『極寒の果てで』小説

ソラが声を掛ける前に、花嫁が振り向く。その顔にいつもの陽だまりの笑みなく、むしろ、感情の一切が消え失せた、まるで能面のような無表情が浮かんでいた。それを見たソラの歩みが止まる。すると、花嫁が口を開いた。

「ソラ様…、お迎えに来てくださり、ありがとうございます。…ですが、私は、…もうゴッカンには、帰りません」

衝撃の台詞が、花嫁の口から飛び出る。だが、ソラは黙して、続きを促した。

「ソラ様は、いつもいつも、お仕事ばかり。口を開けば、「有罪」か「無罪」かしか仰らない。あなた様は、花嫁の私にさえ、愛の言葉ひとつ囁いてくれないお方…。
 それどころか、いつまで待っても、結婚式すらも挙げてくださらない」

花嫁はそこまで喋ると、ハァ…、と憂いの溜め息をひとつ、吐く。そして、長い睫毛を伏せて、視線を下に降ろしてしまった。ソラは、黙っているまま。
自分の主張を聞いてくれていると受け取った花嫁が、目を伏せたまま、続きを紡ぐ。

「私を愛してくださらない殿方に嫁ぐ気なんて、ありませんわ。
 ゴッカンの雪の中で、孤独に骨を埋めるくらいなら…、このハーカバーカで永遠に美しいまま、彷徨っていたい」

自分の花嫁がそこまで言った直後、ソラが一歩踏み出した。彼がアクションを起こしたことで、花嫁は口を閉ざしてから、そちらに視線を寄越す。

「俺と共に、ゴッカンに帰る気は、本当に無いのか?」
「ええ。あのような国には、もう二度と戻りません」

ソラの問いに、花嫁はきっぱりと答えた。ソラの質問は続く。

「ゴッカンの何処に、不満がある?」
「あの国の空の下は、まるでひとの心の芯まで凍えるような寒さ。それに加えて、一年中、雪景色で、綺麗なお花の一輪も咲いていない。
 穏やかな気候と、そして美しいものに囲まれたイシャバーナで育った私には、もう耐え切れません」

花嫁はまたしても一刀両断した。それを聞いたソラは、翡翠の隻眼を僅かに下げて、「そうか」と、静かに零す。

ふたりの周囲に咲き乱れている真っ赤な蔦薔薇が、夜露に濡れていた。


*****


花嫁は、ふと、気配を感じ取り、伏せていた視線を上げた。真紅の彼岸花に囲まれた庭の入り口に立っていたのは、ソラ。だが、いつもの王としての荘厳な気配は無い。むしろ、幽々しいまである。

「…ソラ様…?」

花嫁が名を呼べば、ソラは僅かに伏せていた目を上げた。視線が交叉すると、彼は真っ直ぐに花嫁へと向かってきて。そのまま、彼女の細い身を抱き締めた。突然のことに花嫁が混乱していると、ソラがそのまま口を開く。

「ふたりで、ここに留まってしまおうか」
「…え」

突然の宣告に、花嫁は驚愕した。上手い返しが見つからないうちに、ソラは言葉を重ねる。

「ハーカバーカにいれば、もう一生、離れることはない。
 あらゆる束縛と苦痛から解放されて、ずっとふたりで、幸せに暮らしていける」
「…、本当に…?」

花嫁が疑問符を飛ばした。ソラは変わらず彼女を抱き締めたまま、その耳元で囁き続ける。

「俺は数多を裁いてきた…。それが時折、寝しなの悪夢となって、襲いかかってくる…。そんなとき、いつも、お前がこの腕の中にいてくれれば…、と思っていた。…もう、俺にはお前さえいればいい。お前しかいらない…」
「……。」
「何より、万年吹雪の寂しい国に、お前のような花を閉じ込めておくのが…、ずっと心の片隅で、しのびなかった…」
「…ソラ様…」

