『極寒の果てで』小説
*****
夜。中々、花嫁は寝付けないでいた。シーツから知らない洗剤の匂いがする。
そうだ。ここは自分の知っているザイバーン城ではない。
(…ソラ様…)
脳内で想起するのは、愛してやまない未来の旦那様。昨夜、あのひとの腕の中で眠りについた。あの逞しくも、優しい腕の中が恋しい。体温は低くとも、花嫁が安心できる唯一無二の居場所。
「ソラ様…、ソラさま…、そ、ら…さ、ま…」
愛しいひとの名を呼べど、届かない。ここは自分の世界ではなく。こちらには、名前も顔も声も職務も、『全てが同じで、全てが違うソラ』がいるだけ。
今日は、自分が世界線を飛び越えたという実感が、いまいち湧いていなかった分だけ。自覚すれば、するほど。『ソラ』のことが恋しくて、堪らない。
恋しい、切ない、恋しい、恋しい。
「…う、ひぐっ、…うぇ、…そらさまぁ…ッ…ぅう…」
花嫁の唇からは嗚咽が漏れ、瞳からは涙が溢れる。
会いたい、会いたい、会いたい。早く、あのひとのもとへ、帰りたい。
自分の知らない香りのする枕に顔を埋めて、花嫁は泣きはらし。結局、眠りについたのは、明け方に近い時間だった。
――――……
自分の上を何かが覆いかぶさっているような気配がする。ぬくもりと、息遣いを感じる。
「…そらさま…」
愛しいひとが、自分に触れてくれている…。花嫁の唇から、夢心地の声が漏れた。が、次の瞬間。
「シニョリーナ、起きてくださいませ、シニョリーナ」
聞き慣れない従者の声に、ハッと、彼女は覚醒した。瞼を開けると、視界いっぱいに広がっていたのは。
―――…毛玉。
丸っこく、ひとの腕にすっぽり収まりそうなサイズの、白い毛玉が、こちらにつぶらな瞳を向けている。
「…え…?」
花嫁は、思わず間抜けな声を出した。
毛玉(?)は、そんな彼女の様子など気にしていない態度で、くぅん、と鳴いた。
「申し訳ございません、シニョリーナ。護衛兵がつい油断した隙に、入り込んだようでして…」
従者がそう言いながら、頭を下げる。くぅ〜、くぅ〜ん、と毛玉は愛らしく鳴きながら、上半身だけを起こした花嫁の膝の上で、丸まる。否、もとより、そこそこ丸いのだが…。
すると。ノックの音が響いた。花嫁が入室の許可を出すと、静かに入ってきたのは。
…ソラ。
だが、仕事用の装束ではなく、寝間着の上からカーディガンを羽織っただけの、簡素な装いだった。彼も寝起きか、あるいは、支度前なのだろう。
ソラは、花嫁の膝の上を陣取る毛玉を見つけた瞬間、「お前という奴は…」、と小さく零してから、溜め息を吐いた。
「すまない、シニョリーナ。その毛玉は、俺が飼っているモノで…。
普段は、俺以外にはそこまで懐かないはずなんだが…、どういうわけか、今朝はお前の寝床に入り込んだらしい。
…ほら、イル。戻ってこい」
イルと呼ばれた毛玉は、ソラの呼びかけに反応した。…が、すぐにまた丸まって、花嫁の膝の上で、ごろごろし始める。
「…、…。」
イルの様子を見たソラは閉口し、そして頭痛を堪えるかのように、こめかみに指を置く。すると今度は、そのソラの心中を察した花嫁が、口を開いた。
「あの、ソ…、陛下。
陛下さえ差し支えなければ、私はこのままでも、構いません」
「…、あー…、それは有り難い申し出な気もするが…、…あー、その…なんだ、うん…?イルはな…、見ての通りな奴で…」
「ええ、とても愛らしいお姿ですね。思わず、構ってあげたくなりますわ」
「違う、そうじゃない」
「おやつを与えすぎてしまうかしら?ついつい、甘やかしてしまいそう…」
「イルは腹が膨れると、ひたすら惰眠をむさぼるから、適当に散歩させ……、違う、違う、そうじゃない…」
「シュゴッド以外の愛玩用の生命体が、こちらの世界に存在しているというのは、驚きですわ」
「それはそう。…違う、今はそこじゃない。
……、お前も、いい加減にマイペースだな?シニョリーナ」
花嫁とソラの微妙なやり取りなど知らんとばかりに、イルが彼女の膝の上で、欠伸をした。それを見たふたりは、一旦、互いに口を閉じて。
