『極寒の果てで』小説
――吸血鬼の魔王伯爵は、言いました。
「私を倒し、封印せしめると言うなれば、その責の五百年を負うと知れ!」
それを聞いた、イザヴェラ女王は、オージャカリバーを振るい上げ、こう返します。
「邪悪を殺すも生かすも、我が王道!我はゴッカン女王・イザヴェラなり!」
イザヴェラ女王が宣言すると、彼女のネックレスの蒼玉が光りました。その光に目が眩んだ魔王伯爵は、剣を取り落とします。
その隙を突いた女王のオージャカリバーが、魔王伯爵を、見事、斬り裂きました。
かくして、吸血鬼の魔王伯爵は倒され、五百年の眠りの封印につきました。
そして、それを成し遂げたイザヴェラ女王は、魔王伯爵に捕らえられていた王子殿下を取り返し、親子ふたりで王城へと帰りました。
めでたし、めでたし。
本を閉じた花嫁が、満足げにする。
それを仕事をしながら黙って見聞きしていたソラは、書類から顔を上げずとも、花嫁に向かって言った。
「……また、随分と古い物語を出してきたな」
「私は大好きです、この『イザヴェラ女王道物語』。
私の故郷のイシャバーナでも、学童の推薦図書に選ばれるほどですし…。…もしかして、ソラ様は、あまりお好きではないのでしょうか…?」
「…。そういう訳じゃない。歴代ゴッカン王の間でも、イザヴェラ女王の名君伝承は必修だし、俺もこの国に来て、たった数か月の間に、物語の本を擦り切れるくらいに読み込まされた。…だが」
ソラが中途半端に切った言葉の続きを、花嫁は疑問符を飛ばしながらも、待つ。ソラは自身の首から提げられたペンダントの蒼い水晶を撫でると、口を開いた。
「…物語の中だけとはいえ、古い過去からの禍根を背負うのは、…いささかの理不尽を覚えたものだ。…幼心にも、な」
そう言うと、ソラは翡翠の隻眼を細める。黒革の指先が弄ぶ蒼色の水晶が、暖炉の灯を受けて、花嫁の目の中に光を映し込んだ。
―――ソラと花嫁がそんな話をしてから、一時間が過ぎた頃。
雪が積もった王城の中庭で、従者を傍に控えさせて、花嫁は雪兎を作っていた。無邪気に遊ぶ彼女は見ていて飽きないが、そろそろ部屋に戻さないと、身体を冷やしすぎてしまう。従者が「花嫁様」と呼びかけた時だった。
大きな羽音が、響いた。驚いた花嫁と従者が見上げれば、そこにいたのは、巨体の赤いドラゴン。ドラゴンは大地を揺るがすような声で哭くと、中庭に降り立った。地が揺るぎ、積雪が舞う。この赤色のドラゴンだけではない。王城の上空には、無数の飛竜がいた。ソラは国として飛竜を飼ってはいない。つまり、この竜の群れは、ソラ以外の誰かの勢力が持つものであるということ。他国からの侵攻もありえない。となれば。
「…吸血鬼の魔王伯爵…?!」
花嫁の口から、その単語が出る。先のソラとの話題に上がった、『イザヴェラ女王道物語』。その劇中に出てくる、魔王伯爵が使役する、悪のドラゴン。花嫁の前に降り立ったドラゴンは、まさしくそれにそっくりだった。
歴代のゴッカン王の間で必修とされる、イザヴェラ女王の王道物語が、ただの作り話や、脚色されたものでないのならば―――…。
駆け付けた王城の衛兵たちが、剣や槍を突きつけるなか、赤色のドラゴンは、のっしのっしと歩を進め、まっすぐに花嫁めがけてやってくる。
「かかれぇッ!!」
兵士長の号令がかかり、衛兵たちが一斉にドラゴンに刃を向けて、突撃した。が、硬い皮膚や鋭い爪に阻まれ、衛兵たちの攻撃は届かない。それどころか、大きな翼の一振りで巻き起こった暴風に煽られて、皆、散り散りに吹き飛んでしまう。
グォォォオオ!!とドラゴンが吼え、今度こそ花嫁に向かって突進してきた。
その時―――…
「…―――貴様、誰の居城にいるつもりだ?」
積もった雪よりも冷たい声で、そう言いながら。オージャカリバーを振りかざしたのは、ソラだった。
ドラゴンの爪を刃で受け止め、弾き返す。そして素早く弓モードにしたキングズウエポンから光線を放ち、その翼を傷付けた。ダメージを負ったドラゴンの巨体が傾ぐ。誰もがソラの勝利を確信した。が。
「きゃぁっ!!」
「―――ッ!?」
後方から聞こえた悲鳴に、ソラが反応した。振り向いたソラの視線の先にいたのは、兵士の恰好をした賊が、短剣を花嫁の首元に突きつけている図。
「貴様…!」
「動くな!ゴッカン王!
刃の先ひとつ、一ミリでも動かしてみろ!お前の大事な花嫁は、今ここで死ぬぞ!」
賊はそう叫ぶと、短剣の刃先を、更に花嫁の首筋に晒すようにする。ソラは動けない。それを見た賊が口笛を吹くと、上空に舞っていた飛竜に一匹が舞い降りてきた。そして、賊はそれにひらりと乗る。―――花嫁を抱えたまま。
「ゴッカン王!今より陽が傾く刻までに、この王城から更に西にある、魔王城へ来い!お前ひとりで、だ!
さもなくば!このお前の花嫁は、我が主君である魔王伯爵様の妃となり、永遠の虜となろう!」
「待てッ!逃がすものかッ!―――ッ!」
賊の一方的な要求を跳ね返さんとばかりに、キングズウエポンを構えようとしたソラだったが。赤色の巨体なドラゴンの咆哮と、その羽音から来る強風に吹かれ、顔を覆う。その隙に。花嫁を攫った賊を乗せた飛竜は、高く、高く、上昇していった。
「ソラ様!ソラ様ぁぁッ!!」
両目から涙を流した花嫁が、賊の腕の中でもがきながら、ソラの名を叫び、助けを縋る。が、それも虚しく。飛竜は西の方角へと飛び、同時に赤色のドラゴンも去って行った。
従者や兵士の全員が茫然自失とするなか。ソラだけが、包帯のない左目をすがめ、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
*****
「本当におひとりで行かれるおつもりですか?!」
「敵がそう要求してきた。ならば、今はそれに従うしかない」
単身で討伐へ征く身支度を整え始めたソラを見た側近が声をかけるが、彼は振り向きもせずに返事をする。
「俺が三日と帰らなければ、王城の西へ兵を寄越せ。俺の死体があれば良し。無ければ、そのまま―――」
「―――おやめください…!そのような不吉な…ッ!」
ソラの冷静が過ぎる声音を、側近が叫ぶかのように阻む。その姿は、今にも泣きそうである。だが、ソラが出立しようとするのを止める素振りは見せない。グッとこらえているのだろう。
「…、留守を頼む」
ソラはそう呟くと、オージャカリバーを背負った後ろ姿が歩き出す。間もなくそれは、雪の降り積もった林道へと消えて行った。
さく、さく、と積もった真雪を踏み締める音が響く。雪の上にソラ以外の足跡は無く、花嫁を攫った賊共が、本当にドラゴンに乗って飛来してきたことが分かった。
今日は比較的、吹雪の程度が緩い。上を見て太陽の位置を確認すると、昼をよぎる頃であることが把握できる。王城を出立して、早一時間半が経過しようとしていた。
今から気温が高くなる時頃だ。そうすれば、もう少し動きやすくなるはず…。とソラが視線を流した時だった。前方に、影が見えた。目を凝らすと、それは城に近い形状をしている。…正直、ソラは驚いた。本当にあったのか。「魔王城」とやらは。と。
目的地が見えたのならば、後は近付くだけだ。そう改めて考えると。ソラは今一度、足を踏み出した。
敵が単身で来いと要求してきたとはいえ、ソラは正面切って「ごめんください」と言う気には到底なれなかった。…相手もこちらの居城のど真ん中に割って入ったのだ。なのに、何故ソラが来る分に、礼儀を払う必要があろうものか。…完全に無意識だが。そう考えてしまうくらいには、ソラは相当、頭に来ていた。
