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Voyage

 セシルの目の前に、石造りの、美しい街並みが広がっている。
 すぐ前にある道路を車が忙しなく行き交い、端に設けられた歩道では大人たちが足早に通り過ぎていく。
 誰もセシルを見ない。セシルもまた、彼らに目を向けている訳ではなかった。ただぼんやりと眺めている。いつからなのか、なぜそうしているのか、セシル自身にもそれは分からなかった。

「ねえ、きみ、どこからきたの?」

 不意に声がして、セシルは振り返る。そこでようやく、立っていた場所が歩道に繋がる階段のすぐ前だったと気がついた。堅牢な石造りの階段を見つめていると「ここだよ」ともう一度声がして、セシルの視線が引き上げられた。
 三つの人影があった。
 真ん中にいる赤い髪の少年が、階段の一番上で座ってセシルを見下ろしている。彼の隣には黒髪で穏やかな表情の、その左隣に金髪の少年がいて、こちらはセシルを少し警戒するような目をして立っている。

「おーい、聞こえてる?」

 赤髪の少年が、赤い目を丸くしてそう言うと、首を傾げた。セシルもつられて首を傾げる。
 もしかして、彼は自分に話しかけているのだろうか。
 セシルがきょとんとしていると、赤髪の少年が、軽やかにセシルの側まで駆け降りてきた。今度こそしっかりと目が合い、話しかけてくる。

「ねえ、きみ、このへんで見たことないけど、どこから来たの?」
「……どこ」

 質問について考えようとして、セシルは、頭が真っ白になった。
 名前は分かる。けれど、ここがどこなのか、自分がどこから来たのか分からない。かすかに覚えているのは、渇いた砂の感触、照りつける光の熱さ、そして、誰かが必死に「逃げろ」と叫ぶ声。

「……っ」

 何を忘れているかさえ分からない事も、頭をよぎる誰かの声も、どちらも恐ろしくて、セシルは両手で自分を抱き締める。しかし、沸き起こる恐怖に震える心と体はそれだけでは止められず、ますますどうすれば良いのかが分からなくなった。

「えっ、大丈夫?」
「……あ」

 綺麗な赤い目が、セシルのすぐ前にある。震えて何も答えられないセシルを見て、少年の手が、セシルの手に重ねられる。優しい温もりが伝わり、怖い気持ちが少し和らいだ気がした。

「おい、どうした?」

 そう声をかけてきたのは金髪の少年で、いつの間にか降りてきて、セシルの背を力強くさすった。先程睨まれていた気がしたのに、彼の行動は親切そのものだ。

「大丈夫ですから、ゆっくりと、息をしてください。さあ、もう一度……」

 同じく、一緒に下までやって来た黒髪の少年は、セシルの肩に手を置き、落ち着いた声音で導いてくれる。セシルはこくりと頷き、その声に従う。見守られ応援されながら何度か深呼吸を繰り返し、震えが止まったセシルを見て、三人は一様に安心したようだった。

「ごめんな、急に話しかけられて驚いたか?」
「……い、いいえ」

 金髪の少年がひょいとセシルの顔を覗く。セシルと同じくらいの背たけの彼は、大きな青い瞳でまっすぐセシルを見つめている。三人の、気遣う色の見える優しい視線に押され、セシルはようやく最初の質問に答える事ができた。

「……あの、ワタシ、どうしてここにいるか、わかりません……」
「えっ」

 驚きの声をあげ、三人が顔を見合わせる。次いで話しかけてきたのは黒髪の少年。

「あなたのお名前は分かりますか?」
「ハイ、セシルといいます」
「セシルって、綺麗な名前だね。おれはオトヤだよ。こっちがトキヤで、こっちはショウ」

 赤髪の少年──オトヤがそう言って、黒髪のトキヤと金髪のショウを順に紹介してくれる。心の中で彼らの名前を繰り返すが、セシルの記憶には引っ掛からない。彼らもセシルと出会うのは初めてなのだそうだ。
 困っている間にも、トキヤがいくつか質問を投げ掛けてきた。街のあちこちを指差して、街灯や階段、車といった名称、ドアの開け方などを聞かれて、セシルは迷いなく答えていく。

