第二章 Burn down The FAIRY TALE
【翌日 Room EL】
ツバサが出勤すると。いつも通り、ルカとソラは既に室内にいた。挨拶をしようとしたが、何やらふたりしてタブレット端末を覗き込み、密やかな声で話し合っている。ツバサに気が付いていないはずはない上司ふたりなので、きっと今はツバサから声を掛けるのは避けた方が良いだろう。そう判断した彼女は、なるべく音を立てずに、来ていた上着をロッカーに仕舞い込み、入れ替わりにロッカー内に収納しているキャンパスバッグに、仕事に必要な最低限のものと貴重品を入れて、最後にお弁当箱の入ったランチトートを持ち、自分のデスクへと向かった。
キャンパスバッグは新調したもので、推しであるヴァイオレットの色、そして持ち手部分には、自分で手作りしたヴァイオレットの概念を閉じ込めたリボンチャームを付けている。このバッグ自体はディアンナというハイブランドの商品だが、推しの色味であることから、半年ほど通販サイトとにらめっこをした末、思い切って購入したのだ。来月の給料日まで、頑張って働かなくては…、節約しなきゃ…、とツバサは改めて決意する。
給湯室でホットドリンクを作り、デスクまでサーモマグを持ち帰ったときだった。ふと気配を感じた気がした。振り向けば、ルカが立っている。ツバサと視線があった彼は、お?、と小さく零した後、にこり、と笑って。
「背後を取ったオレに気が付くなんて、アリスちゃんってば、中々良い勘をしてるね~」
何に対して褒められているのかはツバサには理解不能だったが、ルカの視点が他人のそれとズレ気味なのは、既に承知している。むしろ、理不尽に怒られるよりは何千倍もマシですらあった。ルカが口を開く。
「はい、どうぞ~。いつもありがとうございます♪」
ルカがそう言いながら、黒革の手袋が嵌った両手で持って差し出してきたもの。――――ROG. COMPANYの社章ロゴが印字されているそれは、給与明細だった。
一般事務時代は、各エリアのリーダーが掲示板にマスキングテープで給与明細を貼りつけて、事務員の各々が、自分たちのタイミングで己の給与明細を取っていく。…そんなスタイルだった。…ちなみに、一般事務にいた頃のツバサは、元上司の佐々名木から、この仕事を何の理由もなく押し付けられていた。それ自体、当時は特に何とも思っていなかったが、……いま目の前にいるルカの在り方が、上司として、一番、正解なんだと思い至った。そして一般事務は、やはり魔の巣窟であったことも、再認識する。
そんなことを考えながら、ありがとうございます、と会釈しながら、ツバサはルカから給与明細を受け取った。
一方、給与明細を渡し終えたルカは、その青い眼をすぐさまツバサの新しいキャンパスバッグに向けて、「おわ~かわいい~~」と興味深そうな声を挙げる。
「それは、新調したもので…。ちょっと高かったけれど…」
「オレ、これネットで見た!ディアンナのキャンパスバッグだよね?
わ~、写真で見るより綺麗な紫色だし、布地のテクスチャも高級感がある~。フリルは大振りだけど、波打ち方に上品さがあって、良いね~」
ツバサの控えめな紹介に相反して、ルカはバッグに対する的確なコメントを残した。
先述、そしてルカの言った、ディアンナとは。20代以上の女性をターゲット層にしている、ラグジュアリーブランドの筆頭格だ。ただし、ディアンナはハイブランドとしてお高く留まっている訳でも、ましてや人気に胡坐を掻いている訳でもなく。常にブランドの新しい可能性を見つけ出せるような、商品展開が魅力的な会社なのだ。ツバサの購入したキャンパスバッグは、ディアンナの商品の中では、約3万円と比較的リーズナブルな価格帯のものになる。それでも、大手玩具会社勤務の事務員の彼女でさえも、意を決して購入せねばならぬような、得も言われぬ圧倒的な品格と存在感は、やはり打ち消せない。ちなみに先日、ディアンナから新作として発売されたジュエリーがあるが、それは3桁の数字の後に万がつく価格のカネが軽く吹き飛ぶもの。他にも、季節の新作バッグやワンピース、靴などが、同じような価格でラインナップされている。
