執事の☆プリンスさまっ!
春歌は悩んでいた。
執事長を勤める藍は昨日から父に着いていっており、那月は今朝になって突然、紅茶の仕入れに行くと言って笑顔でどこかへ出掛けてしまった。
なので、今日のティータイムは砂月と二人きりだ。
気まずい、と思う。
別に、那月たちが揃っている時も、何か話をしている訳ではない。春歌はいつも、本を読んたり、景色を楽しんだりと、彼らに見守られながらではあるが一人で自由に過ごしている。
なのに、今日は二人きりの沈黙が怖い。
そう思ってしまったら、レッスンは散々だった。
今までしたこともないようなミスタッチを連発し、挙げ句楽譜を読み違え、不快としか言えない酷い音しか出せなかった。
演奏中、後ろで見ている砂月の機嫌かどんどん悪くなっていくのを感じていたので、何を言われるだろうかと、ティールームに向かいながら既に戦々恐々としている。
砂月の指摘は、時として感覚的な表現になってしまう那月とは違いとてつもなく的確だ。しかし、今日はそれ以前の問題がたくさん起きていて「やる気はあるのか」と罵られる予感しかしない。
前を歩く砂月の背中をそっと見るが、藍や那月ならともかく、春歌に彼の心境を読み取る能力はない。
もっと、近付きたいのに。
そんな思いが過り、胸が軋む音がした。
せっかくのチャンスを自分でふいにしてしまった。
ティールームに着き、春歌が砂月の引いた椅子に座ると、彼はすぐに紅茶の用意を始める。
いつもは那月が用意してくれるから、砂月のサーブはとても珍しい。彼らしい、隙のない立ち姿。そして完璧な所作に思わず見惚れてしまう。
「ありがとうございます」
目の前に置かれたティーカップから漂う香りに癒され、礼を口にするが、砂月は鋭い目を細めただけだった。
やはり、怒っているのか。それとも、呆れているのか。
落ち込みながらカップに手を伸ばす。が、指が滑り、はねた紅茶の滴が手にかかってしまった。
「熱っ……」
無意識に言ってしまったが、実はそこまで熱くない。恥ずかしく思って砂月の様子を伺おうとした春歌だったが、勢いよく手を握られて言葉を失った。
「どこにかかった!?」
「えっ……」
砂月の繊細で長い指が、しっかり手を握って離れない。ちょこんとついた滴を拭った後、春歌の手をゆっくりなぞっているのは、火傷になっていないか確かめているようだ。
その目は真剣そのもので、初めてと言えるほど間近にある整った横顔にも、彼の指の感触にも、その手にかかる吐息にも、春歌はただひたすらどきまぎするしかない。
「火傷は無さそうだな……」
納得してくれたようで、ようやく手の拘束がゆるむ。
ほっとしたのも束の間。
指先に、温かい感触。
勿論、春歌はずっと砂月を見ているので何が起きているのか分かる。
しかし、頭がついていかない。
呆然とする春歌の目の前で、砂月の唇が、春歌の指先に触れている。それも一瞬ならば目の錯覚かと思っただろうが、そうではなく、しっかり押し当てられている。
「……え」
こぼれ落ちた春歌の声を拾ったのか、砂月の目がゆっくりと春歌を捉え、数秒の後に溢れんばかりに見開かれた。
「!!」
ぱっと手が離され、先ほどまでの所作が嘘のように、砂月が勢いよく飛び退く。背中が壁に勢いよく当たってすごい音がしたが、痛がっている様子はない。
口元を手で覆っていてよく見えないが、顔が赤いのは気のせいではないと思う。そういう春歌自身も、自分の顔が真っ赤になっている自覚はある。
「……ろ」
「え?」
「今のは、忘れろ!」
「は、い……?」
それっきり、砂月はこっちを見るなと言わんばかりに窓の向こうに顔を向けていて、絶対に目を合わせようとしない。
春歌も、暫くは彼と目を合わせる勇気が出ないのでそろそろと目線を下げていく。
先ほどのは何だったのだろう。
聞きたくて仕方ないのだが、忘れろと言われているのでもう何も言えない。
ただひたすら、テーブルの下に隠した自分の手をぎゅっと握る。
唇の触れた所が、まだ熱いような気がした。
♪♪
那月のせいだ、と思う。
砂月はそう結論付けて思考を放棄することにした。
ただでさえ、今日は藍が居ないというのになぜわざわざ今日という日を選んで那月は出掛けたのか。
……知っている。片割れである彼は、こよなく愛する紅茶と春歌の為なら、労力を惜しまないことを。
完璧主義の藍をしても知識と技術が及ばないからと、この屋敷の全ての茶葉の管理を任されている那月。
