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Voyage

 石造りの美しい街並み。カフェの一席に座る黒髪の少年は、その中で少し目を引いた。
 あまり見ない異国の顔立ちというのもあるが、何より、彼が身に付けている三つ揃いの制服が、彼が上の街の人間で、貴族の身分である事を示している。貴族は下の街には来ない。まして、このような路地裏のカフェで寛いだりしないのだ。
 そんな周囲の視線に気付いているだろうに、少年は気にした様子もなく手元の本に目を落としている。それは真剣な表情で、どこか切羽詰まったような空気さえ醸している。

「セシルさん」

 柔らかい呼び掛けと共に、彼の前の席にやって来た一人の少年。セシルは、嬉しそうに目を細めて立ち上がった。

「トキヤ。久しぶりです」
「ええ、お久しぶりですね」

 二人が再び席につくとそこに給仕がやってきて、トキヤは水とコーヒーを、と告げてセシルに向き合う。

「勉強は順調ですか?」
「う……なんとか、マサトに助けてもらっています」
「ふふ、そのようですね」

 ばつが悪そうにセシルが手元の本を開いて見せる。参考書らしきそれは、セシルとは違う筆跡でたくさんの書き込みがしてあった。
 ぽつりぽつりと、そのまま本を覗いて内容を話している二人の頭に影が差し、慌ただしい音を立ててもうひとつの椅子が引かれた。

「悪い! 遅くなった!」

 ショウだ。走ってきたらしく、座ってもなお息を切らせている彼に、トキヤは先程給仕が運んできた水を渡す。

「お仕事お疲れ様です、ショウ」
「おう、サンキュな」

 三ヶ月に一度程度、彼らはこうして顔を合わせる。トキヤは学生、ショウは新聞記者、そしてセシルは、上の街の貴族に養子として引き取られていた。
 オトヤが居なくなったあの日から、既に、五年が経過している。三人は時折こうして顔を合わせながら、それぞれの道を歩いている。
 ずっと、心に同じ思いを抱えながら。

「それで、とっておきの情報というのは?」

 互いの近況を報告しあった後、トキヤが声を潜めて慎重に切り出す。今回の待ち合わせは、ショウから急に連絡を貰ったからだ。

「ああ……」

 ショウが、鞄から自身の取材用と思われるノートを取り出す。開いたページには、びっしりと文字が書かれていた。ショウの指が一文を指し示す。

「なんでも、リンちゃんのパン屋、新作がかなり自信作らしい。さっき取材してきたんだぜ。ほら、看板商品のアップルパイの新作」

──次の満月の夜、王都で夜会が開催される

「なるほど、アップルパイですか」

──主要な貴族は街から居なくなる

「生地と素材に今回相当こだわったらしくてさ」

──研究所のほとんどの研究員も招かれてるって話だ

「カロリーが気になるところですが……」
「相変わらず厳しいよなトキヤは」
「それを忘れさせてしまう美味しさなのが悔しいところですね」
「そのコメントいいな、記事に採用して良いか?」

──潜入するならこの日しかない

 トキヤとショウが、器用に口先で別の会話をしているのを聞き流しながら、セシルは一生懸命示された文字を追いかける。
 喉から手が出る程欲しい、研究所の情報。そして、ショウが考えた諸々の推測、指示。漏らさず覚えようとじっと見つめているセシルを、二人が覗きこむ。

「セシルさん、どうします?」
「え」
「アップルパイ試食しに、行くか?」

 その問いかけは、実際の試食だけではなく、潜入の事も指しているのだろう。セシルは勿論、頷いた。
 諦めたくない。その一心で、今日まで生きてきた。
 やはり、あれ以降もずっと子どもは居なくなっている。上の街の人間となって、それはより身近な出来事になった。大人たちは皆それを喜ぶ。子どもたちは皆口をつぐむ。上の街は、下の街に比べたら、とてつもなくいびつで、閉塞感に満ちた世界だ。
 パン屋に向かい、三人で目的のアップルパイを購入する。余ったパンのおまけ付きだ。余り物だと言いながら相変わらず可愛らしくラッピングされていて、三人とも、子どもの頃と変わらぬ扱いなのが嬉しかった。
 店から出たところで、大通りに見覚えのある車が留まっているのに気付く。トキヤとショウに顔を向けると、二人は分かっていると言うように軽く微笑み返してくれる。

「またな、セシル」
「はい、次は……」
「ええ、また今度」

 満月の夜に。
 口には出せない約束の日。三人で頷き合って、別れを告げる。
 走らないよう気を配り、最速で歩いて車に近づくと、側に立っていた執事がドアを開けてくれる。既に座席にいるその人へ、セシルは笑みを向けた。