改めて、今月の給料をやりくりしながら、節約を…と思いつつ、ツバサは給与明細の封を切った。ぺりぺりと剥がして、印字されている金額を見て――――
「――――え、え、…えッ?!!」
公共の場にいるツバサの口からは滅多に聞けない大きな声が、発せられた。キャンパスバッグを視線だけで観察していたルカの眼が、ツバサに向けられる。
「あれ?もしかして、計算ミスでもされちゃったかな?ソラぁ~?」
「ああ。ツバサ、すまないが、明細を検めさせてくれ。担当には俺からクレームを入れよう」
流れるような応酬が繰り広げられるが、…ツバサは、ふるふるふるふる!、と首を激しく横に振った。
「ち、ちがっ…、あの、その…ッ、ささ、さんばい…!」
「3杯?」
「三盃?」
震えるツバサの言葉に、ルカとソラが復唱するが。男ふたりの発した言葉は、ツバサが伝えたい意味とは、まるで違うらしく。ツバサがまた、ふるふる!、と首を横に振った。
「お給料が…!一般事務時代の…3倍の金額に…ッ!」
振り絞るようにツバサはそう言いながら、給与明細の印字面を、ルカとソラに向かって見せた。普段の彼女なら、まずあり得ない行動だが。それほどまでに動揺しているという証拠だった。…対して、ツバサの給料の詳細を把握する羽目になったルカとソラだが。ふたり揃って、ぱちぱち、と長い睫毛の生えた瞳を、同じように瞬かせて。無言で互いに視線を合わせて、3秒後。ルカとソラは、同時にツバサに視線を戻して。
「正当な金額だよ?」
「正当な金額だが?」
実に冷静な声が、綺麗にハモッた。そのルカとソラの様子を受けて、ツバサは再度、己の給与明細を確認する。…計算ミスなどではない、正当な給料なのだとすれば。一般事務時代の3倍にまで増額した、この金額の給料が、自分の口座に振り込まれているということ…。
「…なんで…?」
ツバサの口からは、今度は間の抜けた声が、疑問符と共に漏れる。茫然とし始めようとするツバサの耳に、ソラの声が割って入った。
「事務員という職務は同じでも、前の部署とは仕事内容がほぼ一変したうえに、それに伴う責任も重くなっている。何より、先の案件で体験した通り、Room ELは非常に特殊な仕事を請け負うのでな。
そうなると、給料くらいは3倍に膨れ上がって当然だ」
声質こそ冷たく聞こえるが。それ紡ぐ言葉の内容は、説得力と併せた人間味が溢れている。すると、ツバサの頭を黒革の掌が、ぽんぽん、と優しく撫でた。ルカだ。
「まあ、オレの部下になるってことは、そういうことだよ。アリスちゃん」
そう言うルカの台詞には、一向に人間味を感じない。それでも、ツバサをひとりの大切な部下として、人間として、扱ってくれている事実は、彼女にしかと伝わっている。何なら、愛情の過多を感じるくらいだ。どうにもルカは自分を故意に甘やかしてくれている気がしてならない、と、ツバサは最近、少し思っている。かといって、ソラのことを蔑ろにしている素振りも見えない。
ルカは身内に甘いタイプなんだろうか…、と、そこまで思い至ったとき。ツバサは、ハッと、とあることを思い出した。
「今月の振り込み…、まだだった…!」
胸中で思うつもりが、つい、口から滑り出てしまう。どうやら給料3倍増額のショック(良い意味で)は、ツバサに相当な動揺を与えているらしい。ルカが、「何かお買い物したの?」と問うと、ツバサは給与明細を仕舞いながら、答える。
「私が育った養護院と、そこから通わせて貰った母校への寄進を…。毎月、微力ながら、させて貰っていて…」
「そっかー。自分の労働の成果を、故郷へ還元するんだねえ。アリスちゃん、本当に偉いね~良い子だね~」
よしよし、いいこいいこ、と言いながら、ルカが、ぽふぽふ、とツバサの頭を更に撫でる。その様子を眺めながら、ソラが翡翠の双眸をツバサへと向けた。
「ツバサ、お前はどこの高校の出身なんだ?」
ソラの色素の薄い唇から、なんてことない質問が投げられる。
「聖クロス学園です」
対してツバサも、特に何も気にする素振りは見せず、簡潔に答えるのだった。