「……記憶が全くない訳ではないようですね。もしかしたら、何か……ショックなことが起きて、曖昧なのかもしれません」
「そっか……じゃあ無理に思い出さない方がいいのかな」
「でも……」

 どこに住んでいて、どこに行こうとしていたのか、どこへ帰れば良いのか。これからどうしたら良いのか。何も、一つも分からないのだ。
 セシルは言い淀んでしまったが、目の前にいるオトヤたちにその不安は十分伝わっていた。すると、オトヤが人懐こい笑みで言う。

「大丈夫だよセシル。うちにおいで」
「え……」

 事も無げに言うものだから、セシルはびっくりして、思わずトキヤとショウを見てしまう。トキヤは苦笑した後、頷いた。

「説明が足りていませんが、それが一番良いでしょうね」
「だな。頼んだぜ、オトヤ。俺らも一緒に事情は説明するからさ」
「うん」

 ショウもうんうんと頷いている。
 戸惑っていると、辺りに大きな音が鳴り響いた。全員の視線がセシルのお腹に向けられる。
今のは、セシルのお腹の音だ。

「……お腹すいたんだね」
「あぅ……ハイ……」
「つらいね」

 恥ずかしくて俯くと、オトヤが優しく頭を撫でてくれる。笑ってくれてもいいのに、オトヤは何だか自分のことのように辛そうにしている。
 隣では、トキヤが街の外れの時計塔に目を向けたところだった。先ほどトキヤに色々聞かれた時にその存在を知ったのだが、街から続く小高い山にあるあの時計塔はこの街のどこからも見えるのだそうだ。

「ちょうど良い時間ではありませんか?」
「お! じゃあ俺様が先に行っておまえらの分まで取っておいてやるよ!」

 言うなり、ショウが階段を駆け上っていく。あっという間に姿が見えなくなって驚いていると、くい、と手が引っ張られた。いつの間にか繋がった手の先で、オトヤが楽しそうに笑っている。

「よし、じゃあ行こうセシル!」
「どこへ?」
「あのね、もうすぐ、あっちにあるパン屋のリンちゃんが『失敗作』を捨てる時間なんだ」

 捨てるという不穏な響きに不安になるが、オトヤもトキヤも笑っている。

「怖がらせてすみません。本人は失敗したから捨てると言ってますが、いつもきちんとラッピングされているんですよ」
「すっごく美味しいんだよ! それ食べたら、一緒に帰ろう? おれの家族を紹介するよ。いっぱいいるから驚かないでね?」

 オトヤに導かれるように一緒に階段をのぼる。途中からトキヤも反対側の手を繋いで、三人で駆け上がる。手を握り合うその強さが、とても心地よかった。


 美味しいパンを食べ、案内されたオトヤの家は学園と呼ばれるところだった。何かしら事情があって親と暮らせない子どもが皆で生活しているらしい。広い広いお屋敷のような家で、オトヤより小さな子もたくさんいる。皆、突然やってきたセシルを見ても驚かず、むしろ遊び仲間が増えたと大喜びだ。
 この学園を作ったという男の人は、セシルを見るなり「好きなだけここにいてくだサ〜イ」と言って大きな手で頭を撫でて受け入れてくれた。皆からは何故か院長と呼ばれていて、学園にいる他の大人も院長と呼んでいるのでセシルもそう呼んでいる。
 ちなみに、ショウたちは家族がいて近所に住んでいる。オトヤと同じ学校に行っていて、それで仲良くなったらしい。トキヤの両親は厳しい人たちで、本当は外で遊んではいけないと言われているそうだ。けれど、彼は持ち前の知恵で毎回のらりくらりと交わしているのだとこっそりショウが教えてくれた。
 三人は、何かとセシルをかまってくれる。学園の皆も仲良くしているが、セシルはこの三人と居ると特に居心地が良かった。
 そうして、ここでの暮らしに慣れてきた頃、彼らはセシルをある場所に連れて来てくれた。

