シリーズ・短編
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
幼い頃からよく、他人には見えないものを見てきた。それらが本来見えてはならないものだったと知ったのは物心ついた頃。それ以来ずっと、視界に何が映り込んでも必死に見えない振りをして、得体の知れないモノへの畏怖と理解されない事への恐怖に怯えながら過ごしてきた。時には、所謂霊能者と呼ばれる存在を頼って自衛の術を乞うたこともあるのだが、そのような能力者を自称する者達には、こぞってそれらのモノは見えていなかった。それどころか、見えもしないものを見えると、感じると虚言しているせいか、存在を主張しようとするモノ達を寄せ集めているのだ。そんな彼らを信用できるはずもなく、仕方なく自分の力のみで対処法を探し、研究した。当然家族は気味悪がって、そんなものを調べて何になるだとか、精神に異常を来たしているだとか、散々なことを何度も言われてきたが、探求の甲斐あって今では怪異のモノ達はただ恐ろしい存在ではなくなった。悪さをするモノは祓えば良し、意思の疎通のできる怪異も中にはいて、時には妖怪と呼ばれて名を知られている存在にもいくつか出会った。古い神社にひっそりと暮らしていた狐日と言う怪異がそうだ。九尾の狐と言えば分かりやすいだろう。狐日は元は神聖な天の使いだったそうだが、信仰が途絶え妖堕ちをしてしまい現世に留まっている。人に見えざるモノについていろいろなことを教えてくれた、いわば恩師だ。
ハタチを過ぎてもなお、日常的に怪異を見る体質は一向に変わらなかったが、習得した技術や狐日から教わった知識のおかげで平穏な生活は保たれていた。普段から使う場所や通る道には必ずと言っていいほど浄化の札を残しているため、この辺りの悪意ある怪異には祓い人などと勝手に恐れられているが、知ったことではない。そんな日々の中、訪れた出会いは私の体質無しには起こり得なかっただろう。
ぞわり、と肌が粟立つような寒気に見舞われ後ろを振り返った。今し方すれ違った明るい髪色をした男の背後には、悪意に満ちた有象無象がまとわりついている。呼び寄せやすい体質の人間もいない訳では無いが、そういった人には必ず力のある守護霊がついているのが大半だ。それで無ければ相当な恨みを買っている。私怨というのは厄介なことに、それを抱えた人間が死んでいなくとも、相手の元に怪異を飛ばせてしまう。そんなものを大量に背負っている姿はまさに異常で、関係ないはずなのに、おぞましく思った。
『あ……』
まずい、と理性が警鐘を鳴らす。彼の背負った有象無象の中から、こちらに向いた目が二つほど覗いた。見えていることに気付かれるのは追われることになるのと相違ない。私は踵を返して大通りを走り抜けた。
人気のない公園に辿り着き、ベンチに腰掛けて乱れた息を整える。自分の身が大事ではあるが、パンプスで全力疾走など二度と御免だ。しかしどうやら向こうも諦めてくれてはいないようで、俯いて見下ろした地面に透けた革靴が映り込んだ。
「なぁ、アンタ見えてるんだろ?」
『……』
言葉は普通だ。悪霊や私怨の類なら、到底会話らしい会話は成り立たない。少なくとも目の前にいる怪異は害を為すつもりはないという事だろう。観念して呼びかけに応じて顔を上げると、一人の男の姿が眼に映る。似合わない顎髭を蓄えた、生きていたらきっと、優しい人だったであろう青年だった。
「見えてるんだよな。こんなにはっきり目線が合うんだから」
『……ええ。あなたはさっきの、金髪の人に付いていた方ですよね。何か御用ですか』
「頼みたいことがある」