数秒経った後。ソラは大きな溜め息を吐き。対して花嫁は、ふふ、と微笑んだ。
*****
イルを預かることに決まったのも早々に「朝早くから失礼した」と、立ち去ったソラを見送って。朝食と身支度を終えた後。
花嫁は早速、ソラが発行した臨時の立ち入り許可証を用いて、書庫へと入った。書架に並んだ本の背表紙を品定めする彼女のその腕の中には、イルが抱っこされている。
ゴッカン王室の史書、宇宙創造の仮説が纏められた科学読本、最新の政治学書と法学書、伝統ある童話集、女流作家の詩篇、風景画集…。
傍に控えていた従者たちの手の中は、花嫁が次々と選んでは、棚から引き抜いていく本たちで一杯になっていた。
書庫で借りた本を捲りながら、花嫁は今後の予定の仮組みをしていた。とはいえ、彼女は保護された客人扱いで、立ち入る区画も限りなく制限されている。出来ることは少ない。花嫁が、うーん…、と小さく唸りながら、首を傾げていると。足元にもふもふした感触が。
イルだ。書庫から帰ってきたときは、すぐさま暖炉の前を陣取って、ごろごろしていたのだが。どうやら、花嫁の傍に寄ってきたらしい。構って欲しいのだろうか、と考えて、彼女はイルを抱き上げた。真白なもふもふの毛並みは、触っているだけで癒やされる気持ちがする。
花嫁はイルに、従者から渡されている、イルのおやつ用のジャーキーを差し出した。他にもクッキーや骨ガム、ミルク缶がある。
イルは嬉しそうにジャーキを咥えて、もきゅもきゅと食べ始めた。
その姿が実に愛らしくて。…花嫁はついつい、おやつを与えすぎてしまうのであった…。
*****
「腹が膨れると、ひたすら惰眠をむさぼるから、適度に散歩させろ」というソラの言いつけを守るため、花嫁は立ち入りが許可されている中庭の一部区画で、イルと一緒に散歩をしていた。……つもりなのだが。
歩く花嫁の足元で、イルはころころと転がって移動している。歩いていない。転がっている。一応、身体を動かしている範疇と認めていいのだろうか…、と彼女が微妙に悩んでいたとき。
「球技用のボールか何かか、お前は?」
冷静な低い声が聞こえた。視線を上げると、いつもの装束をきっちり纏ったソラが立っている。書類用のファイルを小脇に抱えているところを見るに、息抜きに中庭で仕事をするつもりなのだろうか。今日は、晴れている。気温も平時より高めだ。
「歩くことすら放棄するな。ただでさえ、普段から運動不足で、まるまるとしているというのに…」
そう説教を垂れているソラの方へ、イルが転がっていく。そして、彼の足元を転がりながら周回し始める。それを見下ろしながら、ソラは口を開いた。
「早速、イルを散歩をさせているということは…」
そこで言葉を切って。彼は花嫁に視線を移す。その目からは既に敵意は消え失せているが。逆に、興味関心の一切もなし、といった瞳をしている気がした。が、ソラが花嫁に問おうとしていることは、分かる。
「おやつを…、ついつい、与えすぎてしまいました…」
彼女は素直に釈明した。直後に、怒られるだろうか…、と思ったが。ソラは「そうか」と淡白に返答しただけで。それ以上の言及はしてこなかった。
ソラは、自分の足元で転がり続けるイルを、ファイルを持っていない方の手で制する。
「ひとの足元でころころころころ…、いい加減にしないか」
感情の薄い声。しかし、体温を持って接しているのが理解できる。今朝から花嫁に預けてはいるが。自分が飼っていると公言している以上、飼い主としての責任は負っているのだろう。そういう態度は、実に、ソラらしい。
黒革の手で撫でられて、くぅん、と鳴くイルを、ふたりして眺めていると。
ドォン…!、という音と共に、大地が揺れた。花嫁がバランスを崩しかけるのを、ソラが咄嗟に支える。
「大丈夫か?」
「はい、お陰様で私は何ともありません。あの、今の音と揺れは…?」
花嫁がソラに問うたとき。
「ソラ様!敵襲です!