故かどうかは知らぬが。ソラが魔王城へと侵入したのは、正面玄関からなどではなく、すぐ隣に併設されていた時計塔からだった。もしかすると、花嫁がこちらに囚われている可能性もある、という期待的予測もあったからだ。…が、あちこち見回れど、それらしき部屋は無く。塔の上の大時計と、水を汲むからくりを動かす歯車や機械類がひしめく、長い階段を、ソラは往く。やがて、その終わりも見えた。一番上の扉を開き、屋上へと出る。
時計塔の屋上は吹き曝しで、僅かな高さの塀しか無く、後は寒風がソラの頬を撫でるだけ。しかしそこから見えたのは、絶景だった。荒ぶ吹雪の中に、僅かに差し込む昼の陽光。それを反射して輝く、灰色の雲海。そして、最早、遥か下と広がる、純白の雪原。
―――…美しい。
素直にそう思えた。罪人を裁き、閉じ込める、最果ての牢獄。その異名で畏怖されては、遠巻きに見られる、このゴッカン。ソラはその国の戴きにいる。自分が統治する王国が見せる、この一面。誰にも汚させたりしない。
そこまで考えて、ソラは背負っていたオージャカリバーを、すらり、と引き抜いた。
すると同時に。獰猛な雄叫びを上げながら、あの赤色のドラゴンが降り立った。ドラゴンはソラを威嚇するかのように、その大きな両翼をはためかせた。屋上に降り積もった真白の雪が、ドラゴンの羽ばたきによって巻き起こる風に煽られて、スターダストの如く、煌めきの屑となり、ソラとドラゴンの周囲を舞う。両者の上空には、いつの間にか、飛竜の群れがいた。
「―――…氷粒と消えろ」
オージャカリバーの切っ先を向けたソラがそう宣告した。そして、戦いの火蓋は切って落とされる。
鋭い爪から繰り出される撃を躱すと、ソラは一息で跳躍して、ドラゴンの右腕を狙った。王城の衛兵の装備ではてんで敵わなかったドラゴンの高い防御も、王の証であるオージャカリバーの刃を前にしては、成す術もなく。ドラゴンの右腕は、根元から斬り落とされた。
血が噴き出し、その苦痛からドラゴンが激しい呻き声を上げながら、ダン!!ダン!!と地団太を踏む。すると。
グラグラと塔全体が大きく揺れたかと思えば。屋上の床が抜けた。当然、ソラは何も出来ずに落下してしまう。
腕のお返しとばかりに、追撃をしようと、ドラゴンは落下していくソラに向かって突進してきた。上空にいた飛竜たちも次々に追随してくる。
落ちながらも、降り注ぐ瓦礫をオージャカリバーで斬って捨てるソラ。そして、自分の横に飛竜の一匹が、隙ありと言わんばかりに飛来してきた時だった。
ソラのペンダントの蒼水晶がひかり輝いたと思えば、彼の隻の翡翠もまた蒼く光る。ソラが飛竜の目を真っ直ぐに見て、叫んだ。
「――我は王なり!ゴッカン王・ソラの名のもと、我に従え!!」
ソラに命じられた飛竜の紅い眼が、蒼く染まった。途端。その飛竜は、くるり、と旋回して、自分の背にソラを乗せる。…――『王命』に従ったのだ。この飛竜はソラの下僕となり、片腕を失って怒るドラゴンに対抗する一手となった。
飛竜の背を得たソラは、キングズウエポンを鎌モードに切り替えると、オージャカリバーと合体させて、大鎌と変化させる。そしてそれを振りかざし、自分の周囲に襲来してくる飛竜たちを次々と撃墜していった。
ソラはその勢いのまま、赤色のドラゴンに特攻をかける。大鎌の刃から放たれるパワーでドラゴンを圧せば、崩れた塔の壁ごと、その巨体を外へと押し出した。塔の隣に聳える魔王城そのものの城壁に、バランスを崩したドラゴンの巨躯がぶつかる。そのチカラに耐えきれず、城の壁もまた崩壊した。
ドガァァン…!、とドラゴンが崩れた壁の向こうにあった、広間の床に転がった。口から泡を吹き、ビクビクと痙攣している。
空いた壁の穴から、飛竜に跨ったままのソラが身軽に舞い降りんとした。せめて一息に…と、今度は弓モードにしたキングズウエポンを構え、ドラゴンの喉元を狙った時だった。
ドラゴンの身体が光の粒子となったかと思えば、それが広間の奥の方へと収束していく。否。吸収されている。ソラが構えた弓の標準が、広間の奥に定め直された。…何かが、いる。
「私の愛しい竜よ…、安らかに眠れ…」
しわがれた声が、聞こえた。ソラが注視すると、その声の主は応えるかのように、ゆったりとした足取りで、彼の前に姿を現す。
「貴様が…、魔王伯爵か?」
「いかにも。我が城へ、ようこそ。新雪の王よ」
ソラが問えば、その老齢の伯爵は答えながら、丁寧にお辞儀をした。が、決して隙は見せていない。その証拠に、ソラはずっと弓を構えたままだ。
「ゴッカン王よ、少し遅かったようだな」
「何だと…?」
魔王伯爵の言葉に、ソラが疑念を抱く。刹那。伯爵のマントが、バサァッ!、とはためくと、そこから光線が閃いた。反応が遅れたソラだったが、跨っていた飛竜が旋回することで何とか直撃は免れる。しかし、バランスを崩してしまい、落竜した。されとて、地面に転がるような無様な真似は見せず、ソラは靴底から綺麗に着地する。すぐさま、オージャカリバーを伯爵へと向けた。
―――…が。見えてしまった。奥の玉座が。
ほくそ笑む魔王伯爵の顔を、己の視界の端に映しながらも。しかと見てしまった。
魔王伯爵の物であろう玉座に、しな垂れかかるようにして倒れ込んだ、己の花嫁。その顔色は青白く、とても生気ある者とは思えない。
「…ッ、!?」
花嫁の名を叫びかけ、飛び出しかけたソラだったが、それは寸での所で止まる。魔王伯爵が、立ち塞がったからだ。
「ゴッカン王…、お前の花嫁は…―――私が、頂いた。
もう二度と、お前には微笑まぬ…!」
「―――ッッ!!」
魔王伯爵が妖艶に笑んで、そう宣告した瞬間。ソラの翡翠の隻眼に、憤怒の激情が浮かぶ。そして。
――『Pop It On!』
「王鎧武装!!」
――『You are the KING! You are the, You are the KING!』
「貴様は…、死ねぇッッ!!」
パピヨンオージャーに変身したソラが激昂しながら、紫色の閃光を纏ったオージャカリバーを瞬かせる。魔王伯爵はそれを自分の剣で受け止めた。激しい剣戟が始まる。
「私が憎いか、ゴッカン王!?そんなに己の花嫁が大事だったか?!」
「黙れ!!貴様に何が分かる?!そんなこと問われなくとも!!」
「なれば、私を斬るといい!!イザヴェラの時と同じように!!
愚かな歴史を繰り返せ!愚かなヒトの子よ!!」
檄を飛ばし合う応酬の合間にも、両者は斬り結ぶ。魔王伯爵の剣先がソラの鼻先数センチを掠めたが、彼は動じず、距離を取ったかに思えた。しかし。
――『オージャチャージ!』
オージャカリバーに一撃必殺のパワーを溜め込む。それを見た伯爵は、老いた見た目にそぐわぬ身のこなしで、地を蹴った。が。
「舞え!氷蝶!」
ソラの方が早い。魔王伯爵の剣先が、ソラを射抜かんとした寸前で。ソラの身体が、無数の紫色の蝶の群れへと変化した。麗しの郡蝶。氷で出来た、美しい羽根の閃き。伯爵は刹那、それに見惚れ、動きを止めた。だが…
「粛刑、―――…執行!」
冷たい声が魔王伯爵の背後から響くと同時に、彼の胸をオージャカリバーが貫いた。ぐふっ、と伯爵の口から鮮血が噴き出す。胸元もみるみるうちに紅く染まっていった。
ソラがオージャカリバーを引き抜くと、伯爵の身体はくずおれ、地に伏した。
動かないことを確認すると、ソラの装甲が解ける。彼はそのまま玉座の方へと走って行った。花嫁の身体を抱き起こすと、黒革の手袋越しでも、その肌は氷のように冷たいのが分かる。ゾッとしたものが、ソラの背筋を駆け巡った。
「おい、起きろ…!しっかりしろ…!」
呼びかけるものの、花嫁からの反応はない。ソラは手袋を外すと、彼女の細い首筋に手を当てた。
…―――脈が、無い…―――……。
「…ぁ…、あ…」
遅かったのか?自分は、間に合わなかったのか?