花嫁はただただ、愛しいひとの名前を呟いた。それはまるで、彼が己に掛けてくれる言葉を、噛み締めているかのようで。

花嫁の両腕が、ソラの背中に回った。花嫁が自分を抱き締め返してくれた、その仕草に、ソラの口元が僅かに緩んで。次の瞬間―――、


―――背中のオージャカリバーが、引き抜かれた。

咄嗟に距離を取るものの、もう遅い。剣は花嫁の手にあった。抱き締め返すふりをして、花嫁はソラからオージャカリバーを奪ったのだ。

「お前は、剣なんて持たなくていい。俺がこれからずっと、お前だけを守ってやる。…だから、返せ」

ソラが柔い声で、花嫁を諭す。しかし、彼女は強い光を灯した瞳で、彼を睨みつけた。

「お断りします。あなたのような腑抜けに守ってもらうなんて、金輪際、ごめんですわ」

花のような唇から、強烈な拒絶の言葉が飛び出る。
それを聞いたソラの隻眼から、全ての感情が消え失せた。そして、「そうか」と、彼は乾いた声で呟いた。


*****


ソラの翡翠の眼が冷たさを孕み、花嫁を射抜く。

「ゴッカン王の妃になる未来を、お前は今ここで捨てる、ということで間違いないか?」
「私は最初から、そう申し上げているではありませんか。
 何度も同じことを確認し、復唱させる…。これではまるで、裁判の尋問のようです。もう、うんざr―――」


―――花嫁の台詞は、最後まで紡がれなかった。
信じられないようなものを見る目で、花嫁は己の腹部に視線を落とす。そこには、柄の部分にゴッカンの国章が刻印された銀製の短剣が、深々と突き刺さっていた。その短剣を握っているのは―――、ソラ。

「そ、そら、さ、ま…?」
「その声と姿で、これ以上、さえずるな」

冷たい、冷たい、ソラの声。腹部から血が溢れ、口の端からも赤い筋を垂れ流し、苦悶の表情を浮かべる。
だが、ソラはそんな花嫁の様子など知りもしないとばかりに、短剣を花嫁の腹から抜いた。花嫁が地面に倒れ伏す。

「な、…なん、で…?そ、ら、さ…ま、」

口からは血を吐きながら、両目からは涙を流しながら。花嫁はソラに向かって手を伸ばす。その仕草はひどく弱々しく、彼女がもう永くないことが分かった。そうだと言うのに。自分が刺したというのに。ソラは、花嫁を冷たく見下ろしながら、色素の薄い唇を開く。

「ゴッカン王の伴侶になる覚悟を簡単に捨てるような軟弱で我儘な女など、俺には不要だ。そもそも、俺の国を蔑む時点で、未来の王妃に相応しくない。
 それに、最高裁判長の責務をまるで理解していない発言を簡単にする、その軽薄さ…。王妃云々以前に、俺の花嫁と名乗ること、一切合切、却下する。
 ハーカバーカで永遠に彷徨っていたいというならば、今ここで、その願いを叶えてやろう。
 ……、さっさと消えるがいい。偽物が」


*****


「ソラ様の姿と、声で…!その真似事如きで、あのお方の全てを否定しないでくださる…?!
 あなたのような存在、悲劇でも何でもなく、全く美しくない…!むしろ、汚らわしいこと、この上ない…!」

花嫁が怒りに震えながら、叫ぶ。その手のオージャカリバーを眼前のソラ―――こちらも偽物―――に目掛けて、振り翳した。難なく避けられてしまったが、花嫁はゴッカンに来た頃より、剣術の指南を受けている。ただでは終わらない。すぐさま二撃目を繰り出すと、その切っ先は、偽物のソラを袈裟切りにした。

「ご自身の王道を征くソラ様は…!玉座を…!民を…!ゴッカンそのものを捨てるようなことを、絶対にしません!
 例え、私という未来の王妃がいようとも…、その存在が国の未来に相応しくないとご判断されたら…。ソラ様は、絶対にゴッカンを取るのです!
 ソラ様の持つ天秤は、常に公平!正しく水平!決して、片方に傾かないのです!!」

