『極寒の果てで』小説
嵐は、突然にやってくる。
花嫁は王城の廊下で、幼馴染の貴族子息と出くわしていた。それはいい。…否、よくない。ここはゴッカンの王城。貴族とはいえ、易々と出入りできる場所ではないはずだ。
とりあえず。何やら感情が高ぶっている様子の幼馴染を宥めようと、花嫁が「久しぶりね」と声をかけると。
「今すぐ!ここから離れるんだ!!」
幼馴染の彼は、そう叫んだ。
「え?どうして…?」
「どうしてもこうしてもない!あんな男の妻など!辞退すべきだ!」
幼馴染の台詞に、花嫁は混乱した。しかし眼前の彼は、王城の衛兵たちにどうどうと窘められているものの、一向にボルテージを下げない。どう答えるべきか、一瞬だけ悩んだがゆえに黙った花嫁に対して、子息は尚も畳みかける。
「冷たくされているんだろう?」
「そんなことはないわ」
そこから貴族子息と、花嫁の応酬が始まった。
「厳格の極みゆえに、きみに厳しい花嫁修業を課しているとも聞く」
「これくらいは、普通よ」
「仕事ばかりにかまけて、きみにはちっとも振り向かないと専らの噂だ」
「…、あの方には、大事な大事な使命があるの」
「結婚式の予定すら、未だに立てていないらしいじゃないか」
「……、一国の未来を左右することよ。簡単には決められないわ…」
「愛の言葉ひとつもかけて貰えないんじゃないのか?」
「………、ソラ様は、硬派なお方だから…」
幼馴染の矢継ぎ早の台詞に、花嫁の言葉尻がどんどんとすぼむ。心当たりがある事が多すぎた。それでもゴッカン王の花嫁として、ソラの事を擁護したい。というか、しない理由がない。だって…―――
「ここまですげなくされて…。もしや、あの男…、他に移り気しているのでは…?」
「えッ?!」
子息の言葉に、花嫁がビクリ!と全身を震わせた。花のような唇から、驚きの声が挙がる。それを見た彼は、やれやれ…、と溜め息を吐いた。
「その反応…心当たりがあるんだね?やはり、ここにいては駄目だ。僕と一緒にイシャバーナヘ帰ろう。そして―――」
「―――随分と愉快な話をしているな」
その場にいた全員が。一瞬にして、背筋を凍り付かせた。真冬の氷のような声。花嫁が振り向けば、そこにいたのは。いつもの紫色の装束を纏い、オージャカリバーを背負った―――…ソラ。
「お前の話、聴収してやろう。望むなら、供述調書も作ってやる」
声音もそうだが。その翡翠の隻眼、慄くほどに、冷たい視線。貴族子息が一瞬、ヒュ…、と喉の奥で息を呑んだが。彼はすぐに、勢いを盛り立てた。
「ここにいると、彼女が可哀想だ」
「それはお前の主観に過ぎない」
「冷遇するならば、なぜ花嫁の立場に置き続けておく?」
「謂れの無い事を吹っかけるのは止せ」
「どうせ彼女の幸せなど、一度も考えた事は無いのだろう?」
「プライベートへの詮索は許さん」
「…ッ、! 不遜で冷酷で非情な男め!彼女はイシャバーナへと連れ帰らせて貰う!!」
そう貴族子息が怒鳴って、彼は花嫁の左の手首を乱暴に掴んだ。「いたいッ…!」と花嫁が呻く。瞬間。
「―――捕らえろ」
ソラが命じた、その直後。貴族子息が、傍にいた衛兵たちに捕らえられた。彼は突然の事に、目を白黒させている。
「不法侵入、名誉棄損、誘拐未遂、暴行…かどうかは、いま、確認する」
ソラは冷酷に告げながら、花嫁に「左の手首を見せろ」と言った。言われた通り、花嫁は掴まれた左手首をソラの見せる。手袋を外したソラの指先が、優しい手つきで動きを確かめた。角度を緩く変えると、花嫁の顔が僅かに歪む。
「筋を痛めているかもな。…暴行も追加だ」
ソラが子息に向かって、言い渡した。すると、怒りで顔を真っ赤にした子息は叫び始める。
「ふざけるな…!僕を誰だと思っている?!この事が僕の父上に知られたら―――」
「―――貴様こそ、俺を誰だと思っている?」
