第三章 『Perfect BLACK SWAN』

ルカの『ホルダー』というのは、一体、どういうものなのか。それを説明しよう。

ルカは軍事兵器として、この人類史上最強の存在である。間違っても暴走などさせてしまったら、この星は丸ごと吹き飛んでしまうだろう。なので人類は、ルカを『完全に制御する策』を講じた。
ルカに登録されたDNA情報の持ち主である人間の命令は、絶対に遂行。そして、その人間の保全を、何よりも最優先。―――そう、その役割に収まる人間が、『ホルダー』と呼ばれるのである。
安全対策のため、ホルダーはひとりしか登録できない。そして、一度登録されたホルダーの情報は、再び同じDNA情報のサンプルをルカに飲み込ませたうえで、ホルダー本人がルカに命令しない限り、消去や上書きは一切、出来ない。
万が一、登録済みのホルダー本人の消息が不明となった場合は。ルカの内蔵されたプログラム、内部に蓄積された記録やデータの全部を、丸ごと、1ミリも遺さず、初期化しなければならない。『再起動』ではない。『初期化』である。此処に至るまでの200年以上の歴史を、ルカの中から消し去る必要がある。だがしかし、それを行える権限を持つ者すらも、この星の何処にいるのか。エルイーネには、分からなかった。

故にエルイーネは、トルバドール・セキュリティーの小芝に、カネを握らせて、調べさせた。KALASとて、ルカの内部情報の全てを掌握している訳ではない。ルカに関する機密情報は、各所に分散されて、保管されているのだ。ルカのホルダーに関する情報は、トルバドール・セキュリティーにある。
…調べさせた結果。空いていると思ったホルダーの枠には、何処の誰とも分からぬ人間のDNA情報が、『ALICE』という名前で、既に登録されていた。

その先は、エルイーネがいくら調べても、どれだけ探っても。この『ALICE』という人間の情報を、得ることができない。だが。確かめられることは、ひとつあるのだ。手繰り寄せるための糸は、―――手駒が持ってくる。

「主任、頼まれたもの、こちらっすよ」

掃除用具と、区画内のゴミを集めたであろう大きな袋を持ったセイラが、エルイーネにミニサイズのポリ袋を手渡す。中身は、使用済みのウェットティッシュ。手袋を嵌めたエルイーネが広げると、ティッシュの表面には、女物の色付きグロスと、拭ったであろうコーヒーの茶色の染みが、点々と付着している。…間違いない。ツバサが使ったものだ。

「よくできました、セイラ。ご褒美として、もう5万あげるわ」
「あ、それはいいっす。その代わり、主任とはもうこんなやり取り、しないんで。そこんとこ、おk?」
「…ええ、分かったわ。ご苦労さま、セイラ。もう退勤時間よね?下がっていいわよ」
「うぃっーす。おつかれっす、主任」

セイラはエルイーネと最低限の応酬を終えると。掃除用具とゴミ袋を持って、その場を後にした。扉の向こうに消えたジャージメイド風の背中を見送った後。エルイーネは、主任権限で閲覧できる、KALASの従業員の雇用情報のサーバーにアクセスした。リストの一番下にいる、『黒城セイラ』の名前をクリックして開くと、彼女の仕事への態度や行動などを評価を出来る、テンプレートファイルが出てくる。
エルイーネはそこに、一番低い評価の判定を押した。そして、その理由を書く欄には「セイラが当ラボの関係者と親密になりすぎている。当ラボの風紀を乱している一因になっていることの自覚が、一切、見受けられない。」と、書き込んだ。でっち上げでもいい。喧嘩に明け暮れる日々を送った不良女子高生のセイラと、社会的地位が確立されている女性管理職のエルイーネ。世間はどちらの言うことを信じるか…。エルイーネは、嗤う。
この評価が更生プログラム側に渡れば、セイラの信頼は地に落ちる。彼女の大学進学への道は絶たれ、此処も追い出されて、路頭に迷う羽目になるだろう。
セイラの生意気な態度が、最初から気に食わなかった。ああ言えばこう言う。言わなくても良い正論を飛ばしてくる、あのひととなりが、エルイーネの癪に障るのだ。