敵は城門前に群れで攻めてきておりますゆえ!お早く!」
走ってきた王城兵がすぐさま報告する。しかし、ソラはその場を動かず、腰から提げていた剣を鞘から抜いた。
「もう遅い」
そう告げるや否や。上空へ向かって、ソラは剣を大きく振る。その刀身から帯状になったつららが放たれた直後、その頭上で破裂音がした。
花嫁が見上げると。そこには漆黒の影たちが群れになって飛んでいた。呆気に取られていると、ソラがもう一度、同じつららの攻撃を放つ。が、今度は威力も本数も倍以上のようだ。つららに射抜かれた黒影たちは、凍り付いた途端、その姿を霧散させる。
花嫁は駆け寄ってきたイルを抱き上げて、すぐさま、誘導してくれる護衛兵と従者と共に、その場を撤退しようとした。が、その行き先を、黒影が阻む。こちらは上空を飛来している物に比べれば人型に近いが、両腕が鎌のような形をしている。どちらにせよ、異形の化け物だった。
護衛兵のふたりが、異形に斬りかかる。それを陽動に、花嫁と戦えない従者、そして残ったふたりの護衛兵は、中庭を抜ける別の道を走ろうとした。しかし。その道にすらも化け物たちが立ち塞がった。残ったふたりの兵士のうち、ひとりが特攻するも、呆気なく反撃を食らう。兵士の手から吹き飛ばされた剣が、花嫁の足元に転がってきた。ハッとした彼女は、腕の中に収めていたイルを従者に無理矢理押し付けるようにして預け、剣を拾い上げる。
「シニョリーナ?!正気ですか?!」
驚いた従者の声に気が付いたのか。異形の化け物が花嫁の方を向く。彼女は剣の先を異形へと翳すと、その瞳に強い光を宿した。
「かかってらっしゃい!逃げられないのならば、その道を切り拓くまで!」
花嫁がチカラ強い宣告をした瞬間。異形が彼女に斬り掛かってくる。花嫁が剣を構えて、迎え討とうとした。そのとき。
―――異形の身体の芯を貫く、つらら。それは瞬く間に異形の全身を凍り付かせて、氷粒と霧散させてしまった。
対する相手がいなくなった花嫁は剣を持ったまま、振り返る。そこには同じ型の剣を持った、ソラがいた。そう同じ型。この剣は、王城兵が支給されている物。このソラは、花嫁と初めて出逢ったときから、オージャカリバーを帯剣していなかった。
ソラが持っている剣は、刀身から柄にかけて、全てが薄い氷に覆われて、おまけに霜まで張り付いている。当然ながら戦う前の剣は、そのような状態ではなかった。ソラの傍まで駆け寄ってきた王城兵のひとりに、彼が氷まみれの剣を渡そうとしたとき。なんと、剣は切っ先から、パラパラ、と氷の欠片と変わり果てて、雪面の上へと降り注ぐではないか。しかし、驚いているのは花嫁だけで。その光景を見ているソラを含む誰もが、「ああ、またか」と言わんばかりの表情をしている。
「怪我はないか?」
「は、はい…」
淡々と質問してくるソラの声に、花嫁は思わず語尾を震わせて答えた。
何故、オージャカリバーを持っていないのか。何故、氷の秘術を自由、且つ、緩急をつけて使えるような真似が出来るのか。
疑問は湧けど、それを問うことは断じて許されない。だから、花嫁は。完全に氷の欠片となって消えて行った剣の残骸と共に、自分には見向きもしないソラの背中を。ただただ黙って、見送った。
従者の腕の中にいるイルが、くぅ、と。ひとつ、鳴いた。
to be continued...