花嫁をかどわかした賊の言う通り。魔王伯爵の言う通り。
花嫁は、彼女は、もう二度と―――自分に微笑むことが無いのか…
その考えが、ソラの脳内によぎった瞬間。
パリンッ!!と彼のペンダントの蒼水晶が、砕け散った。
「あ…あ、…あ゛あ゛あぁ゛ぁあああああああああああッッッ!!!!」
ソラの慟哭が響き、魔王城の広間に、猛烈なブリザードが吹き荒ぶ。
吹雪の勢いで、緩んでいた包帯が捲れ上がり、飛んだ。普段は隠されている、ソラの右目。それは縦に入ったの刀傷の下で、緑色に光っていた。その輝きが増せば増すほど、ブリザードも激しくなっていく。
凍てつく嵐の中心で。ソラは花嫁の身体を抱き締めた。どんなに嘆いても。どんなに憂いても。一度でも失った命は、戻らない。それは分かっている。分かっていても。受け入れられない現実が、そこにはあった。だからこそ、今。ソラは、この巻き起こった吹雪の中心にいるのだ。
ソラと、彼の腕の中にいる花嫁を軸にして。魔王城の広間のあちらこちらが、凍り付いていく。
魔王伯爵の荘厳な玉座は、氷像と成り果てて。その間を覆うシルクのカーテンには霜が貼り付き、ピキピキと音を立てて崩れようとしていた。だが、そんな中でも。ソラの手から離れて、床に転がっていたオージャカリバーだけは、紫色の淡い光を纏い続けて、氷風から逃れていた。
「…、…さむい…」
吹き荒れるブリザードの中で、ソラが独り言ちる。否、本人的には、花嫁に語りかけたつもりだった。しかし、答えは返ってこない。いつもなら、陽だまりのような温もりと香りを感じる自分の花嫁からは。もう、何も無い。
「…ゴッカン王…」
代わりとばかりに、その場に響いたのは。魔王伯爵の呼び声だった。
倒したはずの伯爵の声が聞こえてくるのはありえないのだが。今のソラにはもう、どうでもいいことだった。この身も永くないと、そう悟るくらいには。
「このままだと、お前も、花嫁も、共にここで氷と果てて終わるのだぞ?」
「……構わない。彼女は、死んだ…」
「…自暴自棄になる気か?」
「…全てが終わった今、何も無い」
「……、…ここを氷の地獄と化して、己の最期とするか、ゴッカン王よ…」
「…彼女と最期まで共にいられるのなら、…もう地獄でも何処でも良い…」
自分が刺し貫き、倒した相手との会話。そんな矛盾だらけの光景は、氷に果てようとするソラの心に、何の疑念も抱かせない。ただただ、茫然と漠然と、魔王伯爵の質問に応じるだけ。
「…最高裁判長の俺との婚姻を結びたがる令嬢など…、単なる好き者だと思っていた…。…背景を調べても、驚くほど何も出てこない。だから、いっそ、いくらかの報奨金を握らされたか、王室からの援助申請かのどちらかに、応じてきたに過ぎないと…」
やがて黙った魔王伯爵に、聞かせているのか、そうでないのか。ソラが語り始めた。その間にも、ふたりを中心に、氷の封印が広がろうとしている。
「…実家への援助が目的なら、俺への興味関心は薄いと踏んだ…。元々、俺自身、他人から好かれる人間でもない。職務上も、性格上も…。
…なのに、彼女は、俺を何の曇りもない瞳で、慕ってくる…。
…守りたいと思った。己の全てを投じても。…でも、それは出来ない。
俺は王だ。王には民がいる。民がいるのなら、簡単に己を投げうつことは許されない。…だから、せめて、自分が出来ることの全てを使って、彼女を幸せにしたかった…。でも…ッ」
守れなかった…、とソラは呻く。彼の左目から、涙が零れた。それは一筋の雫となって、花嫁の頬に落ちる。が、瞬時に凍り付き、パラ…、と空気の塵となった。
「…俺の花嫁…、…俺だけの花嫁…。……幸せにしたかった…。例え、その先で、お前の隣に俺がいなくても…」
ソラの両目から、ぽろぽろと涙が零れるも、全てが氷の粒となって、砕け散る。
「―――…、愛してる」
だから、せめて。最期は共に。ここを地獄と変えようとも。
生死で分かたれて、永遠に結ばれない運命となったなら。死の先で、再び出逢えることを、切に願う。
「……、さむ、い…」
「…、…?」
「とても…さむいで、す…、そらさま…」
「……、え…」
もう聞こえないはずの、花嫁の声。それが確かに、ソラの耳を掠めた。伏せていた目を上げると、そこには。
カタカタと身を小刻みに震わせて、ソラの装束の端を、弱々しくもぎゅっと握り締める、花嫁の姿。
「なん、で…」
ソラが、そう呟いた瞬間。吹き荒れていたブリザードが、晴れた。ソラの右目からも光が失われて、元の黒色に戻る。
「さっむぅぅぅぅ!!うっっっっっっわ!!もう本当さぁ!なんちゅー秘術が残ってんだっつーの?!ゴッカン王室ってばよー相変わらず極端なんだからさぁぁぁ!!」
「………………は?」
幻だと思っていた魔王伯爵の、突然の流暢な喋り口。しかも軽い。すごく軽い。その軽さたるや、ソラの口から、割と怒りが強めな「は?」が飛び出る。
「ソラ様、ソラ様…!寒いです…私、とても寒いですぅぅ…!」
「………………え?」
死んだと思っていた花嫁が、生きている。こっちもとても流暢に喋る。口調はいつものそれだが。とてもさっきまで死んでいたようには見えないほど(?)、寒がっている。ソラの口からは、今度は困惑が強めな「え?」が出てきた。
とりあえず(??)、ほぼ条件反射で、花嫁に暖を取らせようと、己の胸に抱きすくめてみるが。そこで気が付く。氷の嵐を吹き荒らしていた自分の身こそ、今まさに氷点下にある、と。
「つっ、つめた…ッ」
「ッ!す、すまない…」
「あ、いいえ!いいえ!あの、その…!」
「水晶があればすぐに復帰が…え?砕けてる…?…お、オージャカリバー!俺のオージャカリバーは何処だ!?」
いないならいないって言え!と、何だか理不尽なことを叫ぶソラに、やれやれ~、とオージャカリバーを差し出すのは。笑顔の魔王伯爵だった。
わたわたと己が愛剣を受け取り、ついでに片手間で包帯も巻き直していると。
「うわぁ、ゴッカン王ってば、器用だなぁ~!ボクだったら、そんな風にできないよ~」
魔王伯爵が、広間を覆った氷を拳で適当に砕きながら、感心したように言う。口調がおかしい。キャラがおかしい。だがしかし。今はそこを論点にする隙がない。
ソラがオージャカリバーに念じると、砕け散ったはずの彼のペンダントの蒼水晶が、元に戻った。
「…後で、ルカに見て貰う必要があるな…」
この水晶の開発元は、ンコソパの総長こと国王・ルカである。脳内でダブルピースする呑気な彼の笑顔を思い浮かべて、辟易したかのように、ソラは頭を振った。今はあのポンコツの笑顔なんぞに馳せている場合ではない。
「暖炉に火が付いたよぉ!ふたりとも、こっちにおいで~!皆であったまろう~!」
伯爵が軽い口調でソラと花嫁を誘いながら、大きな暖炉の前に敷物をする。ついでに、いつの間に入ってきたのやら、従者の恰好をした小ぶりなモンスターたちが、お茶やお菓子の給仕をし始めていた。
紅茶と菓子を囲いながら、軽い口調の魔王伯爵と、とても生き生きとしている花嫁から受けた説明に、ソラは眩暈を覚えそうだった。
事の発端は、そもそも。花嫁が、王城西の散策をしていた時にまで遡る、らしい。
そこの河川で洗濯をしていた魔王伯爵と出会い、意気投合したんだとか。
ふたりがソラに仕掛けたのは、要は「ドッキリ大作戦」である。ソラに『花嫁が悪の伯爵に攫われた!急ぎ助けないと、お命が危ない!』と吹き込み、魔王城まで来させて、仮死状態となった花嫁を見て、どのような反応をするのか…。それが、伯爵と花嫁の描いたストーリーだった。―――…のだが。
「ゴッカン王ってばさ、ちょっと強すぎない?!ボクのドラゴンの腕を取るまでが一撃?その後の空中戦の、あの神プレイとか!一体全体、何事?!」
どうやら。花嫁と魔王伯爵は、揃って大きな計算違いをしていたらしい。それが、『ソラの強さ』。
曰く。そもそも、花嫁はソラが来ると踏んだ時間に合わせて、伯爵が計算した時間により、『仮死状態になる薬』を飲んだらしい。その薬効が切れる、すなわち、『花嫁が息を吹き返す』、というタイミング。そこが、ソラの強さを計算ミスしたことで、大きくズレ込み、結果、ソラの秘術が暴走したとのこと。
「?、…? タイミングとは、なんだ?俺の秘術が暴走したことと、それがどのような繋がりを持つ?」
「つーまーりー…」
眉間にしわを寄せるソラに対して、伯爵が一口齧ったクッキーを片手に、解説で切り込む。
~伯爵の回想~
ゴッカン王が魔王城に到着してから真っ直ぐに広間に来るとは思えない。警戒心が強いのならば、尚更。それならば、時計塔に向かうだろうから、そこにドラゴンを配置して、時間稼ぎをして貰って、その間、眠りについた(仮死状態)花嫁ちゃんを守りながら、ボクは横で積読の消化でも―――…
…え?なに?この轟音?あ、そこのきみ~。双眼鏡ちょうだい~?