「マサト、ただいま戻りました」
「ああ、おかえり」

 マサトは、セシルが引き取られた家の現当主。セシルにとって義理の兄となる人だ。トキヤとは幼少の頃から同じ学習塾で知り合いだと聞いているが、マサトは由緒正しい貴族の生まれで、上の街の人間だ。
 周りに厳しく、それ以上に自分に厳しい。そう振る舞ってはいるが、実際は情に厚く、義理の弟であるセシルに対しとても優しく接してくれる。
 実は、セシルを聖川家の養子にと持ちかけたのは彼だ。オトヤを失い、色を失くした日々を送るセシルに彼は言ったのだ。

『救いたい人がいるのだろう。その為に、俺を利用してみないか』

 いざというとき、上の街に詳しくなっていた方が何かと動きやすい。何より、マサトはその時、次期当主として既に権限を持ち始めていた。トキヤとショウにも相談して、結局セシルはマサトの誘いに乗ることにした。
 全ては、あの研究所からオトヤを取り戻すため。

『俺にもお前を利用する理由がある。だから……あまり気に病まずとも良い』

 マサトはそうとも言っていた。それがどのような理由で、どう利用するつもりなのか、セシルは知らない。たくさん良くしてくれるけど、その事を考えると本当に心から信頼できるとは言えない。だから、今度の潜入について話す事は出来なかった。恩のあるマサトに対して嘘をつく事に、心が痛む。

「うん? どうした?」 

 じっと見ていたからか、マサトが首を傾げて訊いてきた。セシルは、手に持っていた袋を指し示す。

「あの、アップルパイを買いました。帰ったら一緒に食べませんか」
「そうか、頂こう」
「ハイ」

 セシルに微笑んだ後、前を向いたマサトの凛とした横顔からは、何の感情も読み取れない。これ以上緊張を悟られぬようにとセシルもそっと前を向く。
 マサトもまた、横目でその様子を見ていたことに、セシルは気づかなかった。



「今日は、ここまでにしようか」
「えっ……」

 少しだけ、呆れたような声音で告げられ、セシルはドキリとして顔を上げた。
 さらりと長い髪を揺らし、目の前の友人がセシルを見つめている。
 マサトを介して、上の街に来てから知り合った彼は、いつも余裕綽々で、優雅で、焦ったりすることなど無いように見える。幼馴染みのマサト相手だと派手に喧嘩することもあるらしいが、セシルに対してそういった態度をとったことは無い。いつでも、完璧なお兄さんだ。
 その彼が、困ったように微笑んでいる。

「あの、レン」
「今日のセッシーは、ずっと上の空だね」
「……すみません」

 すべては、この日の為。幾度も幾度も思い描いていた作戦決行の日がやってきて、セシルは完全に浮き足立っていた。指摘を受け、このままではいけないと真摯な気持ちで頭を下げる。

「レン、すみませんでした。もう一度、お願いします」

 レンには、上流階級特有の言い回しやマナーについて教わっている。聖川家ではパーティーも開かれる為、慣れないうちは、挨拶回りで忙しいマサトの代わりにレンがずっと側で守ってくれていた。最近は、一人でなんとかできるようになってきたと思っているが、レンにはいつも見透かされてしまう。
 だが、今日の事だけは別だ。レンを、マサトを、巻き込んではいけない。彼らには何も知らないままで居てもらわなければ。
 気持ちを切り替えたセシルをしばらく見つめた後、レンは表情を和らげた。

「……そう。じゃ、続けるよ」

 その優しい声音が何故か少し悲しげだった事には、気づかないふりをした。



 僅かな音を拾って目をやると、そこにショウとトキヤがいるのが見えて、セシルは逸る胸を抑えながら二人に近づいた。

「いよいよですね」
「覚悟は……決まってるよな」
「勿論です」

 頷きあって、三人は暗闇を移動する。目的地までの最短ルートは何度もシミュレーションしてきた。トキヤの先導で、セシルを挟んでショウが背後に気をつけながら進んでいく。上の街までは、セシルの導きですぐに入れた。あとは、研究所へ行くだけだ。上の街は背の高い建物が多く、下の街に比べ格段に区画整備が進んでいるので迷うような道ではない。それでも、探せば抜け道はあるものだ。
 トキヤがすっと手を上げて立ち止まる。静まり返った影の向こうに、周囲の建物にはない、一際高い塀がある。

「情報通り、人が少ないな」
「ええ」

 研究所の入口には普段、昼夜問わずもっと多くの警備員が立っている。それが、今日は明らかに少ない。使用人の通用口であろう裏口側に回れば、それはもっと顕著だった。

「行くぞ」

 一番素早いショウが先陣を切って走っていく。離れた距離にいる警備員の死角を縫ってすいすい近づくと、あっという間に塀によじ登り、その姿が向こう側へ消える。昔から抜群の運動能力を持っていたが、まるでニンジャのようだ、とセシルはどこか呑気なことを思いながら合図を待つ。

「無事に行けたようですね」
「ハイ」

 程なく、塀の向こうからロープで出来たはしごが垂れ下がる。トキヤと頷きあい、二人も塀に近づいた。ちらりと、遠目に確認した警備員は欠伸をしているように見える。大丈夫、行ける。