ギラリ、と銀の刃が閃いた。オージャカリバーの切っ先が、子息の首筋数センチの所に突きつけられる。ヒィィッ!と子息の唇から、恐怖の声が細切れに漏れた。ソラはそれには構わず、その刃と、氷の瞳を向けたまま。真っ直ぐに彼に向き直り、口を開いた。
「王の前だ。控えろ。俺の花嫁を誑かす、有象無象が…」
子息の怒りなど駄々っ子のそれにしか見えぬほど、ソラの怒気は凄まじく。真っ赤になっていた子息の顔色は、あっという間に真っ青になり果てる。そのまま、彼は衛兵にしょっ引かれ、連行されていった。
その様子を、花嫁は何とも言えぬ表情で見守っていた。幼馴染の襲来は驚いたが、その彼が眼前で逮捕される様は、当然、良い気分で眺めてはいられない。
「気分の悪いものを見せてしまったな。すまない」
「…いいえ…、これが、ソラ様のお仕事ですし…」
「…。」
「…? ソラ様…?」
普段から口数が少ないソラだが。急に会話を途切れさせた事に違和感を抱き、花嫁は彼を見上げる。と。そっと頭を撫でられた。え、とか、なんで、とか。そんな中途半端な台詞すら、口に出せずに、花嫁の胸に去来して終わる。すると。
「お前は、寂しいのか?」
「え…」
ソラから唐突に問われた事に、花嫁は虚を突かれた反応になった。寂しい、と思った事がない、と言えば嘘になる。しかし、わざわざそれをソラに宣言するつもりはない。だが、嘘は公平ではない。でも…
「何を言われても毅然と返していたのに…、俺の移り気の話をされた時、かなり動揺していたな」
「………、違います…よね…?」
「…俺を疑うか?」
「―――…あ…」
ソラの隻眼が細まる。途端。すぅ…と冷えた場の空気。
そんな事はありえない、と心から思えるはずなのに。ソラの浮気を疑ってしまったという事実への激しい罪悪感と、眼前の彼の振り撒く冷気が、花嫁の身体を凍え縛る。
ソラの指先が、花嫁の首筋を這った。彼の握力を考えると、片手でも締められてしまえば、花嫁の呼吸など、簡単に終わる。
冷たい温度の視線と指先。不敬罪で処されるのだろうか、と。それでも。それがソラの意思ならば、甘んじて受けよう、と。花嫁は心から思えた。しかし、首を這っていたソラの指先の感触が、すっと離れる。
何もされなかったことを不思議に思い、花嫁は改めてソラを見上げた。すると。
「抵抗しないことは、時に、相手に拒絶とも取られる」
「…? それは、どういう意味ですか…?」
ソラが唐突に言った台詞。その意味が分からず、花嫁は問うた。ソラが続ける。
「俺は、俺の浮気を疑うお前の首を取った。お前はそれを拒まなかった。すなわち、お前は俺の移り気を確信しており、それを信じた自分を処されることを望んだ」
「! あ…ッ、そんな…!?」
ひどく曲解されて、最早、誤解だとしても。ソラのその解釈は、花嫁の胸を深く抉った。重すぎる罪悪感に襲われて、背中に冷や汗が流れる。
「待ってください…!ソラ様…!私は―――」
「―――天秤は、決して片方だけに、傾いてはならない」
「…!?」
とても冷たく、重く、厳しい色味を含んだ、声色。花嫁だけならず、ハラハラと見守っていた周囲の者たちも、ソラのその声に、一様に身体を強張らせた。
「必要な各所手続きは、俺の方で一手に引き受ける。お前は、今まで通りの日々を過ごせ」
ソラの事務的な声。血の気の引いた顔で見上げる、己が花嫁のことは。もう一瞥もせず。ソラはオージャカリバーを負った背を彼女に向けて、皆が静まり返った王城の廊下を、歩いて行った。
その背中が遠く、遠くなり。遂には見えなくなった時点で。
花嫁は膝からくずおれた。零れ始めた涙が、ドレスの生地と、廊下の床を濡らす。「花嫁様!」、「花嫁様…!お気を確かに!」と、兵士や文官たちのかけてくれる言葉に、返す礼も忘れて。ただただ、花嫁は悲しみに暮れた。
(―――…ソラ様に、嫌われてしまった……)
突き付けられた現実を受け止めることが出来ない花嫁は、その場で泣き崩れるしかなかった。