「アンタなんて、ただのアルバイト。所詮は、安金でこき使われるだけの、ただの駒よ」

そう言いながら、エルイーネは評価のテンプレートファイルの『送信』ボタンを、クリックした。―――これで、セイラは終わり…―――


「―――貴様は、此処で終わりだ。エルイーネ」
「―――ッッ??!!」

背後から降って湧いた冷たい声に、エルイーネは飛び上がらんばかりに驚愕する。振り返ると、そこには得物の斧を持ったソラと、片手剣を装備した、LEONE(レオーネ)のロゴを入れた、2体のロボット兵が立っていた。Room ELのメンバーを最初に案内させたのも、この2体のはず。そもそも、レオーネ隊の指揮権は、ルカが持っている。すなわち、レオーネ隊は、ルカの部隊。それなのに、武器を持ったソラが従えている。その図式が指し示す事実とは―――…。

「ど、どうしましたか…?ソラ秘書官…、まるで捕り物にでも行くかのような…?」

慄くエルイーネに対して、ソラは冷静な表情を崩さず、口を開く。

「捕り物だからな。
 テロ行為準備、贈収賄、犯罪教唆、パワーハラスメント、国家反逆罪…、…あー、いちいち挙げていくのが面倒くさい。罪が多い。数えるのも億劫だ。
 エルイーネ。貴様を速やかに拘束し、その身柄を公的機関に明け渡す。ルカに手を出そうとした罪の重さは、本土の豚箱の中で思い知れ」

ソラの言葉に、エルイーネは背筋が凍るような気分だった。しかし、まだ。まだ挽回できるはず、と己を叱咤して、反論した。

「何のお話をしているのか、私にはさっぱりです。ルカ様の整備施設で主任をしている私が、テロ?国家反逆罪?…とても面白い筋書きですわ。さすが、2000年に1度の逸材と言わしめる天才のソラ秘書官…、ミステリー作家の才能も、充分におありのようで――――」

――――ガァンッ!!

エルイーネが紡いでいた言葉は、ソラが床に斧の柄を叩きつけた、鋭い音に阻まれた。音と衝撃に驚き、両肩を跳ね上がらせて黙ったエルイーネに対して。ソラが厳しい目つきを向けながら、再び口を開く。

「無駄な抵抗はするな。くれぐれもするな。これは忠告だ。俺は今、貴様が予想している以上に、頭に血が昇っているのでな。うっかり俺の斧が、その首を跳ね飛ばさないように、自分の中で、大いに葛藤中だ。 
 貴様が、ルカのホルダーの情報を調べ始めた頃から、何の意図があってのことかと、黙って見届けていたが…。此処に来て、バラバラだった点と点が、やっと線で繋がった。
 
 エルイーネ、貴様、ルカのホルダーの枠に、勝手に収まろうとしていたな?
 
 だから、小芝をスパイとして雇い、ホルダーの情報を調べさせて。その枠が埋まっていると分かるや否や、大した裏取りもせずに、ツバサを標的した。セイラを買収し、ツバサのDNAサンプルを手に入れた。そして、用済みになったセイラを不当解雇に陥れようと画策する。…貴様の次の一手は、もう分かっているぞ。
 トルバドール・セキュリティーのサーバーに不法侵入し、ルカの機密情報を持ち出した罪…、それら全てを小芝になすり付けて、自分は被害者ヅラをしようとしている。そう例えば、『肉体関係を求められて、カネを渡すしかなかった』とか、か?どうやら貴様は、適当なでっち上げが随分とお得意な様子だしな。それくらいの筋書きなら、才能は関係なく、誰でも書ける」

ソラの怒涛の追及は、エルイーネから反論の余地を奪っていった。突き付けられた現実に、頭がフリーズして、何が何だか分からない。しかし、眼前のソラは、どこまでも冷徹なままだった。

