第五章 BLESSING from Deep Blue
ツバサの、子ども時代の記憶。特に、高校に通っていた3年間の記憶というのは、ツバサ自身、かなり曖昧な思い出ばかりだ。
中学校は、育った養護院と提携していた公立に通った。高校は、受験勉強を頑張り、聖クロス学園に入学した。中学では帰宅部だったが、聖クロス学園では、体格の良さと運動能力の高さを買われて、サッカー部にスカウトされて、入部した。掴み取ったポジションは、ゴールキーパー。
ツバサは、ホーム戦無敗を誇る、聖クロス学園のサッカー部のゴールを護る、強大な守護神であった。一種、無慈悲とも取れる、その偉大な堅牢さを前に、他校の生徒たちから名付けられた通り名は、『ウルトラセキュリティ』。―――究極の守護神、を意味する、らしい。
…らしい、という説明書きがつくのは、ツバサ自身が、自分が何と呼ばれようが、どうでもいいことだったからだ。何と呼ばれた際でも、自分だと分かって、しかと返事が出来れば、それで良かった。ただただ、通っている母校と、出身の養護院の顔に泥を塗らないことを意識して、過ごしていた。
そんなツバサは、聖クロス学園のサッカー部で過ごすうちに、他校の生徒たちと合同で行われる『特別合宿』に、度々誘われるようになった。彼女のように、特別級に優秀なスポーツ部所属の選手たちが集められて、将来のプロ選手を育てる、というのを目標とした、総合強化合宿。国から補助金が出るので、と、参加費は無料。なので、合宿に集められた部員たちが持ち寄るお金は、精々、各自のおやつ代くらいだった。
だがしかし、そんなに数多く誘われる特別合宿の思い出すら、ツバサの記憶の中には殆ど残っていない。ただ、キツい、ツラい、厳しい、寒い、暑い、などという。強い苦しみの感情を抱いた印象しか、ツバサの中には留まっていなかった。
最初は気に留めていなかったが、周囲の同僚たちが学生時代の話に花を咲かせていることに違和感を覚えたのをきっかけに、余りにも自分の過去の記憶が曖昧なのを自覚した。そして、ツバサはクロックヴィール大学付属病院に所属する、脳医学界の権威とも言われていた医者を、わざわざ予約したうえで、自分の脳を診て貰った。大病の可能性を捨てきれないが故の、決断だった。
結果、多くの検査を通して得た、医者からの回答。それは、「苦しい記憶であるがあまりに、脳が思い出すことを拒否しているのでしょう。人間が持つ、一種の防衛本能です」という旨のコメントだった。それを聞いたツバサは、脳医学界に於いて高名な医者が言うことならば、素人の自分では意見は出来ないと判断し、黙ってそれを受け入れた。病気ではないことを安心することにした。だが、心の何処かで納得していない己の気持ちもあったが…。…それには、そっと蓋をした。
ツバサの最終学歴は、高卒となっている。大学には進学しなかった。というより、出来なかった。それは何故なのか。彼女は、高校3年生最後の半年間から、20歳の誕生日を迎える日まで、クロックヴィール大学付属病院に、入院していたのだ。理由は、交通事故。らしい。またしても、説明書きになってしまうのは、ツバサ自身の記憶が、やはり、全く無いからだ。
気が付いたら、たくさんの機械に囲まれて、チューブに繋がれて。ツバサは病院のベッドの上で寝ていた。彼女の意識が戻ったのを見た医者と看護師は「奇跡だ!」と騒いでいた。
曰く。ツバサは、聖クロス学園の学生寮から、ちょっと離れたコンビニエンスストアに行く道すがらにて、居眠り運転をしていた大型トラックに撥ねられた。ツバサは全身を骨折し、頭を強く打ち付けて、昏睡状態に陥った。植物状態にならなかったことすら不思議だったという、重症。しかし、もう二度と目覚めないだろう、という空気が漂っていた。
だが。ツバサは目覚めた。意識を取り戻した。およそ3年間の眠りから、現実へと還ってきた。
目覚めたツバサを待っていたのは、面会の日々だった。「心配した」、「目覚めて良かった」と涙してくれる、出身の養護院の院長に、聖クロス学園の学園長と教師たち。「申し訳ございませんでした」と、ツバサを撥ねたトラックを運転していた元ドライバーの土下座と、彼を静かに囲んでいた捜査員。調書を作るために聞き取りにやってきた警察官。身寄りのないツバサの今後の生活をサポートしてくれると名乗ってきた、行政機関の相談員と、国選弁護士。
病院でのリハビリをこなしつつ、退院後の一人暮らしを計画していた過程で。ツバサは相談員から、大学へ進学したいか?、と問われた。ツバサは即決で「いいえ」と答えた。勉強するより、自活に向けた資金を貯めるために、早く仕事がしたかった。それに大学へ行ったとしても、ツバサは自分が専攻したい学問や研究分野が思いつかなかった。そんなツバサが無意味に学籍を埋めるくらいなら、自分が空けた椅子には、将来を見据えて勉学に励む学生が座るべきだと。そう考えた。
ツバサの手元には、莫大な金額の慰謝料が入ってきた。が、詳しい手続き等は、相談員と弁護士が請け負った。ツバサに渡されたのは、諸々の手数料が引かれた後の金額が入金された口座の預金通帳、キャッシュカード、そして銀行印。「大事に使ってください」と言われた。それを資金に、就職活動を始めた。
ROG. COMPANYの一般事務の内定通知を受けたとき、憧れのヴァイオレット様のグッズを手掛ける会社に、手を伸ばせたことを、素直に嬉しいと考えた。
真っ先に、養護院の院長と、聖クロス学園の学園長に連絡を入れた。ふたりとも、我がことのように喜び、学園長に至っては涙まで流していた。相談員と弁護士には、メールの報告のみとなった。この時期、ツバサは行政機関からの支援は、もう殆ど受けていなかった。
受け取った慰謝料は、まだまだ余裕の額面を誇っていたため。ツバサは、ヒルカリオに数多くある女性専用アパートの一室を借り、そこへ引っ越した。通勤をラクにしたい気持ちもあったが。自分の中の思い出が殆ど無い、むしろ無いからこそ苦痛とも取れる本土と別れることで、心機一転をはかった。
