第一章 ALICE in New World

ツバサの怪我は、外傷こそ、打撲と擦り傷だが。爆発の影響で床に叩きつけられたことによる、脳震盪があった。故に、ツバサは本日、検査のために大学病院に来ている。CT、MRIを撮り、医者が「問題無し」と判断したのを聞いて、会計を終える頃には、既に時刻は正午を目前としていた。大きな病院というのは、こういう所がネックだ…、とツバサは胸中で独り言ちる。
しかし、ツバサとて、何も常に鬱々としている訳ではない。病院を後にしたツバサは、自分の財布の中身を確認して、よし、と密かに気合を入れ直した。


*****


ROG. COMPANY本社ビルが建っているのは、人口埋立地の島である。その島は、『ヒルカリオ』と呼ばれており、ROG. COMPANY本社ビルを中心に、住宅街、商業・娯楽施設が発展していった。そして今や、ヒルカリオ全体が、経済特区状態になっている。

そのヒルカリオの中で、一番賑わっている商業エリアが、西側にある、文字通り『ウエストエリア』だ。
ちなみにヒルカリオは東西南北でエリアを大きく四区画に分けており、それぞれのエリアに方角の名前がついている。商業エリアはウエストエリアから、サウスエリアにかけて展開されており、住宅エリアは反対側のイーストエリアから、ノースエリアに広がっている。ツバサの住むマンションも、イーストエリアに建っているものだ。

そして、ツバサは今。ウエストエリアの商業エリアのほぼ中心部にいた。そこにある美容ブランド『リリーハウス』の実店舗に、今日、どうしても赴きたい。そう考えていた。
ツバサがリリーハウスに入ると、常時焚かれているアロマの香りが、漂ってくる。季節や、売出し中の商品によって、細やかに変わるこのアロマ。今は、瑞々しい薔薇の香りだった。
今ちょうど、季節の新商品として、薔薇の香りのシリーズがラインナップされている。ツバサも欲しいと思い、オンラインショップでハンドクリームを購入した。すると、購入確認のメールに「ご招待券」なるものが添付されてきた。それは、実店舗で先行販売されるという、実店舗販売限定の香りを試すことが出来る、という特別なクーポンコード。
実店舗に行くと、高確率で散財してしまうため、あえて赴くことを避けていたツバサだったが。ご招待されてしまったのなら、と。そして、部署を転属したことで、ハラスメントからは開放されたものの、実質、忙しさは増えてしまったこと、と。…まあ、色々と理由はつけられるが。要するに、「頑張っている自分にご褒美をあげる」という大義名分のもと、ツバサはリリーハウスの店舗へ訪れた。

スマートフォンの画面に招待券のコードを出していると、店員がやってくる。

「こんにちは。何かお探しですか?」
「招待券のコードを、持っています…。こちらで対応していただけますか…?」
「はい。では、画面を確認させてください。…ありがとうございます。では、ご案内いたしますね」
「お願いします…」

店員がすぐ傍の特設コーナーへと、ツバサを案内する。そこに、並んでいた商品のラッピングを見たツバサは、ハッと息を呑んだ。
ダークパープルをベースに、藍色の蝶、緑色の三日月、白色の花が踊っている。幻想的な雰囲気のあるデザインで、まるでひとつの絵画のような芸術性の高さ。何より。

(か、カワイイ……ッ!!)

そのデザインは、ツバサの『癖に刺さってしまった』。普段は光の差さない、陰鬱としたツバサの緑眼は、今確かに、喜びで輝いている。

「香りをお試しになられますか?」
「はい、ぜひ…!」
「では、こちらのボディローションを、ぜひお手元に。
 …失礼します。軽く塗り込んでください」

店員に先導されるままに、ツバサは左手の甲に出されたボディローションを塗る。初手はキツい香りの印象を受けたが、よく塗り込んで肌に馴染むと、とろんとした甘いフローラルノートに早変わりした。

「ベースはフローラルなんですが、アクセントにスパイス系のハーブの香りも入っているんですよ」

店員がにこにことしながら説明してくれるのを聞いて、ツバサはローションを塗った手の甲を、スンスンと嗅ぐ。甘やかな花の香りの中に、微かに感じ取れる青い匂い。…それを認めた瞬間、ツバサの中で再び感情が爆発しそうになる。

(ヴァイオレット様…!ヴァイオレット様概念の香りだわ…!!!)