「覚えておけ。カネだけで繋がった相手のことを、くれぐれも買い被らないことだ。小芝は、ぺらぺらと喋ってくれたぞ?おかげで、貴様がルカに執着していた理由が分かった。
 ルカのホルダーに収まった暁には、その権限を利用して、ルカを自分の思いのままに操ってやろう、と、画策していたと、な。
 この国でも乗っ取るつもりか?それとも星全体をぶっ壊したいのか?――――させるものか…!貴様がテロ行為をしようとすること自体は、最早、どうでもいい…!だが、その手段に、ルカを利用しようとするのは、断じて許さん…!」

ソラの口調には、確かな怒気が混じり始めている。それに付随するかのように、彼の翡翠の瞳は、射抜く相手を氷漬けにするかのように冷たくなっていく。最早、その眼。人間を見るモノではない。
エルイーネは震える唇を開く。

「しょ、証拠は―――」

「―――黙れッッ!!貴様に発言を許した覚えはないッッ!!」

「―――ッ??!!」

つんざくソラの怒号。響く、金属の割れる音。エルイーネの眼前の床に、斧の刃がめり込んでいる。ソラが怒号と共に、斧を床に振り落としたのだ。床に入ったヒビは、エルイーネの足元にまで及んでいる。エルイーネは今度こそ、心から震え上がった。

「―――…さて、俺のお喋りは、此処までだ。…おい、エルイーネを連れて行け」

レオーネ隊のロボット兵がソラの命令を受けて、動き出す。エルイーネは、抵抗しなかった。


*****


拘束されたエルイーネが連れてこられたのは、KALASの地下区画だった。彼女は此処まで大人しく、というより、茫然とした様子で連行されている。しかし、ソラは決して油断も隙も見せず、彼女から注意を逸らさなかった。そして、とある扉の前に立つと、カードキー、パスワード、指紋認証の三段階セキュリティーを見事クリアして、開ける。拘束されたままのエルイーネも、中へ連れて行かれた。
その室内にいたのは。ルカ、ツバサ、ナオト、セイラ。そして―――

「―――よう。エルイーネ、しばらくだな」

―――ローザリンデが、中央の椅子に座って、不敵に笑っていた。彼女の姿を見たエルイーネが、顔を青くする。

「ろ、ローズお嬢様…!?な、なんで…ッ?!あの、ど、どうして…ッ?!」

沈んだ様子でしおらしかったエルイーネが、打って変わって、心底怯えた表情をローザリンデに向けた。対して、ローザリンデは、ははは、と口を開けて、エルイーネに笑いかける。

「おれのことはもう、お嬢様なんて呼ばないでくれよ。こっぱずかしいったら、ありゃしねえ。
 せめて、ローザリンデ様と呼べ。エルイーネ?」
「は、はいっ…!ローズお…、ローザリンデ様…ッ!」

レオーネ隊に拘束されたままのエルイーネが、ローザリンデに首を垂れた。その様子を見たルカは、黒革の指先を曲げ、ちょいちょい、と何かを招くかのような仕草を見せる。直後、静かな靴音が響くのを聞いたエルイーネは、その方向を見やった。部屋の奥から現れたのは、―――彼女と同じように、レオーネ隊に拘束された、小芝だった。
先ほど、ソラの口から「小芝が喋った」という旨を聞いたことを思い出したエルイーネは、苦々しい表情で、彼を睨む。

「彼に関しては、勘違いしないであげてね?エルイーネ」

そう言いながら。突然、エルイーネの視界に、ルカが割って入って来た。全長195cmのルカは、文字通り、覗き込むような姿勢で、彼女を眺める。髪をばっさりと切り落としたが故に、いつもよりよく見える、ルカの両耳の赤い石のピアスが、ゆらゆらと揺らいでいた。

「小芝くんの自白は、あの子がアリスちゃんに変なことをしようとしたのを、オレが止めたから。つまり、そこから芋づる式で、キミの悪事の供述に至ったのであって…。
 あの子自身が、自らエルイーネを陥れようとしたワケじゃないよ?オレがあの子に、ちょっと怖い思いをさせちゃっただけ」