そして、そのやり取りを聞いたルカは、何かを閃いたような顔をした後。
にこにこ、と笑みを深めながら、「ねえ、ソラ。始業したら、外線~」と、のんびりとした口調で、自分の秘書官へ声を掛けるのであった。
*****
【聖クロス学園】
昼休憩に学園長室へ呼び出された綺子は、SNSをチェックする時間が潰されることへ、内心、苛立ちを覚えていたが。それは微塵も感じさせず、学園長を前にして、微笑みながら応接用のソファーに座っていた。老齢の学園長・新城(あらき)が、綺子に一枚の書類を差し出す。彼女はそれを受け取ると、ざっと目を通した後。まあ、と鮮やかなリップを塗った唇から、感嘆の声を漏らした。
綺子のその反応を見た新城は、満足そうに深まる皺を寄せて、微笑みながら、口を開く。
「ご覧の通り、ROG. COMPANYから、我が学園への慰問が決定しました。何でも、新設の部署が、何処よりも先んじて、我が校を選んでくださったとか」
「喜ばしいニュースですわね、学園長様。聖クロス学園のいち生徒として、私も誇らしいですわ」
学園長の新城に対する綺子の態度は、尊大とも取れた。しかし、彼は気にせずに、むしろそれが自然とばかりに、綺子へ言葉を重ねる。
「慰問の日程は、2日後です。急ぎの予定とはなりますが、せっかくお越し頂くのですから、学園としてもおもてなしを計画したいと思います。
つきましては、雪坂さん。我が校の代表として、ROG. COMPANYからいらっしゃる社員様を、こちらが選んだ教員と一緒に、ご案内してはくれないでしょうか」
新城の提案を聞いた綺子は、特に驚くことはなく、さも当然のように「勿論です」と、二つ返事で受け入れた。その態度には「自分が選ばれて当然」とばかりのオーラが滲み出ている。学園長自らのオファーであることも、さもありなん、とも。
SNSのチェックの邪魔をされた苛立ちは、学園のトップからオファーを受けたという形で承認欲求が満たされたが故に、綺子の中からはあっという間に消え失せた。
「放課後に、同伴する教員から、雪坂さんへお声を掛けさせてください。
期待していますよ、雪坂さん」
「是非、この私にお任せください。必ずや、学園長様のご期待に添える働きをしてご覧にいれます」
自信に満ち溢れ、得意げに胸を張る綺子は、ついクセで、その長い髪を掻き上げた。彼女の耳元が露わになる。そこに煌めく、光。
「おや、雪坂さん、とても素敵なピアスですね」
学園長が、反応した。それを聞いた綺子は、すかさず答える。
「ディアンナの新作ジュエリーですわ。私が父から任されている療養施設の経営が上手く行っているおかげで、自分へのご褒美として購入することが出来ました。
それに、いつも懸命に働いてくださるスタッフさんたちや、施設の子どもたちには、今度、私財を投じて、ご馳走を振る舞おうかとも考えております」
綺子は自分の敏腕経営者としての働きぶりを伝えつつも、また、部下や子どもたちを大切にする院長像、というアピールも欠かさない。綺子は自分の中で、常に飢えを感じている心が、どんどん満たされていくのが分かり、尚の事、上機嫌になる。
その様子を見ていた新城は、ほっほっほ、と朗らかに笑いながら、彼女へ言った。
「それは良きこと、良きこと。
ご自身を労わることも大事ですが、同じくらい、自分を支えてくれる周囲の方々を敬うことも、また大切なことです。
…おや、もうこんな時間ですか。申し訳ない、雪坂さん。貴重なお昼休みを頂いてしまいましたね」
「いいえ、構いません。学園長様の頼みとあらば、私の時間はいつでもご提供致します」
では、と。互いに会釈し合って。綺子は、早々に学園長室を辞した。
その足で、すぐ近くの女子トイレに入り、そこに自分以外の誰もいないことを確認してから。
「ふふ、ふふふ…、うふふ…ッ!」
堪えきれないとばかりに、ひとりで笑い出す。綺子は、手洗い場の鏡に映った自分を見つめながら、恍惚とした表情で、独り言を漏らし始めた。
「何もかもが、面白いくらいに上手く行くわ…!この世の全てが、私を中心に回ってくれる…!
