『極寒の果てで』小説

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イザヴェラは有罪とて、実質、放免に近い扱いとなり。魔王伯爵という旧友と再会したことも相まって、その場は酒の席になってしまった。ゴッドパピヨンを操縦しないといけないうえに、元来、酒があまり好きではない気質のソラは、花嫁を連れ出して、ふたりで周囲の散策を始めていた。
改めて観察すると、何とも幻想的な光景が広がっているのが分かる。伯爵は入国した際に「退廃的」とも評していた。―――『死の国』。その景色だけは、確かに見るものを夢見心地にさせるような、あるいは郷愁や懐古を覚えさせるような、不思議な色味を帯びた国。青紫色の天を仰げば、元の位置に戻った巨大な砂時計と、絶えず浮かび続ける半透明のナニかたち。

「この草花に見えるモノたちにも、生命がない…、すなわち、この国に咲いている時点で『死者』ということなのでしょうね…」

花嫁がふと、そう呟いた。その視線は、自分の足元に咲いている半透明の薔薇に向けられている。薔薇は半透明ゆえに、不規則な輝き方をしており、端から見れば、何よりも価値のある宝石にも見えた。が、ハーカバーカに根付いている以上、この一輪とて、『死』という概念の塊である。
 
「ここから本当に地上へ…、ゴッカンへ無事に帰ることが約束されているなんて…。どうしてでしょうか…、まるで嘘のように聞こえます…」
「お前は、まだ幻を見ているのか?」
「いいえ、そういう訳では…。
 ただ、本当にソラ様が、あのイザヴェラ女王に勝利したのだと…。その事実が鮮烈すぎて、未だに興奮しているのかもしれませんわ」

花嫁は足元の薔薇から目を逸らして、ソラを見た。彼は初めからそうしていたかのように、自然と彼女と視線を合わせてから、口を開く。

「夢に揺られるのも、この国にいられる間だけにしておけ。俺たちのゴッカンへ帰れば、待っているのは大量の事後処理だからな」
「もう…、ムードが台無しですわ…」
「そう言われてもな…。死者の国で、ムードも何も無いだろうに…」
「気持ちの問題ですっ。…これではまるで、いつまで経っても私ばかりが、ソラ様にときめいているみたいで―――」

そこまで言って、花嫁の台詞が止まった。自分の髪の毛を、ソラの指が梳いているから。一筋の髪を軽く弄んだ指先は、そのまま花嫁の頬を羽毛の如く、柔く触る。いつもの黒革の手袋が嵌っていない手から、直接、ソラの体温が伝わって来る。そして花嫁は、頬を撫でる手に気を取られて、もう片方の彼の手が、自分のそれを取っていることに気が付かなかった。あ、と思う前に、手首を優しく引かれて。傾きかけた身体は、いとも容易く支えられて。急にグッと近付いたソラの顔立ちは、やはりこの世で一番美しいのではないだろうか、と、まるで他人事のように考えてしまっていた。あと数cmで唇が触れ合いそうになるという距離で、ソラが口を開く。

「…お前だけが、胸を焦がしていると?」

囁くかのように、紡がれた言葉。その翡翠の瞳の奥には、いつか見た、氷の色をした炎が灯っている。互いの吐息を感じる距離そのままに、ソラは続きを零した。

「お前はその笑みを、常に俺の脳裏に焼き付けさせておきながら…。…どれだけ、一体どれだけ、…俺がお前を失うことを恐れているのを知らないとは、もう言わせない…」

渇望と執愛が綯い交ぜになった目線を送られることに対して、胸の奥にざわつきを覚えつつも、花嫁はソラからのキスを期待してしまう。自分を求めているのなら、素直に求めて欲しい、と、考えてしまう。
ソラが支えている花嫁の腰を、するり、と妖しい手つきで撫でた。ぴくん、と彼女の肩が跳ねる。何となく、夜の鬨での彼の顔や仕草を思い出してしまって。頬を僅かに紅潮させた花嫁を至近距離で眺めながら、ソラは少しだけ満足げな様子を見せた後。―――、彼女の唇を塞いだ。

