第三章 『Perfect BLACK SWAN』

昼休憩。
昼ご飯を終えて、控え室で過ごしていたツバサのスマートフォンが、メッセージを受信した。ナオトからだ。曰く『とても退屈なので、よろしければ、一緒に中庭で日向ぼっこをしませんか。』とのこと。確かに、これからの予定もどうなっているのかが、あまり分かっていないので。控え室でヤドカリ同然になっているくらいならば、少しくらい外の空気を吸いたい。ツバサはそう考えて、すぐに了承の返事を打ったのだった。


【中庭】

ツバサとナオトが辿って来た案内板には『中庭』と称されているが。そこは、強化ガラス製の屋根が張り巡らされた、所謂、ドーム状の敷地内だった。KALASは、何処までも外界と直接的な接触が断たれている施設である、ということが伺える。

「お誘いした手前、この質問も微妙ですが…。ツバサさん、何かお持ちになりましたか。僕には未読の論文集がありますが…」
「私用のタブレットに、積んでいる漫画がありますので…。私は、それを読もうかと…」
「なるほど、それは良いですね」

穏やかな会話を展開しながら、ツバサとナオトは手近な場所に座った。目の前には手入れの行き届いた芝生が広がっている。ふたりから少し離れた場所では、休憩中のスタッフ同士がサッカーボールを蹴り合っているのが見えた。

手元のタブレット端末は起動したが、そこは見ずに。何処かぼんやりとした表情で、芝の上を駆け回るスタッフたちを眺めているツバサは。唐突に、横のナオトに話しかける。

「……、あの、ナオト先生」
「はい、どうかしましたか」

ナオトが穏やかな声と表情で、ツバサの方を向く。そこにはいつも通りの彼がいた。ツバサは、ナオトのオッドアイと視線を合わせてから、口を開く。

「ルカのことは、丁寧に説明されたので、把握も、理解も、納得もしているのですが…。……、ソラさんって、どうなんでしょう…?」
「…、ご自身が明かしたくないのなら、そっとしておくのが一番。……と、言葉では簡単に言えますね。
 ですが、実際、僕もツバサさんと同じことを、あの後から、漠然と考えてはいました」

ツバサの曖昧とした内容の質問にも、ナオトはその意味を的確に汲み取って、真摯に答える。
ふたりが疑問に思っているのは、ソラのこと。ルカのことは、説明がなされ、それに対して、ふたりは納得した。ヒルカリオを出て行かないし、ルカたちの傍も離れない、と約束した。それはいい。

だが、ソラの事情は、一体、どうなっているのだろう?

破壊のチカラを極める軍事兵器・ルカの隣で、彼の専属秘書官として付き従うソラの、ここまでに至る経緯は?過去は?ルカに対して、彼はどんな感情を向けている?
ツバサがRoom ELに引き抜かれた際には、既にソラは秘書官として完成されきっていた。あれだけの能力値を持っているならば、それも当たり前。…と、片付けるには、そろそろ苦しい。

時の政府が、ヒルカリオ建造の一大プロジェクトを立ち上げてでも、世間から秘匿したがる、ルカという軍事兵器。
その軍事兵器に、専属秘書官として付き、高すぎる能力で彼を支えては、確実な成果を挙げてくる、ソラという男。

図式としては、悪くない。むしろ、大正解。秘匿されるべき存在のルカの傍で立ち回るには、ソラのような優秀な人材が必要不可欠である。

――――しかし、そのソラ自身は、一体、何処からやってきて、どのような理由のもと、ルカの秘書官という立場に収まっているのだろうか?

ツバサとナオトは、てっきりその辺りもセットで説明されると、揃って予想していた。が、実際はルカの分だけで終わり、その後も追究する隙間も無かった。あの場で、ソラに関する質問を飛ばすチャンスが与えられなかったということは、今後も同じような時間が発生するとは思えない。

茫々とふたりして考え込んでいると。不意に前方から、「あッ!!」、「やばいッ!」という叫び声が聞こえた。ツバサが視線を向けると、そこには――――こちらに迫ってくる、サッカーボールの影。

ツバサの身体が、考えるよりも先に動いた。

ナオトの眼前に迫ろうとしていたサッカーボールを、ツバサがアッパーでパンチングする。彼女の拳に弾かれたボールは、上空へ向かって、高く飛んで行って。やがて、重力に従って失速した後、落ちてきた。ボールは落下点に入ったツバサは、トラップでそれを受け止め、3回ほどリフティングしてから、手の中にボールを収める。手慣れた所作。