私こそ、選ばれた者…!これが、私でしか手にすることが叶わない、絶対的な特権階級…!」
SNSで動画を上げればバズり、若者を中心に、自分をリスペクトしてくれるファンがいる。メディア取材も順調に舞い込み、世間への売り込みも盤石になりつつある。ユキサカ製薬の社長である実父から「将来への勉強のため」と、譲って貰った鈴蘭の院長の椅子は、最早、自分のモノ。
…面倒な院長業務とやらは、これまで通り、ナオトに全部やらせてしまえばいい。どうせ彼は、施設の子どもたちの命を盾にされると、自分に逆らえはしないのだから。その子どもたちの命を左右する『シュガー』、…先日のタツヤ少年に盛った特殊な毒薬の研究開発・改良は、ユキサカ製薬内で自分が囲っているラボの研究者たちに進めさせている。綺子の支援が無ければ、とっくに路頭に迷っていた薬剤師崩れや、学会から追い出された研究職の人間ども。拾ってやったうえに、カネを積んでいるのだから、奴らは決して自分を裏切らない。そして…――――、
綺子は制服のポケットからスマートフォンを取り出す。
ナオトからの新着メッセージが届いているのを見て、にやり、と嗤った。
メッセージ内容は、『ねこてんし・ラヴィー ピンク×1 ブルー×2 総計 ¥96,000也』。
…少し脅せば、ナオトのような線の細い男は、すぐに思い通りに動いてくれるのだ。綺子は、内心で、彼のことを嘲笑う。
ざっと見積もっても、ナオトからの『利益』だけで今月は30万ほどになるはず。あとは、他の手駒たちの頭数だけで計算したとしても…―――!
綺子の頭の中では、万札が舞い飛び、その合間から、自分の欲しいものが手に入る未来のヴィジョンが、くっきりと映っていた。
ディアンナのジュエリーは昨日買って、いま身に着けている。次はワンピース、靴。バッグは季節が変わる前に買ったものがあるが、もうあれは飽きてしまった。新作が欲しい。ディアンナのも勿論良いが、たまには毛色を変えて――――
――キーンコーンカーンコーン!
「…!」
鳴り響く予鈴が、綺子のトリップしかけた脳内を、現実に引き戻す。昼休憩が終わる。
綺子は鏡で身繕いをぱぱっと済ませると、何事もなかったかのように、女子トイレから出たのだった。
to be continued...
ツバサが出勤すると。いつも通り、ルカとソラは既に室内にいた。挨拶をしようとしたが、何やらふたりしてタブレット端末を覗き込み、密やかな声で話し合っている。ツバサに気が付いていないはずはない上司ふたりなので、きっと今はツバサから声を掛けるのは避けた方が良いだろう。そう判断した彼女は、なるべく音を立てずに、来ていた上着をロッカーに仕舞い込み、入れ替わりにロッカー内に収納しているキャンパスバッグに、仕事に必要な最低限のものと貴重品を入れて、最後にお弁当箱の入ったランチトートを持ち、自分のデスクへと向かった。
キャンパスバッグは新調したもので、推しであるヴァイオレットの色、そして持ち手部分には、自分で手作りしたヴァイオレットの概念を閉じ込めたリボンチャームを付けている。このバッグ自体はディアンナというハイブランドの商品だが、推しの色味であることから、半年ほど通販サイトとにらめっこをした末、思い切って購入したのだ。来月の給料日まで、頑張って働かなくては…、節約しなきゃ…、とツバサは改めて決意する。
給湯室でホットドリンクを作り、デスクまでサーモマグを持ち帰ったときだった。ふと気配を感じた気がした。振り向けば、ルカが立っている。ツバサと視線があった彼は、お?、と小さく零した後、にこり、と笑って。
「背後を取ったオレに気が付くなんて、アリスちゃんってば、中々良い勘をしてるね~」
何に対して褒められているのかはツバサには理解不能だったが、ルカの視点が他人のそれとズレ気味なのは、既に承知している。むしろ、理不尽に怒られるよりは何千倍もマシですらあった。ルカが口を開く。
「はい、どうぞ~。いつもありがとうございます♪」
ルカがそう言いながら、黒革の手袋が嵌った両手で持って差し出してきたもの。――――ROG. COMPANYの社章ロゴが印字されているそれは、給与明細だった。
一般事務時代は、各エリアのリーダーが掲示板にマスキングテープで給与明細を貼りつけて、事務員の各々が、自分たちのタイミングで己の給与明細を取っていく。…そんなスタイルだった。…ちなみに、一般事務にいた頃のツバサは、元上司の佐々名木から、この仕事を何の理由もなく押し付けられていた。それ自体、当時は特に何とも思っていなかったが、……いま目の前にいるルカの在り方が、上司として、一番、正解なんだと思い至った。そして一般事務は、やはり魔の巣窟であったことも、再認識する。
そんなことを考えながら、ありがとうございます、と会釈しながら、ツバサはルカから給与明細を受け取った。
一方、給与明細を渡し終えたルカは、その青い眼をすぐさまツバサの新しいキャンパスバッグに向けて、「おわ~かわいい~~」と興味深そうな声を挙げる。
「それは、新調したもので…。ちょっと高かったけれど…」
「オレ、これネットで見た!ディアンナのキャンパスバッグだよね?
