シキヨミ怪奇譚
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近い、そう感じるや否や、憂希は空を仰ぐ。夜の帷は既に下り、都会の光に阻まれつつ囁かに星がその輝きを主張している。呼吸と共に一つの名前を呼べば、何処からともなく友が姿を見せた。
「やれやれ、またお前は厄介事を」
『だが、付き合ってくれるのだろう』
「……そういう縁だ」
『すまないな、トビヒ。礼を言う』
トビヒと呼ばれた深い青の獣は憂希を背に乗せ、東へと飛んだ。疾風の如くトビヒが空を駆けた後には風が吹き抜けていた。
「この匂い、近いな」
『見えた。建物の縁に降りてくれ』
例の人間は黒髪を長く伸ばした男と対峙していた。手に持っているのは、人間が作り出した武器だろう、と憂希は納得した。人が人の命を奪うために創り出した、この国では持ち歩くことさえ罪とされるもの。
「さすがだなスコッチ。投げ飛ばされる振りをして俺の拳銃を抜き取るとは」
長髪の男は不敵に笑みを浮かべたまま話を続ける。話を聞いてみる気はないか、と。
「拳銃は、お前を撃つために抜いたんじゃない……こうする為だ!」
銃口は彼自身の心臓に向けられる。
『止めておけ』
「無理だ」
奇しくも、長髪の男と言葉が重なった。どうやらこの男は、スコッチを死なせるつもりは無いらしい。ならば話は早い、目的は同じだ。今ので彼にも、憂希が来ていることが分かっているだろう。長髪の男には悪いが、話とやらに紛れさせて貰う。
『あの人の子に思う事があるなら、私と共に来い。この下で待っていてやる、ここから飛び降りろ』
「さぁ、分かったら拳銃を話して俺の話を聞け、お前一人逃がすくらい造作もないのだから」
憂希の言葉に反応してか、スコッチは後ろを振り返った。本当に死を決した間際に現れるとは、思っていなかったのだろう。
今の彼には二つの選択肢があるようだ。一つは男の手を借り真っ当に生き延びること。もう一つは妖の世に半分足を踏み入れること。以前の萩原とは違い、選択の余地がある。人が人として、その人のまま生きられるならそれに越したことは無い、だが。鉄筋の階段を、慌しく登る足音に二人の意識はそちらに向けられた。男のリボルバーのシリンダーを掴む手が緩んだ瞬間、スコッチは虚空に向けて一度引き金を弾くと、フェンスのない屋上の縁からその身を投げ出した。
「スコッチ!」
その姿を、あの金色が見ていたのは、一つの誤算だった。
「どうなってんだ……浮いてる」
『やはりお前も視える訳ではないのか』
「あ、でも手触りはあるぞ。なんか、毛皮みたいな」
『此奴の姿は獣だからな。トビヒ、先程の火を放った場所へ』
分かった、そう告げた声が聞こえるのは、憂希だけだろう。今回は随分と協力的だった。あの屋上に憂希を降ろしてから、人間の使う、火の付きやすい液体を少しばかり拝借して来て、それに持ち前の火を放った。容器を適当に転がしておけば、誰か人の子の悪戯程度にも見えるだろう。本来妖であるトビヒの炎は人の眼にも、人の作った物にも影響はしないのだが、力の強いトビヒには、人にも見える本物の炎を操ることも出来る。
「派手に燃えてるな……」
『……加減があまり上手くないのだ。許してやってくれ』
「いや、いいさ。助けてくれた恩人にそんな無粋な事は言えない」
『そうか』
憂希は抑揚の無い声で返し、最後の仕上げにと、懐からある物を取り出した。
「憂希……それ」
『あぁ、人の骨だ。言っておくが私やトビヒが喰った訳では無い。知り合いが面白半分で集めていたものをくすね……譲り受けたのだ』
「今くすねてって言ったよな」
『どうせ一つや二つ無くなった所でわかるまい。人は燃え尽きるとこのような骨だけになるのだろう?』
「……時間はかかるぞ。火葬炉ならともかく、こんな街中で燃えてもすぐに骨だけになるのはまず有り得ない。火葬炉でも40分はかかるんだから」
そういうものなのか、と肩を竦ませた。どうやらくすねてきたものは無駄になりそうだ。
「それよりかは、そうだな、後はこれくらいか」
今度はスコッチが、内ポケットからケースのようなものを取り出した。その蓋を開くと、炎の中に投げ込んだ。
『あれは』
「ライターだよ。ガソリン播かれて火も上がってるのに、出火の原因になる物がないと怪しまれるだろうから」
『そういう事か』
憂希が納得していると、トビヒが早く引き上げろとせっついた。
「あの人間の気配が近付いている。早く乗れ」
『そうだな。行くぞ、スコッチ』
「行くって……」
「グズグズするな人間!」
『捕まれ』
「うわっ」
憂希に腕を掴まれた途端、数分前のように身体が宙に浮かぶ。体感速度はかなり速く、あの立ち上る炎はいつの間にか小さく見えていた。憂希に手を引かれながら、見えない獣の背に腰を下ろすと、スコッチは紡ぐ言葉を探した。
「……憂希、ありがとう。おかげで命拾いできた」
『私は、自分のやりたい事をしたまでだ』
「それでも、俺はお前のそれで救われた。礼くらいは言わせてくれよ」
布の面で目元を覆っているせいで憂希の表情はなかなか読み解くのは難しいが、ふいと顔を背けた割には満更でもなさそうだ。