「じゃーん! ここがね、おれたちの秘密基地!」

 秘密基地。
 その夢の詰まった響きに、セシルの心も踊る。
 レンガで出来た入口の穴は狭い上に今にも崩れそうで、大人はまず入れない。わくわくしながら潜って中に入ると、思いの外広い空間で驚く。小窓もあり、中にはどうやって運び込んたのか分からない大きな机が置いてある。壁には棚が並び、キラキラしたり錆びついたりした何かがたくさん置かれている。よくわからないが、そこにあるだけで大事な宝物のように見えてくるから不思議だ。

「ここは、代々この辺りの子どもの一部に受け継がれてきた特別な基地なんですよ」
「特別?」
「おう。この基地を使うやつはな、この街の手伝い屋になるんだ」

 手伝い屋とはなんだろうと思い聞いてみれば、街の住民に困ったことがあれば、なんでも手伝うのだそうだ。買い物の荷物持ちや、逃げたペットの捜索、迷子を送り届けたりと多岐に渡る。セシルを見つけたのも、見かけない子がいると情報が入ったからだったらしい。
 そうだったのかと素直に頷き、改めて礼を言うセシル。おう、と返した後、ショウが苦笑して言った。

「ま、あんまり危険な仕事は受けないけどな。俺らこどもだし」

 情報集めは主にショウの仕事。トキヤが計画を練り、オトヤは実行部隊の隊長なのだという。

「他の隊員は?」

 隊長と言うからには隊員がいるのだろうと訊ねたが、セシルのその問いに、三人は互いの顔を見合わせて吹き出してしまう。

「どうしたのですか?」
「えへへ……セシル、一緒にやらない?」
「え……良いのですか?」
「うん。おれ、セシルが隊員になってくれたらすごく嬉しい!」
「では、やります!」

 セシルが元気よく手を上げると、オトヤが大喜びで駆け寄りハイタッチする。トキヤたちも拍手で祝福してくれた。

「良かったですね、オトヤ」
「実行部隊、隊長しかいなかったもんな〜」
「そうなのですか?」
「そうだったけど、もうセシルがいるからね! 改めてよろしく、セシル!」
「ハイ。ヨロシク、オトヤ!」

 本当に嬉しそうに笑うオトヤにつられ、セシルもにっこり笑顔になった。
 まず教えてもらったのが、パトロールだ。オトヤと二人、道順を決めて街を見回る。朝一番に新聞を配達しながら街の人に挨拶していくのはショウの仕事で、情報を集めるのだと言っていた。雨の日も嵐の日も続けるなんてとても凄いことだ。一緒に街を歩くとショウが色々な人に声をかけられるのはこの積み重ねによるものなのだろう。
 トキヤは逆に、外を回る事はほとんどない。基地で待機していて、ショウが持ち帰った情報を地図やノートにわかりやすくまとめておいてくれる。それを元に、オトヤとセシルはパトロールの道順を決めている。
 そんなふうに、三人は今までやって来たのだという。



「……人さらい?」
 そんな物騒な情報をショウが聞き付けたのは、セシルが新人隊員として街に馴染み始めた頃だった。
拐われたのはセシルたちと同じ年頃の子どもだと言う。車に無理やり押し込められていたらしいのだが、その子どもについて詳細は分かっていない。

「危険です。わたしたちの手に負えませんよ」
「そうだけどよ、気になるだろ?」
「ですが……」
「うーん、もう少し情報集めたいよね」

 反対するトキヤの横で、ショウとオトヤは話を進めている。セシルは、不安に思いながらその様子を見守る。トキヤと目が合うと、彼は苦笑して首を振った。

「まったく。言い出したら聞きませんからね、あなたたちは」
「ごめん。でも……」
「ええ。わたしは既に被害届や捜索願が出てないか、調べてきますから」
「俺は聞き込み続ける」
「わかった。セシル、おれたちも聞き込みに行こう。もしかしたら、他の施設の子かもしれないし」
「ハイ」