あれ?ドラゴンの右腕が?あれ?床、抜けちゃった?あれあれ??こっち来るの?うわ…ウワァァァァァァァこっちくんなァァァァァ
~回想終わり~
「それ以降のことは、ゴッカン王も体験したことだねえ。そして、肝心なのは、ここからだ。花嫁ちゃんの飲んだ、仮死状態になる薬が切れる時間、というのは、実は厳密に決められていてね~?いくらボクが魔王伯爵とはいえ、その薬は一度飲んだら、薬効が切れてくれるまで、自然と待つしか無いわけさ~?
まあ、単純明快に答えを言うならね?
―――…要するに、ボクと花嫁ちゃんが考えたゴールは…―――、『ゴッカン王が広間に来て、魔王伯爵を倒した後。助け起こした王の腕の中で、花嫁が息を吹き返す』って感じだったのね~」
「…つまり…、彼女が息を吹き返すタイミングと、俺が魔王城の広間に襲来するタイミングが、完全にズレた…、というより、『俺が早く来すぎたせいで、花嫁が起きなかった』…と?」
「あ、そうそう~!うわ~!ゴッカン王ってば、頭良いんだぁ!いや~イザヴェラはさ、ああ見えて結構、脳みそ筋肉だったからさ~」
「……、お前たちの軍勢が、雑魚だっただけでは…?」
「…うわぁ~…それ言っちゃうぅ~…?ゴッカン王~…?正論ばかりじゃあ、世の中、渡っていけないよぉ~…?」
「悪いが、俺はもう王座についている身だ。最高裁判長としての実績もある」
「うひゃあ…、デキる男の台詞だ…。じぃじも言ってみたいな~そんなかっこいい台詞~」
そんなことを応酬しながら、伯爵は、おかわりちょうだい~、と小間使いに空っぽのカップを渡す。
ソラと花嫁のカップにも注がれる、おかわりの紅茶を横目に、ソラは伯爵に対して、今一度、問いかけた。
「おい、ジジィ」
「じぃじだってば。ゴッカン王?文字の順番、間違えないで?」
「―――何故そこまでして、俺の花嫁に肩入れをした?」
「―――……。」
ソラの、冷たい声。団欒とした場の空気が、一瞬にして、冷えた。軽いノリだった魔王伯爵の目線も、少しだけ真面目なものなる。
下手な答えでは、この新雪の王の機嫌を損ねるだろう。若きゴッカンの王。強いのは、チカラだけではない。この鋭く、冷たく、厳しい瞳。封印した片目に、王の重責を担って。背中に王の証を負って。この吹雪の国に、天秤として聳え立つ。
それでも―――…。
先の光景を思い出して。魔王伯爵は、ふふっと、破顔した。その反応に、ソラの目が細まる。
「いやいやぁ。茶化すつもりはないんだけどねえ。じぃじは良いものを見させて貰ったよ~?ゴッカン王?」
「……は?」
魔王伯爵の軽い口調に、ソラの口からまたもや飛び出す、強めの「は?」。それを聞いた伯爵は、ティーカップを傾けながら、続けた。
「『彼女と最期まで共にいられるのなら、…もう地獄でも何処でも良い』とか、『守りたいと思った。己の全てを投じても』とか、『俺だけの花嫁』とか、『幸せにしたかった』とか!
極めつけは、やっぱりコレだよね~!最後の最後!超ベストタイミングで飛び出したこの一言!
―――『愛しt」
「ジジィぃいいーーーーーーーッッッッッ!!!!」
「じぃじだってばぁぁウワァァァァァァァァァあっぶなーーーい!!!!」
伯爵の鼻先数ミリをオージャカリバーが突き抜ける。そこからは暫く、阿鼻叫喚の地獄絵図が続いたが。
元より、この城に来てから暴れ続けていたソラの体力切れが理由で、何とかこれ以上の被害は出ずに済んだのだった…―――。
―――数時間後。
宵の帳が降りた、魔王城の屋上。
ソラは魔王伯爵によって、いささか熱すぎる温泉に放り込まれた挙句、「三百数えるまで出ちゃダメ!」と、まるで本当の父親(爺)のようなことを言われたせいで、軽い湯あたりを起こした。
湯冷ましと、宴が続く広間から逃げたくて。適当な理由をつけて。屋上までひとりでやってきた。せめて髪くらいは結えば良かった…と、軽く後悔しながら、湯あたりを冷ますには充分すぎる寒風に、身を預けていると―――…
背後に気配を感じた。振り返る。
―――己の花嫁が、いた。
花嫁は寝間着も同然の姿だった。当然、寒いはずだ。屋上に出た瞬間から身を震わせている。ソラは慌てて駆け寄り、その肩を抱いた。
「そんな姿で、ゴッカンの夜の外へ出るな。一瞬で風邪をこじらせるぞ?」
「ごめんなさい…。でも、ソラ様のお姿が見えたので、つい追いかけてしまって…」
「俺…?」
「…、…ふたりきりに、なれるのかな…なんて…」
「…。」
国王と、その花嫁。
いつも同じ王城にいて、同じ空間を共にできる。…のは、本当に、表向きで。
常に、何処かで、誰かの。目も耳も口も、あって。
本当に何も気兼ねなく、自由に会話したりすることなど、皆無なのだ。ましてや、こんな風に、ソラが花嫁を抱き締めてやるなど…。
―――そこまで考えが至って。ソラは、やっとひとつの答えに、辿り着いた。
魔王伯爵が、あの人懐っこさとは言えども。花嫁に『肩入れ』をした、その理由が。
「随分と、寂しい思いを、させていたんだな…」
「…! あ…、あの…でも…」
「いや、皆まで言うな。…俺もここまでお膳立てされておいて、やっと全部を理解した自分に、……呆れている」
「……ソラ様」
構って欲しい。寂しい。自分を求めて欲しい。
今回の『ドッキリ大作戦』は、その花嫁の欲求に帰結する。端から見れば、かなりのレベルの承認欲求で、重たい女だろう。だが、花嫁の性格ならば、本来はそうなる必要はなかったはずだ。
…ソラが、仕事や、立て込む手続きを理由に、彼女へ向き合う時間を避けていたのだから。『男の仕事を邪魔する女は嫌われる』と、古来よりまことしやかに言われるが。本当に相手が大切ならば、『仕事を放り出して、自分を構え!』などとは言えないはずだった。仕事はキャリアであり、キャリアは積み上げ続けなければ、意味が無い。それが分からぬほど、花嫁は箱入りでは無かった。だとしても…。
「…お手を煩わせて…本当に、本当に、―――」
「―――…」
花嫁の謝罪は、紡がれなかった。ソラが塞いだ。ちゅ、と軽いリップ音を響かせて、すぐにソラの唇は花嫁のそれから離れていった。
「…謝ることは、なにひとつない。互いの為にも、な」
「…ソラ様」
ソラが下した決断は、実に現実的で、そして理想的で。花嫁は、その「冷たい」決断力こそが、好きだった。誰にも、何にも、揺るがない。天秤は、安易に傾かない。でもそれは、あくまで『国王』であり『最高裁判長』としての、ソラであり。彼個人、『ソラ自身』としての、判断は―――…。
「―――あんな枯れたジジィとは言え…。俺以外の男の手を借りて、こんな大それたこと…、ましてや自分を奪わせる演出なんて…―――」
『氷の瞳』とまで揶揄される、ソラの冷たい翡翠の視線。だがしかし、今はその氷の向こうに、揺らめく炎がある。
「覚えておけ。
男の嫉妬は醜いのは元より…、俺の嫉妬は…、―――…冷たいぞ?」
そう言って。ソラはもう一度、花嫁にキスを落とす。
…こんなにも人間味のあるソラは、初めてかもしれない。
それこそ、恋愛対象になど引っかかりなどしない魔王伯爵にだって。こうして、嫉妬に狂っている。そして、嫉妬に燃えたソラのキスは、酷く熱い。
ゴッカンの夜風は凍えるほどの寒さなのに。合わせた唇から伝熱する想いで、身も心も灼けそうだった。
吐息と共に離れた熱が、とても恋しい。と、思えた。
「―――…改めて、言わせてくれ」
ソラがそう言えば、花嫁は頷く。言葉の続きの内容は、簡単に予知できた。それでも、待ちたい。彼の口から、直接、聞くことを。
「俺と、結婚してほしい」
「―――…はい、喜んで…ッ!」
しかと肯定した花嫁の陽だまりの笑顔を見たソラが、―――…同じく、笑った。
もっと、とねだるままに。ふたりはまた、キスをする。