待ち侘びたキス。大好きなひとが与えてくれる、優しくて、甘いひと時。キスはたくさんしてきたはずなのに。いつまでもこの瞬間だけは、鼓動が痛いくらいに高鳴り、血液が沸騰したかのように熱くなり、身体の真芯から甘い痺れが迸る。
夢中で互いの唇を貪りあうふたりの頭上では。生命のないモノたちが泳ぐ天空が、無限に広がっている。
今この瞬間の、この場だけ。心からの愛を求め合い、命の繋がりを未来に見るふたりは。きっと、『彼ら』にも祝福されている気がした。


*****


ソラと花嫁が、元の場に帰って来たときは。既にイザヴェラも魔王伯爵も、酒は収めていて。代わりとばかりに、茶席用の机に腰掛けて、何か談笑をしていた。が、ソラたちの姿を見とめた瞬間、「ああ、おかえり~」と、伯爵が笑顔で出迎えることで、それも終わりそうだ。彼も旧友のイザヴェラとは積もる話があるだろうし、ソラとて出来れば時間を許してやりたい。しかし、そろそろゴッカンへ帰国せねば、自分たちが事務仕事の面で、本格的に不味い状況に陥ることは明らかだ。

「ハーカバーカの扉を開く準備は、既に出来ている。装束を正してから、出国するといい」

そう言うイザヴェラの隣で、魔王伯爵が手ずから河で洗ったであろうソラの装束を小脇に抱えてきて、「ゴッカン王、あっちで着替えようね~」と言いながら、彼をひとつ向こうの茂みへと導く。
残された花嫁も着替えなくてはならない。すると、イザヴェラは彼女のドレスと装飾品を、何処ぞより出してくると。

「ほら、手伝ってやろう。背中を向けてくれ」
「恐れ入ります、イザヴェラ様」
「なに、緊張することはない。私も女。女の身支度の苦労は、知っているつもりだ」

そう言いながら、イザヴェラは花嫁のワンピースのバックリボンを解く。「脱がすぞ」と、改めて一言断りを入れてから、彼女の上半身の肌を晒したとき。イザヴェラが唐突に、フッと笑うのが分かった。え?と花嫁が疑問に思ったのも束の間。イザヴェラは、ごく小さな笑いを隠し切れないままに、花嫁に向かって、口を開く。

「お前たち、若いなぁ」

くく、と笑いながら、そうコメントを添えつつ。イザヴェラの指先が花嫁の背中、肩甲骨のあたりを、トントン、と指先で軽く突いた。一瞬、何のことか分からなかった花嫁だったが。―――先程までの、ソラとの『ふたりきりの時間』のことを思い出して。…あっという間に、顔を真っ赤にする。
キスだけで終われば良かったものを、若き恋仲のふたりは、『それ以上』を求め合っていて―――…。

「ゴッカンの未来は、安泰だな。元女王として、これほど良い報せはない」

イザヴェラがからかい半分、安心半分といった風で、再び笑う声音を聞きながら。花嫁はとうとう羞恥が極まって、両手で顔を覆ってしまったのだった。


*****


帰り支度を終えて、停めていたゴッドパピヨンのもとまで歩いてきた一行は。最後まで見送ると言って、ついてきたイザヴェラへ改めて向き直る。

「世話になった。叶うものなら、今度は正式に国交を樹立させたいものだ」
「有難い言葉だ。…だが、ここはハーカバーカ。本来、お前たち生者たち住まう地上とは、交われぬ国よ」

