第一章 ALICE in New World

ルカが、先日のツバサの精密検査の結果に、目を通している。彼からのコメントを待たされているツバサだったが、居心地は悪くない。何も異常が無かったのだから、ルカが特に自分を悪く言うことはないと、ほぼ確信しているからだ。そして、ルカが検査結果を閉じて、封筒に綺麗に入れ直してから。にこり、と爽やかに笑った。

「何処にも異常がなくて、本当に良かったよ~。今は平気?頭痛がするとか、お腹が痛いとか、心が不安だよ、とか。何でも言ってね?」
「お気遣いいただきありがとうございます。ですが、何も異常は感じません。どうかご心配なく…」
「…、…。」

ルカの誠意ある質問に、ツバサは丁寧に返答する。…が、当のルカが急に黙り込んでしまった。その切れ長の青い瞳が、ツバサのことを、じっと見つめてくる。

「…? あ、あの…?」
「あ。分かった」

見つめてくる視線に耐え切れず、ツバサが問いかけそうになったとき。これまた唐突に、ルカが口を開いた。何かを閃いたらしい。

「え…?何がですか?」

ルカは何かを納得したようだが、ツバサにはまるで伝わってこない。質問を重ねると、彼は再びにこにこと笑いながら、彼女に向かって、言葉を紡ぐ。

「敬語が不要だから、違和感があったんだね~。
 ねえ、アリスちゃん?オレには敬語ナシで接してよ~」
「え…っ!?そ、そんな不敬なこと…」
「そう?ソラだってRoom EL内では敬語はないし、何より、オレが良いって言ってるんだから、良いんだよ?
 まあ、勿論、公の場での敬語は必要だケド…。その使い訳は、アリスちゃんにとって造作もないハズだよ?」
「…は、はあ…。でも、急に、そんなことを言われても…」

三級高等幹部という超常的な役員に対して、敬語を外せ、というのは、少々無茶なリクエストだ。しかし、ツバサは心のどこかで、ルカならば何も恐れることはない、という謎の安心感も覚えていた。彼ならば、ツバサがかつていた一般事務の飲み会の席で「無礼講だ」と公言しながらも、こちらに理不尽な圧力をかけたり、不必要な接待を課したりなどしてきた、あの上司たちのようなことは、決してしてこない。
ツバサの胸中を察してか否か。ルカが人懐っこい笑みを崩さないまま、黒革の指先をタクトのように振るいながら、彼女に向かって、口を開く。

「じゃあ、レッスン開始♪
 ファーストステップ。
 『こんにちは、ルカ』。はい、どうぞ」
「こんにちは、る、ルカ…」
「ネクスト。
 『ルカ、私は喉が渇いたから、お茶を淹れてくるね』。どうぞ」
「ルカ…、私は喉が渇いたから、お茶を淹れてくるね…」
「ラスト。
 『ねえ、ルカ。ソラって、ルカに少し冷たすぎ―――いったぁいッ!!?」

レッスンの最後が見えた途中で。ルカの右のこめかみに、何かがクリーンヒットする。ルカに当たった弾みで、ころころと床に転がったそれは、星型の消しゴムだった。飛んできた方向を考えると、そこには間違いなく。ソラがいる。より正確に言うなら、自分のデスクに座ったソラだ。
星型の消しゴムを拾いながら、ルカが恨めしそうにソラを見やった。が、当のソラは涼しい表情ひとつ、崩しはしない。

「流れ星か。良かったな。幸運の証だ」

いけしゃあしゃあと言ってのける、ソラの胆力よ。彼の肝は据わりすぎて、もう石のように固い気がしてならない、とツバサは思った。

「ここは室内ですケド~?」
「お前は全長が2m近くもあるんだ。室内であっても、星のひとつくらい、当たるんじゃないか?」

そんなことはないはずなのに、ソラが言い切ると、何故かそうだと思えてしまう。この強すぎる説得力はどこから?と、ツバサはついつい考える。やはり、実績が伴っていると。その麗しい容姿も、高すぎる能力も、「やっぱりね…」と、納得してしまうんだろうな、とか何とか。
目の前で、ソラにキャンキャンと抗議するルカの背中を眺めながら、ツバサは。ぼんやりと己の中で、答えに帰結したのだった。


*****


昼休憩を終えた後。ソラは「息抜きをしてくる」と言い残して、ノートパソコンとタブレット端末を始め、その他、トートバッグに収まる程度の仕事道具を持って、本社ビルのカフェテラスへ行ってしまった。ソラは時々だが、こうしてRoom ELを抜け出す。ルカは特に気にしていない様子だ。元々、自由な気質があるルカだからこそ、自分の部下の行動も、信頼して見守っているのだろう。たぶん。