夜。中々、花嫁は寝付けないでいた。シーツから知らない洗剤の匂いがする。
そうだ。ここは自分の知っているザイバーン城ではない。
(…ソラ様…)
脳内で想起するのは、愛してやまない未来の旦那様。昨夜、あのひとの腕の中で眠りについた。あの逞しくも、優しい腕の中が恋しい。体温は低くとも、花嫁が安心できる唯一無二の居場所。
「ソラ様…、ソラさま…、そ、ら…さ、ま…」
愛しいひとの名を呼べど、届かない。ここは自分の世界ではなく。こちらには、名前も顔も声も職務も、『全てが同じで、全てが違うソラ』がいるだけ。
今日は、自分が世界線を飛び越えたという実感が、いまいち湧いていなかった分だけ。自覚すれば、するほど。『ソラ』のことが恋しくて、堪らない。
恋しい、切ない、恋しい、恋しい。
「…う、ひぐっ、…うぇ、…そらさまぁ…ッ…ぅう…」
花嫁の唇からは嗚咽が漏れ、瞳からは涙が溢れる。
会いたい、会いたい、会いたい。早く、あのひとのもとへ、帰りたい。
自分の知らない香りのする枕に顔を埋めて、花嫁は泣きはらし。結局、眠りについたのは、明け方に近い時間だった。
――――……
自分の上を何かが覆いかぶさっているような気配がする。ぬくもりと、息遣いを感じる。
「…そらさま…」
愛しいひとが、自分に触れてくれている…。花嫁の唇から、夢心地の声が漏れた。が、次の瞬間。
「シニョリーナ、起きてくださいませ、シニョリーナ」
聞き慣れない従者の声に、ハッと、彼女は覚醒した。瞼を開けると、視界いっぱいに広がっていたのは。
―――…毛玉。
丸っこく、ひとの腕にすっぽり収まりそうなサイズの、白い毛玉が、こちらにつぶらな瞳を向けている。
「…え…?」
花嫁は、思わず間抜けな声を出した。
毛玉(?)は、そんな彼女の様子など気にしていない態度で、くぅん、と鳴いた。
「申し訳ございません、シニョリーナ。護衛兵がつい油断した隙に、入り込んだようでして…」
従者がそう言いながら、頭を下げる。くぅ〜、くぅ〜ん、と毛玉は愛らしく鳴きながら、上半身だけを起こした花嫁の膝の上で、丸まる。否、もとより、そこそこ丸いのだが…。
すると。ノックの音が響いた。花嫁が入室の許可を出すと、静かに入ってきたのは。
…ソラ。
だが、仕事用の装束ではなく、寝間着の上からカーディガンを羽織っただけの、簡素な装いだった。彼も寝起きか、あるいは、支度前なのだろう。
ソラは、花嫁の膝の上を陣取る毛玉を見つけた瞬間、「お前という奴は…」、と小さく零してから、溜め息を吐いた。
「すまない、シニョリーナ。その毛玉は、俺が飼っているモノで…。
普段は、俺以外にはそこまで懐かないはずなんだが…、どういうわけか、今朝はお前の寝床に入り込んだらしい。
…ほら、イル。戻ってこい」
イルと呼ばれた毛玉は、ソラの呼びかけに反応した。…が、すぐにまた丸まって、花嫁の膝の上で、ごろごろし始める。
「…、…。」
イルの様子を見たソラは閉口し、そして頭痛を堪えるかのように、こめかみに指を置く。すると今度は、そのソラの心中を察した花嫁が、口を開いた。
「あの、ソ…、陛下。
陛下さえ差し支えなければ、私はこのままでも、構いません」
「…、あー…、それは有り難い申し出な気もするが…、…あー、その…なんだ、うん…?イルはな…、見ての通りな奴で…」
「ええ、とても愛らしいお姿ですね。思わず、構ってあげたくなりますわ」
「違う、そうじゃない」
「おやつを与えすぎてしまうかしら?ついつい、甘やかしてしまいそう…」
「イルは腹が膨れると、ひたすら惰眠をむさぼるから、適当に散歩させ……、違う、違う、そうじゃない…」
「シュゴッド以外の愛玩用の生命体が、こちらの世界に存在しているというのは、驚きですわ」
「それはそう。…違う、今はそこじゃない。
……、お前も、いい加減にマイペースだな?シニョリーナ」
花嫁とソラの微妙なやり取りなど知らんとばかりに、イルが彼女の膝の上で、欠伸をした。それを見たふたりは、一旦、互いに口を閉じて。
数秒経った後。ソラは大きな溜め息を吐き。対して花嫁は、ふふ、と微笑んだ。