 オトヤとセシルが暮らす学園では、居なくなった子はいない。セシルはその事に安心していたが、この大きな街には他にも似たような施設がある。だからオトヤは気にかけていたのだと彼の言葉で気が付いて、セシルも神妙に頷いた。
 二人は、外に出て一緒に聞き込みを始める。だが皆、誰もいなくなってないと言う。

「オトヤ、セシル! 良かった、ここにいたんだな!」

 聞き込みを終えた施設を出たところで名を呼ばれ、見ればショウとトキヤが走ってきていた。

「なにか分かったの?」
「ああ。拐われたのは上の街のやつだ」
「上の子がこっちに来てたの?」
「そのようです」

 上とは、なんだろう。そう思いながらも、セシルはその響きに嫌なものを感じた。話を進めかけて、トキヤがセシルの様子に気付き会話を止める。

「すみません、説明不足でしたね。上というのは……あちらに住む方々の事です」

 指し示された方向は、セシルたちが暮らす場所より高く山のようになっていて、遠目にも大きな屋敷が建っているのが見える。大きな時計塔があるのも、そこだ。山のように見えるが、実際はそこそこの大きさの台地らしい。いつも見えていた街の一部ではあるが、セシルは改めて、その在り方に違和感を覚えた。

「……なぜ」
「うん?」
「あの、なぜ、あの場所は……大きな塀で覆われているのですか?」

 基本的に、この街は石造りで整備されている。なのであまり気にしていなかったが、よく見れば、台地はそのきわを覆うように、塀で囲んでいる。それは明らかに、建物や道の境界線を示すものではない。まるで、砦のようだ。

「とても特殊な技術を使ったもので、造られてからこの数百年、壊れたことはないそうです。上には、貴族や豪商が暮らしています。そして、この街に災害が起きたときは、あの塀が彼らを守ってくれるんですよ」
「え……」
「ひでぇ話だよな。下で暮らす庶民は、川が氾濫しようが何だろうが、助からねえんだからな」
「もし仮に戦争なんてものになったら、真っ先に潰されるのが下の街でしょうね」
「……」

 想像以上に酷い話で、セシルは絶句した。隣で、オトヤも辛そうにしている。思わず彼の手をぎゅっと握りしめて、セシルは様子を伺う。

「オトヤ。ダイジョウブですか?」

 するとオトヤが優しい笑顔になった。

「……うん、ありがとうセシル。大丈夫だよ。 それで、拐われたのは上の子なんだね。貴族?」
「いや、商人の子。ただ、親は誘拐されたと言ってないんだと」
「その子の特長と、目撃された子どもの特長が一致しているので間違いはないと思います。恐らく、買収されたか、そう言わされているんです」

 誰に?
 セシルのその問いに、二人は沈黙で答えた。彼らの表情に、セシルの胸が嫌な音を立てる。

「場所を変えましょう。基地へ」

 基地に入るなり、三人はしっかりと戸締まりをし、よく辺りの様子を探ってから、セシルに向き直った。

「すみません、不安にさせましたね」
「……いいえ」

 何か、とてつもなく重大な事が起きているのだろうと、彼らの様子で分かっている。
 ゆるく首を振って答えたセシルの手を、オトヤがそっと握る。少し、震えているような気がして、セシルは意識して強く握り返す。

「拐われた子の行き先は、あの時計塔のある建物です」

 街で暮らす者なら自然と毎日目にして、頼りにしている時計塔。まさかの答えにセシルは目を見開く。

「時計塔のあるあの建物は、国が運営する、とある研究所なのです」
「研究……?」
「何を研究してるのかは、いまいち分からないんだけどよ、あの壊れない塀もそこの技術で作られてるらしい」

