リュウトミルユメ
事務所に戻るなり目に飛び込んできた光景に、龍也は動きを止めざるを得なかった。
柚木と林檎が、休憩スペースのソファでそれはもう楽しそうにコーヒーを飲んでいる。
それだけならまだなんとか流せたのだが、問題なのはその二人の間に困り果てた顔の茉莉が座っている事だった。
裏稼業の幹部とその愛人に囲まれ、怪しげな取引をさせられようとしていると言われたら信じてしまえそうな光景であったのだ。
「あ、おかえり龍也ー」
「柚木……これはどういう事だ」
眼光も声色も鋭くなっている自覚があったが、柚木には痛くも痒くもないはずなので構わない。
「いや~、今朝ね──」
「あ、あの…っ! すみません、私が居座ってしまっただけなんです!」
案の定、龍也の睨みなど欠片も気にした様子がない柚木が言い訳しようとしたのを遮って、茉莉が勢いよく立ち上がり、そのまま頭を下げた。
「ちょっと届け物をしただけなんです! お邪魔してしまってごめんなさい!」
「いや、俺は別に──」
「……あと、その……昨日も……大変失礼しました……」
「……」
恥ずかしそうに頬を赤く染めて俯く茉莉。言われた内容で昨夜彼女を抱えた感触を思い出してしまい、龍也もつい無言になる。
その無言を茉莉はまたしても勘違いしたようで、そろりと見上げてくる目は今にも泣きそうだった。
何か言ってやらねばと頭を働かせようとするが、横から林檎が茉莉を包むように抱き寄せるものだから、結局また彼女への言葉が出てこない。
「おい、林檎」
「違うわよ、龍也。あなたにお昼ご飯持ってきてくれたこの子を、アタシが見つけてここに連れてきたの」
「俺の?」
「うん、そう。僕が今朝受け取るの忘れたから、わざわざ来てくれたんだよ」
「で、ですけど、こんな時間まで話し込む必要はなかったので…」
柚木と林檎が強引に引き留めたのだというのは聞かなくても分かる。龍也は首を振ると、意識して表情を和らげた。
「最初からお前には怒ってねえよ。悪かったな、こんな時間まで引き留めさせちまって」
そう言うと、茉莉は微笑を返してくる。林檎がにやにやしてこちらを見ているが無視した。というか、いつまで彼女にくっついているつもりなのだろうか。
「いえ、今日は何も用事ないですし…あ、ランチ食べてくださいね!」
「さっき柚木ちゃんの分見せてもらったけど美味しそうよね~。しかも具材はある程度リクエスト出来るんでしょ? アタシも頼もうかしら」
「はい、元々メニューに、女性に人気のヘルシーなのもありますよ!」
「ほんと? じゃあ今度、茉莉ちゃんがいる時に行かせてもらうわ! このコーヒーとっても美味しかったし!」
勝手に盛り上がる二人に置いていかれていると、さっと側に立った柚木がコーヒーカップを掲げて見せてきた。
「これね、茉莉に淹れて貰ったんだ。同じようにやってるはずなのにすごく美味しいんだよ。せっかくだから龍也も淹れてもらえば?」
「…お前がそこまで言うなら…そうだな、頼めるか? 高田」
「えっ、は、はい!」
茉莉が給湯室に入っていく。それを見送る間に、柚木が保冷バッグから出した袋を龍也に差し出す。茉莉が持ってきてくれた分という事だろう。
受け取って中を確認していると、向かいに座っていた林檎が身を乗り出してきた。
「ねえ龍也。今ね、あの子の進路について聞いてたんだけど、事務職希望だって言うから、ウチで働いてもらえばいいんじゃないかしら」
「はあ? あのな」
「僕も賛成だよ。茉莉が良い子で良い人材なのはもう分かってるし、芸能界に全く耐性がない訳じゃない。そしてこの事務所、人手不足だよね」
龍也は頷かなかったが、柚木を強引に他事務所から引っ張ってくるくらい人手不足であるのは事実。手の空いている作曲家や新人が手伝う事もしばしば、という有り様だ。
だが、軽々しく募集はできない。アイドルに近づきたいだとかそういった不純な動機で入ってこられては困るし、そんな状態でこなせる仕事量ではないのだ。
雇い入れて教育して、それで問題が起きて辞められてでは、それまでかけた時間も労力も全部無駄になってしまう。龍也はそれが嫌だった。
茉莉の人となりは、柚木から聞いていたし、実際会ってみて裏表のない性格なのは分かっている。何より、昨日の打ち上げの話を聞くに、特別アイドルに憧れているだとか、そういう様子ではなく普通に接する事ができるのが良い。素直なのでとても鍛え甲斐がありそうだとも思う。