激高しながら、花嫁はソラの偽物を、滅多切りにする。

そもそも。“本物のソラと花嫁は、最初から、死の国で再会などしていない。”
ふたりは別々の場所に引き離されて、誘導されたうえで、愛しいひとの偽物を宛がわれた。そして、各々が偽物に唆されていた、というのが真実。

故に、ソラは、花嫁の偽物を刺して。花嫁は、ソラの偽物に斬りかかった。
お互いのことを、心から理解して、信じているから。偽物が吐いた台詞は、本物のソラと花嫁なら、まず言わないことばかり。だから、ふたりは惑わされなかった。


一方。本物のソラは…。

瞳を紫色に光らせて、口から灰色の靄を吐き出し、両の爪を伸ばした花嫁の偽物、―――…否、既に本性を現した異形と対峙していた。
ソラは背中のオージャカリバーを抜くと、刃を向ける。

「彼女の姿と声で、拒絶の言葉を向ければ、俺の心が折れるとでも思ったか?
 …くだらん。例え、お前が本物だったとしても…、俺は間違いなく、お前を刺していた」

そう言いながら、ソラはオージャカリバーの構え方を変える。左の逆手持ち。普段の彼の剣を知る者は、まず見たことがない構えである。

異形の怪物が咆哮を上げながら、ソラに猛スピードで迫ってきた。しかし、ソラはそれを身軽に避ける、…だけでは終わらず、むしろ懐に飛び込んで、強烈な蹴りを食らわせた。よろけた怪物の首筋を、オージャカリバーの刃が容赦なく掻き斬る。必殺にして、暗殺の剣術。一国の王が振るうにしては、些か物騒な剣道だ。

致命的なダメージを負って倒れ込んだ怪物を、冷たい眼差しで見ながら、ソラは更に告げる。

「甘い言葉を囁き、相手だけを見つめて、常に己の背中に隠して守り続ける…。それもまあ、『愛』と言えるかもしれない。…だが、俺たちの間では、それだけで完結などしない」

ソラが蹲っている怪物の腹を、勢いよく蹴り上げた。痛めつけられたうえに、強制的に仰向けにさせられた怪物は、更に呻く。ソラは続けた。

「国を背負うことを舐めるな。民の命を預かることを軽んじるな。法を司ることを、甘く見るな。
 …彼女を、俺の花嫁を…、その信条を簡単に投げ捨てるような、軽々しい小娘と値するな…!」

怪物が起き上がろうとする素振りを見せたものの、ソラの靴底がその腹を踏んで、阻む。踏みつけた箇所から、何やら、あらぬ音がした気がした。怪物は一矢報いようと、最後のチカラを振り絞ったのだろうが。怒りが頂点に達したソラには敵わない。

「現ゴッカン王が、俺が、心の底から愛している女の品位と矜持を貶めるような真似事、断じて許さん!」

ソラが咆えた。そして、左手に持ったオージャカリバーの切っ先を、怪物の心臓の位置に突き立てる。何の迷いもなく。
とうとう怪物の息は絶えて、その姿はあっという間に灰燼と化した。


一方、本物の花嫁は…。

花嫁が怒りのままに滅多切りにしても、尚、立っていたソラの偽物だったが。その形が、突如、崩れた。サラサラと砂のようなものになって、地面に落ちる。すると、同時に。花嫁の周囲に咲き乱れていた赤い彼岸花も、一斉に枯れ果ててしまった。手に持ったオージャカリバーも、まるで煙のように消えていく。

「…、…。」

感情をむき出しにして、暴れた反動か。花嫁が、ぼう…、と呆けていると。

乾いた地面を踏みしめる靴音が聞こえた。振り向く前に、背後から優しく抱き締められる。

「…帰るぞ。俺たちのゴッカンへ」
「…はい、もちろんです…!」

心の底から愛しているひとの声と体温を感じて。花嫁の瞳から、涙が一筋、零れ落ちた。


to be countinued...
13/20ページ
スキ