ヒルカリオは経済特区状態のため、生活費は本土のときに比べて倍以上は上がったが。ROG. COMPANYの給料も十二分にあったので。随所で節約は求められるものの、おしなべて、生活の質は上昇した。養護院で知識を教わり、高校の学生寮で経験値を積んだ料理スキルが、此処にきて輝いた。部屋の掃除は、少し苦手だった。ごみは捨てられるが、物の整理が出来ない。これは養護院にいたときからの、ツバサの短所だった。
――――…。
湯気の立つ紅茶からは、ラ・フランスの香りがする。ツバサが一番好きなフレーバーティー。
同じものを挟んで、ツバサの向かい側に座っているのは。この会社の社長・前岩田ジョウである。
突然、レイジを通して、ツバサを呼び出したかと思えば。身の上話を聞かせてほしいと命じてきた。ツバサ自身、特に過去を隠すつもりはないので、つらつらと話して聞かせた。ただ、ジョウに対しては、レイジへの育児放棄や精神的虐待を確認しているので。彼の一番の友人として、個人的範疇に於いて、ジョウに必要以上に近寄りたくないというのが、今のツバサの正直な感想だ。より端的に言えば、「印象が最悪」。
ツバサがジョウから呼び出しを受けたとき。真っ先に、ルカは「オレが断ってもいいんだよ?」と言ってくれた。ソラは更に「無理をする必要はない」と添えてくれた。
それでも、ツバサがジョウの呼び出しに応じたのは。その場にローザリンデとレイジを同席させるから、という条件が提示されたからだ。Room ELを通して信頼を感じているローザリンデと、無二の友人であるレイジ。このふたりを前にしては、さすがのジョウも、ツバサに無礼は働いてこないだろう。……まあ、そもそも。ツバサはルカのホルダーなので。ツバサの命の危険を察知さえすれば、ルカが飛んでくる羽目になる。
先のレンデロール号での八百長案件では、実の息子に殴られたくらいだ。その痛みを覚えているのならば、本社内でホルダーに無礼を働いて、その軍事兵器に本気で潰しにかかられるのは、絶対に避けるはずである。
ツバサという女性は、周囲が予想しているよりも、そして自分が思っているよりも。聡明で、冷静な人間であった。
でなければ、ルカの秘密を知らされたうえで、偶然の重なり合いとはいえレイジと友情を結んだ彼女が。何の対策も講じずに、この会社の頂きにいるジョウと直接会うような真似をするなど。有り得ない。
自分に掛けられている保険のひとつやふたつ、アテにしたってバチは当たらない。史上最強の軍事兵器の命令権を持つという、己の立場をツバサは深く理解して、そして限りなく正解に近い形で、利用していた。
――――自分を揺さぶれるものなら、揺さぶってみるが良い。
ツバサの心情は、まさしく、この一言に至り尽きる。
ルカという最強の破壊のチカラを、最強のバックアップに換えて。今この瞬間。ツバサは、ジョウの前に堂々と座っている。
ジョウが傾けていたカップを置き、一呼吸。そして、口を開いた。
「苦労が多かったことでしょう。よくぞ、我が社に来てくださいました。改めて、弊社の代表としてお礼申し上げます」
「痛み入ります」
ジョウの言葉が表面的なものであることくらい、ツバサにもお見通し。故に、彼女の口からも平面的な返しが出る。
「社長。我がRoom ELは新設の部署故、まだまだ多忙です。人員的な観点から申し上げても、三級高等幹部直属事務員の私が、いつまでも当室の席を外し続けるわけにはいきません」
今のツバサに、遠慮する、という文字は無かった。経営者としては一流なのかもしれないジョウが相手であっても、彼がレイジというひとりの息子を蔑ろにしている『毒親』であることを認識してしまっている以上。ジョウへ向ける敬意も、与える慈悲も、弁える言葉も、思いつかない。
それ故に、言葉面は丁寧であっても、滲み出る刺々しさを隠しもしないツバサに対して、ジョウは静かに嗤った。
「そのオーラに、台詞の言い回し…。まさしく、ルカ三級高等幹部とソラ秘書官を足して割ったようなものだ。
もうすっかり、ルカに毒されてしまっているようだね、ツバサさん」
「当室へのご意見は、専用の電話番号、またはメッセージフォームより、お寄せください」
両者とも、表向きだけで被っていた猫は、簡単に脱ぐ。ジョウからは上から目線特有の不遜な言葉遣いが見受けられるし、ツバサには若輩者にあるまじき尊大な態度が見え隠れしている。双方、譲れないモノがあるようにも見えた。
「ツバサさんは、誕生日が近いようだね」
「それが何か…?」
「そんなに警戒しなくていい。偶然ではあるが、私から聞かせる『新しい情報』が、貴女への誕生日プレゼントになるといいと、願っているだけだ」
「…。」
やはり、ジョウの目的は、ツバサの過去話を聞くだけではなかったようだ。それを口実にして、本題を用意していた。分かり切っていた。だからこそ、逃げない。かかってくるといい。
すると、ツバサの光の差さない緑眼の先で、ジョウがおもむろにソファーから立ち上がった。彼は真っ直ぐにツバサを見つめ、口を開く。
「まず、ツバサさんの半生におきまして、私はROG. COMPANYの現社長、そしてこのヒルカリオの観測を任されている者として、心よりお詫び申し上げたい。
――――……本当に、申し訳ございませんでした」
ジョウはそう言うと、床に額づいた。ツバサに対して、この会社のトップたる男が、潔く土下座をしている。ツバサの隣に座っていたレイジが、息を呑むのが分かった。
「…私の半生の…、一体、何に対する謝罪だと仰りたいのでしょうか?」
だが、ツバサは冷静なまま。ジョウは続ける。
「貴女が3年間、病院で眠る羽目になったのは、…あの悲惨な交通事故を起こしたのは、…紛れもない、ルカ本人の仕業だ…!