わ~、写真で見るより綺麗な紫色だし、布地のテクスチャも高級感がある~。フリルは大振りだけど、波打ち方に上品さがあって、良いね~」
ツバサの控えめな紹介に相反して、ルカはバッグに対する的確なコメントを残した。
先述、そしてルカの言った、ディアンナとは。20代以上の女性をターゲット層にしている、ラグジュアリーブランドの筆頭格だ。ただし、ディアンナはハイブランドとしてお高く留まっている訳でも、ましてや人気に胡坐を掻いている訳でもなく。常にブランドの新しい可能性を見つけ出せるような、商品展開が魅力的な会社なのだ。ツバサの購入したキャンパスバッグは、ディアンナの商品の中では、約3万円と比較的リーズナブルな価格帯のものになる。それでも、大手玩具会社勤務の事務員の彼女でさえも、意を決して購入せねばならぬような、得も言われぬ圧倒的な品格と存在感は、やはり打ち消せない。ちなみに先日、ディアンナから新作として発売されたジュエリーがあるが、それは3桁の数字の後に万がつく価格のカネが軽く吹き飛ぶもの。他にも、季節の新作バッグやワンピース、靴などが、同じような価格でラインナップされている。
改めて、今月の給料をやりくりしながら、節約を…と思いつつ、ツバサは給与明細の封を切った。ぺりぺりと剥がして、印字されている金額を見て――――
「――――え、え、…えッ?!!」
公共の場にいるツバサの口からは滅多に聞けない大きな声が、発せられた。キャンパスバッグを視線だけで観察していたルカの眼が、ツバサに向けられる。
「あれ?もしかして、計算ミスでもされちゃったかな?ソラぁ~?」
「ああ。ツバサ、すまないが、明細を検めさせてくれ。担当には俺からクレームを入れよう」
流れるような応酬が繰り広げられるが、…ツバサは、ふるふるふるふる!、と首を激しく横に振った。
「ち、ちがっ…、あの、その…ッ、ささ、さんばい…!」
「3杯?」
「三盃?」
震えるツバサの言葉に、ルカとソラが復唱するが。男ふたりの発した言葉は、ツバサが伝えたい意味とは、まるで違うらしく。ツバサがまた、ふるふる!、と首を横に振った。
「お給料が…!一般事務時代の…3倍の金額に…ッ!」
振り絞るようにツバサはそう言いながら、給与明細の印字面を、ルカとソラに向かって見せた。普段の彼女なら、まずあり得ない行動だが。それほどまでに動揺しているという証拠だった。…対して、ツバサの給料の詳細を把握する羽目になったルカとソラだが。ふたり揃って、ぱちぱち、と長い睫毛の生えた瞳を、同じように瞬かせて。無言で互いに視線を合わせて、3秒後。ルカとソラは、同時にツバサに視線を戻して。
「正当な金額だよ?」
「正当な金額だが?」
実に冷静な声が、綺麗にハモッた。そのルカとソラの様子を受けて、ツバサは再度、己の給与明細を確認する。…計算ミスなどではない、正当な給料なのだとすれば。一般事務時代の3倍にまで増額した、この金額の給料が、自分の口座に振り込まれているということ…。
「…なんで…?」
ツバサの口からは、今度は間の抜けた声が、疑問符と共に漏れる。茫然とし始めようとするツバサの耳に、ソラの声が割って入った。
「事務員という職務は同じでも、前の部署とは仕事内容がほぼ一変したうえに、それに伴う責任も重くなっている。何より、先の案件で体験した通り、Room ELは非常に特殊な仕事を請け負うのでな。
そうなると、給料くらいは3倍に膨れ上がって当然だ」
声質こそ冷たく聞こえるが。それ紡ぐ言葉の内容は、説得力と併せた人間味が溢れている。すると、ツバサの頭を黒革の掌が、ぽんぽん、と優しく撫でた。ルカだ。
「まあ、オレの部下になるってことは、そういうことだよ。アリスちゃん」