ルカの言葉にエルイーネは、愕然とした。
つまり、小芝は。ツバサのDNAサンプルを採取しようとして、しくじったうえに。ルカにそれを咎められたことで怯えきって、結果、エルイーネの計画を自白する羽目になった、ということ。あくまで、エルイーネ視点で言うならば、だが。
しかし、ギリギリ…と見当違いな怒りに火が点き始めるエルイーネの心中など知らぬとばかりに、ルカはいつものように笑いながら、口を開く。

「オレのホルダーについてはね、しっかりと裏が取れたんだ。まあ、ある意味、キミが悪事を働いてるって分かったおかげで、急ピッチでも、ちゃんと情報が集められたよ。
 …ねえ、知りたい?キミが国家転覆を謀るほどまでに欲しがった、オレのホルダーの椅子に、今、何処の誰が座っているのか…」

ルカの問いかけに、エルイーネは過剰に反応した。黙っていたはずの口が、途端に、慌ただしく動き始める。

「! も、勿論です…!誰ですか?!何処の誰なの?!
 国家機関の関係者?!それとも海外にいる特級の要人?!もしかして、何処かの国の王族とか―――」

―――パチンッ!!

「ッッ!??!」

エルイーネの言葉は、彼女の額に襲った刹那的、且つ、強烈な痛みで、遮られた。ジンジンと痛みが響く額をそのままにエルイーネが見たのは、左手をひらひらと振るルカの笑顔。ルカが、エルイーネの額めがけて、デコピンをしたのだ。

「……、…」

またもや、茫然と黙りこくることになったエルイーネは。自分を見下ろして笑う、ルカのことを眺めることしかできない。ルカは続ける。

「オレは、不必要に回りくどいことは嫌いだよ。結論から言うね。
 
 オレのホルダーに登録されていたDNA情報の持ち主は、―――アリスちゃんだ。…すなわち、このツバサ事務員こそ、この星唯一、『LUKA』に絶対的命令を下せる、たったひとりの女の子だよ」

雷の如き、衝撃。信じたくない真実。穿たれた最期の希望。エルイーネは、絶望の表情で、ツバサを見やった。視線の先に立ってるツバサは、複雑そうな顔こそしているものの。概ね、この現実を受け止めているように見える。

…何故?
エルイーネは、不審に思う。

人類史上最強の軍事兵器の、絶対的な命令権を保持している事実を目の当たりにして。あの女は、どうして、あんなにも平然としているのだろう。
途端に、エルイーネの胸中にどす黒い波が押し寄せる。それは彼女の唇から、言葉となって、零れ落ちる。

「…自分は選ばれた人間だ、って…、これは当然の権利だ、って……、そう言いたいの…?」

エルイーネは低い声で、唸るように、言葉を紡ぐ。黒縁眼鏡の嵌った奥の瞳は、憎悪を煮詰めた色を乗せて、ツバサを憎々し気に射抜いた。

「自分さえ良ければ、他人なんて、…私なんて、どうでもいいんでしょ…?!
 あんたも、そうやって…、遥か上から、私のことを「馬鹿な奴だ」と、心の中で見下してるんでしょッ?!」

全員が口を閉ざす中。エルイーネの黒い感情だけが、渦巻いていく。

「ほんっとうに!良いご身分だこと!!何の苦労もせずに!汗粒ひとつ流さずに!いとも簡単にルカ様のホルダーを手に入れていて!!オマケに直接、ルカ様に召し上げられて!!ぬくぬくと温室の中で囲われて!!ずるい!ずるい!!ずるいずるいずるいずるいずるいッ!!
 私だってこんなに頑張ってきたのに!!あんなに苦労してきたのに!!3年も掛けて温めてきた渾身の計画だったのに!!それをあんたみたいな、なーーーんにも知らない小娘に覆されるなんてッッ!!!なんでよッ??!!どうして私は報われないのッッ??!!」