ルカとツバサが互いに黙って仕事をこなしていると。不意に、ベルが鳴った。来客だ。ツバサがデスクから立ち上がり、扉へ向かい、スピーカーで対応する。

「はい、特殊対応室です。ご用件をお伺いいたします」
『ローザリンデ五級高等幹部ですわ。ルカ三級高等幹部にお話がありますの。通してくださる?』

―――ローザリンデだ。
先日、ツバサに話しかけて、妙に親し気にしてきた、あの美女。ツバサに記憶はないが、向こうはどうやら彼女を知っている様子だった。…否、今はそこを気にしている場合ではない。

「ローザリンデでしょ?通してあげて」
「ッ!? …はい、かしこまりました…」

背後から急に現れたルカに驚くも、悲鳴は飲み込み、ツバサは扉のロックを開けたのだった。


――――…。

来客用の紅茶を配膳すると。ローザリンデは「ありがとう」と笑顔でツバサに礼を述べた。

応接用ソファーで向かい合わせになったルカとローザリンデは、互いにティーカップを傾けており、室内は沈黙に包まれている。間が悪く、今はソラがいないので、ルカの傍にはツバサがつかなければいけない。

ふたくちほど紅茶を飲んだローザリンデが、ソーサーとカップを机に戻してから。傍らに置いていたバッグより、封筒を出して、ルカへ「どうぞ」と、差し出した。封筒の表には『Troubadour Security』の文字が印刷されている。Room ELの軍備は、トルバドール・セキュリティーからの配備品だということは、ツバサも既に聞いて、知っていた。そしてその配備の指揮を執っているのが、ローザリンデであることも。

ルカが封筒を開けて、中身を確認する。たった数枚の書類など、ルカにかかれば、1分もかからずに読解されてしまうのだ。…案の定、ものの30秒ほどで全てを読み終えた彼は、書類を机に一旦置いて、ローザリンデへ視線を投げる。

「グレイス隊への予算運用の中心に、データが纏まっているケド…。これは今すぐ報告するべきことでもないよね?
 これを理由に、何か他に言いたいことがあるんじゃないの?ねえ、ローザリンデ?」

ルカの問いかけに対して、ローザリンデはフッと笑うと。綺麗に揃えていた脚を組んで、ソファーの背もたれに、肘を預け、口を開いた。

「分かってるなら、はえーや。他のモーロクしたヤツらとは違って、ルカはいつも理解が早くて助かるぜ?…、まあ、それも議論に入る前の段階で、の話になるんだがな」

淑女然とした態度から、あっという間に、もうひとつの方へと切り替わったらしい。ローザリンデはそのまま話を続ける。

「ズバリ、おれが言いたいのは。グレイス隊を使い潰すような真似をやめろ、ってことだ」
「オレは予算内で効率よく回してるだけだよ。オレの仕事って、そういうものでしょ?」

ローザリンデの進言は、ルカに一刀両断された。かに見えただけで、ローザリンデは怯むことは一切なく、彼の返答など構わずに、自分の言葉を重ねる。

「百歩譲って、任務に失敗した兵士をスクラップにするのは、まあ、良いさね。
 だがよ?連帯責任を取らせて、あの自爆テロの現場にいた全てのロボット兵士を、鉄屑に戻して何になる?
 ツバサを護ることができると値すると信じて、…ここに至るまで、グレイス隊を育ててきた、ソラの心はどうなる?」

右藤の部屋に配置されていたグレイス隊のロボット兵士の顛末は、ツバサも一端を聞いていた。話をしてくれたソラが、いつも通りの冷静な表情と声音をしていたので、てっきりRoom ELではロボット兵の廃棄など日常茶飯事なのかと思っていたが…。どうやら軍備の指揮権を持つローザリンデが物言いを入れてくるほどには、何かルカの判断に問題があったようだ。
ローザリンデの言葉を聞いたルカが、少しだけ怪訝そうな表情になりつつも、答える。

「これは本人にも言ったケド、消耗品に愛着を持っても仕方がないよ。
 それに、本当にオレの決定がイヤなら、ソラはあの時、オレに通話を繋ぎ直して、異議を唱えることも出来たハズ。
 それをしなかったってことは、結局、ソラだって「仕方がない」と受け入れたというコトでしょ?」
「ルカぁ~。人間ってのはよ、そう簡単に割り切れるもんじゃあねえし、一時の感情で判断を誤ることもあるし、…後々、自分の決定を後悔することもあるんだよ。ソラがお前の決定に従ったのは、決して「仕方がない」と納得したわけじゃないと思うぜ?」
「それじゃあ、どうしてソラは俺の決定を受け入れたの?」
「それが『ひとの心』ってヤツなんだってばー。
 あーー、説明が難しーーー。んでもって、それを上手く言語化できねぇおれの語彙力も情けねえーーー」

