『極寒の果てで』小説
*****
――――…。
【一週間後】
花嫁が、こちらの世界線にジャンプしてきてから。早いもので、今日で一週間が経っていた。書庫で書物や文献を読んだり、考察したりと、彼女は自分なりに元の世界に帰る手立てを探しているが…、なしのつぶて。ソラからの報告も、特に無い。それどころか、彼はイルを迎えに来る素振りも見せない。さすがに飼い主を公言していながら、客人に預けっぱなしなのはいかがなものかと考えて、花嫁が思い切って、謁見を申し込んだのは三日前のことだ。しかし、是非の返事を丸一日ほど待たされたうえに、結局、謁見は却下を食らってしまっている。しょぼん半分、ぷんすか半分とする花嫁に、すっかり馴染みになった従者たちに彼女は、「まあまあ落ち着いてくださいませ、シニョリーナ」と諫められてしまった。
自分に興味関心が無いことは、理解している。しかし、仮にも客人であり、違う世界線での自分の花嫁に相当する令嬢を、イル共々、こうも放置するのか。
構って欲しい等とは思っていない。だが、完全にほったらかし。まさに空気のような扱いを受けていることには、少なからず屈辱的な思いを感じてしまう。花嫁の心の中にも、ひとりの貴族令嬢、引いては、未来のゴッカン王妃としてのプライドがあるのだ。
そこまで考えてから、引きかけていた怒りが込み上げそうになってきたのを自覚して。花嫁は、ふるふると頭を振った。膝の上で丸まっていたイルが、くぅん、と鳴くのを聞いて。彼女はイルの方を向く。まるまるとした白い毛玉のイルは、こうして眺めているだけでも癒される。イル専用のおやつのジャーキーを取り出して、その口先に持って行くと、イルは、はむっ、とそれにぱくついた。もきゅもきゅ、と咀嚼する間にも、つぶらな瞳は次のおやつを催促している。しかし、花嫁は首を横に小さく振った。
「昨日はずっとお部屋にいたので、今から私と一緒にお散歩よ」
花嫁のその言葉を聞いたイルは、丸い身体を僅かに、しゅぅん、とさせた。
******
雪はちょうど止んでいたようで。晴れ間とまではいかないが、薄い灰色の雲が、上空を覆っているだけに留まっていた。これくらいの天気ならば、ゴッカンに住むものにとっては、暖かい方だと評することが出来る。
さくさく、と積もった雪を踏み締めつつ。誰が作ったのか。小さな雪像たちを眺めていると。花嫁の足元で歩いていたイルが、突然、そこそこの速度で転がり出した。
「あ!イル!待って!」
思わず花嫁はイルを追いかける。背後で従者と護衛兵が「シニョリーナ!いけません!」と叫ぶのが聞こえるが、当の彼女は、イルが迷子になる前に捕まえなくては!、という思いが先行してしまい、聞こえていなかった―――……
―――…、追いかけて、追いかけて。
いつしかイルの姿は見えなくなったが。転がっていたことで出来た跡が、雪上に残っている。それを辿っていくと。急に、開けた場所に出た。
眩しい、と、思った。
真白の雪面は新しく、ヒトひとり分の足跡と、丸いものが転がった跡しかない。場所が開けているが故に遮るものがごく少なく、陽の光は差していなくとも、降り積もった純白は、冷たく輝いていた。
その開けた場の中央におわす、立派な樹木。と、その前に立つ、ひとりの人影。
足元でじゃれつくイルを撫でる手つきは優しく。纏っている雰囲気も、『普段の彼』からは少し想像できないような、柔らかい雰囲気を出している。
花嫁が呼びかけようとする前に、彼は彼女の方へと向いた。何の覆いもしていない剥き出しの右目は、そこに施された氷の秘術の影響で、本来の翡翠から鈍い黒色に変化している。
「ここの立ち入りは許可していないが…」
ソラの冷たい声が聞こえた。よく知っている顔から、全然知らない声がする。…その事実に、堪らず、花嫁の口からは緊張した声音が紡がれる。
「…申し訳ございません、陛下。すぐにイルと共に、この場を辞しますので…」
そう言いながら、花嫁はイルに向かって手招きをするが、イルはソラの足先でころころと転がるのに夢中になっており、彼女の意図に気が付いていない。久しぶりに飼い主に会えて、はしゃいでいるようにも見えた。その姿が愛らしく感じ、花嫁は緊張していたがゆえに細くなっていた呼吸を、深く吸って、吐く。
「…、…近くに」
「え…」
唐突にソラが言ったことを、花嫁は一瞬、理解が出来なかった。ぽかん、としていると、ソラが今一度、口を開く。
「こちらへ来い。…シニョリーナさえ、良ければ」
そう命じるように、再度、告げた。花嫁はそろそろと彼の傍に近付く。ソラの前に立つ樹木を、見上げた。雪を被っているので分かりにくいが。大分、弱っている樹であることは理解が出来た。