 トキヤとショウが、互いに補足しながら説明していく。
 優秀な能力のある子どもが、年に何人か、あの研究所に選ばれて行くらしい。それは大変名誉な事だとされている。そういった話は前からあったが、詳細は良く分かっていなかった。なので、子どもの行き先が研究所だと判明して驚いた。もしかしたら、今までもこのように突然拐われていたのではないかという疑念が生まれたからだ。
 子どもが研究所に入ると、その親には莫大な補償金が支払われるそうだ。拐われる子どもの多くは上に住む貴族や商人で、今回子を拐われた商人は、これを機に貴族として爵位を承る事になったと言う。そうなったら、欲にまみれた大人は自身の子が拐われたなどとは言わない。
 王が住まう都は遥か遠いのに、凄まじい速さで事が進んでいる。それは王が、国がこのやり方を支援しているという事に他ならない。

「研究所に連れていかれた子どもが、無事に帰ってくる事は……ない、そうです。あくまで、噂ですが」

 無事に、とはどういう意味だろう。そんな疑問が浮かぶのに、舌が渇いて言葉にできない。何より、語るトキヤの表情で、声で、疑問の答えが見えている気がして、セシルはどうしようもなく泣きたくなった。
 ショウが、低く真剣な声で沈黙を破る。

「調査は中止だ。俺たちに解決できる案件じゃない。良いな、特にオトヤ。絶対早まるなよ」
「……分かってる。帰ろう、セシル」
「ええ、私たちがこの件を調べていた事が広まれば、ここも危ないかもしれません。暫く活動は中止して、慎重な行動を取るようにしましょう」
「うん……」

 そこまでするのかとセシルは驚くが、三人は真剣そのものだ。不安を抱えたまま、別れを告げてオトヤと共に施設へ帰る。
 玄関口にはちょうど車に乗り込もうとしていた院長がいて、オトヤとセシルの姿を認めると安堵したように息を吐き、二人の頭を撫でてどこかへ出掛けて行く。
 それから二人は、なるべくいつも通りを心がけた。いつも通り皆と食事をとり、歯磨きをして、体を清めてベッドに入る。あとはいつも通り眠るだけ。
 でも、とても眠れそうにない。
 セシルがベッドから出てしまおうか迷っていると、すぐ隣で起き上がっている影に気がついた。ベッドのある部屋は四人部屋だ。隣のベッドにはオトヤがいる。

「オトヤ……」

 小さな呼び掛けだったが、オトヤもまたこちらを見ていたので、すぐに答えがあった。

「眠れないよね」
「ハイ」
「……そっちに行ってもいい?」

 もちろん、と布団を持ち上げると、オトヤが滑り込んでくる。二人分の体温で少しだけ温かくなった。

「あのね、セシル……」

 暗がりで表情は見えない。だが、囁く声は震えていて、彼は今泣いていると、セシルは思った。

「あのね……時々、声が聞こえるんだ。助けてって、言ってる声」
「え……」
「今も、聞こえるんだ……子どもが拐われたっていう、あの晩からずっと。助けて、怖いって、ずっと叫んでる……きっと、この声はその子の声なんだと思う」

 セシルは、何も言えなかった。オトヤが嘘を言っているとは思わない。彼の話はにわかには信じがたいもので、なのにそれを話すのが他でもないオトヤというだけで説得力がある。
 だって、彼の笑顔は、いつだって誰かの為に、誰かの心に寄り添う様にあるものだから。

「助けてあげたい。けど、おれには、なんの力もない……悔しい……かな、しい…っ」

 そっと手を伸ばして、オトヤの濡れた頬を拭う。そのままぎゅっと抱きしめてあげることしか、セシルには出来なかった。セシルもまた、何の力もない自分に腹が立って、悲しくて、涙が出る。
 いつしか、泣き疲れた二人はそのまま眠りに落ちていた。
 