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イルを預かることに決まったのも早々に「朝早くから失礼した」と、立ち去ったソラを見送って。朝食と身支度を終えた後。
花嫁は早速、ソラが発行した臨時の立ち入り許可証を用いて、書庫へと入った。書架に並んだ本の背表紙を品定めする彼女のその腕の中には、イルが抱っこされている。
ゴッカン王室の史書、宇宙創造の仮説が纏められた科学読本、最新の政治学書と法学書、伝統ある童話集、女流作家の詩篇、風景画集…。
傍に控えていた従者たちの手の中は、花嫁が次々と選んでは、棚から引き抜いていく本たちで一杯になっていた。
書庫で借りた本を捲りながら、花嫁は今後の予定の仮組みをしていた。とはいえ、彼女は保護された客人扱いで、立ち入る区画も限りなく制限されている。出来ることは少ない。花嫁が、うーん…、と小さく唸りながら、首を傾げていると。足元にもふもふした感触が。
イルだ。書庫から帰ってきたときは、すぐさま暖炉の前を陣取って、ごろごろしていたのだが。どうやら、花嫁の傍に寄ってきたらしい。構って欲しいのだろうか、と考えて、彼女はイルを抱き上げた。真白なもふもふの毛並みは、触っているだけで癒やされる気持ちがする。
花嫁はイルに、従者から渡されている、イルのおやつ用のジャーキーを差し出した。他にもクッキーや骨ガム、ミルク缶がある。
イルは嬉しそうにジャーキを咥えて、もきゅもきゅと食べ始めた。
その姿が実に愛らしくて。…花嫁はついつい、おやつを与えすぎてしまうのであった…。
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「腹が膨れると、ひたすら惰眠をむさぼるから、適度に散歩させろ」というソラの言いつけを守るため、花嫁は立ち入りが許可されている中庭の一部区画で、イルと一緒に散歩をしていた。……つもりなのだが。
歩く花嫁の足元で、イルはころころと転がって移動している。歩いていない。転がっている。一応、身体を動かしている範疇と認めていいのだろうか…、と彼女が微妙に悩んでいたとき。
「球技用のボールか何かか、お前は?」
冷静な低い声が聞こえた。視線を上げると、いつもの装束をきっちり纏ったソラが立っている。書類用のファイルを小脇に抱えているところを見るに、息抜きに中庭で仕事をするつもりなのだろうか。今日は、晴れている。気温も平時より高めだ。
「歩くことすら放棄するな。ただでさえ、普段から運動不足で、まるまるとしているというのに…」
そう説教を垂れているソラの方へ、イルが転がっていく。そして、彼の足元を転がりながら周回し始める。それを見下ろしながら、ソラは口を開いた。
「早速、イルを散歩をさせているということは…」
そこで言葉を切って。彼は花嫁に視線を移す。その目からは既に敵意は消え失せているが。逆に、興味関心の一切もなし、といった瞳をしている気がした。が、ソラが花嫁に問おうとしていることは、分かる。
「おやつを…、ついつい、与えすぎてしまいました…」
彼女は素直に釈明した。直後に、怒られるだろうか…、と思ったが。ソラは「そうか」と淡白に返答しただけで。それ以上の言及はしてこなかった。
ソラは、自分の足元で転がり続けるイルを、ファイルを持っていない方の手で制する。
「ひとの足元でころころころころ…、いい加減にしないか」
感情の薄い声。しかし、体温を持って接しているのが理解できる。今朝から花嫁に預けてはいるが。自分が飼っていると公言している以上、飼い主としての責任は負っているのだろう。そういう態度は、実に、ソラらしい。
黒革の手で撫でられて、くぅん、と鳴くイルを、ふたりして眺めていると。
ドォン…!、という音と共に、大地が揺れた。花嫁がバランスを崩しかけるのを、ソラが咄嗟に支える。
「大丈夫か?」
「はい、お陰様で私は何ともありません。あの、今の音と揺れは…?」
花嫁がソラに問うたとき。
「ソラ様!敵襲です!