ローザリンデがルカとの問答の末、天井を仰いだ。美しいワインレッドの髪が、さらり、と流れる。
彼女は「ふぅ、ま、しょーがねー」と独り言ちた後。自分のティーカップに残った、紅茶を一気に呷ると、そのままソファーを立った。

「もういいの?」
「時間が無駄になると分かっている議論は、続けたくない主義なんだよ。
 おれの語彙力が華麗に復活するまで、せいぜい待ってろよ、ルカ」
「そうだね。期待して待ってるね、ローザリンデ」

ローザリンデの台詞に答えながら、変わらない笑顔で、ひらひら、と手を振り始めるルカを見て。彼女は、ぽかん、とした後。

「…、ったくよー!冗談も通じねえーー!このポンコツ軍事兵器ーーー!グレイス隊をスクラップにする前に、オマエが工場で調整をかけて貰えっつーの!」

そう言い残し、ローザリンデは自分のバッグを回収して、スタスタと歩き始める。慌てて見送りをしようとしたツバサだったが。それに気が付いたローザリンデは、打って変わって、柔い笑顔を彼女に向けると、口を開いた。

「大丈夫、ダイジョーブ。ツバサは自分の仕事に戻りな?
 あ、そうだ。今度、美味いものでも一緒に食べに行こうぜ。また連絡するわ。じゃあな」

そう言いながら、ローザリンデは今度こそ、Room ELを後にしようとして。

―――出入り口の扉が、開いた。その先に立っていたのは、ソラ。

ソラはローザリンデを無言で一瞥すると、すぐに横に逸れて、道を譲る。ローザリンデは、「ごきげんよう」とソラに声をかけながら、扉を潜って行った。

「おかえり、ソラ」

ルカがティーセットを片付けようとしながら、ソラに声を掛ける。それを見たツバサは、慌ててルカの手から、ティーセットたちを預かった。いくらルカが常識人だからと言っても、事務員のツバサがいながら、この執務室の一番の上司に、応接後の片付けはさせられない。もっとしっかりしないと…、と思いながら、お盆にカップやソーサーを乗せて、ツバサが給湯室に行こうとしたとき。背後からソラの声がした。

「ネズミが罠にかかったぞ。これで、右藤さゆり自殺の原因と、彼女の遺書に関する案件の尻尾が、引っ掴めるだろう」

それを聞いた瞬間。ツバサは、思わず振り返った。その手に持つお盆の上に乗ったカップたちが、カチャン、と音を立てる。

「どんな可愛いネズミちゃんが、罠にハマってくれたの?」

ルカが笑いながら、ソラに冗談めかして問うた。冗談を飛ばしたり、笑顔になる場面ではないはずなのに。しかし、ソラは特にそこには言及せず、事実だけを報告する。

「人事部の女性社員が、カフェテリアで俺にコンタクトを取ってきた」

そう言いながら、ソラは持っていたファイルを開き、そこに貼っていたであろうピンク色の付箋を、ピッ、と外して、表を見せた。

『自殺した右藤さんの遺書のことで、お話したいことがあります。今日の18時過ぎ、ゲート8にてお待ちしています。 人事部 新田』

女性らしい丸っこい字で、そう書いてある。人事部の新田とやらは、ツバサは知らないが。ソラが彼女を人事部だと言い切るのであれば、既に裏付けは出来ているのだろう。膨大なページ数のある本社勤務の社員名簿を捲るという作業は、彼にとって国語辞典を引く程度のことでしかないのだから。

「そっかあ。じゃあ、そっちは任せてもいい?オレの方も、そろそろ詰めなんだよね~」
「ああ。与えられた仕事は、きちんと納める」

ソラはルカに向かって頷くと、早速、自分のデスクへと向かった。ツバサがその背を何となく視線で追っていると、不意にルカの「アリスちゃ~ん」と呼ぶ声が聞こえたので、彼女は今度はそちらを見やる。

「ソラの仕事は、ソラ自身にお任せしようね。アリスちゃんは、オレの方のサポートをしてくれる?
 先日会った、一般事務Kエリアのリーダーの水石さんから、社員への調査アンケートを纏めた報告書があがってきてるんだ~。あ、あとね、確認済みの映像フォルダの整理を手伝って?」

ルカはそう言うと、更に笑みを深めた。
明るい笑顔のはずなのに。その深青の瞳は、妙に冷たい光を宿している。―――自分の気のせいであれ、と、ツバサは思った。




to be continued...
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