「これは、白い椿の樹だ。俺がゴッカン王に即位した日の記念として、他国から贈られてきて、そのままここに植樹された。
だが、3年前から急に弱り始めてな。調べさせると、病気にかかったのだろうと。そのせいで蕾はつけるが、花はもう咲かなくなった」
淡々と説明するソラの視線は、椿の樹に向けられている。その隣で花嫁は、樹の枝の先に、雪を被った小さな蕾が萌えているのを発見した。しかし、今のソラの話を鑑みるならば、これは咲かないのだろう。薄らと雪を被った蕾は、何とも弱々しい印象を振り撒いている。
「病気の影響で、樹木の内部が著しく弱くなっている可能性が高い。倒木の危険を排除するため、こいつも今年いっぱいで伐採されることになった」
「では、伐採された樹木で、何か工芸品を作られてはいかがでしょうか、…あ、申し訳ございません…つい…」
「いいや、構わん。元の世界ではお前はゴッカンの王妃候補なんだ。 『顔が同じ男』に、つい進言をしてしまうのは、理解は出来る」
「…、ご配慮いただきありがとうございます」
ソラの深い自虐が含まれた台詞に、花嫁は思わず言葉に詰まりそうになったが。そこはやはり堪えるのが、『未来の王妃』たる者である、と考えた。 彼女はイルを回収しようと、ソラの足元を見るが。肝心のイルは、…なんと、彼の足先で眠っているではないか。確かにここは他の区域より陽が当たるうえ、元より今日は気温が高いが。そうなのだが…。
「気にするな。いつものことだ」
「そうなのですね…」
イルのことは慣れているらしいソラは、変わらずに淡々と言葉を紡ぐ。暫く両者で沈黙が生まれた。花嫁が(どうしよう…)と困り始めたとき。ソラが唐突に思い出したように、口を開いた。
「そういえば、数日前に、謁見を申し込んでいたか?」
「あ、はい。ですが、お忙しかったようで…」
「…確かに、忙しかったが…。まあ、いい。
何か聞きたいことでもあったのか?今は時間がある。良ければ、ここで聞こう」
「…割と、今のこの間で、解決した気がしますわ」
「…、…そうか」
何かを察知したらしいソラは、自分の足元を見やる。丸いイルが、更に丸くなって、くぅくぅと寝息を立てていた。
「イルの相手は、疲れるか?」
「とんでもないですわ。イルにはとても癒されております」
「そうか。イルも、シニョリーナが相手の方が楽しいのかもしれない。飼い主だというのに、俺はいつも、あまり構ってやれないからな…」
「イルは陛下に会えて、とても嬉しそうですわ」
「物珍しいんじゃないか?イルは食欲と好奇心だけは、一丁前だ」
「…そうなのですね」
…花嫁は、内心、かなり落ち着きがなかった。このソラ、否、陛下は、少々ネガティブ思考が過ぎる。この手の発言は、『慎重さ』や『先を見据える』等の現れとも取れる。が、彼の自虐的な台詞の数々は、そこを超えて、かなり己の価値を下げているようにしか聞こえない。一国の、…このゴッカンの王であるならば、もう少し自分の価値をしっかり見定めてほしい…、と花嫁はついつい胸中で考えてしまった。とはいえ、彼女は決して『陛下の花嫁』ではない。突っ込むのは控えて、ここは話題をそらすか、今度こそ場を辞すべきだろう。
そこまで考えて、花嫁は改めてイルを見る。……鼻提灯を膨らませている。爆睡だ。なんと呑気な毛玉だろうか。だが、やはり「可愛い」という感想を抱いてしまうのは、彼女がイルに愛着を持っている証拠とも言えた。
「陛下は、いつからイルを飼い始めたのですか?」
ふと、そんな疑問が湧いたので、花嫁は陛下に問うてみる。それを聞いた彼は、自分の足元で爆睡しているイルから、ふっと視線を上げて。弱った椿の樹を見上げる。なんとなくつられて、花嫁も樹を見た。隣から静かな声が聞こえてくる。
「アニマルセラピー、というものに、データを提供するためだ。イルはそのために生み出された生命体で、数ある調整を受けながら、俺のもとにいる」
「イルは、人工的な生命体…、ということですか…?シュゴッドのような…?」
「基盤は生物だ。内蔵もある。だが、可動域はシュゴッドのデータをもとに開発された機械的四肢。あとは、人間の脳に値する部分に、ンコソパで開発された人工知能が埋め込まれている。
そこに書き込まれたプログラム通りの行動を繰り返すことと、予期せぬ物事や流動する日々を人工知能が学習することによって、イル自身の成長を促している。……機械の四肢と人工知能は、いずれも試験運用機だ。そろそろ調整に出す時期だから、結果によっては、…イルは『また俺のことを忘れる』だろう」
「…え…?」
淡々とした説明口調の中に、突如現れた、血の通わない言葉。―――また俺のことを忘れる、とは…?
