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惨めなみーちゃんまた明日

(これからどうしよう。とりあえず逃げないと)
 脳裏でそう思うも、泣きじゃくってしまい、ろくに動けそうになかった。こんな状態じゃ誰かに助けを求めることもできない。
 心身がちぐはぐな状態でうずくまっていると、目の前の扉が開き、みのりはがちりと固まってしまう。どうしよう、まずい、殺される。みのりの脳内でエマージェンシーが鳴り響いた。
 みのりはその場でがたがたと震えることしかできず、しゃくりを無理に押しとどめようとして過呼吸になりかけていた。恐怖から顔を上げられず、滑らかな光沢を放つ革靴が次にどんな行動を取るのか、ただじっと静かに伺うばかりだ。
「どうした、モモナ」
 だが、頭上から降ってきた声は優しく耳に響いた。
「……え?」
(モモナ?)
「お、上手に殺せたじゃねえか。素人にしては上出来だぞ」
 男はみのりを跨ぐように部屋に入ると、死体の状態を確認した。茶色のツーブロックを七三分けにしており、ストライプのスーツを着た男だった。凄惨な状況にも関わらず、男はにんまりと笑っている。
「ほら、いつまで泣いてんだ。さっさとシャワー浴びてこい」
「えっ?」
「え、じゃねえよ。その恰好のまま帰れるわけねえだろ? ほら、ちゃっちゃとする」
 世話を焼く母親のような口ぶりで、男はみのりの背後を指した。みのりは返事もそこそこに慌てて廊下に飛び出た。逆らうと殺されるかもしれないので、素直にバスルームに向かう。
「着替えはそこのだぞー」
 男がリビングから間延びした調子で伝える。確かにバスルームの籠には服が入っていた。ひとまずみのりは汚れた服を脱ぎ、浴室に足を踏み入れた。
 水垢ひとつ見当たらないコックを捻り、湯が出るまで待ってから手を濡らす。こびりついた血が溶け出し、白い床に流れていくのを他人事のように見つめる。
 ふと、鏡に移った自分を見て、みのりはまたしても愕然とした。
 細い目を無理やり大きく見せたアイメイク、団子鼻を隠すように塗りたくったノーズシャドウ、べたべたの赤黒いリップ。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃに崩れているが、夢で見た『みのり』の化粧そのものだった。
(ていうか、こんな化粧したことないのに……)
 みのりが疑問に思うより先に、今しがたの光景が脳裏を過った。
テープに巻かれた知らない男、銀色に光る包丁、赤く濡れた手……。
「うっ、うぶおえぇぇぇぇ」
 みのりは排水溝に向かって吐瀉物をぶちまけた。何も食べていなかったのか、胃酸だけが泡立てたボディソープとともに流れていく。
 熱いシャワーを浴びているのに、寒気が止まらない。歯の根が合わない。身体を支えきれなくて床に倒れてしまう。
(どうすればいいの? あたしはどうすればいいの? 助けて、助けて、誰か、誰か……)
 みのりは獣が咆哮するように泣き続けた……。
 ――何分ぐらい経っただろうか。泣き続けたみのりはようやく身体を起こし、肌が傷むのを無視して乱雑に血と化粧を落とし、手早く風呂場から出た。無気力に男が用意した衣服(みのりが先ほど着ていたものと全く同じだった)を着てリビングに戻ると、先ほどの男がソファに腰かけ、スマホを見ながら煙草を蒸かしていた。床にはまだ先ほどの死体が残っており、物言わぬ人形のように横たわっているのを極力見ないようにする。
「おっせえな。シャワーだけで何時間かける気だよ」
「ご、ごめんなさい」
 みのりはまだ乾ききっていない頭を慌てて下げた。下手に刺激すると首を絞めてきたりするかもしれない、などと考えながらみのりは平身低頭を意識する。
「まあ、初めて人殺したんなら仕方ねえけど……。」
 男は呆れたような口調でぶつぶつぼやきながら、細工の綺麗な灰皿で煙草を潰すと、ガラステーブルの上に置いてあったメモを手渡してくる。
「五分で覚えろ」
「は、はい……」
 みのりはおずおずとメモに目を通す。そこにはみのりがここを出てからの流れが記載されていた。警察の質問の交わし方から、アリバイまで事細かに覚えられる自信はなかった。でも覚えなくちゃ殺される、と必死に暗記した。
 男はメモを取り上げると、ライターにくべる。先ほどまで紙だったものがぼろぼろと灰皿に落ちていった。
「じゃあ、いくつか確認するぞ……」
 男はメモに記載されていた項目をランダムに質問してきた。みのりは、恐怖でつっかえながらも懸命に答えていく。
「――おし、全問正解。じゃあ、最低でも半年は忘れるなよ」
「わ、わかりました」
「ってか、モモナ。ずっと思ってたけどびくびくしすぎだろ。そりゃサツの追跡は面倒だけど、俺の言うとおりにしてれば大丈夫だから」
 男に肩をぽん、と叩かれてみのりはひ、と噛み殺した悲鳴を上げる。その様子を見て、男の片眉がぴくりと上がった。
「あー、そういうことね……」
 みのりは男の合点がいったような口ぶりに疑問を抱くが、彼女が尋ねるより先に男が言葉を続けた。
「オッケー、まあ俺が言った通りに動いてくれればそれでいいから。けしておどおどするな、普通にしてろ。あと過度にビクビクするな、いいな?」
(たぶん無理だと思うけど……)
 などと言うと殴られてもおかしくないため、こくこくと何度も頷いた。
「うし、んじゃさっきのメモの道順で帰れよ。寄り道だけは絶対するな。あ、あと外は冷えるから髪はちゃんと乾かしな」
「わかりました」
 やっと帰れる。みのりはその場でため息をついてしまいたいのを堪えた。この男の前で隙を見せたら、あの男と同じ目に合うか知れたものじゃないからだ。
 男はソファに置かれていたトートバッグを手渡す。有名ブランドのロゴが入った黒革だが、みのりはこんなものを手にした記憶が無かった。それどころか、今着ている服だって、自分が買った覚えが無いのだ。普段はカジュアルブランドの服を適当に着ているからどうしても野暮ったくなるのに、落とした化粧から服装まで全てが世間一般的に言われる女性らしい恰好だった。
「スマホは指定されたデータを抜いてるからな。ちゃんと確認しとけよ」
 部屋を出る直前に聞こえた声に生返事をし、みのりはリビングの戸を閉めた。指示通りに洗面所で髪をしっかり乾かし、ロングブーツにもたつきながら外に出ると、身が竦むほどの冷気がみのりを襲った。
 指示に従って正解だったなと思いながら、みのりは先ほどのメモを反芻する。指定された道はどれも薄暗くて、曲がり角から不審者や幽霊が出てこないかびくびくしながら歩く羽目になった。
(いや、不審者はあたしじゃん)
 みのりはふっと自嘲する。手にこびりついた血の色が忘れられないし、当分は思い返してしまうだろう。否、一生みのりを苛む業になってしまった。込みあがる吐き気を堪えながら必死に歩くも、涙は止まってくれない。熱い水が頬を伝い、空風(からかぜ)に当たった箇所が冷えて痛みを伴う。
(あたしは何に巻き込まれてるの?)
 ひたすらに自問しながら、彼女は見知らぬ土地でひたすらに歩みを進めた。
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