それだけじゃあない。貴女の高校生活の半分を占めた『特別合宿』ですら、…ルカのせいで仕組まれた計画のひとつで――――」
「――――おい、父さん、もうろくするのはまだ早いんじゃねえの…?ルカ兄の悪口、俺たちの前で堂々と言うってんなら、もう容赦しないけど…?!」
「待て、レイジ…!お前もちゃんと私の話を聞くんだ…!私が今から明かすのは、人類の存亡を左右するほどの、恐ろしい真実だ…!」
怒りに身を染めそうになったレイジを、ジョウは必死に制した。そして、ジョウの言い分が、聞く耳を持つに足るものであるという証拠は、拳を握り締めたレイジを、他でもない、ローザリンデが「まあ落ち着け、御曹司」と宥めたことに示唆する。ローザリンデが「大人しく聞け」と暗に言うならば、聞くしかあるまい。
座り直したレイジと、改めてジョウに視線を戻したツバサは。沈黙を以て、ジョウヘ話の続きを促した。ローザリンデに諭されて、ジョウもソファーへと座り、口を開く。
「ルカは長年、時の政府と共に、自分のホルダーになれる人間を探していた。勿論、プログラム上、ルカが勝手にホルダーを登録することは出来ない。だが、選ぶだけならば、出来る。…簡単だ。ルカが「この子がいい」と言えば、後は指名された人間の遺伝子情報を採取して、専門の職員がホルダー登録すればいいのだから…。
分かるか?ツバサさんは、ルカに『選ばれた』んだ…」
「だから…?私はそのことを承知の上で、ルカの部下として此処にいますので…」
「違う、違うんだ…。あのルカが…、史上最強の軍事兵器たるLUKAが…、人間の道徳に基づいて貴女を選ぶ、なんてことをするはずがなかったんだよ」
ツバサは尚も冷静なままだったが、自分の中に疑問点が湧き上がるのは把握していた。だからこそ、ジョウの話の続きを、大人しく聞く姿勢を見せ続ける。
ジョウはぬるくなった紅茶を一口、嚥下して。続きを紡ぐ。
「ルカは自分に繋がれたインターネット回線を通して、ビッグデータを漁っては、ホルダーの候補をピックアップし、その情報を名簿として纏める日々を送っていた。周囲の職員や研究員たちは、意味のない行為だと、スルーし続けていたが…。
ある日、ルカは発案する。『オレが作った名簿の子たちを集めて、オレのホルダーになれるように育成してくれる?』と…。
名簿に書き込まれていたのは、良好な発育が望まれる、スポーツ経験が豊富な少年少女たちばかりだった。…その中に、貴女の名前もあったんだよ、ツバサさん。
貴女が『特別合宿』として参加していたのは、…紛れもない、ルカのホルダーを人為的に育てるために執り行われていた、合宿という名の特殊訓練…。
そしてツバサさん。特別合宿に多く参加したという割には、肝心の合宿への思い出が殆ど無い、と言っていたね?これには、きちんとした理由があるんだ…。……聞くにはツライ話には、なってしまうが…」
ジョウは『真実を話す』のを躊躇う素振りは見せるものの、既に腹を括っているツバサを前にして、自分も心を決めているのは分かった。彼は今一度、しかとツバサと目線を交叉させて、意を決したように、告げた。
「貴女の過去の記憶の混濁と消失…、そして、その後の3年もの時間を奪った交通事故…。
それは…、ルカが貴女を気に入ったが故に、彼が暴走した結果。……是が非でも、ツバサさんをホルダーにしたいと熱望したが為に、過度な訓練を課して脳疲労とストレスを誘い、その果てに人間が本来持つ脳の防衛本能を動かし、記憶を忘却させた。…ルカは、貴女が『普通の人間である』ことを、逆手に取った。…その恐ろしいまでの狡猾さに、誰も逆らえなかった…」
「…、何故、私の記憶を忘れさせる必要があったのですか…?