そんな彼がこうして居なくなって仕入れてくる紅茶は、国内有数の専門店ですらそうお目にかかれないであろうハイレベルのものばかり。だから、馴染みの商店ではなく、彼にしか繋げない特別なルートで買い付けているのは聞かずとも分かる。
それがたまたま今日にぶつかってしまったのだろう。
春歌は朝、那月を見送ってからずっと挙動不審だった。不安と緊張が混ざって、笑顔もぎこちなく、無理に絞り出していた話題もやがて尽きる。
ここで、具合が悪いのか、などという的外れな事を思う砂月ではない。いっそそこまで鈍感なら良かったのにと思うが、原因は砂月の存在だと、とっくに気付いている。
だがしかし、今彼女の側に居られる執事は砂月しかいないのだ。耐えてもらうしかない。
いつもならばあり得ないミスタッチをする度に春歌が項垂れる。自信を喪失して笑顔が消える。華奢な肩が、指先が震えている。
それを見る度に締め付けられるような痛みを覚えたが、砂月は何も出来なかった。
近付けば、きっともっと怯えてしまう。
何か言えば、余計に落ち込ませてしまう。
だから、何もしてやれない。しない方がいい。
ぐっと、込み上げる思いを押し殺して、春歌を導きながらティールームに向かう。
茶葉の選定は出掛ける前に那月が行っていた。淹れる前から上品な香りがするそれは、春歌が一番好きな紅茶だ。
慎重に、一番良い抽出タイミングを見極め、最高の状態で注いでいく。
よし、と内心呟いてから、春歌の前にカップを置く。
ありがとうございます、と律儀に礼を言ってから、春歌がティーカップに指を添える。
「熱っ」
そんな、小さな小さな呟きを拾って、砂月の意識が一気に緊急時のそれに切り替わる。
「どこにかかった!?」
春歌がティーカップから放した手をすくいとり、砂月は真剣に火傷の具合を確かめる。
幸い、小さな水滴が飛んだだけで、赤くもなってはいない。治療をする程の火傷にはならなかったようだと、焦りながらもどこか冷静な自分の意識が告げ、砂月はほっと息をつく。
細くて長い春歌の指。爪の先まで手入れが行き届き、白く美しい、たおやかな女性の手だ。
だが、まったく何の苦労も知らぬ手という訳ではない。
一般にはお嬢様と言われる立場の彼女だが、この屋敷にやってくるまでは一般家庭で育ったのだと聞いている。
まったく無縁だった華やかな世界に突然放り込まれた幼い少女は、価値観の違いに大いに戸惑いながら、努力に努力を重ねてここまで成長した。
立場に奢る事もなく、戸惑いに押し潰される事もなく、優しさと純粋さを失わないまま、これから、大人の女性になろうとしている。
だから、この屋敷に仕える人間たちは誰もが春歌を敬愛している。
それはもう、心から──
「ふふふ。思わずだったんですねえ」
「……やめろ。思い出させるな」
仕入れてきたばかりの紅茶を試したいと言われてしぶしぶ付き合わされている砂月から、いとも簡単に昼間の出来事を聞き出した那月は、とても満足そうに笑っている。
そもそもが、隠し事に向いていない。
お互いの考えていることは、昔からなんとなく分かる。成長するにつれ、集中すれば感覚は遮断できるようになったが、那月はそれをする気配がなく、砂月の感情は彼にだだ漏れだ。常に影響しあっているから、もはやどちらが発端なのか分からなくなる事もある。
「ねえ、さっちゃん。ぼく、からかっている訳じゃないですよ?」
「……分かってる」
心から嬉しいと、那月の笑顔と、繋がる感覚で読みとれる。
それを見ていると、那月が今日仕入れに出掛けたのは偶然なのか怪しくなってくる。
もしかしなくても、これは本当にわざと二人きりにしたのではないだろうか。
「ふふふ」
「おい」
ぴたりと横にくっつくようにして、砂月の横に座る那月。二人が二人きりで会話する時のいつもの距離だ。
「からかってるんじゃないんですよ、さっちゃん。ぼくから言えるのはそれだけです」
そうして差し出された紅茶は、宵闇に浮かぶ月を思い起こさせる、静謐で上品な香りがする。
昼にも用意されていた、春歌の好きな紅茶だ。
練習で何度も飲んだことがあるので味は分かっているが、味見だからと差し出されているので仕方なく口に含む。
こんなに甘い紅茶だったかと言いそうになって、砂月は口をつぐむ。どのみち思ってしまった時点で無駄なのだが。
隣にいる片割れが、また嬉しそうに笑った。
