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惨めなみーちゃんまた明日

 あなたは誰かを殺したいと思ったことはありますか?
 あなたは誰かを腹の底から恨んだことはありますか?
 あなたは誰かのせいで眠れなかったことはありますか?
 では、あなたはその誰かを殺したことはありますか?
 
 私は、実父である草場洋一を恨み、憎み、この手で殺めました。
 しかし、それは私自身でさえも思いがけない、奇妙な運命によって起きてしまった事件でした。
 これは私、草場みのりが記憶を基に綴った体験記です。


 草場みのりは白い空間に立っていた。
 見渡す限り広く、どこまでも続いて見える空間で、壁があるのかさえ全く分からない純白だった。
 みのりはここが夢だと理解していた。けれど、夢だとわかっていても、この世界からどうやって目覚めればいいのか見当がつかなかった。
 ぼんやりしていると背後から声を掛けられる。振り返ると、同じ背丈の女性が立っていた。
 少し舌っ足らずで、お世辞にも綺麗とは言えない声の持ち主は、はっきりとした化粧をしている。細い目を無理やり大きく見せたアイメイク、団子鼻を隠すように塗りたくったノーズシャドウ、べたべたの赤黒いリップ。
 ――私だ。私が化粧をしている。みのりは瞬間的にそう思った。
 目の前に立つもう一人のみのりは、流行りのファッションに身を包み、強気そうな表情を浮かべていた。
『みのり』が血まみれの包丁を差し出してきた。ホームセンターかどこかで買ったのだろうちゃちな出刃包丁は、柄までべったりと汚れており、みのりは夢と理解しつつも触れたくなかった。けれど、『みのり』は手を掴んで無理やり包丁を押し付けてきた。
「やだ、やめて。ねえってば」
 包丁はぎとぎとした赤に濡れていて、それに触れていると腹の奥から胃酸が込み上がりそうになる。
『みのり』は満足げな表情を浮かべている。みのりが文句のひとつでも言ってやろうと口を開くと、それより先に『みのり』の声が耳に届いた。
「がんばれ」
 ――何に? みのりがそう聞こうとするも口は動かない。『みのり』はみのりに抱き着くと、血液でかぴかぴになった手で頭を撫でまわしてきた。そして視界が白んできて、みのりと『みのり』の境界もぼやけてくる。
 ――やめて、そんな手で触らないでよ。ねえ、ねえ……。


「――え?」
 みのりが目を覚ますと、目の前に自分と変わらない大きさの異様な物体があった。
「い、いやあっ!!」
 驚いたみのりが思わず突き飛ばすも、目の前の物体――テープでぐるぐる巻きにされた布の塊――はがたんと物音を立てて背後の何かにぶつかるだけだった。慌てて身体を起こし、状況の把握に努める。
 みのりは革張りのソファと、ガラステーブルの間に物体と寝かせられていたようだ。カーペットは毛足が長く、床で寝込んでいても身体に痛みが感じられない上等な品だった。間取りから察するにマンションのリビングルームだろうか。カーテンが閉じられているため時間帯がわからず、時計も見当たらない。それに、ソファもテーブルも高級そうなのに、どことなく生活感が感じられなくて不安感に陥る。
 そして、極めつけは目の前の物体。
 黒いスーツ生地の上からテープが巻かれており、顔と思しき位置には安っぽいクッションが固定されていた。極めつけは腹部を中心に広がる真っ赤な液体だ。腹には包丁が突き刺さっており、柄まで赤く染まっている。おびただしい量の血液は、床に敷かれたラグに流れ、長い毛足が今も赤色を吸い上げていた。
「あ、ああ……!!」
 死体。
 現実を認識したみのりの全身が震えだし、がちがちと歯の根が合わなくなる。彼女はラグに足を滑らせながら、慌てて出口と思しきガラス戸に向かう。
 やだ! 死にたくない! 誰か助けて! みのりの悲鳴は乾いた喉に張り付いて出てこない。ドアノブを掴んだ瞬間、彼女はぎゃっと悲鳴を上げた。
 みのりの手は、ペンキに突っ込んだかのように赤く染まっていた。指を動かすと、乾いた血の膜がぱりぱりと剥がれる感覚が伝わってくる。
「いやあああっ!!」
 みのりは手を壁に叩きつける。当然、そんなことをしても赤色は落ちないのだが、動揺したみのりは罰するように壁を殴り続ける。だが、すっかり乾いた血は壁には全く移らず、依然としてまとわりついていた。
(あたしっ、あたしが……!! 殺したの!?)
「やだぁ、やだやだやだやだやだやだぁっ!! あたしじゃない! あたし違うのにぃ!」
 みのりは髪を掻きむしって、幼子の癇癪のような言葉にならない声を上げる。そして、彼女はその場から立ち去ることも忘れて大泣きを始めた。顔が火を噴いたかのように熱くなり、猫が毛玉を吐き出すみたいにひくひくと激しくしゃくり上げる。完全に狂乱状態だった。
(あーあ、あたし人殺しちゃった)
 だが、錯乱する肉体と裏腹に、思考は不釣り合いなまでに凪いでいた。

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