「そういや、どこに向かってるんだ?」
『行けばわかる』
「……」
急激に憂希が怪しく思えてきたのも無理もない。自分のテリトリーを知っているとも思えなかったし、よもや最初に言葉を交わした場所にでも行く訳ではあるまい。一体どこへ連れていこうと言うのかと訝るのも気にもせず、憂希は前を見据えていた。やがて降り立ったのは古いアパートの側だった。当然見覚えなど無い、分かりようがなく困惑していると、手を引かれてある一室の前に連れて行かれた。表札の名前も、特に知り合いの中にはいないものだ。
「どういうつもりだ?」
『そう急くな』
呼び鈴の見当たらない玄関先でどうするのかと見ていれば、憂希はするりと扉をすり抜けた。一瞬絶句したが、そう言えば妖怪だったな、と思い出し肩を竦めた。少しして、扉の施錠が回される音がして、錆の目立つ戸が開かれた。
「ったく、こんな時間に客って……ん?」
目の前に居たのは紛れもなく友人だった。それも、三年前に死んだと聞かされた、萩原研二その人だった。
「……萩原? お前、確か……」
とある爆弾犯の引き起こした事件の中で殉職したはず、声に出なかったその言葉も相違なく伝わったようで、萩原は腑に落ちたように長く息を吐いた。
「まぁ、話は中でしよう。上がってくれ。憂希も奥にいる」
「あぁ……え?」
友人の口からさり気なくあの妖怪娘の名が出てきたことに再び固まってしまうが、早く上がれと急かされて、そそくさとこのボロアパートの一室に上がり込んだ。
「さて、何から話すかな……」
「とりあえずどうやって生き残ったか教えてくれ」
一番衝撃的なところはそこだ。件の爆発の瞬間を見ていた友人から聞いた話では、電話口でタイマーが復活したと聞こえた数秒後に、萩原を含む爆発物処理犯がいた階は爆破によって焼失したのだ。生きているはずがないと、誰もが口を揃えていたほどだ。遺体の発見すら不可能だったと聞いた時には、何かが競り上がるような感覚さえ覚えた。だがこうして生きていると言う事は、そもそも現場に遺体など残っていなかったということか。
「あの時は……爆発の瞬間、外に引きずり出されたんだ。ここにいる憂希と、その連れのでかいヤツに」
「でかいヤツ……って、トビヒって言う獣か?」
「その筈だ。お前も見たか?」
「いや、姿は見えない……萩原ってそういうやつが視える質だったか?」
「そうじゃないけど、向こうが自在に姿を見せられるんだ」
「なるほど……」
例の獣妖怪は随分と能力多彩のようだ。そんな大物を従える憂希にも、彼女と知り合っていた萩原にも驚かされている。
「憂希とはいつ知り合ったんだ?」
「事件の少し前だ。こいつただのカラスに絡まれて路地裏で縮こまってたから、俺が追っ払って助けたんだ。その時はまさか妖怪だとは思わなかったし、この礼に俺の身に何かあるって時に助けてやるって言われたけど、あんまり信じてなかった」
結果的にはその恩返しが生死を分かつ事になったようだが、なかなか信用されていなかった憂希が僅かばかり哀れに思えた。自身もあまり信じていた訳では無いので何とも言えないが。
『妖をそう容易く信用する方が危ういものだ。気にしてはいない』
「そうか」
彼女の場合、相手の信頼があろうと無かろうと自分のスタンスは崩さないつもりなのだろう。初めから割り切っていたと言う風にも聞こえる。憂希がこういう人物──いや正確には人ではないが──だという事はどうやら萩原は分かっていたようで、彼女の言葉に何を言うでもなかった。その代わりのように、一つの疑問を持ち出していた。
「何でこいつが俺のダチだって分かったんだ?」
そう言えばそうだ、二度目になる邂逅でも、初対面でもその場にいない第三者の名前ははっきりとは出ていない。言外に示された存在は幼馴染みであり、萩原ではない。
『お前の匂いがしたからだ』
「匂い……」
突然野生動物のような返答になったせいで顔が引き攣る。そんな考えも予想済みなのか、憂希は相変わらず平淡な口調で続けた。
『匂いと言っても五感の一つで感じられるものではない。生き物は皆別の命と縁を結ぶ、その繋がりは何年離れようが無くなるものではないのだ。縁の深い者なら匂いは色濃く残り、浅くとも消えるものでもない。それだけだ』
どうやら、最初に接触した時から萩原のその「匂い」とやらに気付き、事が済んだ後は初めからここに連れてくるつもりだったと取れる。聞けば、萩原は例の事件の事もあり、自分は死んだ事にして全くの別人として戸籍を作り生活しているらしい。自分も生存を明るみに出すのは躊躇わねばならない状況ということもあり、それに倣うことにした。
「けどお前、何したらそんな状況になるんだ?」
「いや……ちょっと潜入調査をな」
どうせ自分は殉職扱いだ、似たような友人に話しても規定違反にはなるまいと考え、少しばかり語った。暗躍する危険な組織のことはほんのさわり程度にだが、そこに幼馴染みも潜っていることも。
今の段階では何もしてやれないが、ほとぼりが冷めたら、顔だけでも見に行こう、そう心に思い留めた。
End