「セラピー用の愛玩生物として、イルはまだまだプロトタイプだ。俺のもとで実証データを積み、それをイルごと、ンコソパに提出する。イルから抽出されたデータをもとに、イル自身に改良を施していくのは当然だ。その過程や、次の段階のデータを得るうえで、イルのスタックメモリーが消去されることは、別に驚く話でもない。……まあ、その表情を見る限り、「驚くな」というのは、無理そうだが…」
「当たり前ですわ。イルの意思は何処に…?そもそも、そのような精神的に過酷な実験に、何故、わざわざ陛下が付き合う必要があるのでしょうか?ンコソパの技術を使っているというのならば、実験も、それに伴う責任も苦痛も、まずは自国で負うべきです」
「…、シニョリーナは、本当に聡明な令嬢だ。
だが、俺がイルを預かっている理由は、俺自身にもある。あまり、他国を責めるな」
陛下の声質は相変わらずの淡白なそれだが、その中に花嫁を諌めようとする心が垣間見えた。つい、感情的になりかけた花嫁は、その声で己の置かれた立場を改めて思い直し、隣の彼に静かにこうべを垂れる。だが、陛下は特に追及めいたことをせず、手だけで彼女を制した。花嫁が顔を上げると、陛下は話の続きを紡ぐ。
「俺はあと数年で、ゴッカンの王座を退くことになっている。イルは隠居後の俺の心身のケアのために、セラピーとしての役割を担う。そのための実験と、データ提供だ」
「! え?!あ、あの…!玉座を退く、とは…?!」
「ん…?従者たちから聞いていないのか…?あいつらは噂好きだから、シニョリーナの耳にはもう入っているのかと思っていたが…」
「いいえ!そのようなことはありませんわ…!」
陛下の口から衝撃の事実を聞かされて、花嫁は軽く混乱しかけた。が、実験とはいえ、イルがアニマルセラピーとして成長するよう促されている目的が、彼の退位からの隠居を見据えてのことであるならば。与えられた職務に忠実な陛下も、そして、この世界線でもンコソパのテッペンにいるであろうルカの、効率重視の性格を鑑みると。理解は出来る。…理解は出来るのだ。だが。納得が出来ない、というか、見えない部分が多すぎて、花嫁の中に大きな疑問が残ってしまう。
「何故…、退位を考えていらっしゃるのかを、お伺いしても…?」
「…、…。」
花嫁の問いに対して。陛下は、見上げていた椿の樹から、視線を彼女に移した。お互いの瞳が交叉したところで、彼は、一旦は閉ざした口を、再び開く。
「…。少し喋りすぎたようだ」
そう零した陛下の翡翠と鈍い黒に染まった双眸には、微かな拒絶が浮かんでいるのが分かった。…これ以上は踏み込めない気がする。だが、花嫁にはまだ聞きたいことがあった。
しかし、自身の足先で眠りこけているイルを拾い上げた陛下が、花嫁の腕の中にイルを押し付けるように預けてくる。これは…。
「…、…下がれ」
陛下の命じる声が、静かに響いた。…これに逆らうことは、きっと許されない。
眠るイルを抱き締めて。花嫁は首を垂れた後。その場を離れた。
花嫁の背中が、視界から完全に消えるのを見届けてから。陛下は、弱りきった椿の樹を、今一度、見上げて。
唇から、白く染まった溜め息を。小さく、小さく、漏らした。
to be continued...
