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執事の☆プリンスさまっ!

ふわりと漂う香りはとても豊かで、華やかだ。カップを傾ければ、その香りのままの味が口の中に広がる。

「……おいしいです。とても」
「ふふふ。良かったです」

ほっと息をつきながら溢れた感想に、穏やかな声が返る。斜向かいに座る那月は柔らかな笑みを浮かべて、肘をついて春歌を見上げるようにしている。
眼鏡の奥からこちらを見つめる優しい目はいつも通りで、春歌はここがどこなのか、忘れてしまいそうになった。

ここはラウンジである。ホテルではなく、ピアノコンクールの会場となっているホールのラウンジである。
春歌に護衛が必要なことは承知しているため、一番近くに居ることになる那月と砂月にはあまり目立たないよう、今回は私服で付いてきてもらった。
だと言うのに、那月がなぜかラウンジに着くなりどこからともなくティーセットを取り出し紅茶を振る舞ってくれた為、結局ものすごく注目されている。
いや、そもそも、この見目麗しい双子が揃っているだけでどうにも目を引くのだから、私服でお願いしたところからして逆効果だったようだ。

春歌は諦めの境地で、差し出された紅茶を飲むことに集中する。
せっかく、緊張を解きほぐそうと用意してくれたものだ。この時間を無駄にしたくない。

ティーカップを傾けながら、ちらりと那月に目をむける。
いつも、執事兼ボディーガードとしてついていてくれるから、スーツではない二人の私服を見るのは初めてだ。

那月の方は、シンプルな黒シャツとデニム、スエードのライダースジャケットにブーツという出で立ちで、似合っているが、いつもの柔らかな雰囲気からはちょっと想像できなくて春歌は意外に思った。

砂月の方は、春歌の座るソファに背を向けて立っているので今は見えないが、タートルネックと細身のパンツ、スニーカーも全て黒で統一されていた。キャメル色のコートは、たたまれて腕にかけられたまま。鋭い空気を発して、ラウンジ内を見渡している。

やはり、と春歌の気持ちが沈みこむ。彼はいつも、いつだって春歌と目を合わせてくれない。最低限の会話しかなく、それもほとんどが厳しい指摘ばかりである。勿論どれも正しい指摘で、ぼんやりしている時にはハッとさせられるし、特にピアノに対してのそれは技術上達という点で非常にありがたいものである。
しかし、その度に彼にとっては『仕事』以外の何ものでもないのだという事実を突きつけられて、春歌は悲しくなる。

彼の強さに、言葉にどれほど救われてきただろう。そう思って礼を告げても、彼は受け取ってくれない。いつも守ってくれるのに、こちらからは近づかせてくれない。
今だってそう。彼はずっと、背を向けている。
こんなに近いのに、距離が遠い。

「──そろそろ移動するぞ」

振り返ると、砂月が腕時計を確認しながら那月に目を向けていた。
はい、と那月が返事をして、立ち上がる。

「え、あれ?」

さっきまでローテーブルに広がっていたティーセットがもうない。しかも那月は手ぶらで、あのカップたちがどこに消えたのかも分からない。

「ハルちゃん、ぼくたちは舞台袖に入れませんが、代わりに藍ちゃん先輩が待機してますからね」
「あ、はい」

那月にそっと手を取られ、春歌は歩き出す。砂月は既に先行して歩いている。
耳にしているインカムに指示が来ているらしく、小声でマイクに何か返している様子をそっとうかがった後、春歌は横にいる那月に話しかけた。

「那月くん、美味しい紅茶をありがとうございました。おかげで落ち着いて演奏できそうです」
「たくさん練習したんですから、いつも通り弾けば大丈夫ですよ。客席から応援していますね」

うまくいきますように、と優しく握られたその手の甲に口づけを落とされ、春歌は思わず「ひゃっ」と声をあげてしまう。

「ふふふ、おまじないです」
「は、はい」

春歌より余程音楽の才能に溢れている彼からのおまじないである。いつも通りどころか、いつも以上の演奏になりそうな気がしてきた。

「……何してるの?」
「あ、藍ちゃん先輩」

砂月がドアを開き、そこから顔を出した藍がじっとりした目で那月を見つめている。藍は何やら怒っているようだが、悪びれた様子のない那月はにこにこ笑ってエスコートしていた春歌を藍に託す。