「急いで」

 先に上がったトキヤに引っ張られながら、セシルも塀の上に乗り上げる。勢いを殺しながら飛び降り、はしごを回収して草むらに隠した。
 潜入成功。三人が顔を見合わせたその時、辺りにけたたましいサイレンの音が響き渡る。

「来たか……遅いくらいだぜ」

 ペロリと、むしろ楽しそうに唇を濡らしたショウが、警報により慌ただしくなった門の辺りを見据えている。

「二手に別れるぜ。俺は思いっきりここで暴れとくから」
「怪我だけはしないように」
「それはあいつら次第だけど、ま、お互いにな。じゃあな、トキヤ、セシル」

 ショウは、闇に紛れて走っていく。その手に持っていた何かを宙に投げると、それは派手な爆発音と共に火花を放つ。爆弾ではなく、下の街でも買える子供向けの爆竹である。だが、不意打ちには良い。

「さあ、こちらも行きますよ」
「は、はい」

 ショウのことは心配だが、彼の陽動を無駄にしない為、進まなくてはいけない。研究所の見取り図を頭に入れているトキヤが、裏口らしき扉に手をかけ、中の様子を探っている。

「人の気配は大丈夫そうですね……少し、離れて……そう、そのあたりに」

 裏口といえど、さすがに鍵が掛かっている。鍵開けは任せてくださいと、事前にトキヤが言っていたのでセシルは言う通り、茂みに身を隠した。

「はっ!」

 小さく掛け声をかけて、トキヤが扉を蹴り破る。実は、ショウがばら撒いている大量の爆竹音とタイミングを合わせての行動だったが、セシルはこの時驚きすぎてそこまで気づいていなかった。

「えっ」
「開きましたね! 行きますよ!」
「えっ」

 鍵開けとは。混乱しながら、急かされたセシルはトキヤの後に続く。
 建物内は、予想以上に閑散としていた。ここで働く人々は、全員が常駐している訳ではなく、夜になれば帰る家がある者がほとんどだ。そして、この研究所内で暮らす僅かな者たちの多くは、今日は王都にいる。
 似たような扉が続く中、トキヤは素早く中を検めながら走っていく。セシルも、見落としが無いか、そして追っ手がかからないか、注意しながら進んでいく。階段をかけ上り、踊り場を通り抜けると、急に眩しさを感じで思わず顔を背けてしまった。

「セシルさん!」

 前から聞こえた緊迫したトキヤの声。いけない、と目を向けた先に見えたのは、大きな窓、階段を明るく照らす大きな満月、それを背に、こちらに手を伸ばすトキヤの影、そして、

「トキヤ!」

 トキヤの後ろに並ぶ大勢の影。その一つが、トキヤと重なろうとしている。待ち伏せされていた、と考えるより他はない。このままでは、捕まってしまう。
 いやだ!
 伸ばした手が、互いに触れ合う。その瞬間、トキヤとセシルの立ち位置は入れ替わっていた。

「セシ……っ?」

 驚愕に目を見開くトキヤの顔が、満月の光で照らされる。
 良かった、と頭の何処かでほっとしている自分の声が聞こえる。もしかしたら、実際に呟いていたのかもしれないが、耳鳴りがしていてよく分からなかった。頭が痛み、視界がぐらぐらして、なによりとても、眠い。
 セシルは、目を閉じる。きっとこのまま自分は捕まってしまうのだろう。来たる衝撃を覚悟しつつも、起きていることは出来なかった。意識が、離れる。
 どさっ。

「!」

 盛大に尻餅を着いて、セシルは目を覚ました。どれくらいの時間が経ってしまったのだろう。そう思って立ち上がって、違和感で首を傾げた。
 セシルは今、独りで階段に立っているのだ。
 大きな満月は、まだ階段の向こう、窓の外で輝いている。

「トキヤ?」

 不気味なほどの静けさに、恐怖が押し寄せてくる。気を紛らわせるように自分の服をぎゅっと握り、階段をゆっくりと登ってみる。足音が響き渡り、身体が震えた。

「ショウ?」

 外であんなに派手に鳴っていたはずの爆竹も、もう聴こえない。追っ手の姿も、何も見えない。
 どうして、誰もいないのか。当たり前の疑問だが、その答えが分からない。訳が分からないまま、それでもセシルは進むしかなかった。 