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【一週間後】
花嫁が、こちらの世界線にジャンプしてきてから。早いもので、今日で一週間が経っていた。書庫で書物や文献を読んだり、考察したりと、彼女は自分なりに元の世界に帰る手立てを探しているが…、なしのつぶて。ソラからの報告も、特に無い。それどころか、彼はイルを迎えに来る素振りも見せない。さすがに飼い主を公言していながら、客人に預けっぱなしなのはいかがなものかと考えて、花嫁が思い切って、謁見を申し込んだのは三日前のことだ。しかし、是非の返事を丸一日ほど待たされたうえに、結局、謁見は却下を食らってしまっている。しょぼん半分、ぷんすか半分とする花嫁に、すっかり馴染みになった従者たちに彼女は、「まあまあ落ち着いてくださいませ、シニョリーナ」と諫められてしまった。
自分に興味関心が無いことは、理解している。しかし、仮にも客人であり、違う世界線での自分の花嫁に相当する令嬢を、イル共々、こうも放置するのか。
構って欲しい等とは思っていない。だが、完全にほったらかし。まさに空気のような扱いを受けていることには、少なからず屈辱的な思いを感じてしまう。花嫁の心の中にも、ひとりの貴族令嬢、引いては、未来のゴッカン王妃としてのプライドがあるのだ。
そこまで考えてから、引きかけていた怒りが込み上げそうになってきたのを自覚して。花嫁は、ふるふると頭を振った。膝の上で丸まっていたイルが、くぅん、と鳴くのを聞いて。彼女はイルの方を向く。まるまるとした白い毛玉のイルは、こうして眺めているだけでも癒される。イル専用のおやつのジャーキーを取り出して、その口先に持って行くと、イルは、はむっ、とそれにぱくついた。もきゅもきゅ、と咀嚼する間にも、つぶらな瞳は次のおやつを催促している。しかし、花嫁は首を横に小さく振った。
「昨日はずっとお部屋にいたので、今から私と一緒にお散歩よ」
花嫁のその言葉を聞いたイルは、丸い身体を僅かに、しゅぅん、とさせた。
******
雪はちょうど止んでいたようで。晴れ間とまではいかないが、薄い灰色の雲が、上空を覆っているだけに留まっていた。これくらいの天気ならば、ゴッカンに住むものにとっては、暖かい方だと評することが出来る。
さくさく、と積もった雪を踏み締めつつ。誰が作ったのか。小さな雪像たちを眺めていると。花嫁の足元で歩いていたイルが、突然、そこそこの速度で転がり出した。
「あ!イル!待って!」
思わず花嫁はイルを追いかける。背後で従者と護衛兵が「シニョリーナ!いけません!」と叫ぶのが聞こえるが、当の彼女は、イルが迷子になる前に捕まえなくては!、という思いが先行してしまい、聞こえていなかった―――……
―――…、追いかけて、追いかけて。
いつしかイルの姿は見えなくなったが。転がっていたことで出来た跡が、雪上に残っている。それを辿っていくと。急に、開けた場所に出た。
眩しい、と、思った。
真白の雪面は新しく、ヒトひとり分の足跡と、丸いものが転がった跡しかない。場所が開けているが故に遮るものがごく少なく、陽の光は差していなくとも、降り積もった純白は、冷たく輝いていた。
その開けた場の中央におわす、立派な樹木。と、その前に立つ、ひとりの人影。
足元でじゃれつくイルを撫でる手つきは優しく。纏っている雰囲気も、『普段の彼』からは少し想像できないような、柔らかい雰囲気を出している。
花嫁が呼びかけようとする前に、彼は彼女の方へと向いた。何の覆いもしていない剥き出しの右目は、そこに施された氷の秘術の影響で、本来の翡翠から鈍い黒色に変化している。
「ここの立ち入りは許可していないが…」
ソラの冷たい声が聞こえた。よく知っている顔から、全然知らない声がする。…その事実に、堪らず、花嫁の口からは緊張した声音が紡がれる。
「…申し訳ございません、陛下。すぐにイルと共に、この場を辞しますので…」
そう言いながら、花嫁はイルに向かって手招きをするが、イルはソラの足先でころころと転がるのに夢中になっており、彼女の意図に気が付いていない。久しぶりに飼い主に会えて、はしゃいでいるようにも見えた。その姿が愛らしく感じ、花嫁は緊張していたがゆえに細くなっていた呼吸を、深く吸って、吐く。
「…、…近くに」
「え…」
唐突にソラが言ったことを、花嫁は一瞬、理解が出来なかった。ぽかん、としていると、ソラが今一度、口を開く。
「こちらへ来い。…シニョリーナさえ、良ければ」
そう命じるように、再度、告げた。花嫁はそろそろと彼の傍に近付く。ソラの前に立つ樹木を、見上げた。雪を被っているので分かりにくいが。大分、弱っている樹であることは理解が出来た。