花嫁は王城の廊下で、幼馴染の貴族子息と出くわしていた。それはいい。…否、よくない。ここはゴッカンの王城。貴族とはいえ、易々と出入りできる場所ではないはずだ。
とりあえず。何やら感情が高ぶっている様子の幼馴染を宥めようと、花嫁が「久しぶりね」と声をかけると。
「今すぐ!ここから離れるんだ!!」
幼馴染の彼は、そう叫んだ。
「え?どうして…?」
「どうしてもこうしてもない!あんな男の妻など!辞退すべきだ!」
幼馴染の台詞に、花嫁は混乱した。しかし眼前の彼は、王城の衛兵たちにどうどうと窘められているものの、一向にボルテージを下げない。どう答えるべきか、一瞬だけ悩んだがゆえに黙った花嫁に対して、子息は尚も畳みかける。
「冷たくされているんだろう?」
「そんなことはないわ」
そこから貴族子息と、花嫁の応酬が始まった。
「厳格の極みゆえに、きみに厳しい花嫁修業を課しているとも聞く」
「これくらいは、普通よ」
「仕事ばかりにかまけて、きみにはちっとも振り向かないと専らの噂だ」
「…、あの方には、大事な大事な使命があるの」
「結婚式の予定すら、未だに立てていないらしいじゃないか」
「……、一国の未来を左右することよ。簡単には決められないわ…」
「愛の言葉ひとつもかけて貰えないんじゃないのか?」
「………、ソラ様は、硬派なお方だから…」
幼馴染の矢継ぎ早の台詞に、花嫁の言葉尻がどんどんとすぼむ。心当たりがある事が多すぎた。それでもゴッカン王の花嫁として、ソラの事を擁護したい。というか、しない理由がない。だって…―――
「ここまですげなくされて…。もしや、あの男…、他に移り気しているのでは…?」
「えッ?!」
子息の言葉に、花嫁がビクリ!と全身を震わせた。花のような唇から、驚きの声が挙がる。それを見た彼は、やれやれ…、と溜め息を吐いた。
「その反応…心当たりがあるんだね?やはり、ここにいては駄目だ。僕と一緒にイシャバーナヘ帰ろう。そして―――」
「―――随分と愉快な話をしているな」
その場にいた全員が。一瞬にして、背筋を凍り付かせた。真冬の氷のような声。花嫁が振り向けば、そこにいたのは。いつもの紫色の装束を纏い、オージャカリバーを背負った―――…ソラ。
「お前の話、聴収してやろう。望むなら、供述調書も作ってやる」
声音もそうだが。その翡翠の隻眼、慄くほどに、冷たい視線。貴族子息が一瞬、ヒュ…、と喉の奥で息を呑んだが。彼はすぐに、勢いを盛り立てた。
「ここにいると、彼女が可哀想だ」
「それはお前の主観に過ぎない」
「冷遇するならば、なぜ花嫁の立場に置き続けておく?」
「謂れの無い事を吹っかけるのは止せ」
「どうせ彼女の幸せなど、一度も考えた事は無いのだろう?」
「プライベートへの詮索は許さん」
「…ッ、! 不遜で冷酷で非情な男め!彼女はイシャバーナへと連れ帰らせて貰う!!」
そう貴族子息が怒鳴って、彼は花嫁の左の手首を乱暴に掴んだ。「いたいッ…!」と花嫁が呻く。瞬間。
「―――捕らえろ」
ソラが命じた、その直後。貴族子息が、傍にいた衛兵たちに捕らえられた。彼は突然の事に、目を白黒させている。
「不法侵入、名誉棄損、誘拐未遂、暴行…かどうかは、いま、確認する」
ソラは冷酷に告げながら、花嫁に「左の手首を見せろ」と言った。言われた通り、花嫁は掴まれた左手首をソラの見せる。手袋を外したソラの指先が、優しい手つきで動きを確かめた。角度を緩く変えると、花嫁の顔が僅かに歪む。
「筋を痛めているかもな。…暴行も追加だ」
ソラが子息に向かって、言い渡した。すると、怒りで顔を真っ赤にした子息は叫び始める。
「ふざけるな…!僕を誰だと思っている?!この事が僕の父上に知られたら―――」
「―――貴様こそ、俺を誰だと思っている?」