こうして、頼み事を持ってくる怪異は珍しくはない。恨み言だったり物探しだったり、道案内を頼まれたこともあったと思う。それらの頼みを聞く際は必ず名前を聞くことにしている。名前を掴んでおけば、騙し打ちを回避できるからだ。今回も同じように尋ねたのだが、男は、呼ばれることも無いものだから忘れてしまったという。
「呼び名がないと不便だってことなら、そうだな……スコッチでいい」
『スコッチ……さん?』
確かウイスキーの種類ではなかったか。
「一時期そう呼ばれていたんだ。死んだ瞬間にも」
『そう、ですか……。それで、頼みとは』
「さっきのヤツ……降谷零を救ってほしい」
予想打にしていなかったせいか聞き間違いかと思ったのだが、彼の目は真剣そのもので、きっとその大切な人を残して逝く形で死んでしまったのだと察した。どちらにしても、人を救って欲しいと言う怪異は初めてだ。
『……取り憑いた相手を呪いたいというのはよくいましたけど』
「ああ、実を言うとアイツに憑いてるのもそういう連中なんだ。なんとか俺がアイツに影響が出ないようにはしてたんだが、俺もいつまで守ってやれるか……」
『つまり、彼に憑く小者を祓ってほしいと』
「そういう事だ。頼めるか?」
『……分かりました。怪異の身では、見えていない人間に干渉するのも限度があるでしょうし、お受けします』
依頼を受諾すれば、彼は安堵した様子で良かった、と呟いた。死んでもなおこんなにも人を大事に思える人も見たことがなかっただけに、彼が死ななければならなくなった理由が気になったが、聞くのはやめにした。そこまで深く踏み込むことは、いくら死人と言えど、あまり許されたことではないだろう。かくして、人間ひとりと幽霊ひとりは出会ってしまったのである。
依頼の渦中の人物と接触を図るために、スコッチに聞き及んだ彼の勤め先を探してみると、隣町でようやく見つけた。
『ポアロ……』
某名探偵の一人として描かれる登場人物の名前だ。その上には毛利探偵事務所、こちらもメディア等では度々目にする。特にバラエティーではアイドル歌手、沖野ヨーコとの共演がよくあるが、その時の様子からは世間に知られる名探偵には到底思えなかったのを覚えている。あれはもはやただのドルオタ中年だ。それはさておき、目的はこの喫茶店で働いているであろう降谷零という人物に接触することだ。正直、あれだけの数の怪異に憑かれている人と接点を持つのはかなり恐ろしいのだが、意を決して店の扉を開いた。カランカラン、と来店を知らせるベルが鳴り、店員がこちらを見る。
「いらっしゃいませ」
いた。探し人は異常なまでに速く見つかった。拍子抜けしてしまったせいか、要件を話すことが出来ないまま席に通され、完全に客の一人になってしまった。冷やまで出されてしまっては何も注文しない訳にもいかないではないか。
「ご注文はお決まりですか?」
『え、と……アイスコーヒーを』
「かしこまりました。ミルクと砂糖は如何致しましょう」
『いえ、結構です……』
「ブラックですね。承ります」
何故私は普通に注文しているのだろうか。ぐるりと店内を見渡してみると、店員は彼一人、客もほとんどおらず私とフリーター風の男性客、あとは女子高生三人組と小学生くらいだ。
『うわ……』
思わずそんな声を漏らしたのは、その小学生に似つかわしくない怪異が纏わりついていたからだ。一体どんな暮らしをしたらそんな状況になるのだろう。少年と一緒にいる女子高生達には、全くそんなものは見られないと言うのに。
「お待たせしました、アイスコーヒーです」
『あ、はい……』
「ごゆっくりどうぞ」
『あっ……あの!』
「はい?」
今度こそタイミングを見失わないように、咄嗟に引き止めた。思いの外大きな声を出してしまったようで、三人組の視線が刺さる。もしや彼女らは彼のファンとかだろうか。いや、それは今は関係ない。
『……、降谷零さん、ですよね』
