『極寒の果てで』小説

ふわぁ、と花嫁が欠伸をしたのを見て、隣にいたソラがごく小さく笑う。

「眠いなら、もう寝るぞ」
「う〜、もう少しだけ、続きを…」

寝しなの読書を粘ろうとする花嫁だったが。ソラの指先が、彼女の頭をそっと撫でる。体温の低い掌。でも、柔らかい仕草。そして、声。

「本の続きなら、また明日の夜に読めばいい。
 …ほら、おいで」

未来の夫の誘う声音に、花嫁の思考が途端にとろりと蕩ける。本に栞を挟むのもそこそこに、差し伸べられた腕の中に飛び込んだ。罠かもしれないのに。…そんなことは決してありえないのだが。
きゅっと優しく抱き締められた状態で、ベッドに横になる。花嫁の唇から安心しきったが故の、小さな嘆息が漏れた。嗅ぎ慣れたシーツの洗剤と、ソラの香水の匂い。
眠気の波に、花嫁の意識が飲み込まれる。この腕の中に、ずっといられたら…。
夢に落ちる瞬間。額に柔らかい感触を感じた気がした。



――――……

微かな喧騒が聞こえた。愛しいひとの声も聞こえる。しかし、どうしてだろう。シーツから知らない匂いがする。……その僅かな違和感を抱き、花嫁は目を開けた。すると。

「ようやく起きたか。…そのまま動くな」

ひゅ、と首筋に当てられた、金属の気配。眼の前にいるのは、ソラ。姿そのものは寝起きのそれだが、手に持っているのは銀の短剣だ。構えは左の逆手持ち。左右で色の違う双眸からは、明確な敵意を感じる。混乱した花嫁は、思わず口を開いた。

「そ、ソラ様…?!あ、あの」
「気安く呼ぶな。
 顔も知らない不法侵入者如きに、俺の名を呼ぶ許可など出した覚えは無い」

不法侵入と聞いた瞬間、花嫁は驚いた。ここはソラの寝室。花嫁の出入りは許されているうえに、昨夜は共に添い寝しながら、眠りについたはず。…しかし、いましがた、ソラは彼女のことを「顔も知らない」と言い放った。

―――何かの行き違いが起こっている。矛盾か、齟齬か。

花嫁は冷静だった。首に短剣が当てられていても。眼前のソラから敵意を向けられていても。未来のゴッカン王妃となる女性は、理性と聡明さを忘れない。

「捕らえろ」

ソラの命令に応じた王城兵が近付いてくるのを見ながら、花嫁は、大人しく現状に従うという決断をした。


寝巻きで拘束されたまま、尋問室に通された花嫁は。両脇を王城兵に固められ、椅子に座っていた。兵士たちは、明らかに殺気立っている。ザイバーン城で、否、ゴッカンで、花嫁のことを知らない者はいないはず。これではまるで…―――

思考を巡らせようとしたとき。尋問室の扉が開いた。靴音静かに入ってきたのは、案の定、王としての装束を纏ったソラ。右目の包帯も、丁寧に巻かれている。いつもの彼と違うとすれば、やはり、花嫁に明確な敵意のこもった視線を寄越している、ということ。

ソラが花嫁の対面に座った。翡翠の隻眼が、一旦、花嫁から逸れて。手元の供述調書とペンに集中される。ソラの色素の薄い唇が開いた。

「名前と住所を」
「レティシア・フルールでございます。出身は、イシャバーナ。現在は、ゴッカンのザイバーン城に生活拠点を移しております」

ソラの質問に、花嫁は確信を持って答える。が、ソラの瞳は零度のままで、且つ、眉間に微かな皺が寄った。とはいえ、ペン先を走らせるのは止めず、ソラは質問を重ねる。

「その根拠は?」
「私が貴方様の花嫁だからです」
「どうやって、俺の寝床まで侵入した?」
「私達は昨晩、一緒に寄り添って、眠りにつきました」
「…、……。」

短い問答を重ねるうちに、ソラがペンを止めた。頭痛を堪えるかのように、左手の指先をこめかみに当てる。花嫁には音こそ聞こえはしなかったが、確かにソラが溜め息を吐いた仕草を取ったのが分かった。そして。