「…いやぁ~、この歳になっても、若いふたりの恋路を応援できるなんて、…『魔王伯爵』なんて呼ばれる甲斐があるってもんだなぁ~…!」
城仕えのモンスターたちと一緒に屋上の扉の陰より見守っていた、魔王伯爵が。
酒の入った赤みのある顔で、心底嬉しそうに、そう零したのだった。
めでたし、めでたし。
……とさ♪
「私を倒し、封印せしめると言うなれば、その責の五百年を負うと知れ!」
それを聞いた、イザヴェラ女王は、オージャカリバーを振るい上げ、こう返します。
「邪悪を殺すも生かすも、我が王道!我はゴッカン女王・イザヴェラなり!」
イザヴェラ女王が宣言すると、彼女のネックレスの蒼玉が光りました。その光に目が眩んだ魔王伯爵は、剣を取り落とします。
その隙を突いた女王のオージャカリバーが、魔王伯爵を、見事、斬り裂きました。
かくして、吸血鬼の魔王伯爵は倒され、五百年の眠りの封印につきました。
そして、それを成し遂げたイザヴェラ女王は、魔王伯爵に捕らえられていた王子殿下を取り返し、親子ふたりで王城へと帰りました。
めでたし、めでたし。
本を閉じた花嫁が、満足げにする。
それを仕事をしながら黙って見聞きしていたソラは、書類から顔を上げずとも、花嫁に向かって言った。
「……また、随分と古い物語を出してきたな」
「私は大好きです、この『イザヴェラ女王道物語』。
私の故郷のイシャバーナでも、学童の推薦図書に選ばれるほどですし…。…もしかして、ソラ様は、あまりお好きではないのでしょうか…?」
「…。そういう訳じゃない。歴代ゴッカン王の間でも、イザヴェラ女王の名君伝承は必修だし、俺もこの国に来て、たった数か月の間に、物語の本を擦り切れるくらいに読み込まされた。…だが」
ソラが中途半端に切った言葉の続きを、花嫁は疑問符を飛ばしながらも、待つ。ソラは自身の首から提げられたペンダントの蒼い水晶を撫でると、口を開いた。
「…物語の中だけとはいえ、古い過去からの禍根を背負うのは、…いささかの理不尽を覚えたものだ。…幼心にも、な」
そう言うと、ソラは翡翠の隻眼を細める。黒革の指先が弄ぶ蒼色の水晶が、暖炉の灯を受けて、花嫁の目の中に光を映し込んだ。
―――ソラと花嫁がそんな話をしてから、一時間が過ぎた頃。
雪が積もった王城の中庭で、従者を傍に控えさせて、花嫁は雪兎を作っていた。無邪気に遊ぶ彼女は見ていて飽きないが、そろそろ部屋に戻さないと、身体を冷やしすぎてしまう。従者が「花嫁様」と呼びかけた時だった。
大きな羽音が、響いた。驚いた花嫁と従者が見上げれば、そこにいたのは、巨体の赤いドラゴン。ドラゴンは大地を揺るがすような声で哭くと、中庭に降り立った。地が揺るぎ、積雪が舞う。この赤色のドラゴンだけではない。王城の上空には、無数の飛竜がいた。ソラは国として飛竜を飼ってはいない。つまり、この竜の群れは、ソラ以外の誰かの勢力が持つものであるということ。他国からの侵攻もありえない。となれば。
「…吸血鬼の魔王伯爵…?!」
花嫁の口から、その単語が出る。先のソラとの話題に上がった、『イザヴェラ女王道物語』。その劇中に出てくる、魔王伯爵が使役する、悪のドラゴン。花嫁の前に降り立ったドラゴンは、まさしくそれにそっくりだった。
歴代のゴッカン王の間で必修とされる、イザヴェラ女王の王道物語が、ただの作り話や、脚色されたものでないのならば―――…。
駆け付けた王城の衛兵たちが、剣や槍を突きつけるなか、赤色のドラゴンは、のっしのっしと歩を進め、まっすぐに花嫁めがけてやってくる。
「かかれぇッ!!」
兵士長の号令がかかり、衛兵たちが一斉にドラゴンに刃を向けて、突撃した。が、硬い皮膚や鋭い爪に阻まれ、衛兵たちの攻撃は届かない。それどころか、大きな翼の一振りで巻き起こった暴風に煽られて、皆、散り散りに吹き飛んでしまう。
グォォォオオ!!とドラゴンが吼え、今度こそ花嫁に向かって突進してきた。
その時―――…
「…―――貴様、誰の居城にいるつもりだ?」
積もった雪よりも冷たい声で、そう言いながら。オージャカリバーを振りかざしたのは、ソラだった。
ドラゴンの爪を刃で受け止め、弾き返す。そして素早く弓モードにしたキングズウエポンから光線を放ち、その翼を傷付けた。ダメージを負ったドラゴンの巨体が傾ぐ。誰もがソラの勝利を確信した。が。
「きゃぁっ!!」
「―――ッ!?」
後方から聞こえた悲鳴に、ソラが反応した。振り向いたソラの視線の先にいたのは、兵士の恰好をした賊が、短剣を花嫁の首元に突きつけている図。
「貴様…!」
「動くな!ゴッカン王!
刃の先ひとつ、一ミリでも動かしてみろ!お前の大事な花嫁は、今ここで死ぬぞ!」
賊はそう叫ぶと、短剣の刃先を、更に花嫁の首筋に晒すようにする。ソラは動けない。それを見た賊が口笛を吹くと、上空に舞っていた飛竜に一匹が舞い降りてきた。そして、賊はそれにひらりと乗る。―――花嫁を抱えたまま。
「ゴッカン王!今より陽が傾く刻までに、この王城から更に西にある、魔王城へ来い!お前ひとりで、だ!
さもなくば!このお前の花嫁は、我が主君である魔王伯爵様の妃となり、永遠の虜となろう!」
「待てッ!逃がすものかッ!―――ッ!」
賊の一方的な要求を跳ね返さんとばかりに、キングズウエポンを構えようとしたソラだったが。赤色の巨体なドラゴンの咆哮と、その羽音から来る強風に吹かれ、顔を覆う。その隙に。花嫁を攫った賊を乗せた飛竜は、高く、高く、上昇していった。
「ソラ様!ソラ様ぁぁッ!!」
両目から涙を流した花嫁が、賊の腕の中でもがきながら、ソラの名を叫び、助けを縋る。が、それも虚しく。飛竜は西の方角へと飛び、同時に赤色のドラゴンも去って行った。
従者や兵士の全員が茫然自失とするなか。ソラだけが、包帯のない左目をすがめ、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
*****
「本当におひとりで行かれるおつもりですか?!」
「敵がそう要求してきた。ならば、今はそれに従うしかない」
単身で討伐へ征く身支度を整え始めたソラを見た側近が声をかけるが、彼は振り向きもせずに返事をする。
「俺が三日と帰らなければ、王城の西へ兵を寄越せ。俺の死体があれば良し。無ければ、そのまま―――」
「―――おやめください…!そのような不吉な…ッ!」
ソラの冷静が過ぎる声音を、側近が叫ぶかのように阻む。その姿は、今にも泣きそうである。だが、ソラが出立しようとするのを止める素振りは見せない。グッとこらえているのだろう。
「…、留守を頼む」
ソラはそう呟くと、オージャカリバーを背負った後ろ姿が歩き出す。間もなくそれは、雪の降り積もった林道へと消えて行った。
さく、さく、と積もった真雪を踏み締める音が響く。雪の上にソラ以外の足跡は無く、花嫁を攫った賊共が、本当にドラゴンに乗って飛来してきたことが分かった。
今日は比較的、吹雪の程度が緩い。上を見て太陽の位置を確認すると、昼をよぎる頃であることが把握できる。王城を出立して、早一時間半が経過しようとしていた。
今から気温が高くなる時頃だ。そうすれば、もう少し動きやすくなるはず…。とソラが視線を流した時だった。前方に、影が見えた。目を凝らすと、それは城に近い形状をしている。…正直、ソラは驚いた。本当にあったのか。「魔王城」とやらは。と。
目的地が見えたのならば、後は近付くだけだ。そう改めて考えると。ソラは今一度、足を踏み出した。
敵が単身で来いと要求してきたとはいえ、ソラは正面切って「ごめんください」と言う気には到底なれなかった。…相手もこちらの居城のど真ん中に割って入ったのだ。なのに、何故ソラが来る分に、礼儀を払う必要があろうものか。…完全に無意識だが。そう考えてしまうくらいには、ソラは相当、頭に来ていた。