呆然としながらもナオトは、そう言えば、彼女はかつてサッカー部だったとかいう話を、ラボ内でソラとしていたような…、と思い出した。

「マジごめんなさいっ!怪我なさそ?!アタシ、シュートの力加減、間違えちゃって!」

サッカーをしていたスタッフたちの先陣を切りながら、そう詫びてきたのは。――――セイラだった。
エプロンもヘッドドレスも外しているが、あのジャージメイド風のワンピースのまま、ボトムスを履いている。そのボトムスのデザインと色味は、ツバサの記憶違いでなければ、神越高校のスクールジャージだ。

神越高校のジャージを所持している。距離があったにも関わらず、元サッカー部のツバサがパンチングしなければ弾けないほどの、威力のあるシュートを打てる。加えて彼女は、ソラのことを「先輩」と呼んでいた。

「いや、フツーにすごいね、ねえさま」
「ね、ねえさま?」

ひとつの答えに行き着こうとしていたツバサの思考は、セイラの言葉でぶった切られる。今、セイラから「姉さま」と呼ばれた気がした。
思わずオウム返しにしたツバサを見ながら、セイラが続ける。

「アタシ、こう見えても、神越高のサッカー部なんだけどさ。
 仮にも現役高校生プレーヤーのシュート弾くって、ねえさま、何者?」

セイラが問うてくる。周囲のスタッフたちも、確かに、気になる、と頷きながら、ツバサの回答を待っていた。
これは正直に答えておかなければ、不誠実に当たるだろう。特に隠していることでもないし…、と思い直して、ツバサは質問の答えを出した。

「私も、聖クロス学園のサッカー部で、ゴールキーパーだったから…」
「聖クロス?マ?防衛戦無敵のとこじゃん!ねえさまスゲー!」

セイラが素直に驚いている。確かに、聖クロス学園サッカー部は防衛線に強い、というより、ホームでは常勝無敗だ。ツバサが現役だった頃からそうであり、また受け継がれていた『強さの伝統』である。現役高校生のセイラが言及することを鑑みるに、今もなお、聖クロス学園の伝統は、引き継がれていることが伺える。ちなみに逆、つまり、ビジターでの聖クロス学園サッカー部の成績は、強豪校と言えるレベルのもの、である。白星は多いが、黒星も僅かに散見される。

そのとき。チャイムが鳴った。昼休憩の終わりを告げるものだろう。
ツバサからサッカーボールを受け取ったセイラは、「またねー、ねえさまー」と、無気力にも軽く手を振りながら、施設の中へと戻っていくスタッフの輪の中へと混じって、行った。
必然的に、自分たちも控え室に戻ることになったツバサとナオトも、別の出口から、中庭を後にしたのだった。


*****


休憩から帰ったばかりのセイラは、エルイーネから急ぎ応接室へ、ふたり分のコーヒーを持ってくるように指示された。すっかり慣れた手付きで給湯室にあるコーヒーメーカーをいじり、コーヒーを2杯淹れて、茶菓子に栗の一口饅頭と、紅葉の落雁を付ける。
セイラは『KALASの雑用係』という名目で、アルバイトとして雇われている身だ。此処で働き始めてから、もう1年は経つ。ただし、雇用主は上司のエルイーネではなく、ソラとなっている。現場での指示はエルイーネから仰ぐしかないが、実際の給与明細上で、彼女に給料を渡しているのは『ROG. COMPANY 特殊対応室 ソラ』となっているのだ。

「一口饅頭、もう期限、切れそー…。落雁は…、ん、大丈夫ー。あ。るかっちと、ねえさまと、先生に出そーっと。ソラ先輩は…、なんとか気合いで食べてくんないかなー…」

栗の一口饅頭のパッケージに書いてある賞味期限を見ながら、セイラは給湯室で独り言を零す。そして、もう一度、コーヒーメーカーをいじり始めた。今度は4杯分のコーヒーが出るようにセットする。ルカが飲むかは分からないが、もし手を付けなかった状態で余ったら廃棄になるか、最悪、その辺の適当なスタッフに差し出して、飲んで貰ってもいいし…、と考える。