「オトヤ……」

 不安で押しつぶされそうになり、涙が溢れる。月明かりに照らし出された誰もいない廊下をひたすら歩き続ける。夢でも見ているのではないか、夢ならば、こんな悪夢なんて、早く終わってほしい。
 静かに泣きながら辿り着いたそこは、建物の角。かなりの大きな部屋があるのだろうと推測できる、両開きの大きな扉がついていて、すぐ横にセキュリティロックらしき電子版がついているが、通電しているようには見えない。もしかして、ロックは使っていないのかもしれない。涙を拭い、扉を見つめる。
 ここだ、と直感が告げている。この先に、探し続けた存在がいる。
 意を決して扉に手を置くと、驚くほどすんなりと開いてしまった。
 室内は少し薄暗いが、あちこちに間接照明の灯りがついていて、中を観察するには十分だ。奥に見える、大きな寝台。その手前には白衣を着た男が立っていて、彼は特に驚いた様子もなく、立ち尽くすセシルを見つめている。

「また、会いましたね」

 ふんわりとした金の髪、眼鏡の奥に見える、柔らかな碧の瞳。低すぎず高すぎない、美しい声がセシルに向けられた。
 ああ、やはり、彼が。
 ドクン、と心臓が跳ねる音が聴こえてくる。

「ハイ。また、会いましたね」

 五年前のあの日、ほんの数秒きりの邂逅ではあったが、彼のことはずっと覚えていた。研究所にいる、同じ年頃の少年。

「あの時は、名乗りませんでしたね。ワタシはセシルといいます」
「セシルくん。ぼくは、ナツキです」
「ナツキ……」 

 続けたかった言葉は、ナツキの後ろに広がる光景を目の当たりにした所で霧散してしまった。
 オトヤ!
 ずっとずっと探してきた存在が眼前にある。なのに、喜べない。
 寝台に横たわるのは、確かにオトヤだった。身体には様々なチューブが繋がれ、周囲にはたくさんの機械があって、何かの波形や数値を表示している。 

「……オトヤ、なん、で……」

 何故、ナツキが、オトヤを苦しめているの。
 ショックでまともに言葉が紡げないセシルをどう解釈したのか、泣きそうな彼とは反対に、ナツキは静かに笑みを浮かべていた。

「どうしても会いたい人がいるんです。もう一度会いたい。会って話がしたい。だからぼくは、願いを叶えてくれる人を探しています。その願いを叶える『力』を持つ人を。オトヤくんはね、ぼくの願いを叶えられるかもしれなくて、それでこうして一緒に頑張っているんです」

 ナツキの表情はどこか作り物めいていて、とても硬い。それでも、淡々として聞こえるその声に、悲痛な思いを感じ取る事は出来た。
 オトヤに目を向ける。共に暮らした時には見たこともなかったような暗い横顔で、きつく閉じられた瞼の下には遠目にも分かるほど隈が刻まれている。悲しみで、セシルの胸がぎゅっと締め付けられた。

「……ワタシがつらい時、オトヤが一緒にいてくれた。どんなに迷っていても、一緒に前に進もうと笑って導いてくれた。オトヤはワタシにとって光そのもの」

 何もかも分からないまま手に入れたのが、オトヤや皆とのあの暮らしだった。毎日笑って、とても幸せだった。オトヤを連れ去られてから、セシルの世界は色褪せてしまった。だけど、オトヤを必ず見つけると、トキヤとショウと約束したから、なんとか生きて来られた。

「ナツキの、その『会いたい』気持ちは、もしかしたらワタシと似ているのかもしれない。でも……」

 オトヤから無理やり視線を引き剥がし、セシルはまっすぐにナツキを見上げる。

「ワタシからオトヤを奪ったのは、ナツキです」

 彼が願わなければ、あの日あの時、オトヤはいなくなったりしなかったかもしれない。あの幸せな日々が、奪われる事など無かったかもしれない。そんな思いから、セシルの中に怒りが生まれる。
 聖川の家に引き取られてからずっと、感情は抑えるものだと教え込まれてきた。オトヤを失ったセシルは最初脱け殻のようで、然程労せずその教えを受け入れ、実践してきた。けれど今、久しく眠っていた感情が爆発しようとしていた。
 セシルの言葉を聞いたナツキは、ハッとして身を強ばらせていて、セシルは、ようやくナツキがこちらを見てくれたような気がした。

「ナツキ……」
「そこまでだ!」

 セシルの言葉を遮り、派手な音を立ててドアが開かれる。武装した男たちが次々と入ってきて、無駄のない動きでセシルたちを取り囲む。

「セシル! 無事か!」

 廊下から、マサトの声がする。ということは、これは彼が動かした部隊の者たちなのだ。彼らはあっという間にナツキを捕らえて、どこかへ連れていこうとしている。

「待ってください! まだ、話がっ!」

 追いかけようとして、隊員の一人に止められてしまう。抵抗しようとしたが、すぐ前に誰かが立ったのが分かり、セシルはそちらに顔を向ける。やはり、そこにいたのはマサトだった。

「話は帰ってから聞こう。一緒にいた二人も保護している」

 マサトが冷静に告げているが、その目に怒りの感情があるのはよくわかる。悲しくなり、何も言えなくなったセシルは、そのまま施設から連れ出された。
 入口に横付けされた車へ乗るように指示される。転がり込むように後部座席に乗り込んだが、その先で誰かにぶつかって止まった。