故かどうかは知らぬが。ソラが魔王城へと侵入したのは、正面玄関からなどではなく、すぐ隣に併設されていた時計塔からだった。もしかすると、花嫁がこちらに囚われている可能性もある、という期待的予測もあったからだ。…が、あちこち見回れど、それらしき部屋は無く。塔の上の大時計と、水を汲むからくりを動かす歯車や機械類がひしめく、長い階段を、ソラは往く。やがて、その終わりも見えた。一番上の扉を開き、屋上へと出る。
時計塔の屋上は吹き曝しで、僅かな高さの塀しか無く、後は寒風がソラの頬を撫でるだけ。しかしそこから見えたのは、絶景だった。荒ぶ吹雪の中に、僅かに差し込む昼の陽光。それを反射して輝く、灰色の雲海。そして、最早、遥か下と広がる、純白の雪原。
―――…美しい。
素直にそう思えた。罪人を裁き、閉じ込める、最果ての牢獄。その異名で畏怖されては、遠巻きに見られる、このゴッカン。ソラはその国の戴きにいる。自分が統治する王国が見せる、この一面。誰にも汚させたりしない。
そこまで考えて、ソラは背負っていたオージャカリバーを、すらり、と引き抜いた。
すると同時に。獰猛な雄叫びを上げながら、あの赤色のドラゴンが降り立った。ドラゴンはソラを威嚇するかのように、その大きな両翼をはためかせた。屋上に降り積もった真白の雪が、ドラゴンの羽ばたきによって巻き起こる風に煽られて、スターダストの如く、煌めきの屑となり、ソラとドラゴンの周囲を舞う。両者の上空には、いつの間にか、飛竜の群れがいた。
「―――…氷粒と消えろ」
オージャカリバーの切っ先を向けたソラがそう宣告した。そして、戦いの火蓋は切って落とされる。
鋭い爪から繰り出される撃を躱すと、ソラは一息で跳躍して、ドラゴンの右腕を狙った。王城の衛兵の装備ではてんで敵わなかったドラゴンの高い防御も、王の証であるオージャカリバーの刃を前にしては、成す術もなく。ドラゴンの右腕は、根元から斬り落とされた。
血が噴き出し、その苦痛からドラゴンが激しい呻き声を上げながら、ダン!!ダン!!と地団太を踏む。すると。
グラグラと塔全体が大きく揺れたかと思えば。屋上の床が抜けた。当然、ソラは何も出来ずに落下してしまう。
腕のお返しとばかりに、追撃をしようと、ドラゴンは落下していくソラに向かって突進してきた。上空にいた飛竜たちも次々に追随してくる。
落ちながらも、降り注ぐ瓦礫をオージャカリバーで斬って捨てるソラ。そして、自分の横に飛竜の一匹が、隙ありと言わんばかりに飛来してきた時だった。
ソラのペンダントの蒼水晶がひかり輝いたと思えば、彼の隻の翡翠もまた蒼く光る。ソラが飛竜の目を真っ直ぐに見て、叫んだ。
「――我は王なり!ゴッカン王・ソラの名のもと、我に従え!!」
ソラに命じられた飛竜の紅い眼が、蒼く染まった。途端。その飛竜は、くるり、と旋回して、自分の背にソラを乗せる。…――『王命』に従ったのだ。この飛竜はソラの下僕となり、片腕を失って怒るドラゴンに対抗する一手となった。
飛竜の背を得たソラは、キングズウエポンを鎌モードに切り替えると、オージャカリバーと合体させて、大鎌と変化させる。そしてそれを振りかざし、自分の周囲に襲来してくる飛竜たちを次々と撃墜していった。
ソラはその勢いのまま、赤色のドラゴンに特攻をかける。大鎌の刃から放たれるパワーでドラゴンを圧せば、崩れた塔の壁ごと、その巨体を外へと押し出した。塔の隣に聳える魔王城そのものの城壁に、バランスを崩したドラゴンの巨躯がぶつかる。そのチカラに耐えきれず、城の壁もまた崩壊した。
ドガァァン…!、とドラゴンが崩れた壁の向こうにあった、広間の床に転がった。口から泡を吹き、ビクビクと痙攣している。
空いた壁の穴から、飛竜に跨ったままのソラが身軽に舞い降りんとした。せめて一息に…と、今度は弓モードにしたキングズウエポンを構え、ドラゴンの喉元を狙った時だった。
ドラゴンの身体が光の粒子となったかと思えば、それが広間の奥の方へと収束していく。否。吸収されている。ソラが構えた弓の標準が、広間の奥に定め直された。…何かが、いる。
「私の愛しい竜よ…、安らかに眠れ…」
しわがれた声が、聞こえた。ソラが注視すると、その声の主は応えるかのように、ゆったりとした足取りで、彼の前に姿を現す。
「貴様が…、魔王伯爵か?」
「いかにも。我が城へ、ようこそ。新雪の王よ」
ソラが問えば、その老齢の伯爵は答えながら、丁寧にお辞儀をした。が、決して隙は見せていない。その証拠に、ソラはずっと弓を構えたままだ。
「ゴッカン王よ、少し遅かったようだな」
「何だと…?」
魔王伯爵の言葉に、ソラが疑念を抱く。刹那。伯爵のマントが、バサァッ!、とはためくと、そこから光線が閃いた。反応が遅れたソラだったが、跨っていた飛竜が旋回することで何とか直撃は免れる。しかし、バランスを崩してしまい、落竜した。されとて、地面に転がるような無様な真似は見せず、ソラは靴底から綺麗に着地する。すぐさま、オージャカリバーを伯爵へと向けた。
―――…が。見えてしまった。奥の玉座が。
ほくそ笑む魔王伯爵の顔を、己の視界の端に映しながらも。しかと見てしまった。
魔王伯爵の物であろう玉座に、しな垂れかかるようにして倒れ込んだ、己の花嫁。その顔色は青白く、とても生気ある者とは思えない。
「…ッ、!?」
花嫁の名を叫びかけ、飛び出しかけたソラだったが、それは寸での所で止まる。魔王伯爵が、立ち塞がったからだ。
「ゴッカン王…、お前の花嫁は…―――私が、頂いた。
もう二度と、お前には微笑まぬ…!」
「―――ッッ!!」
魔王伯爵が妖艶に笑んで、そう宣告した瞬間。ソラの翡翠の隻眼に、憤怒の激情が浮かぶ。そして。
――『Pop It On!』
「王鎧武装!!」
――『You are the KING! You are the, You are the KING!』
「貴様は…、死ねぇッッ!!」
パピヨンオージャーに変身したソラが激昂しながら、紫色の閃光を纏ったオージャカリバーを瞬かせる。魔王伯爵はそれを自分の剣で受け止めた。激しい剣戟が始まる。
「私が憎いか、ゴッカン王!?そんなに己の花嫁が大事だったか?!」
「黙れ!!貴様に何が分かる?!そんなこと問われなくとも!!」
「なれば、私を斬るといい!!イザヴェラの時と同じように!!
愚かな歴史を繰り返せ!愚かなヒトの子よ!!」
檄を飛ばし合う応酬の合間にも、両者は斬り結ぶ。魔王伯爵の剣先がソラの鼻先数センチを掠めたが、彼は動じず、距離を取ったかに思えた。しかし。
――『オージャチャージ!』
オージャカリバーに一撃必殺のパワーを溜め込む。それを見た伯爵は、老いた見た目にそぐわぬ身のこなしで、地を蹴った。が。
「舞え!氷蝶!」
ソラの方が早い。魔王伯爵の剣先が、ソラを射抜かんとした寸前で。ソラの身体が、無数の紫色の蝶の群れへと変化した。麗しの郡蝶。氷で出来た、美しい羽根の閃き。伯爵は刹那、それに見惚れ、動きを止めた。だが…
「粛刑、―――…執行!」
冷たい声が魔王伯爵の背後から響くと同時に、彼の胸をオージャカリバーが貫いた。ぐふっ、と伯爵の口から鮮血が噴き出す。胸元もみるみるうちに紅く染まっていった。
ソラがオージャカリバーを引き抜くと、伯爵の身体はくずおれ、地に伏した。
動かないことを確認すると、ソラの装甲が解ける。彼はそのまま玉座の方へと走って行った。花嫁の身体を抱き起こすと、黒革の手袋越しでも、その肌は氷のように冷たいのが分かる。ゾッとしたものが、ソラの背筋を駆け巡った。
「おい、起きろ…!しっかりしろ…!」
呼びかけるものの、花嫁からの反応はない。ソラは手袋を外すと、彼女の細い首筋に手を当てた。
…―――脈が、無い…―――……。
「…ぁ…、あ…」
遅かったのか?自分は、間に合わなかったのか?