人前では絶対に叫ばない。その「ヴァイオレット」という、名前こそ。ツバサの『推し』である。
ヴァイオレットとは、ROG. COMPANYがグッズ展開を引き受けている、国民的変身ヒーローアニメーション『プリンス・テトラ』のキャラクターだ。が、ヴァイオレットには、アンチが非常に多い。というより、むしろヴァイオレット自身が、ファン全体から不人気と言っても過言ではないキャラクターだ。しかし、ツバサにとっては、ヴァイオレットは無二の推しであり、彼こそが自分にとってのヒーローなのだ。
そして、この香りは、そのヴァイオレットの「概念」である。と、ツバサは発見してしまった。勿論、それを声高に発信するつもりはない。自分の中で密かに押し留めていればいい。それでツバサは満足なのだ。

「いかがですか?」
「…とても素敵な香りです。あの、このローションをひとつ購入します…」
「ありがとうございます。他に気になる製品はございますか?」

笑顔の店員からボディローションの箱を受け取りながら、ツバサは店内を見回して。…ぎょっとした。

見慣れた、ハーフアップの黒色の髪。黒いだけじゃない。毛先が緑色のグラデーションという、少し珍しい色味。あれで地毛らしいのだから、人間というのは不思議だ。…と、思わず、現実逃避してしまったツバサは、端から見れば、自分も「彼」に見惚れていると同義であると思い直し、視線を勢いよく外した。

そのまま、何食わぬ顔をして、別の商品のコーナーへと足を運んだ。

ふたりの店員に挟まれた「彼」―――ソラが、商品の説明を受けながら、スクラブを手に取っている。が、どこか熱が入った店員ふたり(普通はひとりのはずである。やはり、彼はどこへ行っても、誰かを虜にしがちなのか)の説明は、正直、話半分くらいで聞き流している気がしてならない。…否、聞き流している。あの目はそうだ、と、ツバサは断じた。ひとの話を真に受けているようで、頭は別のタスクを処理している目である。ツバサには見覚えのある視線だ。他部署からのどうでもいい電話を受けているときの、ソラである。間違いない。Room ELに配属されてから、何度も見てきた。
……―――…、一切合切、見なかったフリをしよう。ツバサはそう決意して、シャワージェルの香りを選ぶのであった…。



結局、ツバサは、招待コードで試したボディローション(※推し概念)と、普段使いのシャワージェルを各一本ずつ購入した。金額応じて渡しているのか、おまけとばかりに試供品をそこそこ貰って。リリーハウスのロゴの入った紙袋を手に持ち、ツバサは店舗の外へ出る。ちなみにツバサが会計を済ませる頃、ソラの姿は店内には既になく。彼が一足先に、店を後にしたことが分かった。

今日の目的は、果たした。冷蔵庫にはまだ食材はあるので、買い出しに行く必要はない。…と、ツバサが次の予定を頭の中で立てていたときだった。フッと、ひとの気配を感じ取り、彼女はスマートフォンから顔を上げる。すると、そこには、ふたりの青年が立っていた。見知らぬ顔。嫌な予感がしたツバサは、その場を離れようと、一歩踏み出そうとする。が。

「あれ~?どこ行くの?急ぎ?」
「ねえねえ、お姉さん。暇なら、おれたちと遊ぼうよ?」

嫌な予感ほど、いつも当たる。案の定、青年ふたりは安っぽいナンパであった。

「すみません…。あなたたちとご一緒する気はありません…」

こういうのは無視をすると却って厄介になるパターンも多いので。その場で明確に『お断りをする』ことを、ツバサは心掛けている。しかし。

「いいじゃん?どうせ、ひとりでしょ?」

そう言って、ナンパたちはツバサの行く先を通せんぼした。こういうとき、助けてくれるひとなどはいないことを、彼女は知っている。だから、不安そうに周囲を見回したりもしない。どうせ、誰も彼も、面倒ごとを避けたいのだから。
瞬間的だが、沈黙したツバサに対して、青年のひとりが口を開いた。