「……、そこ、早急に医務官を呼べ。この女を精神鑑定に回す」

ソラは近くの兵士にそう命じると。書きかけの供述調書を片付けるや否や。自分の椅子から立ち上がって、さっさと尋問室を後にしてしまう。その背を見送るのもそこそこに、王城兵に急かされて、花嫁も立ち上がらされたのだった。


医務官により、精神鑑定が行われたが。当然、花嫁の診断結果には、特筆すべき点など見当たらない。彼女にとって、自分が「ソラの花嫁であること」は、「心の底から当たり前のこと」なのだから。医務官が何度も同じ質問をしてきても。花嫁はそこを確固たる意思を持って、揺るがずに、答え続けた。そして、その過程で。彼女はとある確信を得ていた。

ここでは、自分は存在していないことになっているのでは?、と。

証拠があるわけではない。しかし、宇宙は広い。そして、チキューと同じ名前の惑星も、我々と違う世界線の中で存在するという。となれば。辿り着く答えはひとつ。

花嫁が『自分が存在しないチキューの世界線に、何らかの理由でジャンプしてきた』ということ。

しかし、この答えはきっと。医務官でも、王城兵の誰かでもなく。今、目の前で、花嫁の精神鑑定書と、ついでとばかりに受けた簡単な健康診断の結果を広げているソラ自身に、伝えるべきだと、彼女は判断していた。

「応答の感度、脳波計、心電図、脈拍、呼吸、その他簡易的な血液検査の結果、…全て、異常なし。言動に関する矛盾点も、見受けられない。
 …本当か?今日の担当医務官は誰だ?」
「ビアンキ医師です」
「ドットーレ・ビアンキか…。彼の手腕を疑う余地は無いな…」

近くに控えていた兵士と、そんな応酬をしながら。ソラは花嫁の診断結果を広げたまま、彼女に視線を寄越した。その隻眼に浮かんだ敵意は、未だ消える気配がない。

「こちらで確認したい情報は、一通り、揃えさせて貰った。
 …さて。その顔は、何か言いたいことがありそうだな。発言を許可する」

そう言いながら、ソラが書きかけの供述調書を手早く出すのを見て。花嫁は口を開いた。

「質問がございます。
 イシャバーナ出身の貴族に、レティシア・フルールという女はいなかった、という見解でよろしいでしょうか?」
「聡いな。…ああ、そうだ。先ほど調べたが、イシャバーナには確かに、フルール家という医療関係の名門貴族はあったが…、その中にレティシアという名の令嬢は存在しない」
「理解しました。
 では、その事実と、私自身が考えた可能性について、お話をさせてくださいませ」
「…。良いだろう。聞かせてみろ」

ソラが供述調書から目線を上げた。花嫁と交叉したその瞳は、氷のように冷たい。その目を臆することなく見つめ返しながら、彼女は言葉を続ける。

「おそらく私は、別の世界線のチキューからやってきた人間です」
「…それを裏付ける根拠はあるのか?」
「貴方様は、それを既に見ているはずです。私の装飾品を、証拠品として検めていらっしゃるのであれば…」
「…。」

花嫁の言葉を聞いたソラが、目だけで兵士に命じると、兵士が手に持っていた箱を差し出した。押収した証拠品などを、一時保管・移送するための箱。ソラがそこから出したモノは…、

―――…ゴッカンの国章が入った、銀の指輪。

「簡易的な鑑定に出したうえに、自分でも見定めた。この指輪は、ゴッカン王室の歴代の王配に受け継がれてきた指輪だ。そして、これと全く同じものが、王城の宝物庫に保管されているのも、確認している。
 つまり、世界にふたつとないはずの国宝が、同じ世界にふたつも存在しているという事実。
 そして、今、お前が話してくれた憶測と、考えられる可能性の全てを取捨選択した結果…。
 ……認めよう。お前は、違う世界線のゴッカンから来た人間である、と」