「これは、白い椿の樹だ。俺がゴッカン王に即位した日の記念として、他国から贈られてきて、そのままここに植樹された。
だが、3年前から急に弱り始めてな。調べさせると、病気にかかったのだろうと。そのせいで蕾はつけるが、花はもう咲かなくなった」
淡々と説明するソラの視線は、椿の樹に向けられている。その隣で花嫁は、樹の枝の先に、雪を被った小さな蕾が萌えているのを発見した。しかし、今のソラの話を鑑みるならば、これは咲かないのだろう。薄らと雪を被った蕾は、何とも弱々しい印象を振り撒いている。
「病気の影響で、樹木の内部が著しく弱くなっている可能性が高い。倒木の危険を排除するため、こいつも今年いっぱいで伐採されることになった」
「では、伐採された樹木で、何か工芸品を作られてはいかがでしょうか、…あ、申し訳ございません…つい…」
「いいや、構わん。元の世界ではお前はゴッカンの王妃候補なんだ。 『顔が同じ男』に、つい進言をしてしまうのは、理解は出来る」
「…、ご配慮いただきありがとうございます」
ソラの深い自虐が含まれた台詞に、花嫁は思わず言葉に詰まりそうになったが。そこはやはり堪えるのが、『未来の王妃』たる者である、と考えた。 彼女はイルを回収しようと、ソラの足元を見るが。肝心のイルは、…なんと、彼の足先で眠っているではないか。確かにここは他の区域より陽が当たるうえ、元より今日は気温が高いが。そうなのだが…。
「気にするな。いつものことだ」
「そうなのですね…」
イルのことは慣れているらしいソラは、変わらずに淡々と言葉を紡ぐ。暫く両者で沈黙が生まれた。花嫁が(どうしよう…)と困り始めたとき。ソラが唐突に思い出したように、口を開いた。
「そういえば、数日前に、謁見を申し込んでいたか?」
「あ、はい。ですが、お忙しかったようで…」
「…確かに、忙しかったが…。まあ、いい。
何か聞きたいことでもあったのか?今は時間がある。良ければ、ここで聞こう」
「…割と、今のこの間で、解決した気がしますわ」
「…、…そうか」
何かを察知したらしいソラは、自分の足元を見やる。丸いイルが、更に丸くなって、くぅくぅと寝息を立てていた。
「イルの相手は、疲れるか?」
「とんでもないですわ。イルにはとても癒されております」
「そうか。イルも、シニョリーナが相手の方が楽しいのかもしれない。飼い主だというのに、俺はいつも、あまり構ってやれないからな…」
「イルは陛下に会えて、とても嬉しそうですわ」
「物珍しいんじゃないか?イルは食欲と好奇心だけは、一丁前だ」
「…そうなのですね」
…花嫁は、内心、かなり落ち着きがなかった。このソラ、否、陛下は、少々ネガティブ思考が過ぎる。この手の発言は、『慎重さ』や『先を見据える』等の現れとも取れる。が、彼の自虐的な台詞の数々は、そこを超えて、かなり己の価値を下げているようにしか聞こえない。一国の、…このゴッカンの王であるならば、もう少し自分の価値をしっかり見定めてほしい…、と花嫁はついつい胸中で考えてしまった。とはいえ、彼女は決して『陛下の花嫁』ではない。突っ込むのは控えて、ここは話題をそらすか、今度こそ場を辞すべきだろう。
そこまで考えて、花嫁は改めてイルを見る。……鼻提灯を膨らませている。爆睡だ。なんと呑気な毛玉だろうか。だが、やはり「可愛い」という感想を抱いてしまうのは、彼女がイルに愛着を持っている証拠とも言えた。
「陛下は、いつからイルを飼い始めたのですか?」
ふと、そんな疑問が湧いたので、花嫁は陛下に問うてみる。それを聞いた彼は、自分の足元で爆睡しているイルから、ふっと視線を上げて。弱った椿の樹を見上げる。なんとなくつられて、花嫁も樹を見た。隣から静かな声が聞こえてくる。
「アニマルセラピー、というものに、データを提供するためだ。イルはそのために生み出された生命体で、数ある調整を受けながら、俺のもとにいる」
「イルは、人工的な生命体…、ということですか…?シュゴッドのような…?」
「基盤は生物だ。内蔵もある。だが、可動域はシュゴッドのデータをもとに開発された機械的四肢。あとは、人間の脳に値する部分に、ンコソパで開発された人工知能が埋め込まれている。
そこに書き込まれたプログラム通りの行動を繰り返すことと、予期せぬ物事や流動する日々を人工知能が学習することによって、イル自身の成長を促している。……機械の四肢と人工知能は、いずれも試験運用機だ。そろそろ調整に出す時期だから、結果によっては、…イルは『また俺のことを忘れる』だろう」
「…え…?」
淡々とした説明口調の中に、突如現れた、血の通わない言葉。―――また俺のことを忘れる、とは…?