「リリーハウス、好きなの?
 これってさあ、何気に高い美容品ブランドじゃん?
 おれ、結構、好きだなあ~美容に気を遣う女の子ってさ~」

ナンパ男のその台詞を聞いたとき。ツバサの中で、得も言われぬ嫌悪感が爆発した。

「……の、…め…、……い…」

ツバサの唇から細い声が漏れた。「え、なんて?」と軽薄な笑みのまま、青年が返す。すると。

―――彼女の緑眼の、その虚ろな眼差しに、射抜かれた。

「あなたたちの、ためじゃ、ないんですけれど」

そう言ったツバサの声音は、普段の彼女の姿からは想像もつかないほど、冷たいものだった。そして、ただでさえ光の差さないツバサの両目は陰鬱だが。今は、ナイフのような鋭い殺気さえ感じ取れる。

ツバサが値の張るリリーハウスの美容品を使っているのは自分のためであり。引いては、自分を磨くことで、自分の『推し』すなわち『ヴァイオレット様』の面汚しにだけはなりたくない、という強い思いから来ている。もちろん、美容にお金をかけることだけが推し活ではない。ただ、ツバサのスタンスがそうである、というだけ。
それを、たかが、どこぞの者と知れぬナンパ男たちの欲を満たす如きと、捉えないで欲しい。

ツバサの高火力な気持ちから来る、文字通り、その強い視線は、ナンパ男たちを睨み続ける。普段なら本人が「悪目立ちする」とネガティブに捉えがちな彼女の177cmの高身長も、今となっては良い武器だ。だが。

「んだよッ、せっかく声かけてやったのに!」
「クソ生意気!」

青年ふたりが揃って、ツバサに怒鳴る。一瞬だけ、ツバサが怯んだ。しかし、次の瞬間。

「お前たち、いい加減にしろ。通報するぞ」

ツバサにとっては聞き覚えのある、冷たい声。振り向く…間も無く、彼女の隣に立ったのは、―――…やはり、ソラだった。

「誘いに乗って貰えなかったのならば、対象にとってそれだけの価値が自分には無かったということだ。
 それを逆上するとはな…。人目につく場所で、自分の品位を落とすような真似をするんじゃない」

ソラの冷静がすぎる追及に、ナンパ男たちがタジタジになっているのが分かる。その隙に、「行くぞ」と、ソラは自然とツバサに声を掛けて、歩き出す。助けて貰えていると判断した彼女は、大人しくソラの背中についていくことにした。


*****


喫茶『クロエ』。
少し込み入った路地にある、レトロな雰囲気の喫茶店だ。ツバサにとって、ここは気にはなっていたが、なかなか入れなかった場所。今、そこに、ソラとふたりで入店し、相席をしている。この状況は…―――?

「ナンパ撃退のためとはいえ、休みの日にまで俺から声をかけて、すまなかった」
「あ、いいえ…。助けてくださり、ありがとうございます…」

配膳されたコーヒーに口を付けながら、ソラが短く詫びる。だが、ツバサにとっては、ナンパを退けてくれたお礼が言いたい。
…確かに。オフの日に出くわす同期や上司の顔ほど、見たくないものはない。以前のツバサなら、そうだったかもしれない。しかし、眼前のソラ、そして現在ここにはいないルカと、休日に顔を合わせても、今の彼女は特段、マイナスな気持ちは抱かない。大きな信頼を寄せている証である。

自分の紅茶に角砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜながら、ツバサはソラの様子を伺った。
コーヒーカップを置く仕草は上品で、余計な音が無い。ルカも同じように振る舞うことを思い出した。ルカとソラは、上司と部下。その関係がいつから続いているのかは知らないが、ふたりの間には普段から確かな信頼関係が見える。ルカが上司として、今のソラを育てたのだろうか…?と、ツバサはふと思った。

「本日は通院だったはずだ。
 病院では、何か変わったことは言われなかったか?」
「あ、いいえ。特に何も…。検査でも異常は無いと言われました。
 後日、病院から自宅に本日の結果が郵送されるそうなので、提出します」
「よろしく頼む」

ツバサが考えに耽けそうになると。決まって、ソラは話しかけてくることが多い。気がする。事件現場に赴く前に言われた。不意を突かれて、攫われるなよ。と。
右藤の部屋であんなことを経験したのだ。ソラの言葉もあながち間違いではないのかもしれない。ツバサはそう考えた。