ソラとイザヴェラがそう言葉を交わしながら。どちらからともなく、ゆっくりと手を伸ばしあい、しかと握り交わした。

「ゴッカンの未来を、より良いものにしてくれ。頼むぞ、ソラ王」
「ああ、任せてくれ」

王同士の固い握手は、堅い約束となる。それはきっと遅かれ早かれ、未来の在る日で、結実するだろう。

「…。さて、出国する前に…。ちょっと待っていてくれ」

自然と解かれた握手をそのままに。ソラはふと、ゴッドパピヨンの中に入って行った。コックピットの様子を見に行ったのだろうか…、と、残された皆が考えていると。なんと、ソラが格納口から、なんとも重厚、且つ、長い鎖の束を引っ張り出してきた。ズルズル、じゃらじゃら、と引き摺りながら、ソラは鎖の束を魔王伯爵の前に置く。ドシャン!という鳴る音が、この鎖が如何に頑丈なものかを示す。違う、そうじゃない。

「えーっと…?ゴッカン王?なんのつもりかなぁ…?」

伯爵が己の前に置かれた鎖と、ソラを交互に見ながら、問う。その顔には「嫌な予感がする」と書いていった。ソラが説明を始める。

「ゴッドパピヨンのコックピットは、ふたり乗りだ。お前が入ると、重量オーバーとなり、違反切符の対象となる」
「うんうん、ここまで分かる話だね。それで?」
「鎖でお前をゴッドパピヨンから吊るす」
「わーい、ゴッカン王が何を言ってるのか、僕、分からなくなっちゃったぁ~~」
「安心しろ。普段から罪人を運ぶために、絶対に解けない縛り方を会得している。仮に解けて落下したとしても、お前なら大丈夫だろう?」
「イザヴェラ~?たすけて~~?」
「ならん。お前は共にゴッカンへ帰国する。イザヴェラは既に我々に干渉は出来ない」

そこまで応酬して。ソラは鎖の束を持ち上げる。じゃらん、じゃら、と金属の擦れる大きな音を立てながら、恐怖で顔を引き攣らせる魔王伯爵に、ソラの黒革の手が迫った――――…。



ゴッドパピヨンが舞い踊るように羽根を瞬かせ、地面から飛び立つ。

「ばいばーーーい!!イザヴェラ~~~~~!!!!元気でね~~~~!!!!」

ソラの宣言通り。ゴッドパピヨンから宙吊りにされた魔王伯爵が、見送るイザヴェラに向かって、笑顔で別れの挨拶を叫ぶ。それを見聞きした彼女は、今度こそ堪えきれない程の大笑いをしながら、両手を大きく振った。

ハーカバーカの扉が開く。ゴッドパピヨンは悠々とそれを潜り抜けて行った。
視界一杯に飛び込んできた暁色の空と、目下に広がる雲海を縫いながら、ゴッカンの守護神は、優雅に泳ぎ飛ぶ。その背後で、音もなくハーカバーカの扉は閉じて、そして、跡形もなく消えた。

コックピットから見える景色は、間も無く、ゴッカンの白銀の雪空となるだろう。
自分たちの王国に帰る。そして、ふたりで一緒に、同じ道を歩んで行く。ソラと花嫁にとっては当たり前で、しかし、本当に尊いこと。

ふたりはそっと、片手同士を繋ぎ合った。互いの指先を絡めて、離れないようにする。

「…帰ったら、お前に正式に贈ろうと思っているものがある」

ソラがぽつりと呟いた。

「まあ、何ですか?」

花嫁が笑顔で答えるのを聞きながら、ソラは繋いだ手に、更にきゅっと優しいチカラを込めて、握り返す。

「我がゴッカンの国章の入った、銀の指輪だ」
「! ソラ様…、それって…?」

国章入りの銀製の指輪。国の宝物庫に、厳重に保管されている、国宝中の国宝。代々、ゴッカン王の王配に受け継がれてきたモノ。それを、ソラが花嫁へ正式に贈る、ということは―――…。

「―――結婚式は、2ヶ月後だ」
「…ッ、はい…、はいっ、ソラ様…!嬉しいです…!!」

幸せの涙を目一杯に零す花嫁の肩を、ソラが抱く。彼の左目にも、薄らと涙が溜まっているように見えるのは。果たして本当にそうなのか、はたまた、コックピット内を照らす、乱反射する暁月色の陽がそう見せたのかは。今、この場にいる者以外では、誰にも分からないのである。

めでたしめでたし。


……とさ♪
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