「セラピー用の愛玩生物として、イルはまだまだプロトタイプだ。俺のもとで実証データを積み、それをイルごと、ンコソパに提出する。イルから抽出されたデータをもとに、イル自身に改良を施していくのは当然だ。その過程や、次の段階のデータを得るうえで、イルのスタックメモリーが消去されることは、別に驚く話でもない。……まあ、その表情を見る限り、「驚くな」というのは、無理そうだが…」
「当たり前ですわ。イルの意思は何処に…?そもそも、そのような精神的に過酷な実験に、何故、わざわざ陛下が付き合う必要があるのでしょうか?ンコソパの技術を使っているというのならば、実験も、それに伴う責任も苦痛も、まずは自国で負うべきです」
「…、シニョリーナは、本当に聡明な令嬢だ。
だが、俺がイルを預かっている理由は、俺自身にもある。あまり、他国を責めるな」
陛下の声質は相変わらずの淡白なそれだが、その中に花嫁を諌めようとする心が垣間見えた。つい、感情的になりかけた花嫁は、その声で己の置かれた立場を改めて思い直し、隣の彼に静かにこうべを垂れる。だが、陛下は特に追及めいたことをせず、手だけで彼女を制した。花嫁が顔を上げると、陛下は話の続きを紡ぐ。
「俺はあと数年で、ゴッカンの王座を退くことになっている。イルは隠居後の俺の心身のケアのために、セラピーとしての役割を担う。そのための実験と、データ提供だ」
「! え?!あ、あの…!玉座を退く、とは…?!」
「ん…?従者たちから聞いていないのか…?あいつらは噂好きだから、シニョリーナの耳にはもう入っているのかと思っていたが…」
「いいえ!そのようなことはありませんわ…!」
陛下の口から衝撃の事実を聞かされて、花嫁は軽く混乱しかけた。が、実験とはいえ、イルがアニマルセラピーとして成長するよう促されている目的が、彼の退位からの隠居を見据えてのことであるならば。与えられた職務に忠実な陛下も、そして、この世界線でもンコソパのテッペンにいるであろうルカの、効率重視の性格を鑑みると。理解は出来る。…理解は出来るのだ。だが。納得が出来ない、というか、見えない部分が多すぎて、花嫁の中に大きな疑問が残ってしまう。
「何故…、退位を考えていらっしゃるのかを、お伺いしても…?」
「…、…。」
花嫁の問いに対して。陛下は、見上げていた椿の樹から、視線を彼女に移した。お互いの瞳が交叉したところで、彼は、一旦は閉ざした口を、再び開く。
「…。少し喋りすぎたようだ」
そう零した陛下の翡翠と鈍い黒に染まった双眸には、微かな拒絶が浮かんでいるのが分かった。…これ以上は踏み込めない気がする。だが、花嫁にはまだ聞きたいことがあった。
しかし、自身の足先で眠りこけているイルを拾い上げた陛下が、花嫁の腕の中にイルを押し付けるように預けてくる。これは…。
「…、…下がれ」
陛下の命じる声が、静かに響いた。…これに逆らうことは、きっと許されない。
眠るイルを抱き締めて。花嫁は首を垂れた後。その場を離れた。
花嫁の背中が、視界から完全に消えるのを見届けてから。陛下は、弱りきった椿の樹を、今一度、見上げて。
唇から、白く染まった溜め息を。小さく、小さく、漏らした。
to be continued...