そう言うと。ソラは供述調書にサインをした。文官から印を受け取り、その場で捺す。

「お前は、ただの異邦人。不法侵入者ではない。故に、裁判も留置も拘束も無しだ。
 自分の世界に帰る方法を見つけるまで、あるいは、その日が来るまで。特別監督対象として、ザイバーン城で保護しよう」

声音も瞳も冷たいままだが。花嫁に処遇を告げるソラの姿勢は、ゴッカン王としての職務に忠実な彼そのものであった。


特別監督対象とは銘打ってあるが、保護されている身なので、結局、客人扱いだ。薄い寝間着のままでは格好がつかないと、花嫁はそれなりの客室に通された後、着替えを支給された。てっきり囚人服を遣わされると思っていた彼女は、従者が持ってきた女物の洋服や小物類に、素直に驚く。おそらく、客人用に備えられていたものだろうが。ファーストコンタクトが罪人扱いだったせいもあり、その切り替えの早さたるや、やはりソラの仕事ぶりは素晴らしいと感心せざるをえない。

身繕いが終わった頃。入れ替わりにやってきた別の従者が、食事を乗せたワゴンを押してきた。…そういえば。こちらにジャンプしてから、何も口にしていない。

従者が花嫁の前に、ブランチをセッティングする。温かい紅茶、ハムとチーズが挟んであるサンドイッチ、ほうれん草の卵とじ。
花嫁は手を合わせて「いただきます」と呟いてから。料理を食べ始めた。

…。
食後にオレンジのゼリーを頂いた花嫁は、二杯目の紅茶を飲んでいた。すると、客室の扉がノックされる。花嫁が「どうぞ」と入室を促すと、静かに入ってきたのは、ソラだった。余計な靴音を立てないのも、『こちら』では普通らしい。

対面ではなく、応接用のソファーに座ったソラが、花嫁と視線を合わせてから、口を開く。

「食事が摂れるようで、何よりだ。…だが、あのメニュー内容で騒がなかった令嬢は、お前が初めてだな」

皮肉とも取れる言い方だが。嘘を嫌うソラの気質は理解している花嫁だ。ティーカップを置きながら、微笑んで見せる。

「お慈悲で保護されている身の者が、一国の王のもてなしに対して、何と言えましょうか」

花嫁の返しを受けて、ソラがほんの微かに嗤いの吐息を貰した。

「…『お前の未来の旦那様』は、随分と他人の躾が上手いらしい」

どうやらソラは、『違う世界線の自分』の人物像を、花嫁を通して、把握したようである。
彼は従者が配膳した紅茶を一口飲むと。改めて、花嫁に向き直った。

「分かっていると思うが。こちらに滞在中は、あまりこの部屋から出ないで貰えると助かる。とはいえ、娯楽に飢えさせる気もない。書庫と一般資料室、そして中庭の一部区画のみを対象とした、臨時の立ち入り許可証を発行する。
 あとは、お前の世話に専念する従者を三人、身辺の護衛兵を四人、それぞれ配備する。
 この室内と、許可証が出ている範囲で過ごす分には、好きにしてくれて構わない。
 俺に用事があるならば、その辺にいる者に適当に告げろ。時間が空き次第、繋ぐようにする。…以上だ」

淡々と告げるだけ、告げて。花嫁の返事も待たずに、ソラはソファーから立ち上がる。思わず引き留めたくなったが。彼女はぐっと堪えて、控えた。目の前にいるソラは、『自分の未来の旦那様』ではないのだ。
ソラの言う通り。花嫁は自分の世界に帰る方法が分かるまでは、この部屋と、許可された区画内で大人しくするしかないのだろう。
そう思い直して。彼女は、立ち去るゴッカン王の背中を、黙って見送るしかなかったのだった。

to be continued...
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