間も無く。ふたり分のコーヒーと茶菓子を乗せた盆を持って、セイラは給湯室を後にした。


*****


【第一区画・応接室】

コンッコンッ、と控えめとは言い難い、少し荒めのノックが響いたのを聞いて。エルイーネは入室の許可を出した。「失礼しますー」と気だるげな声で挨拶をしながら入ってきたセイラを、内心、渋い感情で見やりながら。指示通り、コーヒーを持って来た彼女に対して、礼を述べておく。大切な来客の前だ。恥をかく訳にはいかない。

「じゃ、ごゆっくりどーぞ」

配膳を終えると、そう言い残して、セイラはさっさと退出する。常に無気力な態度と、怪しすぎる言葉遣いがキズだが。余計なことを言わないし、詮索もしてこないのは、セイラの褒められた点だ、とエルイーネは思っている。
まあ、そんなことはどうでもいいと考え直し、エルイーネが来客にコーヒーをすすめると。対面に座っている来客の男は、いただきます、と言いながら。ブラックで飲み始めた。

エルイーネも一口、カップからコーヒーを飲んでから。「さて…」と、口火を切った。それを受けて、男は横に置いていた自分の鞄から、タブレット端末を取り出す。

「エルイーネさん、ご依頼の調査は終わりました。…が、結果は、正直…」

男―――小芝は、そう言うと、眉尻を下げた。その反応を見たエルイーネの表情が、厳しくなる。

「…やはり、トルバドール・セキュリティー内部の小芝さんでも難しかった、ということですか?」

エルイーネが問うと、小芝は「あ、そういうことではなく…」と返しながら。タブレット端末の画面を、彼女へ見せた。

「ルカ三級高等幹部の『ホルダー』の有無と、それの新規登録が出来るか否か、が、今回の調査の内容でした。…結果は、この通り。

 ――――…ルカ三級高等幹部の『ホルダー』は、今から15年前に既に決まっており、そこに新規登録は出来ない。そして、既に登録されているホルダーの人間の情報は、登録されている名前しか見当たらなかった、…というのが、調査結果となります」

小芝の言葉には謎の意味が多大に含まれている。が、エルイーネには全て通じているようで。彼女はみるみるうちに顔色を真っ青にさせた。

「そ、そんな…!嘘よ…ッ、ルカ様のホルダーが…?!何処の馬の骨とも分からぬ輩になっているというの…ッ?!
 こ、小芝さん…!名前は?!その身の程知らずの輩の名前を教えて…ッ!
 徹底的に調べてやるわ…ッ!絶対に突き止めて、すぐにでもルカ様のホルダーから外してやる…ッ!」

エルイーネは今度は怒りに震えながら、小芝に詰め寄る。小芝は彼女の剣幕に押されながらも、タブレット端末を操作して、『ルカのホルダー』とやらの情報を、彼女へ見せた。
そこに表示されていたのは…――――。

「――――『ALICE』…?」

表示された名前を、エルイーネが呟く。『ALICE』ということは、アリスという名前の人間が、ホルダーとやらになっているということ。

エルイーネは小首を傾げたが。数秒後、ハッとしたかのように、思い至る。

「もしかして、…あの女なんじゃ…ッ?!」

エルイーネが行き着いた『ALICE』なる女性――――それは、ツバサのことだった。
小芝が興味深げな様子を見せて、前のめりになる。

「へえ、何処の誰のことなんです?ルカ三級高等幹部のホルダーになれる女って」

小芝の問いに対して、エルイーネが答えた。

「ルカ様の部下で、…最近、特殊対応室の事務員に成り上がった、ツバサという女のことです。少し調べてみたら、元々はパッとしない、ただの一般事務のOLだったとか…。
 それなのに、突然、ルカ様が特殊対応室に召し上げたらしくて…。何故か、ルカ様は彼女の事を「アリスちゃん」と呼んでいるのです。そのうえ、あの女…、この私の目の前で、ルカ様にベタベタと引っ付いて…、ああッ!なんて不躾で、不謹慎で、無作法な女だことッ!」

エルイーネがひとりでに発狂しかけるが、一方で小芝は、ん?、と彼女の台詞の中にあった単語に反応した。

「一般事務のツバサ…?
 エルイーネさん。もしかして、その女って…、目が緑色で、髪はライトブラウンで、やたら胸のデカイ子じゃないです?」
「ええ、確かに。小芝さん、彼女を知っているのですか?」

小芝の言葉に、エルイーネが反応する。今度は、小芝が答える番だ。

「そいつ、所謂、俺の元カノってヤツです。
 料理は出来るけど、部屋は散らかってるし、ドが付くほどのマイナーキャラのガチオタ拗らせて気持ち悪いし、それに大人しすぎてアクションが無いし、こっちがアドバイスしても聞いちゃいないしで…。まあ、とにかく、あんましデキた女じゃないですよ?余りにもつまらないから、俺から振ってやったくらいですからねえー」