 そして、翌朝。
 瞼の重さを感じながらセシルは微睡む。しかし、眠る前、腕に感じていたはずの温もりが無いことに気付いて飛び起きた。

「オトヤ!」

 彼の姿は、学園内のどこにも見当たらなかった。
 拐われた子どもの所へ行ったのは、考えなくても分かった。書き置きも、伝言も残さなかったのは、他の人を巻き込まないようにする為かもしれない。
 半狂乱になりながらショウの元に行くと、彼はすぐにトキヤも呼び出し、泣き崩れるセシルをひとまず学園まで送り届けた。

「早まるなって、言ったのに……あいつ」
「いますぐ助けにいきましょう!」

 そう訴えるセシルに、トキヤたちは首を横に振る。

「危険すぎます。何が起こるか分からないのに、私たちだけでいくことはできません」
「でも、オトヤが……」
「セシル、落ち着け。院長ももうすぐ戻ってくるってさっき聞いた。これ以上は大人に任せるんだ」
「でも、でも……っ」

 頭が真っ白になっているセシルには、宥める言葉も絶望を誘うものでしかない。次々と涙が溢れる。

「しっかりしろ、セシル! お前はとにかく、オトヤが帰ってくるのをここで待ってろ!」
「良いですね。約束してください」

 二人に何と答えたのか、覚えていない。泣いて暴れて、院長に強制的にベッドに潜らされた覚えはある。
 でも、セシルは今、一人で外に立っていた。
すぐ目の前には、あの高台の塀がある。どうやってここに来たのか全く覚えていない。
 すっかり夜の帳が落ちた街並みは、遥か下方。学園は、しょうショウやトキヤの家はどの辺りだろうか。
 いや、それよりも。

「……たすける」

 オトヤの事を思い浮かべ、セシルは塀に向かって手を伸ばす。レンガを積み上げた塀は、頑張ればよじ登れる気がした。
 ところが、レンガに触れかけた手は宙を掴み、バランスを崩した彼は気付くとそのまま前に倒れ込んでいた。

「えっ……」

 うつぶせに転んで、セシルは呆然とした。前には塀があったので、普通は転んだら塀にぶつかるだけだ。
 恐る恐る振り返れば、そこには塀がある。前を向くと見慣れぬ建物が並び、先ほどまでの眼下の景色とは全く違う。

「中に……いる?」

 訳が分からなかったが、塀をすり抜けたようだ。どうにかその事だけは理解して、セシルは走り出す。
 セシルがようやく慣れてきた街並みと違い、塀の中の街は道が広く、建物一つ一つがとても大きい。しかも、どれも同じような作りで見分けがつかなかった。

「時計塔は……」

 仰いで見ても、近くの高い建物で遮られ、時計塔は見えなかった。だが、恐らくあれがあるのは高台の中心部。下から見ていた光景を思い浮かべてセシルは走った。

「誰だ! そこで何をしている!」

 怒声としか言い様のない誰何にびくりと体を震わせ、セシルは近付いてくる人影を見上げる。その大きな人影が味方に成り得ない事は分かっている。逃げなくてはと思うのに、恐ろしくて動けなかった。

「どうしてこんなところに子どもが」
「研究所を抜け出したのか」
「そんな情報は……」

 そんな話をしながら近付いてくる男たちの手には、細長い何かが握られている。
 銃だ。セシルは、施設で料理人をしている元猟師から銃を見せてもらったのを思い出した。生き物を殺す、恐ろしい武器。セシルの恐怖心が臨界点に達する。

「!」

 次の瞬間、セシルはまた、見慣れない場所に立っていた。
 先程の恐ろしい大人達はいない。ただ、暗くてとても静かな所だ。見渡しても窓が一つあるだけで、あとは無機質な壁しかなく、ドアも鉄で出来ていて重そうだ。