「じゃあハルちゃん、また後で」
「はい。行ってきます」

パタリ。
ドアが閉じれば薄暗闇が広がる。

「ハルカ、そこに階段があるから気をつけて」
「はい」

安定感抜群の藍の案内。一段ずつ階段を上がりながら、春歌の意識はゆっくりと熱気溢れる舞台へと向かっていった。







扉が閉じたのを確認して、砂月と那月はもと来た道を引き返す。
あとは、二人とも客席から彼女を見守るだけだ。

「もう、さっちゃんもハルちゃんに何か言ってあげればいいのに」
「何をだ」

那月が言いたいことは分かりきっていたが、会話の流れでおざなりに言葉を返す。

「頑張ってとか?」
「必要ないだろ。あいつにこれ以上何を頑張らせるんだ」
「……ふふ、そういうところなんだけどなぁ」

そう返す那月の柔らかな声に諦めのようなものが混じっている。
今までもよく言われた言葉だが、砂月は意味が分からない。おそらく、言葉が足りないとかそういうことなのだろうと思うが、こればかりはどうしようもない。
砂月は無言を貫いて客席へと歩を進めた。

「ねえ、ハルちゃんは、さっちゃんがハルちゃんのこと好きじゃないって思ってますよ?」
「知ってる」

春歌が砂月に苦手意識を持っているのは、分かっている。これだけいつも側に居て、見ているのだ。
那月と話す時と全く違う反応を見せる春歌に気づかない訳がない。

それに、苦手になるのもよく分かる。それほどに、砂月は春歌に対して思いやりのない態度をとっている。

なにせ、春歌はあれほどの才能を持ちながらその自覚が露ほどもないのだ。藍や那月のように、誉めそやして、完璧にエスコートするだけでは足りない。もっと、彼女自身が危機意識を持たなければいけない。
その為ならば、たとえ嫌われても──

「まぁでも、好きじゃないっていうのは、正しいですよね」
「……何?」

思ってもみない事を言われ、砂月は振り返る。するといつの間にか、那月は息が触れあうほど近くに身を寄せてきていた。眼鏡越しなのに、その目線の強さにドキリとする。

「だって」

肩に置かれた手は、砂月の身動きを許してはくれない。ゆっくりと動く那月の唇に、視線が吸い寄せられる。

「好きじゃなくて…」

この至近距離、圧倒的な威圧を放つ那月。こういう時の那月は、砂月ですら恐ろしいと思う。
今回のこれは、怒りか、悲しみか、それとも──

ぐっと近づいて、耳に息がかかる。

「愛してる、でしょう?」
「なっ!?」

その囁きは、爆弾のように脳内に響き渡った。
言葉の意味が浸透するにつれ、全身が熱を持ったように熱くなる。

「お、お前っ、何を言って──」
「あれ? 違いましたかあ~?」

先程までの威圧が嘘のように、春の野原のような空気を醸して笑う那月はどこか楽しそうだ。
からかわれた、のだろうか。
言い返す言葉を失って、砂月は口をつぐむ。

「あ、さっちゃん! 早く行かないとハルちゃんの出番が来ちゃいますよお~」
「……ああ」

案の定違う会場の入り口に向かおうとした那月を止め、腕を掴んで正しい場所へ引っ張っていく。

「さっちゃん、さっちゃん!」
「なんだ」
「さっきの、ぼく、からかったわけじゃないですからね?」
「…………分かってる」

そうだ。那月は人の感情で遊んだりしない。そんな、残酷な事をするはずがない。
砂月はそう思い直し、冷静さを取り戻した頭で思考をめぐらせた。

あれは、砂月の事を言い当てたというよりも、那月が自分の事を言っただけなのだろう。

そう思い至って、砂月は自然と眉を寄せていた。

双子の彼らにしか分からない、この感覚。
同じ感情を共有している、というこれだ。

「お前も……か」
「ん? なんですか?」

砂月のつぶやきは、扉の向こうの歓声にうまく消されたようだ。
無邪気に首を傾げる那月に軽く笑みを返して、砂月は扉を押し開けた。













20200307
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