そう。この小芝という男。
ツバサがRoom ELに配属される前夜に、彼女をこっぴどくこき下ろしたうえに、一方的に別れを告げて去って行った、ツバサの元恋人である。

小芝望(こしば のぞむ)。26歳。独身。トルバドール・セキュリティーの営業部門に所属している、サラリーマンだ。仕事はデキると評判で、容姿もそこそこ整っていることから異性関係に苦労したことも殆どない、と自負している。
ちなみに、小芝がツバサと恋仲になったのは、数合わせの合コンで出会った彼女を、小芝から口説き落としたのがキッカケだ。しかし、小芝がツバサを口説いたのは、彼女に恋をしたからではない。合コンに参加していた男同士の裏側で、こっそりと行われていた『賭け』に、小芝が負けたからである。賭けの内容は、「今日の酒を飲んだ量が、一番少なかった奴が負け」というもの。小芝はかなりの下戸だ。これで結果は分かるだろう。
要するに、賭けに負けた罰ゲームの一環、とも取れる、何とも酷い理由で、小芝はツバサに告白したのだ。そして、ふたりが別れた理由は、先述の通り。

そこまでの経緯を、小芝の都合の良い摘まみ具合で聞いたエルイーネは、何かを思いついたような顔をした。

「小芝さん、追加で、別件をご依頼をしますわ。報酬は、勿論」
「まあ、エルイーネさんの頼みは断りませんけれど…。ちなみに、どれほど?」
「いま確定している報酬に、もう20は上乗せします。より良い仕事をしてくれば、追加ボーナスも与えますわ」
「~♪ ハハッ!さすが天下のエルイーネ主任!ひとの使い方が分かっていらっしゃる~!
 …それで、お仕事の内容は?」

小芝がタブレット端末を仕舞いながら、エルイーネを見やる。ふたりの表情は、もう悪巧みをする悪人そのものだ。

「ルカ様のホルダーになっている『ALICE』が、ツバサさんなのか否かの事実確認のため、…何より、今後の『計画』の進行のため、彼女のDNA情報のサンプルが必要です。
 髪の毛一本、唾液などの体液が付着したもの、皮膚片など…。どうか、早急に入手してきてくださる?
 ちょうど彼女は、ソラ秘書官と、妙な気配のする医者と一緒に、このラボに滞在しているから、…チャンスは今しかないわ」
「…、そういうことなら、20を25にまで、上げてくれません?エルイーネさん?」
「…、いいでしょう。では、30、出しますわ」
「よし、了解です。何としても、彼女のDNAサンプルになりそうなものを、今日中に入手してきますよ。
 だから、エルイーネさん。諸々の約束、どうか忘れないでくださいよ?」
「ええ、分かっていますとも。
 『計画』が成功した暁には、真っ先に小芝さんを、新生の組織のサブリーダーとして、招致しますわ。
 給料も、その他待遇も、先に契約した通りに致しますから、どうぞご安心を」

エルイーネの言葉に、小芝はフッと笑って。そして、「じゃあ、時は金なり、ということで」と言い残すと。鞄を持って、応接室を出て行った。

残されたエルイーネは、少し冷めたコーヒーに、再び口を付けてから。茶菓子の一口饅頭を頬張る。上品な甘味の栗餡が、実に美味だ。苦いコーヒーとも、とても相性がよろしい。これを買ってきたのは、誰だろうか。中々にセンスが良い。あとでセイラにでも聞いてみるとしよう。分からなければ、彼女に経費の伝票を持って来させればいい。そこに買い出しを担当した人物の名前が書いてあるはず。
…デキる女性管理職の像をキープするには、たまには、部下のちっぽけな行動ひとつでも拾い上げてやってから、手ずから褒めてやらねば。

小芝に報酬を上乗せするのも、彼の仕事を褒めて伸ばして。その成果を自分が吸い上げるため。全ては、自分の『計画』のため。

「ルカ様のことは…、誰にも…渡さない…。渡すものですか…!」

『ルカ』の整備担当施設であるKALASの主任まで、昇り詰めた意味。『ルカ』という軍事兵器に、直接、携われる立場を得た、その意義。

「ルカ様は私のもの…!そうよ、私だけのものなのだから…!
 あんな冴えない女にだって…、ソラ秘書官にだって…、ましてや小芝なんて小物にすらだって…!渡さない…!渡さないわ…ッ!!」