執事長を勤める藍は昨日から父に着いていっており、那月は今朝になって突然、紅茶の仕入れに行くと言って笑顔でどこかへ出掛けてしまった。
なので、今日のティータイムは砂月と二人きりだ。
気まずい、と思う。
別に、那月たちが揃っている時も、何か話をしている訳ではない。春歌はいつも、本を読んたり、景色を楽しんだりと、彼らに見守られながらではあるが一人で自由に過ごしている。
なのに、今日は二人きりの沈黙が怖い。
そう思ってしまったら、レッスンは散々だった。
今までしたこともないようなミスタッチを連発し、挙げ句楽譜を読み違え、不快としか言えない酷い音しか出せなかった。
演奏中、後ろで見ている砂月の機嫌かどんどん悪くなっていくのを感じていたので、何を言われるだろうかと、ティールームに向かいながら既に戦々恐々としている。
砂月の指摘は、時として感覚的な表現になってしまう那月とは違いとてつもなく的確だ。しかし、今日はそれ以前の問題がたくさん起きていて「やる気はあるのか」と罵られる予感しかしない。
前を歩く砂月の背中をそっと見るが、藍や那月ならともかく、春歌に彼の心境を読み取る能力はない。
もっと、近付きたいのに。
そんな思いが過り、胸が軋む音がした。
せっかくのチャンスを自分でふいにしてしまった。
ティールームに着き、春歌が砂月の引いた椅子に座ると、彼はすぐに紅茶の用意を始める。
いつもは那月が用意してくれるから、砂月のサーブはとても珍しい。彼らしい、隙のない立ち姿。そして完璧な所作に思わず見惚れてしまう。
「ありがとうございます」
目の前に置かれたティーカップから漂う香りに癒され、礼を口にするが、砂月は鋭い目を細めただけだった。
やはり、怒っているのか。それとも、呆れているのか。
落ち込みながらカップに手を伸ばす。が、指が滑り、はねた紅茶の滴が手にかかってしまった。
「熱っ……」
無意識に言ってしまったが、実はそこまで熱くない。恥ずかしく思って砂月の様子を伺おうとした春歌だったが、勢いよく手を握られて言葉を失った。
「どこにかかった!?」
「えっ……」
砂月の繊細で長い指が、しっかり手を握って離れない。ちょこんとついた滴を拭った後、春歌の手をゆっくりなぞっているのは、火傷になっていないか確かめているようだ。
その目は真剣そのもので、初めてと言えるほど間近にある整った横顔にも、彼の指の感触にも、その手にかかる吐息にも、春歌はただひたすらどきまぎするしかない。
「火傷は無さそうだな……」
納得してくれたようで、ようやく手の拘束がゆるむ。
ほっとしたのも束の間。
指先に、温かい感触。
勿論、春歌はずっと砂月を見ているので何が起きているのか分かる。
しかし、頭がついていかない。
呆然とする春歌の目の前で、砂月の唇が、春歌の指先に触れている。それも一瞬ならば目の錯覚かと思っただろうが、そうではなく、しっかり押し当てられている。
「……え」
こぼれ落ちた春歌の声を拾ったのか、砂月の目がゆっくりと春歌を捉え、数秒の後に溢れんばかりに見開かれた。
「!!」
ぱっと手が離され、先ほどまでの所作が嘘のように、砂月が勢いよく飛び退く。背中が壁に勢いよく当たってすごい音がしたが、痛がっている様子はない。
口元を手で覆っていてよく見えないが、顔が赤いのは気のせいではないと思う。そういう春歌自身も、自分の顔が真っ赤になっている自覚はある。
「……ろ」
「え?」
「今のは、忘れろ!」
「は、い……?」
それっきり、砂月はこっちを見るなと言わんばかりに窓の向こうに顔を向けていて、絶対に目を合わせようとしない。
春歌も、暫くは彼と目を合わせる勇気が出ないのでそろそろと目線を下げていく。
先ほどのは何だったのだろう。
聞きたくて仕方ないのだが、忘れろと言われているのでもう何も言えない。
ただひたすら、テーブルの下に隠した自分の手をぎゅっと握る。
唇の触れた所が、まだ熱いような気がした。
♪♪
那月のせいだ、と思う。
砂月はそう結論付けて思考を放棄することにした。
ただでさえ、今日は藍が居ないというのになぜわざわざ今日という日を選んで那月は出掛けたのか。
……知っている。片割れである彼は、こよなく愛する紅茶と春歌の為なら、労力を惜しまないことを。
完璧主義の藍をしても知識と技術が及ばないからと、この屋敷の全ての茶葉の管理を任されている那月。