「さて、その先日の件だが…。良ければ、現場を見たお前の所感を聞かせて欲しい」
「え、良いんですか…?ここは社外なのに…」

先日の件。となれば、それは右藤自殺の現場に行った際のことを指しているに違いない。会社の外でそんな話をしていいものなのか。ツバサは思わず、問うた。が、ソラは涼しい顔で続ける。

「構わん。むしろこういう場ほど、それぞれが自分の世界に没頭して、他人のことなど微塵も気にしていないからな」

さり気なく周囲を見渡せば。読書やスマートフォンに夢中になっている者、連れ同士で会話に興じている者たち、自分の食事を堪能している者、等々。確かに、ツバサとソラのふたりをわざわざ気にかけてくるような人物は、ここにはいない気がした。
そうと分かれば、と。ツバサは、鞄からミニノートを取り出す。先日の現場で見たことや、そこから気になったことなどは、これに書き留めておいたのだ。ノートを開いたツバサは、自分の書いた文字列を追いながら、所感を話し始める。

「まず…、うど…、彼女は『最低限の家事をする人間だったが、最近はそれが疎かになっていた』というのが、私の見解です」
「その根拠は?」

ソラがコーヒーを飲みながら、問う。ツバサは変わらずに続けた。

「自宅のシンクに、洗剤をつけなくても洗えるという宣伝文句が売りの、食器用スポンジがありました。料理をするとネックになってくるのが、洗い物です。洗剤は手が荒れるし、泡で手が滑ることで、怪我を誘発することもあります。何より、洗剤を使った後のシンクを掃除するのは、手間です。それを解消しようとするなら、あの食器用スポンジがあってもおかしくないと思いました」
「逆は、ありえないか?食器を洗うのが心底面倒くさいと考えるほど、家事に興味がなかった、というのは?」
「クリームクレンザーがありました。シンクを掃除する意思がないと、ひとり暮らしでは、なかなか買わないものだと思います。
 ですが、クレンザーは中身がかなり残っているのに、液だれの気配はなく、おまけにボトルを逆さにしても液体が零れなかった。…クリームクレンザーは、長期間使っていないと、中身が固まってしまって、使い物にならなくなることがあります」
「続けてくれ」

ゆるりと続きを促すソラは、中身が少なくなったコーヒーカップを、一度、置いた。両手を組み、ツバサを真っ直ぐに見やる。彼女は、尚も続けた。

「部屋に溜まっていたゴミ袋には、大量のスーパーの惣菜のプラスチックパック、デリバリーピザの空き箱、お酒の缶がありました。
 少しでも料理をする前提のシンク周りがあるというのに、彼女は食事を出来合いのもので済ませていた。…つまり、料理をする暇が確保できないほど、時間に追われていたか、あるいは体力・気力を削られていた、という可能性があります。
 あと、飲酒量が多いのは、個人の好みによりけりですが…、ゴミ袋にたくさん溜まるほどの酒量だったとしたら…、過度なストレスを抱えていたという想像もできます。
 あと、ゴミ袋が溜まっていたということは、捨てに行く時間になかなか起きられない、…すなわち、前日の飲酒量が多いことや、毎日の疲労の蓄積で、結果、朝早くに起きることが難しかった、とも…」

そこまで言って、ツバサはソラを見た。彼は一度、目を合わせたあと、すぐにコーヒーカップを手に取り、少なくなっていた中身を一気に呷る。

「仮説の立て方が、実に見事だ。…正直、もっと控えめな内容を言ってくると思ったんだが…、それは俺の杞憂だったらしい。
 優秀な部下を仲間に入れることが出来て、俺たちは実に果報者だな」
「ありがとうございます…」

かなり褒められた。否、別にソラは他人を褒めない人種ではない。ただただ、自他共に厳格なだけで、他人が成果を上げれば、それに応じた言葉と態度は示すのである。

現時点でツバサからソラに報告すべき事項は、もう無い。ミニノートを鞄に仕舞った彼女を見ながら、ソラが再度、口を開く。

「ここのコーヒーは美味いな。もう一杯、飲んでいくとしよう。
 ツバサも、紅茶が冷めてしまっているんじゃないか?」
「はい。私も、新しいものをいただきます…」

ふたりはそう会話しながら。注文用タブレットに、ソラは一杯目と同じコーヒーを、ツバサは二杯目に違う茶葉の紅茶を、それぞれ入力したのだった。




to be continued...
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