ルカのホルダーになるという自覚が強い方が、むしろ、軍事兵器としては都合が良いのではないでしょうか…?」
「…、そこが最大の論点になった瞬間が、貴女に交通事故が襲った、あのとき…。…あれは、本当に、残酷な悲劇だった…」
ジョウはそこで一旦、言葉を切る。ツバサは未だに、己のカップに手を付けてない。それよりも、話の続きが聞きたかった。ジョウは続ける。
「ツバサさんは、ルカの理想通りに成長していった。代償で記憶が曖昧になりつつはあったものの、合宿にて課せられる過度なメニューにも耐え、身体的数値は大きく伸びていった。何より、貴女は他人に忠実で、且つ、自分の個性を極力殺す人間だった。ルカは貴女のその性格が、大層気に入っていたようで…。だが、同時に、他人に忠実で個性を殺す、という個性を持つからこそ、ルカは貴女への評価を履き違えた。
『あの子は自分の思い通りに動いてくれる』と、そう思い始めたが最後。思考と計算を間違えてしまったルカが、『自分にとって一番都合の良い駒が欲しい』=『あの子が欲しい』と帰結してしまったことに対して、最早、周囲の誰も止められなくなっていて…。結果、ルカは、正しくプログラムされていない独占欲を暴走させてしまった。
既に貴女を常時監視していたルカは、あの日、大型トラックの自動運転システムをハッキング。そして…、貴女を……、……。
……事故に引き起こした理由は、『クロックヴィール大学付属病院に収容させることで、少しでも自分の手元に近付けたかった』、そしてあわよくば、『意識が戻ったタイミングで自分と接触して、そのまま身柄を引き取ろうとした』あたりだと思われており…。…申し訳ない、説明が憶測になっているのは…、ルカが交通事故を引き起こした直後、彼は熱暴走が原因でシャットダウンしており…。ルカの意識もまた、1ヶ月ほど落ちていたからなんだ…。
復旧した後のルカに、いくら交通事故のことを問いただしても、「なんのこと?」、「オレは知らないよ」と繰り返すばかりなうえに、彼のメモリーにもそれらしきログが一切残っておらず…。
結局、それまでのルカの行動記録と、当時の状況証拠で、我々はルカの凶行を解き明かすしかなかった…」
ジョウの目元は、潤んでいた。人知を超えた軍事兵器が引き起こした、未知なる狂気。それを眼前にした恐怖。…ツバサには、未だに実感が湧かないでいるが。
「ルカはツバサさんを手元に欲しいと願うばかりに、貴女の記憶に干渉するような真似をしたうえに、交通事故にまで遭わせた…。結果、3年という長い時間が奪われた…。人間の命は短い。ルカはそれを分かっていない。機械の身だから故、人間の3年がどれほど貴重なのか、彼は理解していない。ただただ、己の思うがままに振る舞うだけ。
此処は、ヒルカリオ。ルカを閉じ込めるために造られた、監獄の島。…だが、ルカとて、タダでこの檻の中に収まっているわけではない。この島には、引いては、弊社には、ルカのご機嫌を取るための玩具を、常時、用意させて貰っている状態だ。…今は、仕事という名の玩具に食い付いてくれているからこそ、そして、偶然の重なり合いとはいえ、貴女という愛しい存在が傍にいるからこそ、ルカは大人しくしてくれている…」
つまり、ジョウはルカの機嫌を、極力、損ねたくないのだ。ルカが、未発達な感情と欲に任せて暴走すれば、恐ろしい結末が待っている。それをツバサという形で、ジョウは目の当たりにした。故に、島全体を、そしてROG. COMPANYの全てを使って、ルカを『日常に飽きさせない』ように常に工夫をしている、ということなのだろう。
史上最強の軍事兵器が、本気で人類に対して、機嫌を悪くしたとしたら…。それはもう、この島ひとつが吹き飛ぶだけでは済まされない。国が、否、惑星丸ごとひとつ、簡単に壊してしまうのだろう。…だからこそ、KALASで暗躍していた、あのエルイーネに対して、ソラは本気で怒っていたし、ローザリンデもわざわざ引導を渡しに来たのだ。
ジョウの言う通り。彼の告げた真実は、確かに、『人類の存亡を左右するほどの、恐ろしい真実』の一端だった。
そして、その端くれを担う役割を、あまりにも身勝手な理由で任されてしまったツバサが、これから選択するべき未来は…――――…。
「ツバサさん。私たちは、貴女をルカという呪縛から解放したいと考えている。その始まりとして、まず、ホルダーの登録を解除したい。貴女の遺伝子情報と、直接の承認さえあれば、解除は完了する。…代償として、もう二度と、ヒルカリオには足を踏み入れられなくなってしまうが…。だが、それがきっと、貴女のためになるはず…。
…ツバサさんの誕生日は、7日後だね。では、今日から3日後に改めて、答えを聞くとしよう。貴女がこれまでの人生で一番幸せな誕生日を迎えてくれることを、私は心の底から祈っている」
ジョウがそう締めると同時に、目を伏せた。その視線は、憂いの色と同時に、何処か安堵が浮かんでいる。心の内を明かせたことへの、安心感かもしれない。
ツバサの分の紅茶は、最後まで彼女に手を付けられることなく。その温度と共に、高貴なラ・フランスの香りは、静かに消え落ちていた。
to be continued...