「大丈夫ですか?」
「トキヤ! 無事だったのですね!」

 受け止めてくれたのはトキヤだった。変わらぬ優しい眼差しに、安堵が広がる。

「はい。貴方も無事でなによりです」
「俺もいるぜ!」

 トキヤの奥からショウも顔を出し、彼とも無事を喜び合う。そうしているうちに車が発進して、セシルは慌てて後方へ目を向けた。施設の出入口付近で、隊員に両脇から支えられているナツキが、静かに項垂れているのが見える。

「ナツキ……」 

 ぽつりと名を呼ぶセシル。トキヤとショウも、遠ざかるその光景をずっと見つめていた。



 保護されたオトヤは意識を失っていたが命に別状はなく、ひとまずマサトの屋敷に運び込まれた。
 トキヤとショウは、一緒に屋敷にやってきてそのままレンとマサトと何事か難しい話をしている。現に今も、緊迫した空気を纏わせ応接間で向かい合っていた。だが、セシルは今、そんな事に構っている余裕はなかった。

「来て下さい! オトヤが目を覚ましました!」

 それを聞いた全員が立ち上がり、部屋を飛び出す。
目を覚ました彼は、セシルを見た途端大喜びで抱き締めてくれた。

「セシル!  セシルだよね? すごい! 会えて良かっゲホッゲホッ!」
「オトヤ!」
「……う、なんか、だめかも……」

 目覚めてすぐ起きて叫んだせいで、彼はまたベッドに転がってしまったけれど、彼らしい元気な目覚めに嬉しくなりながら、セシルは皆を呼びに走ったのだ。
 飛び起きたことをしっかりと怒られてから、差し出されたスープを飲み終わった頃には、オトヤの顔色はすっかり良くなっていた。背に置かれた大きなクッションに半分ほど沈みながら、満足そうにお腹を擦っている。

「はあ〜、美味しすぎて食べすぎたかも」
「薬があるので飲みましょうね、オトヤ」
「えっ」
「飲みましょうね」
「……ハイ」

 そんなやり取りもありつつ、改めて、セシル、トキヤ、ショウ、と三人をゆっくり見て、オトヤがふわりと笑みを浮かべる。

「えへへ……なんだか、夢みたいだ……みんな、大きくなったね」
「……貴方もですよ。ですが、すぐにわかりました。貴方がオトヤだと。全く変わりませんね」
「うん、おれも。みんなのこと、すぐ分かったよ」

 そう言って、彼は次に、セシルたちと距離をとって後ろに立っていたマサトとレンを見つめた。

「助けてくれて、ありがとう」

 いや、とマサトが穏やかに返し、レンも優しく目を細めて頷く。
 その様子に、元々心配していた訳ではなかったが、彼らが良い関係を築けることを確信できて、セシルはほっと胸を撫で下ろす。

「オトヤ。辛ければ言わなくても良いのですが……あの日、居なくなってから、今までどうしていたか、聞いても……?」

 オトヤは、うん、と頷いた。心配そうに見つめるトキヤたちに微笑みを返して「大丈夫だよ」と小さく告げると、一度だけ深呼吸をして話し始めた。

「オレに分かることは、全部話すよ。でも、あのさ、まず、ナツキを責めないであげてほしいんだ。ナツキは、悪くない。ただ、会いたい人に会えなくて、寂しくて……おれも、そういう気持ち、分かったから……だからさ、もし、おれに何か出来ることがあるなら協力したいって思ったんだ。だから、会いに行った。けど……おれじゃ力になれなかったみたい」

 そうして語られた、施設での出来事。ずっと、辛い思いをしていた訳ではないこと。実験に付き合う以外は、いたって普通に暮らすことが許されていたこと。
 ただ、実験を重ねるごとに、ナツキの方が壊れそうなくらい憔悴していたこと。

「ナツキは、ただその人に会いたいだけなんだ。でも、どうやっても、誰もその人を見つけられない。ナツキも、その人の名前も、顔も、思い出せなくなってきてるって、焦ってた。それで……」

 その後の実験はとても過酷なものになってしまい、オトヤはそこからの記憶がない。気付いたらこの屋敷にいたのだ。

「ねえ、おれからも、聞いていいかな? ナツキは、どうしてあの研究所にいるの? どうして、ナツキのいうことを、あの人たちは全部叶えようとするの?」

 その答えを、セシルは持っていない。困って口をつぐむ彼の肩に、マサトが手を置いた。目が合うと、力強く頷きを返してくれた。

「あいつの能力は唯一無二。故に、孤独を強いられてきた」

 幼い頃は共に学校で学ぶこともあった。ところが、ある『力』が開花すると、望まれるまま大人たちの要求に答え続けた。その度に彼は孤独になっていき、気づいた時には、マサトたちからはとても遠い存在になっていた。