ギラリ、と銀の刃が閃いた。オージャカリバーの切っ先が、子息の首筋数センチの所に突きつけられる。ヒィィッ!と子息の唇から、恐怖の声が細切れに漏れた。ソラはそれには構わず、その刃と、氷の瞳を向けたまま。真っ直ぐに彼に向き直り、口を開いた。
「王の前だ。控えろ。俺の花嫁を誑かす、有象無象が…」
子息の怒りなど駄々っ子のそれにしか見えぬほど、ソラの怒気は凄まじく。真っ赤になっていた子息の顔色は、あっという間に真っ青になり果てる。そのまま、彼は衛兵にしょっ引かれ、連行されていった。
その様子を、花嫁は何とも言えぬ表情で見守っていた。幼馴染の襲来は驚いたが、その彼が眼前で逮捕される様は、当然、良い気分で眺めてはいられない。
「気分の悪いものを見せてしまったな。すまない」
「…いいえ…、これが、ソラ様のお仕事ですし…」
「…。」
「…? ソラ様…?」
普段から口数が少ないソラだが。急に会話を途切れさせた事に違和感を抱き、花嫁は彼を見上げる。と。そっと頭を撫でられた。え、とか、なんで、とか。そんな中途半端な台詞すら、口に出せずに、花嫁の胸に去来して終わる。すると。
「お前は、寂しいのか?」
「え…」
ソラから唐突に問われた事に、花嫁は虚を突かれた反応になった。寂しい、と思った事がない、と言えば嘘になる。しかし、わざわざそれをソラに宣言するつもりはない。だが、嘘は公平ではない。でも…
「何を言われても毅然と返していたのに…、俺の移り気の話をされた時、かなり動揺していたな」
「………、違います…よね…?」
「…俺を疑うか?」
「―――…あ…」
ソラの隻眼が細まる。途端。すぅ…と冷えた場の空気。
そんな事はありえない、と心から思えるはずなのに。ソラの浮気を疑ってしまったという事実への激しい罪悪感と、眼前の彼の振り撒く冷気が、花嫁の身体を凍え縛る。
ソラの指先が、花嫁の首筋を這った。彼の握力を考えると、片手でも締められてしまえば、花嫁の呼吸など、簡単に終わる。
冷たい温度の視線と指先。不敬罪で処されるのだろうか、と。それでも。それがソラの意思ならば、甘んじて受けよう、と。花嫁は心から思えた。しかし、首を這っていたソラの指先の感触が、すっと離れる。
何もされなかったことを不思議に思い、花嫁は改めてソラを見上げた。すると。
「抵抗しないことは、時に、相手に拒絶とも取られる」
「…? それは、どういう意味ですか…?」
ソラが唐突に言った台詞。その意味が分からず、花嫁は問うた。ソラが続ける。
「俺は、俺の浮気を疑うお前の首を取った。お前はそれを拒まなかった。すなわち、お前は俺の移り気を確信しており、それを信じた自分を処されることを望んだ」
「! あ…ッ、そんな…!?」
ひどく曲解されて、最早、誤解だとしても。ソラのその解釈は、花嫁の胸を深く抉った。重すぎる罪悪感に襲われて、背中に冷や汗が流れる。
「待ってください…!ソラ様…!私は―――」
「―――天秤は、決して片方だけに、傾いてはならない」
「…!?」
とても冷たく、重く、厳しい色味を含んだ、声色。花嫁だけならず、ハラハラと見守っていた周囲の者たちも、ソラのその声に、一様に身体を強張らせた。
「必要な各所手続きは、俺の方で一手に引き受ける。お前は、今まで通りの日々を過ごせ」
ソラの事務的な声。血の気の引いた顔で見上げる、己が花嫁のことは。もう一瞥もせず。ソラはオージャカリバーを負った背を彼女に向けて、皆が静まり返った王城の廊下を、歩いて行った。
その背中が遠く、遠くなり。遂には見えなくなった時点で。
花嫁は膝からくずおれた。零れ始めた涙が、ドレスの生地と、廊下の床を濡らす。「花嫁様!」、「花嫁様…!お気を確かに!」と、兵士や文官たちのかけてくれる言葉に、返す礼も忘れて。ただただ、花嫁は悲しみに暮れた。
(―――…ソラ様に、嫌われてしまった……)
突き付けられた現実を受け止めることが出来ない花嫁は、その場で泣き崩れるしかなかった。