中学校は、育った養護院と提携していた公立に通った。高校は、受験勉強を頑張り、聖クロス学園に入学した。中学では帰宅部だったが、聖クロス学園では、体格の良さと運動能力の高さを買われて、サッカー部にスカウトされて、入部した。掴み取ったポジションは、ゴールキーパー。
ツバサは、ホーム戦無敗を誇る、聖クロス学園のサッカー部のゴールを護る、強大な守護神であった。一種、無慈悲とも取れる、その偉大な堅牢さを前に、他校の生徒たちから名付けられた通り名は、『ウルトラセキュリティ』。―――究極の守護神、を意味する、らしい。
…らしい、という説明書きがつくのは、ツバサ自身が、自分が何と呼ばれようが、どうでもいいことだったからだ。何と呼ばれた際でも、自分だと分かって、しかと返事が出来れば、それで良かった。ただただ、通っている母校と、出身の養護院の顔に泥を塗らないことを意識して、過ごしていた。
そんなツバサは、聖クロス学園のサッカー部で過ごすうちに、他校の生徒たちと合同で行われる『特別合宿』に、度々誘われるようになった。彼女のように、特別級に優秀なスポーツ部所属の選手たちが集められて、将来のプロ選手を育てる、というのを目標とした、総合強化合宿。国から補助金が出るので、と、参加費は無料。なので、合宿に集められた部員たちが持ち寄るお金は、精々、各自のおやつ代くらいだった。
だがしかし、そんなに数多く誘われる特別合宿の思い出すら、ツバサの記憶の中には殆ど残っていない。ただ、キツい、ツラい、厳しい、寒い、暑い、などという。強い苦しみの感情を抱いた印象しか、ツバサの中には留まっていなかった。
最初は気に留めていなかったが、周囲の同僚たちが学生時代の話に花を咲かせていることに違和感を覚えたのをきっかけに、余りにも自分の過去の記憶が曖昧なのを自覚した。そして、ツバサはクロックヴィール大学付属病院に所属する、脳医学界の権威とも言われていた医者を、わざわざ予約したうえで、自分の脳を診て貰った。大病の可能性を捨てきれないが故の、決断だった。
結果、多くの検査を通して得た、医者からの回答。それは、「苦しい記憶であるがあまりに、脳が思い出すことを拒否しているのでしょう。人間が持つ、一種の防衛本能です」という旨のコメントだった。それを聞いたツバサは、脳医学界に於いて高名な医者が言うことならば、素人の自分では意見は出来ないと判断し、黙ってそれを受け入れた。病気ではないことを安心することにした。だが、心の何処かで納得していない己の気持ちもあったが…。…それには、そっと蓋をした。
ツバサの最終学歴は、高卒となっている。大学には進学しなかった。というより、出来なかった。それは何故なのか。彼女は、高校3年生最後の半年間から、20歳の誕生日を迎える日まで、クロックヴィール大学付属病院に、入院していたのだ。理由は、交通事故。らしい。またしても、説明書きになってしまうのは、ツバサ自身の記憶が、やはり、全く無いからだ。
気が付いたら、たくさんの機械に囲まれて、チューブに繋がれて。ツバサは病院のベッドの上で寝ていた。彼女の意識が戻ったのを見た医者と看護師は「奇跡だ!」と騒いでいた。
曰く。ツバサは、聖クロス学園の学生寮から、ちょっと離れたコンビニエンスストアに行く道すがらにて、居眠り運転をしていた大型トラックに撥ねられた。ツバサは全身を骨折し、頭を強く打ち付けて、昏睡状態に陥った。植物状態にならなかったことすら不思議だったという、重症。しかし、もう二度と目覚めないだろう、という空気が漂っていた。
だが。ツバサは目覚めた。意識を取り戻した。およそ3年間の眠りから、現実へと還ってきた。
目覚めたツバサを待っていたのは、面会の日々だった。「心配した」、「目覚めて良かった」と涙してくれる、出身の養護院の院長に、聖クロス学園の学園長と教師たち。「申し訳ございませんでした」と、ツバサを撥ねたトラックを運転していた元ドライバーの土下座と、彼を静かに囲んでいた捜査員。調書を作るために聞き取りにやってきた警察官。身寄りのないツバサの今後の生活をサポートしてくれると名乗ってきた、行政機関の相談員と、国選弁護士。
病院でのリハビリをこなしつつ、退院後の一人暮らしを計画していた過程で。ツバサは相談員から、大学へ進学したいか?、と問われた。ツバサは即決で「いいえ」と答えた。勉強するより、自活に向けた資金を貯めるために、早く仕事がしたかった。それに大学へ行ったとしても、ツバサは自分が専攻したい学問や研究分野が思いつかなかった。そんなツバサが無意味に学籍を埋めるくらいなら、自分が空けた椅子には、将来を見据えて勉学に励む学生が座るべきだと。そう考えた。
ツバサの手元には、莫大な金額の慰謝料が入ってきた。が、詳しい手続き等は、相談員と弁護士が請け負った。ツバサに渡されたのは、諸々の手数料が引かれた後の金額が入金された口座の預金通帳、キャッシュカード、そして銀行印。「大事に使ってください」と言われた。それを資金に、就職活動を始めた。
ROG. COMPANYの一般事務の内定通知を受けたとき、憧れのヴァイオレット様のグッズを手掛ける会社に、手を伸ばせたことを、素直に嬉しいと考えた。
真っ先に、養護院の院長と、聖クロス学園の学園長に連絡を入れた。ふたりとも、我がことのように喜び、学園長に至っては涙まで流していた。相談員と弁護士には、メールの報告のみとなった。この時期、ツバサは行政機関からの支援は、もう殆ど受けていなかった。
受け取った慰謝料は、まだまだ余裕の額面を誇っていたため。ツバサは、ヒルカリオに数多くある女性専用アパートの一室を借り、そこへ引っ越した。通勤をラクにしたい気持ちもあったが。自分の中の思い出が殆ど無い、むしろ無いからこそ苦痛とも取れる本土と別れることで、心機一転をはかった。