エルイーネは、ひとりでブツブツと呟く。その表情は、愉悦に恍惚としているようで、しかし、何処か自分以外の周囲の全てを憎悪しているかのような。相反する感情が、ぐちゃぐちゃに入り混じっている。

だが、エルイーネは考える。謀略を巡らせる。

ツバサのDNAサンプルの入手は、小芝に任せたはいいものの。あの男だけでは、戦力的に物足りない。ルカがKALASに滞在するのも、今日一日で終わる。そして、その部下である彼女もだ。何としても、今日中にサンプルが欲しい。保険はいくら掛けても構わない。

そう思ったエルイーネは、白衣のポケットからスマートフォンを取り出すと。電子マネーのアプリを立ち上げる。クレジットカード決済で、残高を10万ほどチャージした。
そして、そのままメッセージアプリを起動して、呼び出しを報せるメッセージを打ち込んでから、送信。既読はすぐに付き、「了解」の文字が可愛らしい、狐モチーフのスタンプが返送されてくる。

―――数分後。

コンッコンッ、と独特なリズムのノックが響く。エルイーネが入室の許可を出すと、扉から入って来たのは、セイラだった。エルイーネがメッセージで呼び出したのは、彼女だったのだ。

「主任、急な用事ってなんです?アタシ、今、掃除の途中で―――」
「―――大丈夫よ、セイラ。指示はすぐに終わるし、別に難しい仕事でもないわ。
 まあ、まずは、これを受け取ってちょうだい」

セイラの言葉を遮ったエルイーネは、電子マネーアプリを操作すると。先ほどチャージした10万を、同じアプリのセイラのIDへ送金した。ちょっと前に、ほんの気まぐれで、彼女へコーヒー代を奢った履歴から、遡ったのだ。

電子マネーの送金通知を受けたセイラは、己のスマートフォンを見て。珍しくギョッとしたものの、すぐにいつもの無気力な表情に戻った後、口を開いた。

「……アタシに、何させるつもり?」

送金の受理はされていないものの、とりあえず既成事実を作ったエルイーネは、セイラに向かって、指示を出す。

「誰にも知られないように、ツバサさんのDNAのサンプルが必要になったのよ。
 コーヒーでも出して、カップについた唾液でも良いの。貴女なら簡単よね?だって、雑用係として、お客様にコーヒーを出すのは、自然なことだし。
 あとは、…今、掃除しているんだって?ツバサさんの控え室のゴミ箱の中に、彼女が使ったちり紙や、手拭き用のウェットティッシュなんかが捨ててあるんじゃないかしら?
 ……分かるわね?セイラ?
 貴女は今さっき、私から10万を受け取ったのよ?この事実は、消えないわよ?
 ただでさえ、貴女は世間から『不良少女』のレッテルを貼られて、露頭に迷っていたところを、KALASに拾われたのだから。
 此処のリーダーである私が、解雇と通知すれば、終わりよ?せっかく、大学進学のために積み上げた学校の内申点も、周囲からの信頼も、あっという間にパーになるけれど?」

エルイーネが言葉を並べている間、セイラは無感情な瞳を彼女へ向けていた。…が、暫くして、はあ…、と大きな溜め息を吐いてから。

「……どうなっても、アタシ、知らないっすからねー…」

と、言ってから。手元のスマートフォンの画面を数回、タップした。同時に、エルイーネのスマートフォンが通知を受け取る。電子マネーアプリの送金が受理された、というもの。――――…契約成立だ。エルイーネは、ニタリ、と嗤った。

「それじゃあ、よろしくね。セイラ」

エルイーネはそう言うと、セイラを下がらせようとする。が。

「コーヒー、片付けておきますよ。ついでだし。
 後、この部屋の掃除も、ちゃちゃっとやっときますんで」

セイラが応接室の片付けを申し出てきた。その辺のスタッフにやらせようとしていたエルイーネは、有難く、その申し出に乗っかることにする。元より、セイラは雑用係。その仕事を与えてやったことを、むしろ感謝されてもいいくらいだ。エルイーネはそう考えながら、「後は、よろしく」と言い残して、応接室を出て行った。

コーヒーカップを片付け始めたセイラは、はぁー…、と大きな溜め息を、再度、吐いて。蛍光灯が光る天井を、文字通り、見上げるのだった。



to be continued...
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