「どうして、助けてあげなかったのですか」

 セシルの問いかけに、言葉に詰まるマサトとレン。それに助け船を出したのはトキヤだった。

「セシルさん、考えてみてください。私たちが今なお子どもで、無力であるように……彼らだってその頃は」
「いや……現状を知っていながら目を背けてきたのは事実だ」
「……違うだろ、マサト。オレたちは、オレたちだってあいつを助けたかった。なんとかしたかった。だから……」

 レンの視線がためらいがちにセシルへと向く。トキヤが身を硬くし、それを見たショウが立ち上がった。

「まさか……違うよな?」

 ショウの問いに震えて答えないマサトと、辛そうに目を伏せるレン。その二人の様子を見て、セシルもまた、気付いてしまった。
 もしかしたら、と。彼らが研究所に乗り込んできた時から、否、出会った時から、気になっていた事だ。

「……やはり、ワタシなのですね。ナツキが探していたのは」

 ずっと、気になっていた。『利用する』と言いながら、セシルを義弟としてずっと側に置いてくれたマサトの、本来の目的は何なのか。
 長い沈黙を破り、マサトが頷く。

「……そう、だ。その事を知り、お前をこの家に迎え入れた。だが共に過ごし、お前の純粋さに触れ……お前を犠牲にする決断など、出来ようはずがなかった」

 優しく誇り高いマサトには、確かに辛い決断だろう。苦渋に満ちた顔はそれでも、未だ胸に渦巻く様々な感情を必死に抑えているようだった。

「マサト。あなたが、ワタシにとても良くしてくれたのは事実です。とても、感謝しています。でも、ワタシがずっとここにいたせいで、オトヤも、他の人たちも」
「お前のせいではない! それは断じて違う! それに、研究所に運ばれた人々はきちんとその後保護をし、治療を受けてもらって回復している!」

 必死な様子のマサトの肩に手を置き、レンが眉尻を下げてセシルを見つめる。

「まぁ、結局ナツキの為にオレたちができたのはそれだけだったってことになるけどね。今夜……もう、昨日の事か、中が手薄になる昨日は、オレたちにとっても、ナツキを連れ出す大チャンスだったんだ。だから、セシルたちが何も言わずに行ってしまった時は悲しかった。けど、オレたちも何も話せていなかったし……とにかく皆が無事で良かったよ」

 トキヤたちは次々明かされる事実を前に言葉を失っている。だが、セシルはようやくマサトたちの思惑を知ることができてほっとしていた。
 彼らはセシルの『力』を利用して、ナツキを助けたかった。そのためだけにセシルをこの家に迎えてくれた。いつまでもセシルの研究所行きが実行されなかったのは、彼らがそれを実行するには優し過ぎたから。彼らは、彼らの出来る範囲で、ずっとナツキを助けようと動き続けていたのだ。

「ありがとう、マサト、レン。ワタシは、十分、たくさんの愛を貰いました。だから、今度こそ、ワタシの番です」

 セシルは、ショウとトキヤ、そしてオトヤに微笑みかけてから、再度マサトたちに向き直った。

「ワタシに、ナツキを助ける手伝いをさせてください」

 セシルの、宝石のように煌めく瞳に、更なる決意の光が灯る。マサトとレンの、今にも泣きそうな顔が、その瞳に映り込んだ。



 ナツキは、研究所から連れ出された後、聖川家の別邸へ用意された部屋に閉じ籠り、ずっとうなされていた。屋敷の中は自由にしていいと告げられていたが、関係ない。目が覚めることなどないのだ。この、悪夢からは。
 過去を夢で見ていると、自覚しているのに目覚められない。過去を変えられない。辛くて悲しくて、身が張り裂けそうだった。
 目の前にいる、幼いナツキは楽しそうに笑っている。彼の周りには綺麗な光が溢れていて、実際いつも楽しかった。そのキラキラしたそれは、ナツキが望めばいつだって手中に形となって現れた。
 何もない場所から、何かを生み出す『力』。それがとても特別なものだと知らず、ただ楽しいからと、綺麗な光を形にし続けた。子どもも大人も、そのキラキラを見せれば皆笑顔になって、誉めてくれた。それが嬉しかった。
 だがある時、ナツキが作り出したそれを手にする、大人たちの醜い顔を見てしまった。

『素晴らしいな……これが真の錬金術というやつか』
『あの子供がいれば一生遊んで暮らせる』
『誰にも奪われないようにしろ』

 世界から光が消えた。
 大人たちは怒って、ナツキをますます閉じ込めた。目に映るのは、息が詰まるコンクリートの壁。電気の白く無機質な光は眩しすぎるばかりで、生きた心地がしない。何も見えない。
 何もかも嫌になって、ナツキは閉じ籠った。
 彼とはそんな時に出会った。彼は突然、ナツキの前に現れ、そして抱きしめてくれた。