そう言うルカの台詞には、一向に人間味を感じない。それでも、ツバサをひとりの大切な部下として、人間として、扱ってくれている事実は、彼女にしかと伝わっている。何なら、愛情の過多を感じるくらいだ。どうにもルカは自分を故意に甘やかしてくれている気がしてならない、と、ツバサは最近、少し思っている。かといって、ソラのことを蔑ろにしている素振りも見えない。
ルカは身内に甘いタイプなんだろうか…、と、そこまで思い至ったとき。ツバサは、ハッと、とあることを思い出した。
「今月の振り込み…、まだだった…!」
胸中で思うつもりが、つい、口から滑り出てしまう。どうやら給料3倍増額のショック(良い意味で)は、ツバサに相当な動揺を与えているらしい。ルカが、「何かお買い物したの?」と問うと、ツバサは給与明細を仕舞いながら、答える。
「私が育った養護院と、そこから通わせて貰った母校への寄進を…。毎月、微力ながら、させて貰っていて…」
「そっかー。自分の労働の成果を、故郷へ還元するんだねえ。アリスちゃん、本当に偉いね~良い子だね~」
よしよし、いいこいいこ、と言いながら、ルカが、ぽふぽふ、とツバサの頭を更に撫でる。その様子を眺めながら、ソラが翡翠の双眸をツバサへと向けた。
「ツバサ、お前はどこの高校の出身なんだ?」
ソラの色素の薄い唇から、なんてことない質問が投げられる。
「聖クロス学園です」
対してツバサも、特に何も気にする素振りは見せず、簡潔に答えるのだった。
そして、そのやり取りを聞いたルカは、何かを閃いたような顔をした後。
にこにこ、と笑みを深めながら、「ねえ、ソラ。始業したら、外線~」と、のんびりとした口調で、自分の秘書官へ声を掛けるのであった。
*****
【聖クロス学園】
昼休憩に学園長室へ呼び出された綺子は、SNSをチェックする時間が潰されることへ、内心、苛立ちを覚えていたが。それは微塵も感じさせず、学園長を前にして、微笑みながら応接用のソファーに座っていた。老齢の学園長・新城(あらき)が、綺子に一枚の書類を差し出す。彼女はそれを受け取ると、ざっと目を通した後。まあ、と鮮やかなリップを塗った唇から、感嘆の声を漏らした。
綺子のその反応を見た新城は、満足そうに深まる皺を寄せて、微笑みながら、口を開く。
「ご覧の通り、ROG. COMPANYから、我が学園への慰問が決定しました。何でも、新設の部署が、何処よりも先んじて、我が校を選んでくださったとか」
「喜ばしいニュースですわね、学園長様。聖クロス学園のいち生徒として、私も誇らしいですわ」
学園長の新城に対する綺子の態度は、尊大とも取れた。しかし、彼は気にせずに、むしろそれが自然とばかりに、綺子へ言葉を重ねる。
「慰問の日程は、2日後です。急ぎの予定とはなりますが、せっかくお越し頂くのですから、学園としてもおもてなしを計画したいと思います。
つきましては、雪坂さん。我が校の代表として、ROG. COMPANYからいらっしゃる社員様を、こちらが選んだ教員と一緒に、ご案内してはくれないでしょうか」
新城の提案を聞いた綺子は、特に驚くことはなく、さも当然のように「勿論です」と、二つ返事で受け入れた。その態度には「自分が選ばれて当然」とばかりのオーラが滲み出ている。学園長自らのオファーであることも、さもありなん、とも。
SNSのチェックの邪魔をされた苛立ちは、学園のトップからオファーを受けたという形で承認欲求が満たされたが故に、綺子の中からはあっという間に消え失せた。
「放課後に、同伴する教員から、雪坂さんへお声を掛けさせてください。
期待していますよ、雪坂さん」
「是非、この私にお任せください。必ずや、学園長様のご期待に添える働きをしてご覧にいれます」
自信に満ち溢れ、得意げに胸を張る綺子は、ついクセで、その長い髪を掻き上げた。彼女の耳元が露わになる。そこに煌めく、光。
「おや、雪坂さん、とても素敵なピアスですね」
学園長が、反応した。それを聞いた綺子は、すかさず答える。
