トキ春

タクシーを降り、トキヤは黙々と歩いた。
連日のハードスケジュールに加え、ドラマの撮影が半日以上長引いたりと、正直、体が全力で疲労を訴えているしすぐにでも休みたい。
だがしかし、仕事終わりに事務所へ顔を出すよう、龍也から言われている。
新たに何か大きな仕事が入りそうなのかもしれない。その事自体は嬉しいが、如何せん、今この状態ではうまく応えられる自信があまりない。

うだうだと考えながら彼にしては大変珍しい重い足取りで、事務所の扉を開ける。
龍也のいる部屋に入ると、気付いた龍也が書類から顔を上げ、片眉を跳ねさせた。

「お前…なんつー疲れた顔してやがる…」
「あ…失礼しました」

ハッとして表情を取り繕うと、龍也はと包容力のある笑みを浮かべて手を振った。

「いや、責めてる訳じゃねえよ、仕事中にんな顔するお前じゃないだろ。ただ珍しいもん見たと思って、驚いただけだ」
「はあ…」

予想外に優しい言葉が返ってきて、どういう顔をすればいいか分からない。トキヤが返答に困窮している間に、龍也は引き出しからファイルを一つ取り出した。

「疲れてる時に悪かったな。用事ってのはこれだ」
「これは…」

ファイルには手書きで見覚えのある文字が記されている。
春歌のものだ。

「こいつを届けてくれないか、と頼もうと思ってな」
「それは構いませんが…」

隣の部屋ですし。
受け取りつつも、トキヤは首を傾げた。
確か、午前中に事務所で打ち合わせがあると春歌が言っていた。
忘れ物にしては、このファイルは重要すぎる代物のようだ。

「あいつ、具合悪いらしくてな。明日に改めることになったんだが、取り急ぎ楽譜と音楽データだけ借りた」
「……そう、ですか…」

聞いていない。
昨晩、メールのやりとりはしたが具合が悪いなどとは一言も…いや、彼女なら言わないのは分かりきっているが。
ひそかにショックを受けているトキヤ。
龍也は肩をすくめた。

「ま、あいつも大概ギリギリまで頑張っちまうからな。お前も休める時にしっかり休めよ?」
「はい」

トキヤと春歌の仲を知る彼の事。わざわざ呼びつけたのはトキヤに彼女を訪ねさせる口実を与えたかったというのもあるのだろう。
ありがたくその好意に甘える事にして、トキヤは事務所を後にした。
先ほどまでよりもずっと足早に寮を目指す。

考えることはただ一つ。なぜ、自分を頼ってくれないのか、ということである。
多忙を理由に体調不良の恋人を放置するような男に成り下がった覚えはない。
そもそも、春歌は甘えるという事をほとんどしてくれない。せめて辛い時は言って欲しいと再三告げていると言うのに。

……本当は、気づいてやれない自分が、一番腹立たしいのだ。

自分の部屋を通り過ぎて、隣の部屋の前でぴたりと止まった。
眠っているかもしれない為、一瞬躊躇ってから、インターホンを押す。
ややあってゆっくり扉が開くと、恋人の弱々しい声が聞こえてきた。

「トモちゃん?…早かった…ね…?」
「…ほぅ」
「え」

具合が悪いというのは、真っ青な顔を見れば事実であるとよく分かる。
そしてそれをどうやら友千香には話しているらしい現実に、言い様のない感情がトキヤの中でぞわりと蠢く。

「え、あ、あ、なん、で…」

思わずこちらが漏らした低い声にビクリと震え、春歌は目を丸くして固まっている。

「春歌…君という人は…」
「春歌お待たせ!薬買ってきたわよ!」

場所を忘れて迫りかけたトキヤを押し退け、新たな訪問者が春歌に向かって袋を差し出す。

「トモちゃん…ありがとう」
「いーからあんたは早く薬飲んで寝る!!」
「うん…でも」

まだ真っ青なままの春歌が、友千香からトキヤへと視線を移す。
すると面倒そうに振り返った友千香が、トキヤの腕を引っ付かんで部屋の中へと押し込めた。

「あんたたち、いつまで玄関にいるつもりよー」
「いえ、あの私は…」
「トモちゃん…」
「ほら入った入った!!」

彼女の強引さはここまでくるといっそ清々しい。
抵抗せず一緒に部屋へ上がったトキヤは、所在なげに佇む春歌と、キッチンで何やら食事を用意し始めている友千香とを交互に見た。
結局、春歌に向き直る。