敵は城門前に群れで攻めてきておりますゆえ!お早く!」
走ってきた王城兵がすぐさま報告する。しかし、ソラはその場を動かず、腰から提げていた剣を鞘から抜いた。
「もう遅い」
そう告げるや否や。上空へ向かって、ソラは剣を大きく振る。その刀身から帯状になったつららが放たれた直後、その頭上で破裂音がした。
花嫁が見上げると。そこには漆黒の影たちが群れになって飛んでいた。呆気に取られていると、ソラがもう一度、同じつららの攻撃を放つ。が、今度は威力も本数も倍以上のようだ。つららに射抜かれた黒影たちは、凍り付いた途端、その姿を霧散させる。
花嫁は駆け寄ってきたイルを抱き上げて、すぐさま、誘導してくれる護衛兵と従者と共に、その場を撤退しようとした。が、その行き先を、黒影が阻む。こちらは上空を飛来している物に比べれば人型に近いが、両腕が鎌のような形をしている。どちらにせよ、異形の化け物だった。
護衛兵のふたりが、異形に斬りかかる。それを陽動に、花嫁と戦えない従者、そして残ったふたりの護衛兵は、中庭を抜ける別の道を走ろうとした。しかし。その道にすらも化け物たちが立ち塞がった。残ったふたりの兵士のうち、ひとりが特攻するも、呆気なく反撃を食らう。兵士の手から吹き飛ばされた剣が、花嫁の足元に転がってきた。ハッとした彼女は、腕の中に収めていたイルを従者に無理矢理押し付けるようにして預け、剣を拾い上げる。
「シニョリーナ?!正気ですか?!」
驚いた従者の声に気が付いたのか。異形の化け物が花嫁の方を向く。彼女は剣の先を異形へと翳すと、その瞳に強い光を宿した。
「かかってらっしゃい!逃げられないのならば、その道を切り拓くまで!」
花嫁がチカラ強い宣告をした瞬間。異形が彼女に斬り掛かってくる。花嫁が剣を構えて、迎え討とうとした。そのとき。
―――異形の身体の芯を貫く、つらら。それは瞬く間に異形の全身を凍り付かせて、氷粒と霧散させてしまった。
対する相手がいなくなった花嫁は剣を持ったまま、振り返る。そこには同じ型の剣を持った、ソラがいた。そう同じ型。この剣は、王城兵が支給されている物。このソラは、花嫁と初めて出逢ったときから、オージャカリバーを帯剣していなかった。
ソラが持っている剣は、刀身から柄にかけて、全てが薄い氷に覆われて、おまけに霜まで張り付いている。当然ながら戦う前の剣は、そのような状態ではなかった。ソラの傍まで駆け寄ってきた王城兵のひとりに、彼が氷まみれの剣を渡そうとしたとき。なんと、剣は切っ先から、パラパラ、と氷の欠片と変わり果てて、雪面の上へと降り注ぐではないか。しかし、驚いているのは花嫁だけで。その光景を見ているソラを含む誰もが、「ああ、またか」と言わんばかりの表情をしている。
「怪我はないか?」
「は、はい…」
淡々と質問してくるソラの声に、花嫁は思わず語尾を震わせて答えた。
何故、オージャカリバーを持っていないのか。何故、氷の秘術を自由、且つ、緩急をつけて使えるような真似が出来るのか。
疑問は湧けど、それを問うことは断じて許されない。だから、花嫁は。完全に氷の欠片となって消えて行った剣の残骸と共に、自分には見向きもしないソラの背中を。ただただ黙って、見送った。
従者の腕の中にいるイルが、くぅ、と。ひとつ、鳴いた。
to be continued...