『ずっと傍にいてやる。お前は、綺麗なものだけを見ていればいいんだ』
『ほんとうに?』
『ああ。なにもかも全てから、俺が守ってやる』

 ナツキの世界にまた光が戻ってきた。いや、最早この時のナツキにはその綺麗な光の世界しか見えなかった。ナツキは光の森で生きていく事に、何の疑問も持たず、ただただ、幸せな気持ちでいっぱいだった。彼と二人、この綺麗なものだけに囲まれて暮らすのは、至福としか言い様のない、この上ないものだった。

『見てください! また、こんなに綺麗なのがみつかりました!』

 大きな光の結晶。森に差し込む月の光を手にして、ナツキは嬉しさで心を弾ませながら、彼がいる部屋に駆け込んだ──はずだった。
 そこは、前と変わらず、冷たく悲しい空間だった。ナツキが出かける前、彼がコーヒーを飲みながら見送ってくれたはずなのに。無機質で薄暗く、椅子も、机も、何もない。息の詰まる苦しい場所でしかなかった。

「……なん、で…?」

 傍にいると言ったのに。守ってくれると言ったのに。
 大人たちが、ナツキの手から結晶を奪っていく。けれど、そんな事はどうでも良かった。ナツキはただ、彼に会いたかった。彼と幸せに暮らしていたかった。
 その為に大人たちを利用することにした。
 彼と会わせてくれるなら協力する。その願いをかなえる『力』を持つものを連れてきてくれれば、もっと大きな結晶を取り出してやる。そう告げれば、大人たちはすぐにたくさんの人間を連れてきたが、誰一人、ナツキの願いを叶えてはくれなかった。
 あれから、幾年が経ってしまったのだろう。
 薄れていく、光の世界。それと比例するように、彼の顔が、名前が、思い出が、だんだんとナツキの中から抜け落ちていく。まるで、黒く塗りつぶされていくように。
 怖くて怖くて仕方がない。なのに、逃げられない。逃げたくても、逃げる場所がない。
 気づけばナツキは、何も持っていなかった。光に溢れていた頃は彼さえいれば十分だった。彼のいない世界は、ただただ恐ろしいだけの、暗闇と同じ。無防備に、怯えることしか出来なくなっていた。

「君がナツキ?」

 燃えるような赤い目をした、真っ直ぐな眼差し。
 彼の声が聞こえた瞬間、その綺麗な赤はナツキのいる闇に飛び込んできた。

「オトヤ、くん……」

 太陽のように眩しい笑顔。重ねられた手の温もり。ナツキの大好きな光が少しだけ戻った気がした。だからきっとオトヤこそがナツキの願いを叶えてくれる人なのだと思った。
 けれど。

「ワタシからオトヤを奪ったのは、ナツキです」
「!」

 星あかりを思わせる、煌めきを含んだ美しい翠石のような目。全く違うはずなのに、どこかオトヤと似ていると思ったのはなぜなのだろう。
 彼の真っ直ぐで純粋な悲しみは、すっかり固まっていたナツキの心を揺り動かした。

「ぼくが、してきた、ことは……」

 間違いだった?
 ただ彼に会いたいだけだった。その他はどうでも良かった、はずだ。こんな恐ろしい世界にはいたくなかった、はずだ。なのに、セシルの言葉が忘れられない。怒りと悲しみで揺れるあの眼差しが頭から離れない。

「ぼくは、ぼく、は……!」

 ナツキは床にうずくまった。
 静かに、部屋の扉が開く。ゆっくりとした足音は、そのまま部屋の中に続き、ナツキの前で止まった。

「ナツキ? 泣いているのですか?」
「セシル、くん…?」

 うずくまるナツキの傍らに膝をつき、セシルは腕を伸ばした。その指先が、ナツキの頬を優しく拭う。

「ナツキ。ずっと、待たせてすみませんでした。ワタシがアナタの願いを叶えます。だから、代わりにナツキはワタシの願いを叶えてください」

 セシルはにこりと笑って言った。対するナツキは、力なく首を横に振る。

「でも、ぼくに、出来ることなんて……」
「いいえ、ワタシの願いはナツキにしか叶えられません」

 セシルは手を握って、笑顔のまま続けた。

「ナツキの願いが叶ったら、ワタシと、ワタシの大切な人たちと友達になってください」
「……とも、だち?」
「イエス。さあ、ナツキ。約束してください」

 言われるがまま、頷くナツキ。セシルが満面の笑みでそれに頷きを返す。

「約束です!」
「はい……セシルくん」

 すると、セシルが何かを呟く。
 周囲に光が溢れ、眩しくて目を瞑る。いってらっしゃい、とどこか遠くからセシルの優しい声がした。
 


 どれくらい経ったのか、ようやく目が慣れてくると、そこは懐かしい光に溢れていて、その真ん中に彼がいた。懐かしい、何もかもが懐かしいその世界で、ナツキは嬉しくなって駆け寄った。