その名前を告げた時、一瞬、彼の笑顔が消えた、ように見えた。そのすぐ後、先程以上の営業スマイルで。
「人違いですよ」
と答えた。何をどうやったらこんな整った容姿の人を間違えるんだ、と思ったが彼の背後で見覚えのある顔が両手を合わせて苦笑いしていた。この野郎、居るなら出てこい。
体よく誤魔化され、ソファーに落ち着いてアイスコーヒーを一気に半分ほど飲み下したところで、なんとも言えない顔のスコッチが目の前に座った。ちなみに座席は音もなくスーッと後ろに下がっていた。
「ごめんな、伝え忘れてたわ。職業柄あまり本名を他人に明かすことがなくて、偽名で通してるんだ。ありゃ警戒されたな……」
『そういう大事なことを伝え忘れないでください』
「だからごめんって。俺も焦ってたんだ、アイツの現状をなんとか出来そうな奴をやっと見つけて」
『そんな言い訳が通用するとでも?』
声を極力抑えつつ恨めしく眼を向ける。
「ねえ、お姉さん!」
先程の小学生が、無邪気な声で話しかけてきた。よくよく見るとこの小学生、よく新聞で見るお手柄少年ではないだろうか。なるほど、注目を集める人間にも怪異は寄り付く。妬みという形で私怨を買ってしまっているようだ。あまり関わりあいになりたくはないが、この齢でそんなものを溜め込んでいるのが哀れに思えた。
「お姉さんは、安室さんの知り合い?」
『さぁ……人違いだと言われたから違うんじゃない』
そもそも店員の友好関係を把握しようとするのも変な話だとは思わないのだろうか。知ったことではないが。
「誰かを探してるの? 声をかけたのはその人に似てたから?」
『そうだとして、君には関係ないでしょう坊や』
「人探しなら探偵に依頼したらどうかなと思って」
『そこまで困ってない。何なの君、はっきり言って迷惑よ』
「ご、ごめんなさい」
咎めるような言葉をかけると困ったような表情をした。それに気付いた女子高生達の一人が少年を連れ戻しに来て、好奇心旺盛で、とこれまた苦笑いをしていた。
『あなたの弟さん?』
「いえ、うちで預かってる子で……あ、上の探偵事務所が家なんです」
『でも保護者には変わりないでしょう。それなりの責務はあるんじゃないかしら』
「それは……」
「ちょっと、そんな言い方しなくてもいいんじゃない!?」
声を張ったのは茶髪の子、お友達が辛辣な言葉を言われているのがお気に召さないのだろう。確かに言い方は良いものではなかったが、喧嘩腰で噛み付かれるのは心外だ。
『ならオトモダチがそう言われないようにあなただって気をつければ良かっただけの事でしょう』
「な……っによそれ」
「園子さん」
反発しようとする彼女を宥めるように先程の彼が声をかける。
「そういうお客様もいらっしゃるということです、落ち着いてください」
ただ、店内でのトラブルを避けたいだけの言葉に過ぎないのだろうが、いたたまれなくなった私は財布から紙幣と、護身用に持っている札を置いて席を立った。
『お騒がせしました、もう帰ります』
誰とも目を合わせないように足早に通り過ぎる。
「あの、お釣りを……!」
『結構です』
「いえ、そういう訳には」
『なら、迷惑料として彼女達の飲み物代にでも回してください』
そう言えば言葉に詰まったらしく、引き止められない内に今度こそ足早に店を出た。対人関係においては、つくづく上手くいかない事ばかりだ。自己嫌悪に浸る私を嘲笑うように、空は晴天だった。
「あれで出ていったのはちょっとまずいかもな。次行きにくいだろ」
『……分かってます。でも代金と一緒に浄化の札も置いてきましたから、捨てられていなければ多少の気休めにはなるはずです』
「機転が効くんだか効かないんだか……不器用だな、あんた」
『生身の人間相手は、得意じゃないので』
