『COMPANY's Pawn』短編・番外編

練習でたくさん動くのに。お小遣いも、ご飯も足りなくて。いつも空腹だった、部活終わり。ソラが気まぐれで買っては、はんぶんこしてくれた、コンビニのメロンパン。何気ない話をしながら、半分に割ったパンをかじる。…あの情景が、今、とてつもなく懐かしくて、恋しくて、涙が出る。

来週。私は結婚する。相手は新興の投資銀行の若き頭取。結婚すれば、死んだ父が遺した、莫大な借金の全てを、夫となる彼が返済してくれる。その代わりに、自分に相応しい妻になれ、と要求された。
テーブルマナーに、言葉遣いなどの立ち居振る舞い。社交ダンスや、歌のレッスン…。本当に必要なのか分からないけれど、借金を返してもらえたら…。もう朝晩とパートで働き詰めだったせいで、ぼろぼろになっていたお母さんが、きっとゆっくり休める。私もパワハラやセクハラをしてくる上司たちに我慢しないと働けないような、あんなブラック企業を辞められる。
全てが上手く行くはずなの。そうなのに…。どうして…、どうして、今になって、急に…。

同じ部活帰りのソラが差し出してくれるメロンパンは、いつも綺麗なはんぶんこだった。甘いものが苦手な彼も、ハードな練習を終えた日は、さすがに糖分が欲しいらしい。でも、メロンパンひとつは大きすぎる。ならば、と、金欠でパンも買えない私を見て、はんぶんこすることを、ソラは提案してきた。お腹が空いている私は喜んで乗った。色気より食い気。何とでも言えばいい。
はんぶんこになったメロンパンをゆっくり食べる時間が、私たちふたりの普通で当たり前で、でも特別な日常だったのだ。
コンビニに行けば誰でも買える、ありきたりなメロンパン。ソラと出来るだけ多くの時間を一緒に過ごしたい一心で、わざとゆっくりと食べていた、はんぶんこ。

テーブルマナーのついでとばかりに並べられる、美しい品々。数ミリ単位のズレも許さないとばかりに、皿の上に盛り付けられた、芸術品のような料理たち。美味しい、…のだろうと、思う。フランスだか、イタリアだかで、何年も修行してきたとかのシェフが、いつも振る舞ってくれるもの。結婚相手の若き頭取はいつも自慢げに言っている。「これらは、普通の人間がおいそれと食べられる料理ではない」と。何の名前かも分からないワインの解説と、それを飲みながらベラベラと一方的に語ってくる、自分のこれまでの功績・英雄伝云々が、最近の食事中のBGMだ。
でも、私が食べたいのは、これじゃないし。はんぶんこを食べている間のソラは、いつも静かだった。

部活で汗と泥まみれだったから美しくないし、誰でも知ってるコンビニで買える超庶民的な食べ物だけど。
でもでも、それでも。私は、あのメロンパンが食べたくて、仕方がない。

ねえ、ソラ…。…はんぶんこ、食べたいよ…。



「…今日も、食べるか?」

え…?この声…?

差し出されたのは、開封されたビニール袋。開け口から甘い香りが漂ってくる。コンビニのメロンパン。綺麗にはんぶんこされている。

「……、ソラ…?」

十年以上、会っていなかった、同級生は。元々、品の良いイケメンだったけれど、更に洗練された大人の男になっていた。身長は、…あまり伸びてない。

「どうした?今日は腹が減っていないのか?」

どうしてここにいるの、とか、なんで私を見つけたの、とか、色々と湧き出る疑問はあるけれど。それよりも、差し出されたはんぶんこが、このうえなく嬉しい。
手に取って、袋から出して、…かぶりつく。マナー違反だとか、おしとやかじゃないとか、そんなこと、どうでもいい。このはんぶんこが、食べたかったんだ。
いつの間にか、私の目からとめどなく流れていた涙が、ソラの白手袋の指先で、そっと拭われる。
ぽんぽん、と優しく頭を撫でられた瞬間。私は堰を切ったかのように、声をあげて、泣いてしまった。


――――……

散々泣いて、ソラが貸してくれたハンカチをぐしゃぐしゃにして。そうして、やっと落ち着いた頃には。真っ暗な夜空に、まんまるのお月様が浮かんでいた。

頭の中が、ぼんやりとする。もう難しいことは、何も考えたくない。

お金の心配。いつも感じていた空腹。それを満たしてはくれない、息苦しいだけの日々…。

私にとって、『幸せ』だと思えたのは、ソラとはんぶんこを食べていた、あの時間だけだったのだ。あのひと時を、もう一度、また次も、と願っていたから。部活の練習もサボらなかったし、試合に出るためのレギュラー争いだって一切合切、妥協しなかった。

不意に、視線をソラに向けると。あの時と変わらない翡翠の眼があった。凪いだ湖面のような、静けさを感じる。
途端に。何故か、私の全身のチカラが、スッと抜けた。傾く身体を、ソラが瞬時に支えてくれる。

「ツラいことは、もう終わりだ」

耳元で、優しい声がした。そうだ。ソラは「冷たい」とか「厳しい」とか、周りでは言われていたけれど。本当は、誰よりも優しいひとだって。知ってる。

ソラの白手袋の指先が、私の薬指に嵌っていた指輪を、抜き取った。

その光景を見た瞬間。ずっと、ずっと、心にぽっかりと空いていた隙間のようなモノが、じんわりと埋まっていくのを感じて。止まったはずの涙が、また、零れそうになる。

余計なお喋りなんて、いらない。見栄と虚勢ばかりの日々とも、サヨナラ。
ツラいことも、幸せなことも。あの頃、一緒に食べていたメロンパンみたいに。

ふたりで、はんぶんこ。
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