そんな彼がこうして居なくなって仕入れてくる紅茶は、国内有数の専門店ですらそうお目にかかれないであろうハイレベルのものばかり。だから、馴染みの商店ではなく、彼にしか繋げない特別なルートで買い付けているのは聞かずとも分かる。
それがたまたま今日にぶつかってしまったのだろう。
春歌は朝、那月を見送ってからずっと挙動不審だった。不安と緊張が混ざって、笑顔もぎこちなく、無理に絞り出していた話題もやがて尽きる。
ここで、具合が悪いのか、などという的外れな事を思う砂月ではない。いっそそこまで鈍感なら良かったのにと思うが、原因は砂月の存在だと、とっくに気付いている。
だがしかし、今彼女の側に居られる執事は砂月しかいないのだ。耐えてもらうしかない。
いつもならばあり得ないミスタッチをする度に春歌が項垂れる。自信を喪失して笑顔が消える。華奢な肩が、指先が震えている。
それを見る度に締め付けられるような痛みを覚えたが、砂月は何も出来なかった。
近付けば、きっともっと怯えてしまう。
何か言えば、余計に落ち込ませてしまう。
だから、何もしてやれない。しない方がいい。
ぐっと、込み上げる思いを押し殺して、春歌を導きながらティールームに向かう。
茶葉の選定は出掛ける前に那月が行っていた。淹れる前から上品な香りがするそれは、春歌が一番好きな紅茶だ。
慎重に、一番良い抽出タイミングを見極め、最高の状態で注いでいく。
よし、と内心呟いてから、春歌の前にカップを置く。
ありがとうございます、と律儀に礼を言ってから、春歌がティーカップに指を添える。
「熱っ」
そんな、小さな小さな呟きを拾って、砂月の意識が一気に緊急時のそれに切り替わる。
「どこにかかった!?」
春歌がティーカップから放した手をすくいとり、砂月は真剣に火傷の具合を確かめる。
幸い、小さな水滴が飛んだだけで、赤くもなってはいない。治療をする程の火傷にはならなかったようだと、焦りながらもどこか冷静な自分の意識が告げ、砂月はほっと息をつく。
細くて長い春歌の指。爪の先まで手入れが行き届き、白く美しい、たおやかな女性の手だ。
だが、まったく何の苦労も知らぬ手という訳ではない。
一般にはお嬢様と言われる立場の彼女だが、この屋敷にやってくるまでは一般家庭で育ったのだと聞いている。
まったく無縁だった華やかな世界に突然放り込まれた幼い少女は、価値観の違いに大いに戸惑いながら、努力に努力を重ねてここまで成長した。
立場に奢る事もなく、戸惑いに押し潰される事もなく、優しさと純粋さを失わないまま、これから、大人の女性になろうとしている。
だから、この屋敷に仕える人間たちは誰もが春歌を敬愛している。
それはもう、心から──
「ふふふ。思わずだったんですねえ」
「……やめろ。思い出させるな」
仕入れてきたばかりの紅茶を試したいと言われてしぶしぶ付き合わされている砂月から、いとも簡単に昼間の出来事を聞き出した那月は、とても満足そうに笑っている。
そもそもが、隠し事に向いていない。
お互いの考えていることは、昔からなんとなく分かる。成長するにつれ、集中すれば感覚は遮断できるようになったが、那月はそれをする気配がなく、砂月の感情は彼にだだ漏れだ。常に影響しあっているから、もはやどちらが発端なのか分からなくなる事もある。
「ねえ、さっちゃん。ぼく、からかっている訳じゃないですよ?」
「……分かってる」
心から嬉しいと、那月の笑顔と、繋がる感覚で読みとれる。
それを見ていると、那月が今日仕入れに出掛けたのは偶然なのか怪しくなってくる。
もしかしなくても、これは本当にわざと二人きりにしたのではないだろうか。
「ふふふ」
「おい」
ぴたりと横にくっつくようにして、砂月の横に座る那月。二人が二人きりで会話する時のいつもの距離だ。
「からかってるんじゃないんですよ、さっちゃん。ぼくから言えるのはそれだけです」
そうして差し出された紅茶は、宵闇に浮かぶ月を思い起こさせる、静謐で上品な香りがする。
昼にも用意されていた、春歌の好きな紅茶だ。
練習で何度も飲んだことがあるので味は分かっているが、味見だからと差し出されているので仕方なく口に含む。
こんなに甘い紅茶だったかと言いそうになって、砂月は口をつぐむ。どのみち思ってしまった時点で無駄なのだが。
隣にいる片割れが、また嬉しそうに笑った。
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