「……いや、そういうのは、本人の意思を聞かずに決めることじゃないだろうが」
「え、じゃあ、やる気があったら雇ってもらえますか!?」
弾んだ声がして振り返れば、いつ戻ったのか、盆にコーヒーカップを乗せた茉莉が立っていた。彼女はさっと龍也の座るソファの方まで来ると膝をつき、カップをテーブルに置いた。弟の店を手伝っているだけあってその動きに無駄はない。
そして盆を胸に抱え直すと、期待に満ちた笑顔を向けてきた。
「やる気はあります! 未経験ですけど!」
「……だろうな」
「でもまずちゃんと面接して頂いてからですよね……あ、履歴書を…書類選考からでしょうか……それとその前に電話で申し込みが必要ですか?」
「なんでだよ。今、目の前にいるだろうが」
「うぅ、そうなんですけど……」
最初の勢いと裏腹にどんどん自信を無くして手段が遠回しになっていくのがおかしくて、龍也は思わず吹き出した。
茉莉は相変わらず真っ直ぐ龍也を見上げている。ソファに凭れながらその目を見つめ返し、彼は問いかけた。
「ウチは厳しいぜ。なにせ、社長があんな滅茶苦茶なおっさんだからな。加えて、抱えてるアイドルたちも癖のあるやつばっかだ。それでもついてこれるか?」
「はい。勿論、すぐには戦力になれないかもしれませんが……でも、ずっと柚木さんに支えていただいて、お仕事の様子も見てきましたから……ぜひ、こちらで働かせてください」
こんな事を突然言われた柚木の方はあえて見ないようにした。
柚木が優秀なのは昔からだ。人を支える事にこれほど長けている人材はなかなか見つからない。だが、この男が元にいた事務所は彼を雑用係同然に扱い、マネージャーとしてついていたのは茉莉の他にいない。聞いたときは何という勿体ない事をしているのだと思ったし、そもそもの扱いに憤りを感じた。ずっと引き抜きの機会を狙っていたのだ。
面と向かって言うと今のような展開になるので絶対言わないが。
ぐす、という誰かの啜り泣きは無視して、龍也は体ごと茉莉に向き直った。
「すぐに本採用は出来ないが、試用期間を設けて、それで判断する。良いか?」
「はい、宜しくお願いします!」
宜しくな、と返して、必然的にお預け状態になっていたコーヒーをようやく口にする。
少し温くなってしまっていたが、茉莉が淹れたコーヒーは確かに美味かった。
柚木と林檎が、休憩スペースのソファでそれはもう楽しそうにコーヒーを飲んでいる。
それだけならまだなんとか流せたのだが、問題なのはその二人の間に困り果てた顔の茉莉が座っている事だった。
裏稼業の幹部とその愛人に囲まれ、怪しげな取引をさせられようとしていると言われたら信じてしまえそうな光景であったのだ。
「あ、おかえり龍也ー」
「柚木……これはどういう事だ」
眼光も声色も鋭くなっている自覚があったが、柚木には痛くも痒くもないはずなので構わない。
「いや~、今朝ね──」
「あ、あの…っ! すみません、私が居座ってしまっただけなんです!」
案の定、龍也の睨みなど欠片も気にした様子がない柚木が言い訳しようとしたのを遮って、茉莉が勢いよく立ち上がり、そのまま頭を下げた。
「ちょっと届け物をしただけなんです! お邪魔してしまってごめんなさい!」
「いや、俺は別に──」
「……あと、その……昨日も……大変失礼しました……」
「……」
恥ずかしそうに頬を赤く染めて俯く茉莉。言われた内容で昨夜彼女を抱えた感触を思い出してしまい、龍也もつい無言になる。
その無言を茉莉はまたしても勘違いしたようで、そろりと見上げてくる目は今にも泣きそうだった。
何か言ってやらねばと頭を働かせようとするが、横から林檎が茉莉を包むように抱き寄せるものだから、結局また彼女への言葉が出てこない。
「おい、林檎」
「違うわよ、龍也。あなたにお昼ご飯持ってきてくれたこの子を、アタシが見つけてここに連れてきたの」
「俺の?」
「うん、そう。僕が今朝受け取るの忘れたから、わざわざ来てくれたんだよ」
「で、ですけど、こんな時間まで話し込む必要はなかったので…」
柚木と林檎が強引に引き留めたのだというのは聞かなくても分かる。龍也は首を振ると、意識して表情を和らげた。
「最初からお前には怒ってねえよ。悪かったな、こんな時間まで引き留めさせちまって」
そう言うと、茉莉は微笑を返してくる。林檎がにやにやしてこちらを見ているが無視した。というか、いつまで彼女にくっついているつもりなのだろうか。
「いえ、今日は何も用事ないですし…あ、ランチ食べてくださいね!」