「……何かご用ですか?」

 部屋の奥で柔らかな声がして、セシルは驚いた。見れば、窓辺にある椅子から人が立ち上がり、近付いてくるではないか。鉄のドアは案の定開く気配がなく、セシルに隠れる場所はない。
 月明かりに照らされた金の髪がふわふわと揺れる。眼鏡をかけているようだとは分かるが、後ろから光を受ける少年の表情は暗闇に紛れ、読み取ることができなかった。

「どうやって……ああ、そういう事ですか」
「あ、あの……?」
「昨日から、少し騒がしい気がしていましたが、あなたでしょうか」
「あの、ひ、人を探しています!」

 彼の言うことはよく分からないけれど、セシルは開き直って聞いてみようと言葉を絞り出す。

「あ、赤い髪で、赤い目をしている、オトヤと言います。ワタシの、大切な家族です!」
「オトヤ、くん? そう……」

 興味がなさそうに、少年が頷く。その反応を見るに、彼は知らないようだ。がっかりして、今度こそセシルは途方にくれた。
 すると、セシルの背後にある鉄のドアがドンドンと叩かれた。
 誰かが来たのだ。震えるセシルをよそに、どこか他人事感を漂わせた少年はぽつりと言う。

「……呼んでる」
「えっ」

 さよなら、と少年の唇が動くのが見えた。
 光に包まれ、眩しさで目を瞑ったセシルは、宙に体が投げ出されるような不思議な感覚に陥った。
 そして、

「イタッ!」

 突然固い場所に尻餅をついて思わず声を上げてしまう。慌てて起き上がろうとしたセシルは何者かに押さえ込まれて再び後ろに転がることになる。

「セシル!」
「わっ……」

 目を開けて良くみると、自分の上にトキヤとショウがいた。二人ともぎゅうぎゅう抱きついてきて、セシルは苦しいながらも、二人のぬくもりでようやく安心することが出来た。
 どうやってかは分からないが、戻ってきたようだ。二人がセシルの上から退いたので、身を起こして地面に座る。辺りはまだ薄暗くて、そしてここはリンちゃんのパン屋のすぐ近くだ。
 本当に、戻ってきたのだ。それとも、さっきまで上の街にいたのは夢だったのだろうか。

「良かった、無事で……」
「トキヤ、ショウ……」
「バカヤロッ! お前に、お前にまで何かあったら俺っ、俺……」

 怒っていると思いきや、泣き崩れるショウ。いつも強気な彼がこんなに泣くのを初めてみた。困ってトキヤを見れば、彼も目尻を拭っている。
 その時ようやく、セシルは二人が汚れや汗でボロボロなのに気付いた。セシルまで居なくなったのを知って、今まで駆けずり回っていたのかもしれない。

「ごめんなさい……ショウ、トキヤ」
「もう、一人で無茶してはいけませんよ」
「ハイ」
「絶っ対だからな!」
「ハイッ」

 三人は互いを支えるように抱き合う。
 視界の隅で、宵闇に聳えている時計塔が、朝焼けに染まっていくのが見える。
 くやしい。かなしい。
 記憶に刻まれているオトヤの言葉と、セシルの感情が混ざりあう。
 オトヤは、きっと帰ってこない。認めたくないけれど、セシルは、その直感が現実になるのを確信していた。
 どうしようもなく、涙が溢れた。




 朝日が差し込む窓辺に、簡素なベッドが置かれている。そこに横たわる少年の元へ、近づく人影がある。
 ふわりとした金髪。眼鏡の奥、何も写していなかった目が、少しだけ驚いたように見開かれる。
 ベッドに差し込む朝陽を受け輝く赤い髪。きっと、この子の目は赤いのだろう。

「あなたが、オトヤくんですね」

 あの子が探していると言っていた。
 でも、どうしてだっけ。
 ナツキはぼんやりと、窓の向こうに目を向ける。
 眼下の小さな街並みが、遠くで、朝を迎えようとしている。




(後編へ続く)
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