「ディアンナの新作ジュエリーですわ。私が父から任されている療養施設の経営が上手く行っているおかげで、自分へのご褒美として購入することが出来ました。
それに、いつも懸命に働いてくださるスタッフさんたちや、施設の子どもたちには、今度、私財を投じて、ご馳走を振る舞おうかとも考えております」
綺子は自分の敏腕経営者としての働きぶりを伝えつつも、また、部下や子どもたちを大切にする院長像、というアピールも欠かさない。綺子は自分の中で、常に飢えを感じている心が、どんどん満たされていくのが分かり、尚の事、上機嫌になる。
その様子を見ていた新城は、ほっほっほ、と朗らかに笑いながら、彼女へ言った。
「それは良きこと、良きこと。
ご自身を労わることも大事ですが、同じくらい、自分を支えてくれる周囲の方々を敬うことも、また大切なことです。
…おや、もうこんな時間ですか。申し訳ない、雪坂さん。貴重なお昼休みを頂いてしまいましたね」
「いいえ、構いません。学園長様の頼みとあらば、私の時間はいつでもご提供致します」
では、と。互いに会釈し合って。綺子は、早々に学園長室を辞した。
その足で、すぐ近くの女子トイレに入り、そこに自分以外の誰もいないことを確認してから。
「ふふ、ふふふ…、うふふ…ッ!」
堪えきれないとばかりに、ひとりで笑い出す。綺子は、手洗い場の鏡に映った自分を見つめながら、恍惚とした表情で、独り言を漏らし始めた。
「何もかもが、面白いくらいに上手く行くわ…!この世の全てが、私を中心に回ってくれる…!
私こそ、選ばれた者…!これが、私でしか手にすることが叶わない、絶対的な特権階級…!」
SNSで動画を上げればバズり、若者を中心に、自分をリスペクトしてくれるファンがいる。メディア取材も順調に舞い込み、世間への売り込みも盤石になりつつある。ユキサカ製薬の社長である実父から「将来への勉強のため」と、譲って貰った鈴蘭の院長の椅子は、最早、自分のモノ。
…面倒な院長業務とやらは、これまで通り、ナオトに全部やらせてしまえばいい。どうせ彼は、施設の子どもたちの命を盾にされると、自分に逆らえはしないのだから。その子どもたちの命を左右する『シュガー』、…先日のタツヤ少年に盛った特殊な毒薬の研究開発・改良は、ユキサカ製薬内で自分が囲っているラボの研究者たちに進めさせている。綺子の支援が無ければ、とっくに路頭に迷っていた薬剤師崩れや、学会から追い出された研究職の人間ども。拾ってやったうえに、カネを積んでいるのだから、奴らは決して自分を裏切らない。そして…――――、
綺子は制服のポケットからスマートフォンを取り出す。
ナオトからの新着メッセージが届いているのを見て、にやり、と嗤った。
メッセージ内容は、『ねこてんし・ラヴィー ピンク×1 ブルー×2 総計 ¥96,000也』。
…少し脅せば、ナオトのような線の細い男は、すぐに思い通りに動いてくれるのだ。綺子は、内心で、彼のことを嘲笑う。
ざっと見積もっても、ナオトからの『利益』だけで今月は30万ほどになるはず。あとは、他の手駒たちの頭数だけで計算したとしても…―――!
綺子の頭の中では、万札が舞い飛び、その合間から、自分の欲しいものが手に入る未来のヴィジョンが、くっきりと映っていた。
ディアンナのジュエリーは昨日買って、いま身に着けている。次はワンピース、靴。バッグは季節が変わる前に買ったものがあるが、もうあれは飽きてしまった。新作が欲しい。ディアンナのも勿論良いが、たまには毛色を変えて――――
――キーンコーンカーンコーン!
「…!」
鳴り響く予鈴が、綺子のトリップしかけた脳内を、現実に引き戻す。昼休憩が終わる。
綺子は鏡で身繕いをぱぱっと済ませると、何事もなかったかのように、女子トイレから出たのだった。
to be continued...