花嫁をかどわかした賊の言う通り。魔王伯爵の言う通り。
花嫁は、彼女は、もう二度と―――自分に微笑むことが無いのか…
その考えが、ソラの脳内によぎった瞬間。
パリンッ!!と彼のペンダントの蒼水晶が、砕け散った。
「あ…あ、…あ゛あ゛あぁ゛ぁあああああああああああッッッ!!!!」
ソラの慟哭が響き、魔王城の広間に、猛烈なブリザードが吹き荒ぶ。
吹雪の勢いで、緩んでいた包帯が捲れ上がり、飛んだ。普段は隠されている、ソラの右目。それは縦に入ったの刀傷の下で、緑色に光っていた。その輝きが増せば増すほど、ブリザードも激しくなっていく。
凍てつく嵐の中心で。ソラは花嫁の身体を抱き締めた。どんなに嘆いても。どんなに憂いても。一度でも失った命は、戻らない。それは分かっている。分かっていても。受け入れられない現実が、そこにはあった。だからこそ、今。ソラは、この巻き起こった吹雪の中心にいるのだ。
ソラと、彼の腕の中にいる花嫁を軸にして。魔王城の広間のあちらこちらが、凍り付いていく。
魔王伯爵の荘厳な玉座は、氷像と成り果てて。その間を覆うシルクのカーテンには霜が貼り付き、ピキピキと音を立てて崩れようとしていた。だが、そんな中でも。ソラの手から離れて、床に転がっていたオージャカリバーだけは、紫色の淡い光を纏い続けて、氷風から逃れていた。
「…、…さむい…」
吹き荒れるブリザードの中で、ソラが独り言ちる。否、本人的には、花嫁に語りかけたつもりだった。しかし、答えは返ってこない。いつもなら、陽だまりのような温もりと香りを感じる自分の花嫁からは。もう、何も無い。
「…ゴッカン王…」
代わりとばかりに、その場に響いたのは。魔王伯爵の呼び声だった。
倒したはずの伯爵の声が聞こえてくるのはありえないのだが。今のソラにはもう、どうでもいいことだった。この身も永くないと、そう悟るくらいには。
「このままだと、お前も、花嫁も、共にここで氷と果てて終わるのだぞ?」
「……構わない。彼女は、死んだ…」
「…自暴自棄になる気か?」
「…全てが終わった今、何も無い」
「……、…ここを氷の地獄と化して、己の最期とするか、ゴッカン王よ…」
「…彼女と最期まで共にいられるのなら、…もう地獄でも何処でも良い…」
自分が刺し貫き、倒した相手との会話。そんな矛盾だらけの光景は、氷に果てようとするソラの心に、何の疑念も抱かせない。ただただ、茫然と漠然と、魔王伯爵の質問に応じるだけ。
「…最高裁判長の俺との婚姻を結びたがる令嬢など…、単なる好き者だと思っていた…。…背景を調べても、驚くほど何も出てこない。だから、いっそ、いくらかの報奨金を握らされたか、王室からの援助申請かのどちらかに、応じてきたに過ぎないと…」
やがて黙った魔王伯爵に、聞かせているのか、そうでないのか。ソラが語り始めた。その間にも、ふたりを中心に、氷の封印が広がろうとしている。
「…実家への援助が目的なら、俺への興味関心は薄いと踏んだ…。元々、俺自身、他人から好かれる人間でもない。職務上も、性格上も…。
…なのに、彼女は、俺を何の曇りもない瞳で、慕ってくる…。
…守りたいと思った。己の全てを投じても。…でも、それは出来ない。
俺は王だ。王には民がいる。民がいるのなら、簡単に己を投げうつことは許されない。…だから、せめて、自分が出来ることの全てを使って、彼女を幸せにしたかった…。でも…ッ」
守れなかった…、とソラは呻く。彼の左目から、涙が零れた。それは一筋の雫となって、花嫁の頬に落ちる。が、瞬時に凍り付き、パラ…、と空気の塵となった。
「…俺の花嫁…、…俺だけの花嫁…。……幸せにしたかった…。例え、その先で、お前の隣に俺がいなくても…」
ソラの両目から、ぽろぽろと涙が零れるも、全てが氷の粒となって、砕け散る。
「―――…、愛してる」
だから、せめて。最期は共に。ここを地獄と変えようとも。
生死で分かたれて、永遠に結ばれない運命となったなら。死の先で、再び出逢えることを、切に願う。
「……、さむ、い…」
「…、…?」
「とても…さむいで、す…、そらさま…」
「……、え…」
もう聞こえないはずの、花嫁の声。それが確かに、ソラの耳を掠めた。伏せていた目を上げると、そこには。
カタカタと身を小刻みに震わせて、ソラの装束の端を、弱々しくもぎゅっと握り締める、花嫁の姿。
「なん、で…」
ソラが、そう呟いた瞬間。吹き荒れていたブリザードが、晴れた。ソラの右目からも光が失われて、元の黒色に戻る。
「さっむぅぅぅぅ!!うっっっっっっわ!!もう本当さぁ!なんちゅー秘術が残ってんだっつーの?!ゴッカン王室ってばよー相変わらず極端なんだからさぁぁぁ!!」
「………………は?」
幻だと思っていた魔王伯爵の、突然の流暢な喋り口。しかも軽い。すごく軽い。その軽さたるや、ソラの口から、割と怒りが強めな「は?」が飛び出る。
「ソラ様、ソラ様…!寒いです…私、とても寒いですぅぅ…!」
「………………え?」
死んだと思っていた花嫁が、生きている。こっちもとても流暢に喋る。口調はいつものそれだが。とてもさっきまで死んでいたようには見えないほど(?)、寒がっている。ソラの口からは、今度は困惑が強めな「え?」が出てきた。
とりあえず(??)、ほぼ条件反射で、花嫁に暖を取らせようと、己の胸に抱きすくめてみるが。そこで気が付く。氷の嵐を吹き荒らしていた自分の身こそ、今まさに氷点下にある、と。
「つっ、つめた…ッ」
「ッ!す、すまない…」
「あ、いいえ!いいえ!あの、その…!」
「水晶があればすぐに復帰が…え?砕けてる…?…お、オージャカリバー!俺のオージャカリバーは何処だ!?」
いないならいないって言え!と、何だか理不尽なことを叫ぶソラに、やれやれ~、とオージャカリバーを差し出すのは。笑顔の魔王伯爵だった。
わたわたと己が愛剣を受け取り、ついでに片手間で包帯も巻き直していると。
「うわぁ、ゴッカン王ってば、器用だなぁ~!ボクだったら、そんな風にできないよ~」
魔王伯爵が、広間を覆った氷を拳で適当に砕きながら、感心したように言う。口調がおかしい。キャラがおかしい。だがしかし。今はそこを論点にする隙がない。
ソラがオージャカリバーに念じると、砕け散ったはずの彼のペンダントの蒼水晶が、元に戻った。
「…後で、ルカに見て貰う必要があるな…」
この水晶の開発元は、ンコソパの総長こと国王・ルカである。脳内でダブルピースする呑気な彼の笑顔を思い浮かべて、辟易したかのように、ソラは頭を振った。今はあのポンコツの笑顔なんぞに馳せている場合ではない。
「暖炉に火が付いたよぉ!ふたりとも、こっちにおいで~!皆であったまろう~!」
伯爵が軽い口調でソラと花嫁を誘いながら、大きな暖炉の前に敷物をする。ついでに、いつの間に入ってきたのやら、従者の恰好をした小ぶりなモンスターたちが、お茶やお菓子の給仕をし始めていた。
紅茶と菓子を囲いながら、軽い口調の魔王伯爵と、とても生き生きとしている花嫁から受けた説明に、ソラは眩暈を覚えそうだった。
事の発端は、そもそも。花嫁が、王城西の散策をしていた時にまで遡る、らしい。
そこの河川で洗濯をしていた魔王伯爵と出会い、意気投合したんだとか。
ふたりがソラに仕掛けたのは、要は「ドッキリ大作戦」である。ソラに『花嫁が悪の伯爵に攫われた!急ぎ助けないと、お命が危ない!』と吹き込み、魔王城まで来させて、仮死状態となった花嫁を見て、どのような反応をするのか…。それが、伯爵と花嫁の描いたストーリーだった。―――…のだが。
「ゴッカン王ってばさ、ちょっと強すぎない?!ボクのドラゴンの腕を取るまでが一撃?その後の空中戦の、あの神プレイとか!一体全体、何事?!」
どうやら。花嫁と魔王伯爵は、揃って大きな計算違いをしていたらしい。それが、『ソラの強さ』。
曰く。そもそも、花嫁はソラが来ると踏んだ時間に合わせて、伯爵が計算した時間により、『仮死状態になる薬』を飲んだらしい。その薬効が切れる、すなわち、『花嫁が息を吹き返す』、というタイミング。そこが、ソラの強さを計算ミスしたことで、大きくズレ込み、結果、ソラの秘術が暴走したとのこと。
「?、…? タイミングとは、なんだ?俺の秘術が暴走したことと、それがどのような繋がりを持つ?」
「つーまーりー…」
眉間にしわを寄せるソラに対して、伯爵が一口齧ったクッキーを片手に、解説で切り込む。
~伯爵の回想~
ゴッカン王が魔王城に到着してから真っ直ぐに広間に来るとは思えない。警戒心が強いのならば、尚更。それならば、時計塔に向かうだろうから、そこにドラゴンを配置して、時間稼ぎをして貰って、その間、眠りについた(仮死状態)花嫁ちゃんを守りながら、ボクは横で積読の消化でも―――…
…え?なに?この轟音?あ、そこのきみ~。双眼鏡ちょうだい~?