──バカだな、お前は。また戻ってきたのか……

「ずっと、ずうっと探していたんです! 急に、居なくなってしまったから……」

 駆け寄ったナツキの胸に、彼の指が突きつけられる。

──俺は、ここにいる。ずっとお前を見守っている。

「ずっと?」

──見えなくても、聞こえなくても、ここにいる。

「……なら、ぼくは、ひとりじゃなかったんですか……?」

──ああ、ずっと。俺の声を、姿を届けられなくて、ごめん。

 何か事情があったのだろうと分かる、そんな声色だったから、ナツキはほとんど無意識に、首を横へと振っていた。

「その事が知れて良かった」

 ナツキは誓う。もう二度と、彼の姿を忘れないと。彼の名前を忘れないと。

「サツキ……サッちゃん」

 涙で滲む彼の姿。それでも、苦笑しているのは分かる。

──お前は、こうして取り戻せたから、もう、忘れなくても生きていける。

 どういう事だろう。一瞬、首を傾げるも、ナツキがそれを問う事は出来なかった。
 がくんと視界が揺れる。

「待って! サッちゃん!」

 彼の姿が静かに遠ざかっていく。それともナツキが離れているのだろうか。もがくけれど、彼の元に戻れる様子はない。強い力で何かに引っ張られるように、ぐんぐん彼と離れていく。

──ナツキ。忘れないでくれ、俺を!

「忘れません! 絶対に!」

 精一杯叫べば、その声が届いたらしい彼は、とても嬉しそうに笑ったのだった。



「セシル! 今ね、ナツキと料理してたんだよ! と言っても、サラダだけど……なのに何故かすごい味になっちゃって……なんでだろ?」
「セシルさん、今日は生憎の雨ですが、折角なので本をお持ちしました。今、読みますね……」
「セッシー、この音聴こえる? 花火があがってるんだよ。綺麗な色で、すごい迫力だ」
「セシル! 今度釣りに行くぞ! 勿論お前も一緒だぜ!」
「セシル。今日は新曲を弾いてみるからな。そこで聴いていてくれ」

 『力』には、代償が必要だ。その代償は人によって異なるという。
 あの日から、セシルは目を覚まさない。
 ナツキの願いを叶える為に『力』を使った彼の代償は、時間なのかもしれない。それが、どのくらいの期間になるのか分からない。そしてこの間、彼の歩むべき時は止まったままだ。
 皆ずっと彼の側にいた。どこへ行くにも、何をするにも。
 眠り続けるセシルの手を握り、ナツキが呼び掛ける。

「セシルくん。ぼくがあなたを絶対に守ります」
「もちろん、おれたちもね」

 ひょっこりと、ナツキの後ろから顔を出したオトヤが付け足し、賛同の声があと四つ続く。

「セシルくん。ぼくと友達になってくれてありがとう。ぼくに、たくさんの友達に会わせてくれてありがとう」

 その言葉に、ナツキの後ろにいた五人が微笑む。振り返って彼らを見たナツキも笑みを返して、話し続けた。一緒に行きたい場所の事、一緒にやってみたい事。すべて六人で話し合い、毎日、こうして彼に話して、ノートにも綴っている。
 今、ナツキには、もう何の『力』も残っていない。あの日、あの懐かしい光の世界でサツキと再会して、この世界に意識が戻ってきた時には、全て失われていたのだ。それが、セシルによるものなのか、別の要因によるものかは分からない。ただ、もしセシルがそう願ったのだとしたら、その代償はどれほどの時間を費やすものになるのだろう。
 初めは、自分の為に彼の時間が奪われてしまった事を悔やんだ。けれど、セシルはナツキがこうして気に病むことを望んでいない、だからナツキに友達になろうと言ったのだと、皆が教えてくれた。それを聞いて、そして、セシルの笑顔を思い出して、なにがあっても前を向こうと思えるようになったのだ。

「ぼくたち……みんなで、一緒にしあわせになりましょうね」

 ぽつりと、ナツキが無意識に紡いだその言葉は、自身の心の中にゆっくりと刻まれていく。
 しあわせになろう。彼らとなら、そうなれる。心の中の彼も同意しているのが伝わってくる。

「ああ。みんな一緒だ」
「そうですね」

 ぎゅっと、セシルの手を握っていたナツキの手に、一つ、また一つと別の手が重なっていく。

「絶っ対、誰一人置いてなんていかないからな!」
「フフッ、頼もしいな」
「楽しみだね!」

 皆の言葉に応えようとして、ナツキは、ハッと手元を見やる。たくさんの手に包まれたその中心が、僅かながら動いた気がしたのだ。

「セシルくん?」

 全員の視線が、眠り続ける少年へと向かう。

「……!」

 誰かが勢いよく立ち上がったせいで、椅子が倒れる音がする。けれど、そちらを見る余裕はない。
 涙があふれ、頬を伝って流れていく。
 ナツキは、力強く握り返された手をまた、大切に大切に包みこんだ。

「ありがとう、おかえりなさい」  






















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