発見する。

「日向さん、横になってくださいね」

そっと呼びかけ、体を押してみる。起きることなく案外すんなりと横になってくれたので意外だ。
布団をかけて整えてやり、よし、と呟いてみる。やり遂げた感が凄い。

初電まではもう少し時間がある。しかし、茉莉は既に学んだので、この部屋で仮眠をとったりはしない。
もしそんなことをしたら怒られること間違いなしだ。
龍也の部屋から出て、事務室を見回してみる。
事務室は、事務員の仕事スペース、簡単な打ち合わせスペース、誰でも使えるフリーの仕事スペースと、飲食可の休憩スペース(よく林檎が寛いでいる)といった区切りになっている。

「はは、一択だよね」

休憩スペースのソファを借りる事にして、茉莉はゆっくりと身を横たえる。
達成感と疲労感でいっぱいの彼女の意識は、それから数分と経たずに夢の世界へと引き込まれていった。
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