「具合が悪いと聞きましたが…熱でもあるのですか?」

預かっていたファイルを渡して訊ねるが、春歌は曖昧な表情で首を横に振る。

「いえ…ちょっと、貧血…です」

言いにくそうに答えた春歌の顔が徐々に赤くなる。
ついには受け取ったばかりのファイルで顔を隠してしまった。

「あー。こればっかりは男に言ってもねー」

という友千香の言葉で、トキヤはようやく合点がいき、春歌ほどではないが頬が熱くなるのを自覚する。

「…なるほど、それは確かに、男の私ではお役に立てないかもしれませんね…」
「そゆことー。はい、お水」
「う、うん…」

ソファに腰掛け、春歌がのろのろと薬を取り出し始める。
どうしようかと眺めていると、友千香がまたトキヤの腕をつかんだ。

「なんです?」
「あたし春歌の食事作っとくからさ、春歌を温めてよ」
「は…?」
「こういう時は、温めてあげるのが一番なの!」

ほら行って、と背を押され、トキヤは春歌のいるソファへ一緒に腰掛ける。

「トキヤくん…?」
「薬…飲みましたか?」
「あ、はい…」

彼女には、友千香の言葉は聞こえていなかったようだ。
しかし、せっかく役割を与えられたのだから責任は果たすとしよう。

悪乗りのような気持ちも少なからずあったものの、トキヤはさっと腕を伸ばして春歌を引き寄せた。
頭を肩にもたれさせ、温めるように腕を巻き付ける。

「え…?」
「温めると良いと、たった今助言を頂きましたので」
「あ…あの…」

二人きりの時ですら、密着する事を恥じらい逃げてしまう彼女である。
友千香がいる目の前で一体どんな反応をされるだろうかと思ったが、意外にも春歌は離れようとはしなかった。
戸惑いつつも、体から力を抜いて身を預けてくる。しなやかな、女性らしい感触とわずかな重みがトキヤにかかった。

「…トキヤくん…温かいです」

心底ほっとしたように言われるとこそばゆい。
そうですか、と静かに返し、力を入れすぎないよう注意しながら春歌との距離をより縮める。

「横になりますか?」
「いえ…できれば、このまま…」
「わかりました」

素直な春歌の反応に微笑み、彼女の髪を手櫛ですく。
うっとりと目を閉じた春歌から、ほどなく規則正しい寝息が聞こえてきた。

しかし、まだ顔色はあまりよくない。恥じらいを忘れるほどだから、やはり辛いのだろう。
それでも今は幸せそうな穏やかな寝顔で、それに久し振りに触れた事でトキヤ自身も満たされていた。
触れたところから感じる彼女の全てに、愛しさが溢れだしてくる。

「ふーん」

不意に、面白がるような声が聞こえて、無意識のうちにキスしたいと思っていたトキヤはハッと動きを止めた。

いつの間にか友千香が目の前のローテーブルに肘をついてこちらを見ている。
トキヤは目を泳がせた。

「…なんです?」
「いえいえ。ちゃんと春歌のこと大事にしてるんだなって思ったら嬉しくて」
「…そう…ですか」
「うん。すっごくお似合い」

にこにこ笑う友千香の言葉に、からかいの色はない。いっそからかってくれればいくらでも対応できるが、真剣に言われてしまうと恥ずかしい。

「さってと! 仕事だからもう行くけど…春歌のこと宜しくね」
「ええ」

ありがとうございます、と春歌の代わりに告げると彼女はひらひら手を振り、颯爽と部屋を飛び出していった。
何度話しても好印象を受ける女性である。彼女が春歌の同室で本当に良かった。

「…時々、仲が良すぎて困りますけどね…」
「ぅ…ん…?」

つい呟いてしまったら、春歌が身じろぎしたのでハッとして口をつぐむ。
黙って窺うと、起きたわけではなかったようだ。それには安心したが、結構本格的に眠ってしまったようである。

「ああ…困りましたね…」

正直、トキヤも疲労困憊で余裕がない。春歌のぬくもりと相俟って、眠気はピークに達していた。
このまま彼女を抱き締めて眠りたい。しかしそれならソファではなくベッドの方がお互い楽に眠れるだろう。

とは言え今のトキヤには、それを実行するだけの力が残っていない。
ずるずると倒れこみ、春歌を抱きしめたままトキヤの体がソファに沈んでいく。
瞼はとうに閉じられ、既に夢の世界が見えはじめていた。

「はる、か…」

愛しさに溢れた小さな呟きは、時計の秒針の音に消されるほどで。
次に聞こえてきたのは、春歌と同じく規則正しい寝息だった。











(ごめーん、忘れ物しちゃって…)
(スー、スー…)
(うわっ…超絶に幸福な寝顔が2つ……仕方ない、毛布持ってきてやりますか)





20130420
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トモちゃん、かっこよくて好きです
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