あれ?ドラゴンの右腕が?あれ?床、抜けちゃった?あれあれ??こっち来るの?うわ…ウワァァァァァァァこっちくんなァァァァァ
~回想終わり~
「それ以降のことは、ゴッカン王も体験したことだねえ。そして、肝心なのは、ここからだ。花嫁ちゃんの飲んだ、仮死状態になる薬が切れる時間、というのは、実は厳密に決められていてね~?いくらボクが魔王伯爵とはいえ、その薬は一度飲んだら、薬効が切れてくれるまで、自然と待つしか無いわけさ~?
まあ、単純明快に答えを言うならね?
―――…要するに、ボクと花嫁ちゃんが考えたゴールは…―――、『ゴッカン王が広間に来て、魔王伯爵を倒した後。助け起こした王の腕の中で、花嫁が息を吹き返す』って感じだったのね~」
「…つまり…、彼女が息を吹き返すタイミングと、俺が魔王城の広間に襲来するタイミングが、完全にズレた…、というより、『俺が早く来すぎたせいで、花嫁が起きなかった』…と?」
「あ、そうそう~!うわ~!ゴッカン王ってば、頭良いんだぁ!いや~イザヴェラはさ、ああ見えて結構、脳みそ筋肉だったからさ~」
「……、お前たちの軍勢が、雑魚だっただけでは…?」
「…うわぁ~…それ言っちゃうぅ~…?ゴッカン王~…?正論ばかりじゃあ、世の中、渡っていけないよぉ~…?」
「悪いが、俺はもう王座についている身だ。最高裁判長としての実績もある」
「うひゃあ…、デキる男の台詞だ…。じぃじも言ってみたいな~そんなかっこいい台詞~」
そんなことを応酬しながら、伯爵は、おかわりちょうだい~、と小間使いに空っぽのカップを渡す。
ソラと花嫁のカップにも注がれる、おかわりの紅茶を横目に、ソラは伯爵に対して、今一度、問いかけた。
「おい、ジジィ」
「じぃじだってば。ゴッカン王?文字の順番、間違えないで?」
「―――何故そこまでして、俺の花嫁に肩入れをした?」
「―――……。」
ソラの、冷たい声。団欒とした場の空気が、一瞬にして、冷えた。軽いノリだった魔王伯爵の目線も、少しだけ真面目なものなる。
下手な答えでは、この新雪の王の機嫌を損ねるだろう。若きゴッカンの王。強いのは、チカラだけではない。この鋭く、冷たく、厳しい瞳。封印した片目に、王の重責を担って。背中に王の証を負って。この吹雪の国に、天秤として聳え立つ。
それでも―――…。
先の光景を思い出して。魔王伯爵は、ふふっと、破顔した。その反応に、ソラの目が細まる。
「いやいやぁ。茶化すつもりはないんだけどねえ。じぃじは良いものを見させて貰ったよ~?ゴッカン王?」
「……は?」
魔王伯爵の軽い口調に、ソラの口からまたもや飛び出す、強めの「は?」。それを聞いた伯爵は、ティーカップを傾けながら、続けた。
「『彼女と最期まで共にいられるのなら、…もう地獄でも何処でも良い』とか、『守りたいと思った。己の全てを投じても』とか、『俺だけの花嫁』とか、『幸せにしたかった』とか!
極めつけは、やっぱりコレだよね~!最後の最後!超ベストタイミングで飛び出したこの一言!
―――『愛しt」
「ジジィぃいいーーーーーーーッッッッッ!!!!」
「じぃじだってばぁぁウワァァァァァァァァァあっぶなーーーい!!!!」
伯爵の鼻先数ミリをオージャカリバーが突き抜ける。そこからは暫く、阿鼻叫喚の地獄絵図が続いたが。
元より、この城に来てから暴れ続けていたソラの体力切れが理由で、何とかこれ以上の被害は出ずに済んだのだった…―――。
―――数時間後。
宵の帳が降りた、魔王城の屋上。
ソラは魔王伯爵によって、いささか熱すぎる温泉に放り込まれた挙句、「三百数えるまで出ちゃダメ!」と、まるで本当の父親(爺)のようなことを言われたせいで、軽い湯あたりを起こした。
湯冷ましと、宴が続く広間から逃げたくて。適当な理由をつけて。屋上までひとりでやってきた。せめて髪くらいは結えば良かった…と、軽く後悔しながら、湯あたりを冷ますには充分すぎる寒風に、身を預けていると―――…
背後に気配を感じた。振り返る。
―――己の花嫁が、いた。
花嫁は寝間着も同然の姿だった。当然、寒いはずだ。屋上に出た瞬間から身を震わせている。ソラは慌てて駆け寄り、その肩を抱いた。
「そんな姿で、ゴッカンの夜の外へ出るな。一瞬で風邪をこじらせるぞ?」
「ごめんなさい…。でも、ソラ様のお姿が見えたので、つい追いかけてしまって…」
「俺…?」
「…、…ふたりきりに、なれるのかな…なんて…」
「…。」
国王と、その花嫁。
いつも同じ王城にいて、同じ空間を共にできる。…のは、本当に、表向きで。
常に、何処かで、誰かの。目も耳も口も、あって。
本当に何も気兼ねなく、自由に会話したりすることなど、皆無なのだ。ましてや、こんな風に、ソラが花嫁を抱き締めてやるなど…。
―――そこまで考えが至って。ソラは、やっとひとつの答えに、辿り着いた。
魔王伯爵が、あの人懐っこさとは言えども。花嫁に『肩入れ』をした、その理由が。
「随分と、寂しい思いを、させていたんだな…」
「…! あ…、あの…でも…」
「いや、皆まで言うな。…俺もここまでお膳立てされておいて、やっと全部を理解した自分に、……呆れている」
「……ソラ様」
構って欲しい。寂しい。自分を求めて欲しい。
今回の『ドッキリ大作戦』は、その花嫁の欲求に帰結する。端から見れば、かなりのレベルの承認欲求で、重たい女だろう。だが、花嫁の性格ならば、本来はそうなる必要はなかったはずだ。
…ソラが、仕事や、立て込む手続きを理由に、彼女へ向き合う時間を避けていたのだから。『男の仕事を邪魔する女は嫌われる』と、古来よりまことしやかに言われるが。本当に相手が大切ならば、『仕事を放り出して、自分を構え!』などとは言えないはずだった。仕事はキャリアであり、キャリアは積み上げ続けなければ、意味が無い。それが分からぬほど、花嫁は箱入りでは無かった。だとしても…。
「…お手を煩わせて…本当に、本当に、―――」
「―――…」
花嫁の謝罪は、紡がれなかった。ソラが塞いだ。ちゅ、と軽いリップ音を響かせて、すぐにソラの唇は花嫁のそれから離れていった。
「…謝ることは、なにひとつない。互いの為にも、な」
「…ソラ様」
ソラが下した決断は、実に現実的で、そして理想的で。花嫁は、その「冷たい」決断力こそが、好きだった。誰にも、何にも、揺るがない。天秤は、安易に傾かない。でもそれは、あくまで『国王』であり『最高裁判長』としての、ソラであり。彼個人、『ソラ自身』としての、判断は―――…。
「―――あんな枯れたジジィとは言え…。俺以外の男の手を借りて、こんな大それたこと…、ましてや自分を奪わせる演出なんて…―――」
『氷の瞳』とまで揶揄される、ソラの冷たい翡翠の視線。だがしかし、今はその氷の向こうに、揺らめく炎がある。
「覚えておけ。
男の嫉妬は醜いのは元より…、俺の嫉妬は…、―――…冷たいぞ?」
そう言って。ソラはもう一度、花嫁にキスを落とす。
…こんなにも人間味のあるソラは、初めてかもしれない。
それこそ、恋愛対象になど引っかかりなどしない魔王伯爵にだって。こうして、嫉妬に狂っている。そして、嫉妬に燃えたソラのキスは、酷く熱い。
ゴッカンの夜風は凍えるほどの寒さなのに。合わせた唇から伝熱する想いで、身も心も灼けそうだった。
吐息と共に離れた熱が、とても恋しい。と、思えた。
「―――…改めて、言わせてくれ」
ソラがそう言えば、花嫁は頷く。言葉の続きの内容は、簡単に予知できた。それでも、待ちたい。彼の口から、直接、聞くことを。
「俺と、結婚してほしい」
「―――…はい、喜んで…ッ!」
しかと肯定した花嫁の陽だまりの笑顔を見たソラが、―――…同じく、笑った。
もっと、とねだるままに。ふたりはまた、キスをする。
「…いやぁ~、この歳になっても、若いふたりの恋路を応援できるなんて、…『魔王伯爵』なんて呼ばれる甲斐があるってもんだなぁ~…!」
城仕えのモンスターたちと一緒に屋上の扉の陰より見守っていた、魔王伯爵が。
酒の入った赤みのある顔で、心底嬉しそうに、そう零したのだった。
めでたし、めでたし。
……とさ♪