エルイーネの叫びが、ラボ内に木霊した。しかし、彼女の心痛に共感できる者は、この場に居合わせていない。代わりに、答えを出せるモノがいる。
静観を決め込んでいると思っていたナオトが、彼女の前まで歩いてきて、口を開いた。

「前科持ちの僕がするのも、おかしな問いですが…。
 エルイーネさんが犯した罪は絶対に消えませんし、罪は重ねると、罰が重くなります。
 …そもそも、貴女に罰が下る前に、貴女が犯した罪によって踏みにじられた、あるいは、これから虐げられる可能性のある他人へ、…果たして、思いを馳せたことがありますか?」

ナオトの問いかけに、エルイーネは「はぁ?」と、心底、嫌悪した表情で返した。そして彼女は、今度はナオトに向かって、己の感情を吐く。

「他人へ思いを馳せる?どうしてそんなこと、私がしてやらないとダメなの?
 他人は、世界は、私を見捨てて、踏みにじって、搾取して、…そうして私を病院に追いやって、世間から無かった存在にしようとしたくせに?私が「助けて」って言っても、助けてくれなかったくせに?
 私にそんな酷い仕打ちをしてきた奴らがいる世界に、どうして私が今更、優しくしてやらないといけないわけ?意味わかんないわ」
「…自分が過去に嫌な思いをしたからと、見ず知らずの他人にも、それを強制する、と?」
「世の中ってのはねえ、きちんと順番が来るように回らないといけないのよ?あんたも医者なら、少しは賢いから分かるでしょ?
 ジュースを飲み干したペットボトルだって、きちんと捨てればリサイクルされる世の中なのよ?使い捨てのゴミすら、人間社会のため循環するんだから、きっちり生きてる人間にも、『する側』と『される側』が交互に回ってくるのは、当たり前でしょ?!それも無しに、何が『人類みな平等』よ?!ふざけんな!!」
「自分が嫌な思いをしたから、これ以上の犠牲は出さない。すなわち、悪の循環を、エルイーネさんご自身で終わりにする、という役割を担う気持ちは、ありませんか?」
「ハッ!!ふざけないでよ!!そんなの泣き寝入りと同じじゃない!!
 所詮、弱者が強者を見返すには、チカラをつけて、捻じ伏せるしかないの!!あんたが言う独り善がりの絵空事なんて、飯の種にもならないわ!!
 現役の医者だって言っても、やっぱりあんただって、ただの温室育ちのお坊ちゃまなのね?!だってカネと家柄さえあれば、医師免許ぐらい、簡単に取れるんだから!!」

ナオトの心を込めた言葉は、エルイーネに届かない。むしろ彼女は益々ヒートアップして、叫び散らかす。

「そうよ!!チカラこそ!!カネこそ!!権力こそ!!世の中の全てなの!!そのために、私はルカ様のホルダーになって、この腐った世界を丸ごと生まれ変わらせてやろうって思ってたのよ!!なのに寄ってたかって邪魔しやがって!!!!たかが、その辺のモブキャラのくせに!!!!私こそが主役のヒーローに相応しいのに!!!!」

ヒステリックになったエルイーネは、そこで胸の内の全部をさらけ出した。はーっ!はーっ!と荒い呼吸を繰り返す。彼女はレオーネ隊に拘束されたままだが、放っておくと、今にも眼前のナオトに牙でも立ててしまいそう。さながら、飢えた猛獣。自分が主役でありたいが為に、利己的な怪物と成り果てた、救われない檻の中のモノ。

ナオトが無感情になり失せたオッドアイを、エルイーネに向けた後。彼女から背を向けた。

「…。申し訳ございません。最善の手を尽くしたい所存ではありますが、…此処まで診るに、彼女は僕の手には負えません。
 より正確な本音を申し上げますと、…もうこれ以上、個々で対話を重ねることに、限界を感じます」

Room ELのメンバーにそう告げるナオトの声は、エルイーネに酷く冷たい印象を持たせた。
ヒートアップして、暴走熱を帯びていたエルイーネの脳髄が、急速に冷えて行く。…今、自分は何を叫んだ…?一体全体、言わなくていいことばかりを、吐き散らかして。そうして、背を向けたナオトから視線を逸らすと。遥か高みから己を見下ろす、深い闇を湛えた青色の瞳が―――……。

