蘭春

気付くと、おれは本に囲まれていた。独特の紙の匂いと、埃っぽさに思わず顔をしかめながら、軽く辺りを見回してみる。
ここは──

「親父の…書斎?」

懐かしいと思えるかと言うと、既に記憶からほとんど抜けていたのでよく分からない。
だが、幼い頃に見たその空間によく似ている気がした。

「蘭丸様、聖川様がお見えです」
「!」

声に驚いて振り返るが、相手は特に気にした様子もなく当たり前のようにおれを見ている。

「梁谷!?」

なんでてめぇがここにいる!
いや、ここはどこなんだ、まさか本当に親父の書斎なのか?

「蘭丸様、こちらへお招きして宜しいですか?」

おれが何も指示しなかったからか、梁谷が再度話しかけてきた。

そうだ。さっき、こいつは何を言っていた?
聖川が来た…とか言ってたか?

おれが思い返している間に、梁谷は重そうな扉を開いて誰かを招き入れていた。

「黒崎さん、お久しぶりです!」

入ってきたのは真斗だった。しっかりとスーツを着ていて、髪もぴっちりと分けている。
おい、お前、何やってんだ。アイドルの仕事はどうしたんだ。

「真斗、お前仕事は…」
「お忙しい中、無理に時間を割かせてしまい申し訳ありません。しかし、どうしても公になる前に黒崎さんに話しておきたかったんです」

礼儀正しくお辞儀した後、キラキラと目を輝かせて、真斗がおれに話しかけてきた。
おれの話なんざ聞く気がねぇらしい。

「近々、発表になるのですが、実は結婚が決まりまして…相手の女性に会って頂きたいのです」

ああ、そうかよ。
この茶番はいつまで続くんだ。

「さあ、おいで」

真斗が言うと、扉が再び開き、薄青のワンピースを身に纏う女が入ってきた。スカートの裾をふわりとなびかせて、少しずつ近付いてくる。
すらりと細いスタイル。
甘い茶色の髪が肩の辺りで揺れている。
細い首、女らしい柔らかな顎のライン、小さな桜色の唇、日だまり色の優しげな目。

「は…」

女がおれを見た。
無垢な視線を向けられた瞬間、感情が爆発するのを、抑えきれなかった。

「!!!」

飛び起きたベッドの上で、おれはしばらく汗だくのまま呆然としていた。






車の中には、持ち主の趣味であろう音楽かかっている。
会話に困らない程度の音量に絞られていたが、車内に会話はない。

大人しく運転に集中していたレンが、赤信号に捕まったと同時にこちらを向いたのが分かった。

「ねぇ、ランちゃん」
「…んだよ」
「今日、聖川にやけに厳しくなかった?」

やっぱりな。家まで送るとか言って強引におれを車に押し込んだのはそれが聞きたかったからだろう。

「別に、普通だ」
「そうかな? 二人に何かあったのかと思ったよ。聖川、身に覚えがないって狼狽えてたけど」
「何もねぇよ」

まさか夢で女取られて嫉妬したなんて事は絶対言えない。こいつには特に。

「ふぅん。で、何があったの?」
「ねぇって言ってるだろ」
「聖川には、でしょ。ランちゃんにはあったんだ」

なんなんだこいつの勘、本当にムカつくな。

「あー、うるせぇ」
「話しちゃいなよ、楽になるよ? レディ絡み?」
「ぐっ…」

詰まった時点で肯定したようなもんだ。その後もネチネチと質問攻めにあい、おれは結局今朝見た夢の内容を話した。

「ふっ…あはははっ…なにそれ…傑作だね…っ!」

珍しいくらい声を上げて笑いやがった。
だから話したくなかったんだよ…!

「じゃあ、今日の聖川は完全に八つ当たりされてたんだ」
「っせぇな…明日謝る」
「でも、ちょっと不満だな」
「あ?」

慣れた手つきでハンドルを操りながら、レンが流し目を寄越してくる。

「オレもその夢出たかったのに。もしもアイドルにならずただの財閥の三男だったらどんなだっただろうね?」

何言い出すんだこいつは。

「知るかよ…どうせ女に囲まれてチャラチャラしてたんじゃねえのか」
「酷いなぁランちゃん。もしかしたら事業拡大してすっごい儲けてたかもしれないよ? 独立してたりして」
「ハッ!ありえねえ!」

と言いつつも、こいつならやりかねないとも思ってしまう。
つーか、家と関係なく将来的にそうなってもおかしくないな、こいつの場合。

ちらりと見てみるが、レンは楽しそうに笑っているだけだ。
いつもへらへら笑いやがって、感情が読めねぇだろうが気持ち悪い。

「ま、冗談はさておき…不思議な夢だけどそれこそ全部ありえないよね」
「なに?」
「夢を気にするなんてランちゃんらしくないな」
「…分かってんだよ、んな事は」

おれが黒崎家を継いでる未来なんて絶対に無い。だからこその夢だが、おれが気にしたのはもちろんそこじゃねえ。

春歌は、あいつだけは誰にも譲れねえ。
たとえ夢でも。
ただそれだけだ。

アパートが見えてきて、車が減速する。
今日は…あいつ遅くなるって言ってたな。飯作っといてやるか。

「たまには休み作ってレディと旅行でもしてきたら?」
「……そうだな」
「言ったね? よし、じゃあオレがレディからさりげなく行きたい場所聞き出してあげるよ」
「だぁー! 余計なことすんな!」

レンの笑い声を背に受け、おれは顔を真っ赤にしたまま車を降りた。



20160104
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