昔から人間関係は妙な拗れ方をする。怪異が見えることで、私は付き合う人を選ぶ傾向がある。先程の少年のように、無自覚に怪異を引き寄せる人間とは関わりたくないのは確かだし、その周囲もできれば避けたい。今でこそ対抗手段は習得してはいるが、多感な青春時代はその術はなかった。見えることをそれらに隠し通すこともままならず、それらが寄り付く人間そのものを避けるしかない。当然、周囲の理解は得られるはずもなく、風当たりは強かった。怪異祓いを覚えてからも、憑かれやすい人間を避ける性分は変わらない。術においては私は完璧ではない、と思っている。半端に祓えば怨みを更に募らせて戻ってくるのだ、不用意に使える代物ではない。要は限りなく保身的なのだ。それが結果的に、何の咎もない人に針を刺すだけ。
「ヤマアラシのジレンマってやつか」
スコッチの言葉は言い得て妙だ。しかし実際のヤマアラシは確か、寄り添う相手にトゲを刺さないようにトゲのない部分を寄せ合う習性があったはずなので、私の性質を彼らに当て嵌めるのは烏滸がましいと言える。人に優しくなりたかった、不安を打ち払えるだけの力がほしかった、昔の私はそんな無い物ねだりばかりで、他人との距離感を測ろうともしていなかった。そんな人間に、無条件に手を差し伸べてくれる人など居るはずもないのは分かっていたはずなのに、どうしてそれを求めようとしたのだろうか。甘いにも程がある。
『……今度、仕事のない日に、もう一度行ってみます。あなたの依頼も進展させないと』
今日のあの少女達はあの店の常連のようだし、あの店員が人違いでなければ再度出直す必要がある。折り合いはつけなければならないということだ。スコッチはただ黙って頷いて、幼い子をあやすように私の頭を優しく撫でた。温度なんてないはずなのに、温もりがそこに残っているような錯覚すらして、なぜだか切なくなった。彼が故人であることが惜しい。彼が救いたいと願っているあの人だって、きっと同じことを考えたのではないだろうか。
守護霊と言えど人に取り憑いた怪異に過ぎないが、良いも悪いも影響を及ぼすのは憑いた相手への思いの強さによる。それに加え、その相手からの未練や存在の信仰によっても怪異は力を得る。つまり現世に留まる事ができるということ。死んだ人間が誰からも忘れ去られた時二度目の死を迎えると言うのは、何も精神論の話だけではないのだ。だからスコッチが現世に留まっているのは本人の意志でもあり、あの彼の望みでもあるのだろう。それだけの絆を結びながら死に分かたれてしまった事実が、心に陰を落とさせた。
シフトの調整をしてもらい、夕方頃に体が開くように仕事を上がったその足で再び例の喫茶店を訪れた。やはり先日の一件があるため店のドアを開けるには少し勇気がいる、その勇気が微塵も出てこない私は看板の前で立ち尽くすしかできずにいた。そろそろ不審者として通報されても文句が言えない。私の存在に気付いたのは店内をせっせと動いている店員ではなく、カウンターでコーヒーを挽いている店員、でもなく、むしろその店員に憑いている私の依頼人である。へらっとした調子で以前座った席に腰掛けこちらに手を振ってくるものだから少しばかりイラっとして、ええいどうにでもなれ、という気持ちに傾き漸く扉を開ける決心がついた。
「あれ、あなたは……」
身を任せようとした勢いに水を差すタイミングで飛んできた声に、つんのめるような思いをする。その正体は、以前の少女達。前と違うのはあの少年とボーイッシュ風な彼女がいない程度だ。わざわざ夕方を選んでここへ来たのだから、遭遇する可能性は十分あると覚悟はしていたが、今ので臆病がまた顔を出した。
『……あ』
「あの!」
口を開きかけた瞬間、向けられた声にビクリと肩が跳ねる。茶髪の少女の溌剌とした風貌らしい強い声は少し苦手の部類に入るが、今は置いておく。