「……ち、ちがうんです、ルカ様…。あの、私、あのっ、その、」

心神喪失になりそうなのを堪えて、自分の逃げ道を探るエルイーネを。人類史上最強の軍事兵器たる彼は、沈黙だけで眺めている。その瞳には、関数計算でも弾いているかのような。機械らしい、無機質な光しか伺えない。
エルイーネは恐怖の極みの中で、必死に逃げの策を練る。

ツラかったら逃げていい。逃げるべき。逃げてもいい。―――自分は、逃げることが出来るはず―――…

「―――キミ、逃げられないからね?」

「……え……」

降って来たルカの声は。とにかく平坦なものだった。

「自分の立場を利用して、オレを悪事に利用しようとした時点で、キミに逃げる選択肢は無くなってるハズ。
 分かる?さっき、ナオトからも言われたでしょ?キミが犯した罪は消えないよ?オレの攻撃範囲に、ヒルカリオを揺るがす罪がある限り、オレから逃げられるワケがない。
 おかしいなぁ。KALASの主任をやってるキミなら、それくらいの予想は出来たんじゃないの?
 出来なかった?お勉強、足りなかったの?」

常日頃から合理性を優先するが、普段は明朗闊達なルカとは思えぬほど、冷ややかな声色。

「公平が欲しいと謳う割には、頭脳が足りていないし。
 理不尽を嘆くにしては、それを自力で突っぱねる気概も持ち合わせてないし。
 そもそも、自分のことばかり主張して、他人の事情を一ミリを考えられないほど、浅慮だったんだねえ、キミってさ。
 キミを拾い上げたオレの中のビッグデータは大事だケド…、オレ自身の観察眼も、もうちょっと磨くべきだったかなあ」

ルカはそう言いながら、長い指先で、自分のピアスをくるくると突き、弄ぶ。まるで、暇だからボールペンを回して遊んでいるかのような、そんな手付き。

エルイーネは、なけなしの虚勢を張り、それでも縋ろうとする。まだ逃げたい。まだ逃げる道が拓けるなら、と。

「ルカ様は…、ホルダーが勝手に登録されていたこと…お怒りではないのですか…?
 だ、だって…!ルカ様の与り知らずな所で…ッ、あんな平凡で、何処の馬の骨とも分からぬ女が…ッ、勝手に、重要なポストについていて―――」


「―――え?オレは知ってたケド?何の話?」


「――――――……、……」


平坦に響く、ルカの声。
それを聞いて。全てが、真っ白。塵と化す、エルイーネの思考回路。

「オレがホルダーについて何も知らないと、勝手に決めつけてたの?キミたちに報告しないからって?
 するワケないよ。何よりも大事なホルダーの情報を、オレの口から勝手に喋るコトなんて、絶対にあり得ないんだよ」

世界から、色が消えて行く。視界に入る全部が、白黒になっていく。
エルイーネに告げているはずのルカの声は、リノリウムに反響して吸い込まれる無惨な音にしかならない。

がくんッ!、と、唐突に、エルイーネの全身から、チカラが抜けた。膝からくずおれたエルイーネは、レオーネ隊に支えられるが。もう全く意味を成さない。止まった思考回路と、抜け落ちた己の情緒の全部。生気の一切を失った視線を虚空に投げ出したエルイーネは、もう何ひとつ、言葉を発しなくなった。

そんなエルイーネを姿を見たルカは。もう用は済んだとばかりに、彼女に背を向けて。真っ先にツバサの隣まで戻って行く。

「ごめんね、アリスちゃん。急に色々と知らされて、ちょっと混乱しちゃったかもしれないケド。
 でも大丈夫だよ。キミのことは、何があっても、オレが護ってあげるからね~」

そう言って。心の底から愛おし気に、ルカはツバサのことを見つめるのだった。



to be continued...
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