「さっき柚木ちゃんの分見せてもらったけど美味しそうよね~。しかも具材はある程度リクエスト出来るんでしょ? アタシも頼もうかしら」
「はい、元々メニューに、女性に人気のヘルシーなのもありますよ!」
「ほんと? じゃあ今度、茉莉ちゃんがいる時に行かせてもらうわ! このコーヒーとっても美味しかったし!」
勝手に盛り上がる二人に置いていかれていると、さっと側に立った柚木がコーヒーカップを掲げて見せてきた。
「これね、茉莉に淹れて貰ったんだ。同じようにやってるはずなのにすごく美味しいんだよ。せっかくだから龍也も淹れてもらえば?」
「…お前がそこまで言うなら…そうだな、頼めるか? 高田」
「えっ、は、はい!」
茉莉が給湯室に入っていく。それを見送る間に、柚木が保冷バッグから出した袋を龍也に差し出す。茉莉が持ってきてくれた分という事だろう。
受け取って中を確認していると、向かいに座っていた林檎が身を乗り出してきた。
「ねえ龍也。今ね、あの子の進路について聞いてたんだけど、事務職希望だって言うから、ウチで働いてもらえばいいんじゃないかしら」
「はあ? あのな」
「僕も賛成だよ。茉莉が良い子で良い人材なのはもう分かってるし、芸能界に全く耐性がない訳じゃない。そしてこの事務所、人手不足だよね」
龍也は頷かなかったが、柚木を強引に他事務所から引っ張ってくるくらい人手不足であるのは事実。手の空いている作曲家や新人が手伝う事もしばしば、という有り様だ。
だが、軽々しく募集はできない。アイドルに近づきたいだとかそういった不純な動機で入ってこられては困るし、そんな状態でこなせる仕事量ではないのだ。
雇い入れて教育して、それで問題が起きて辞められてでは、それまでかけた時間も労力も全部無駄になってしまう。龍也はそれが嫌だった。
茉莉の人となりは、柚木から聞いていたし、実際会ってみて裏表のない性格なのは分かっている。何より、昨日の打ち上げの話を聞くに、特別アイドルに憧れているだとか、そういう様子ではなく普通に接する事ができるのが良い。素直なのでとても鍛え甲斐がありそうだとも思う。
「……いや、そういうのは、本人の意思を聞かずに決めることじゃないだろうが」
「え、じゃあ、やる気があったら雇ってもらえますか!?」
弾んだ声がして振り返れば、いつ戻ったのか、盆にコーヒーカップを乗せた茉莉が立っていた。彼女はさっと龍也の座るソファの方まで来ると膝をつき、カップをテーブルに置いた。弟の店を手伝っているだけあってその動きに無駄はない。
そして盆を胸に抱え直すと、期待に満ちた笑顔を向けてきた。
「やる気はあります! 未経験ですけど!」
「……だろうな」
「でもまずちゃんと面接して頂いてからですよね……あ、履歴書を…書類選考からでしょうか……それとその前に電話で申し込みが必要ですか?」
「なんでだよ。今、目の前にいるだろうが」
「うぅ、そうなんですけど……」
最初の勢いと裏腹にどんどん自信を無くして手段が遠回しになっていくのがおかしくて、龍也は思わず吹き出した。
茉莉は相変わらず真っ直ぐ龍也を見上げている。ソファに凭れながらその目を見つめ返し、彼は問いかけた。
「ウチは厳しいぜ。なにせ、社長があんな滅茶苦茶なおっさんだからな。加えて、抱えてるアイドルたちも癖のあるやつばっかだ。それでもついてこれるか?」
「はい。勿論、すぐには戦力になれないかもしれませんが……でも、ずっと柚木さんに支えていただいて、お仕事の様子も見てきましたから……ぜひ、こちらで働かせてください」
こんな事を突然言われた柚木の方はあえて見ないようにした。
柚木が優秀なのは昔からだ。人を支える事にこれほど長けている人材はなかなか見つからない。だが、この男が元にいた事務所は彼を雑用係同然に扱い、マネージャーとしてついていたのは茉莉の他にいない。聞いたときは何という勿体ない事をしているのだと思ったし、そもそもの扱いに憤りを感じた。ずっと引き抜きの機会を狙っていたのだ。
面と向かって言うと今のような展開になるので絶対言わないが。
ぐす、という誰かの啜り泣きは無視して、龍也は体ごと茉莉に向き直った。
「すぐに本採用は出来ないが、試用期間を設けて、それで判断する。良いか?」
「はい、宜しくお願いします!」
宜しくな、と返して、必然的にお預け状態になっていたコーヒーをようやく口にする。
少し温くなってしまっていたが、茉莉が淹れたコーヒーは確かに美味かった。