ヒルカリオは経済特区状態のため、生活費は本土のときに比べて倍以上は上がったが。ROG. COMPANYの給料も十二分にあったので。随所で節約は求められるものの、おしなべて、生活の質は上昇した。養護院で知識を教わり、高校の学生寮で経験値を積んだ料理スキルが、此処にきて輝いた。部屋の掃除は、少し苦手だった。ごみは捨てられるが、物の整理が出来ない。これは養護院にいたときからの、ツバサの短所だった。
――――…。
湯気の立つ紅茶からは、ラ・フランスの香りがする。ツバサが一番好きなフレーバーティー。
同じものを挟んで、ツバサの向かい側に座っているのは。この会社の社長・前岩田ジョウである。
突然、レイジを通して、ツバサを呼び出したかと思えば。身の上話を聞かせてほしいと命じてきた。ツバサ自身、特に過去を隠すつもりはないので、つらつらと話して聞かせた。ただ、ジョウに対しては、レイジへの育児放棄や精神的虐待を確認しているので。彼の一番の友人として、個人的範疇に於いて、ジョウに必要以上に近寄りたくないというのが、今のツバサの正直な感想だ。より端的に言えば、「印象が最悪」。
ツバサがジョウから呼び出しを受けたとき。真っ先に、ルカは「オレが断ってもいいんだよ?」と言ってくれた。ソラは更に「無理をする必要はない」と添えてくれた。
それでも、ツバサがジョウの呼び出しに応じたのは。その場にローザリンデとレイジを同席させるから、という条件が提示されたからだ。Room ELを通して信頼を感じているローザリンデと、無二の友人であるレイジ。このふたりを前にしては、さすがのジョウも、ツバサに無礼は働いてこないだろう。……まあ、そもそも。ツバサはルカのホルダーなので。ツバサの命の危険を察知さえすれば、ルカが飛んでくる羽目になる。
先のレンデロール号での八百長案件では、実の息子に殴られたくらいだ。その痛みを覚えているのならば、本社内でホルダーに無礼を働いて、その軍事兵器に本気で潰しにかかられるのは、絶対に避けるはずである。
ツバサという女性は、周囲が予想しているよりも、そして自分が思っているよりも。聡明で、冷静な人間であった。
でなければ、ルカの秘密を知らされたうえで、偶然の重なり合いとはいえレイジと友情を結んだ彼女が。何の対策も講じずに、この会社の頂きにいるジョウと直接会うような真似をするなど。有り得ない。
自分に掛けられている保険のひとつやふたつ、アテにしたってバチは当たらない。史上最強の軍事兵器の命令権を持つという、己の立場をツバサは深く理解して、そして限りなく正解に近い形で、利用していた。
――――自分を揺さぶれるものなら、揺さぶってみるが良い。
ツバサの心情は、まさしく、この一言に至り尽きる。
ルカという最強の破壊のチカラを、最強のバックアップに換えて。今この瞬間。ツバサは、ジョウの前に堂々と座っている。
ジョウが傾けていたカップを置き、一呼吸。そして、口を開いた。
「苦労が多かったことでしょう。よくぞ、我が社に来てくださいました。改めて、弊社の代表としてお礼申し上げます」
「痛み入ります」
ジョウの言葉が表面的なものであることくらい、ツバサにもお見通し。故に、彼女の口からも平面的な返しが出る。
「社長。我がRoom ELは新設の部署故、まだまだ多忙です。人員的な観点から申し上げても、三級高等幹部直属事務員の私が、いつまでも当室の席を外し続けるわけにはいきません」
今のツバサに、遠慮する、という文字は無かった。経営者としては一流なのかもしれないジョウが相手であっても、彼がレイジというひとりの息子を蔑ろにしている『毒親』であることを認識してしまっている以上。ジョウへ向ける敬意も、与える慈悲も、弁える言葉も、思いつかない。
それ故に、言葉面は丁寧であっても、滲み出る刺々しさを隠しもしないツバサに対して、ジョウは静かに嗤った。
「そのオーラに、台詞の言い回し…。まさしく、ルカ三級高等幹部とソラ秘書官を足して割ったようなものだ。
もうすっかり、ルカに毒されてしまっているようだね、ツバサさん」
「当室へのご意見は、専用の電話番号、またはメッセージフォームより、お寄せください」
両者とも、表向きだけで被っていた猫は、簡単に脱ぐ。ジョウからは上から目線特有の不遜な言葉遣いが見受けられるし、ツバサには若輩者にあるまじき尊大な態度が見え隠れしている。双方、譲れないモノがあるようにも見えた。
「ツバサさんは、誕生日が近いようだね」
「それが何か…?」
「そんなに警戒しなくていい。偶然ではあるが、私から聞かせる『新しい情報』が、貴女への誕生日プレゼントになるといいと、願っているだけだ」
「…。」
やはり、ジョウの目的は、ツバサの過去話を聞くだけではなかったようだ。それを口実にして、本題を用意していた。分かり切っていた。だからこそ、逃げない。かかってくるといい。
すると、ツバサの光の差さない緑眼の先で、ジョウがおもむろにソファーから立ち上がった。彼は真っ直ぐにツバサを見つめ、口を開く。
「まず、ツバサさんの半生におきまして、私はROG. COMPANYの現社長、そしてこのヒルカリオの観測を任されている者として、心よりお詫び申し上げたい。
――――……本当に、申し訳ございませんでした」
ジョウはそう言うと、床に額づいた。ツバサに対して、この会社のトップたる男が、潔く土下座をしている。ツバサの隣に座っていたレイジが、息を呑むのが分かった。
「…私の半生の…、一体、何に対する謝罪だと仰りたいのでしょうか?」
だが、ツバサは冷静なまま。ジョウは続ける。
「貴女が3年間、病院で眠る羽目になったのは、…あの悲惨な交通事故を起こしたのは、…紛れもない、ルカ本人の仕業だ…!
それだけじゃあない。貴女の高校生活の半分を占めた『特別合宿』ですら、…ルカのせいで仕組まれた計画のひとつで――――」
「――――おい、父さん、もうろくするのはまだ早いんじゃねえの…?ルカ兄の悪口、俺たちの前で堂々と言うってんなら、もう容赦しないけど…?!」
「待て、レイジ…!お前もちゃんと私の話を聞くんだ…!私が今から明かすのは、人類の存亡を左右するほどの、恐ろしい真実だ…!」
怒りに身を染めそうになったレイジを、ジョウは必死に制した。そして、ジョウの言い分が、聞く耳を持つに足るものであるという証拠は、拳を握り締めたレイジを、他でもない、ローザリンデが「まあ落ち着け、御曹司」と宥めたことに示唆する。ローザリンデが「大人しく聞け」と暗に言うならば、聞くしかあるまい。
座り直したレイジと、改めてジョウに視線を戻したツバサは。沈黙を以て、ジョウヘ話の続きを促した。ローザリンデに諭されて、ジョウもソファーへと座り、口を開く。
「ルカは長年、時の政府と共に、自分のホルダーになれる人間を探していた。勿論、プログラム上、ルカが勝手にホルダーを登録することは出来ない。だが、選ぶだけならば、出来る。…簡単だ。ルカが「この子がいい」と言えば、後は指名された人間の遺伝子情報を採取して、専門の職員がホルダー登録すればいいのだから…。
分かるか?ツバサさんは、ルカに『選ばれた』んだ…」
「だから…?私はそのことを承知の上で、ルカの部下として此処にいますので…」
「違う、違うんだ…。あのルカが…、史上最強の軍事兵器たるLUKAが…、人間の道徳に基づいて貴女を選ぶ、なんてことをするはずがなかったんだよ」
ツバサは尚も冷静なままだったが、自分の中に疑問点が湧き上がるのは把握していた。だからこそ、ジョウの話の続きを、大人しく聞く姿勢を見せ続ける。
ジョウはぬるくなった紅茶を一口、嚥下して。続きを紡ぐ。
「ルカは自分に繋がれたインターネット回線を通して、ビッグデータを漁っては、ホルダーの候補をピックアップし、その情報を名簿として纏める日々を送っていた。周囲の職員や研究員たちは、意味のない行為だと、スルーし続けていたが…。
ある日、ルカは発案する。『オレが作った名簿の子たちを集めて、オレのホルダーになれるように育成してくれる?』と…。
名簿に書き込まれていたのは、良好な発育が望まれる、スポーツ経験が豊富な少年少女たちばかりだった。…その中に、貴女の名前もあったんだよ、ツバサさん。
貴女が『特別合宿』として参加していたのは、…紛れもない、ルカのホルダーを人為的に育てるために執り行われていた、合宿という名の特殊訓練…。
そしてツバサさん。特別合宿に多く参加したという割には、肝心の合宿への思い出が殆ど無い、と言っていたね?これには、きちんとした理由があるんだ…。……聞くにはツライ話には、なってしまうが…」
ジョウは『真実を話す』のを躊躇う素振りは見せるものの、既に腹を括っているツバサを前にして、自分も心を決めているのは分かった。彼は今一度、しかとツバサと目線を交叉させて、意を決したように、告げた。
「貴女の過去の記憶の混濁と消失…、そして、その後の3年もの時間を奪った交通事故…。
それは…、ルカが貴女を気に入ったが故に、彼が暴走した結果。……是が非でも、ツバサさんをホルダーにしたいと熱望したが為に、過度な訓練を課して脳疲労とストレスを誘い、その果てに人間が本来持つ脳の防衛本能を動かし、記憶を忘却させた。…ルカは、貴女が『普通の人間である』ことを、逆手に取った。…その恐ろしいまでの狡猾さに、誰も逆らえなかった…」
「…、何故、私の記憶を忘れさせる必要があったのですか…?
ルカのホルダーになるという自覚が強い方が、むしろ、軍事兵器としては都合が良いのではないでしょうか…?」
「…、そこが最大の論点になった瞬間が、貴女に交通事故が襲った、あのとき…。…あれは、本当に、残酷な悲劇だった…」
ジョウはそこで一旦、言葉を切る。ツバサは未だに、己のカップに手を付けてない。それよりも、話の続きが聞きたかった。ジョウは続ける。
「ツバサさんは、ルカの理想通りに成長していった。代償で記憶が曖昧になりつつはあったものの、合宿にて課せられる過度なメニューにも耐え、身体的数値は大きく伸びていった。何より、貴女は他人に忠実で、且つ、自分の個性を極力殺す人間だった。ルカは貴女のその性格が、大層気に入っていたようで…。だが、同時に、他人に忠実で個性を殺す、という個性を持つからこそ、ルカは貴女への評価を履き違えた。
『あの子は自分の思い通りに動いてくれる』と、そう思い始めたが最後。思考と計算を間違えてしまったルカが、『自分にとって一番都合の良い駒が欲しい』=『あの子が欲しい』と帰結してしまったことに対して、最早、周囲の誰も止められなくなっていて…。結果、ルカは、正しくプログラムされていない独占欲を暴走させてしまった。
既に貴女を常時監視していたルカは、あの日、大型トラックの自動運転システムをハッキング。そして…、貴女を……、……。
……事故に引き起こした理由は、『クロックヴィール大学付属病院に収容させることで、少しでも自分の手元に近付けたかった』、そしてあわよくば、『意識が戻ったタイミングで自分と接触して、そのまま身柄を引き取ろうとした』あたりだと思われており…。…申し訳ない、説明が憶測になっているのは…、ルカが交通事故を引き起こした直後、彼は熱暴走が原因でシャットダウンしており…。ルカの意識もまた、1ヶ月ほど落ちていたからなんだ…。
復旧した後のルカに、いくら交通事故のことを問いただしても、「なんのこと?」、「オレは知らないよ」と繰り返すばかりなうえに、彼のメモリーにもそれらしきログが一切残っておらず…。
結局、それまでのルカの行動記録と、当時の状況証拠で、我々はルカの凶行を解き明かすしかなかった…」
ジョウの目元は、潤んでいた。人知を超えた軍事兵器が引き起こした、未知なる狂気。それを眼前にした恐怖。…ツバサには、未だに実感が湧かないでいるが。
「ルカはツバサさんを手元に欲しいと願うばかりに、貴女の記憶に干渉するような真似をしたうえに、交通事故にまで遭わせた…。結果、3年という長い時間が奪われた…。人間の命は短い。ルカはそれを分かっていない。機械の身だから故、人間の3年がどれほど貴重なのか、彼は理解していない。ただただ、己の思うがままに振る舞うだけ。
此処は、ヒルカリオ。ルカを閉じ込めるために造られた、監獄の島。…だが、ルカとて、タダでこの檻の中に収まっているわけではない。この島には、引いては、弊社には、ルカのご機嫌を取るための玩具を、常時、用意させて貰っている状態だ。…今は、仕事という名の玩具に食い付いてくれているからこそ、そして、偶然の重なり合いとはいえ、貴女という愛しい存在が傍にいるからこそ、ルカは大人しくしてくれている…」
つまり、ジョウはルカの機嫌を、極力、損ねたくないのだ。ルカが、未発達な感情と欲に任せて暴走すれば、恐ろしい結末が待っている。それをツバサという形で、ジョウは目の当たりにした。故に、島全体を、そしてROG. COMPANYの全てを使って、ルカを『日常に飽きさせない』ように常に工夫をしている、ということなのだろう。
史上最強の軍事兵器が、本気で人類に対して、機嫌を悪くしたとしたら…。それはもう、この島ひとつが吹き飛ぶだけでは済まされない。国が、否、惑星丸ごとひとつ、簡単に壊してしまうのだろう。…だからこそ、KALASで暗躍していた、あのエルイーネに対して、ソラは本気で怒っていたし、ローザリンデもわざわざ引導を渡しに来たのだ。
ジョウの言う通り。彼の告げた真実は、確かに、『人類の存亡を左右するほどの、恐ろしい真実』の一端だった。
そして、その端くれを担う役割を、あまりにも身勝手な理由で任されてしまったツバサが、これから選択するべき未来は…――――…。
「ツバサさん。私たちは、貴女をルカという呪縛から解放したいと考えている。その始まりとして、まず、ホルダーの登録を解除したい。貴女の遺伝子情報と、直接の承認さえあれば、解除は完了する。…代償として、もう二度と、ヒルカリオには足を踏み入れられなくなってしまうが…。だが、それがきっと、貴女のためになるはず…。
…ツバサさんの誕生日は、7日後だね。では、今日から3日後に改めて、答えを聞くとしよう。貴女がこれまでの人生で一番幸せな誕生日を迎えてくれることを、私は心の底から祈っている」
ジョウがそう締めると同時に、目を伏せた。その視線は、憂いの色と同時に、何処か安堵が浮かんでいる。心の内を明かせたことへの、安心感かもしれない。
ツバサの分の紅茶は、最後まで彼女に手を付けられることなく。その温度と共に、高貴なラ・フランスの香りは、静かに消え落ちていた。
to be continued...