「この前はごめんなさい! 変に突っかかっちゃって…」
『いえ……私の方も動揺してたとはいえ大人気ないことを言いました……』
「あの、もし良かったら一緒にお茶でもしません? ここの喫茶店は落ち着けて良い所だし、コーヒーもサンドイッチも評判良くて! 折角来てたお客さんに私達のせいで遠ざかってほしくないんです。……なんか、売り込みみたいですけど」
少女の勢いに思わず頷くしか出来なかった。本人の言う通り店の客引きだか売り込みのような言葉はさておき、以前口にしたコーヒーは確かに良い味だった。最近のお高い缶コーヒーよりも。あの時限りにしてしまうのは惜しいとは思っていた。彼女達の誘いに乗って再び店に足を踏み入れると、店員の彼はすぐに気が付いた。
「あなたはあの時の……良かったです、またいらして頂けて」
そう言いながら私に差し出したのは小袋に収まった小銭。どうやら前回の勘定のお釣りをわざわざ残してあったようだ。隣の彼女達の飲み物代にしてくれても良かったのに、そう呟けば、それは彼女達が断ったそうで、申し訳なさで肩をすくめた。
「それから、これも」
エプロンのポケットから続けて出てきたのはこの場に置いていった浄化の札。神社の護符か何かだと思ってくれたのか、捨てずにいたのだろう。
『……持っていてくださったんですか』
「ええ、お守りか何かだと思いまして。流石に店内に貼っておくと変な顔をされかねないので、僕が持ち歩いてたんですが……」
なるほど、道理で。浄化札には微弱な怪異なら祓ってしまう程度には力を込めてある。その効力が切れているということは、少なからず彼への恩恵は成したということだろう。依然として彼の背後にはそれなりに取り憑いたモノが蠢いている。一先ず礼を述べて、ただの紙切れになった札を受け取った。
席に案内され、蟠りが消えたと考えている少女達は私を巻き込んで談笑を始めた。互いの名前もその時に教え合い呼び合うことになると、話は私の初来店時のことに及んだ。
「そう言えば憂希さん、あの時安室さんに声かけてましたよね? お知り合いだったんですか?」
「あ、それ私も気になってた! 実際どうなんですか? もしかして昔のコレとか!」
「園子、それおじさんみたいだよ」
安室、と言うのがあの彼の呼び名であり、都合上彼が使用している偽名だというのは依頼人から聞いたこと。カウンターの方をちらりと見れば、彼はコーヒーの抽出に集中しているようだったが、耳は傾けているだろうと感じた。
『いえ、人違いだったみたいで』
「へぇー」
「じゃあ、誰か探しているんですか?」
『……ええ』
探している、と言うと、既に見つけてはいるから語弊ではあるが、利便上そうさせてもらう。
「なら、父に頼んでみませんか?」
私の父、毛利小五郎って探偵なんです、と続けられた娘らしい言葉に、少し戸惑った。確かに世間では名探偵と称えられているが、違和感が先行していて信用できるほどの人物とは思えないのだ。私が難色を示しているのを察してか、注文したブレンドコーヒーを持ってきた彼が助け舟を用意してくれた。
「きっと名探偵である毛利先生に人探しなんて些細な依頼をするのを躊躇われているのでは? 僕で良ければお伺いしますよ」
「安室さん!」
こちらにも都合の良い話を振ってくれたのはまさに僥倖だ。用があるのはあなたなんです、とはこの場では言えないがこれは好機。私の前の空席に頬杖付いて話を聞き流していたスコッチもグッドサインと共にウインクを飛ばして来る。私が依頼をする意志を示すと、スコッチが離れた空席にエプロンを外した安室さんが腰を下ろした。
「それで、あなたが探している人物とは、どんな人なんですか?」
『……私は、その人の事はあまり知りません。ある人物から依頼されたんです、その人を助けてほしい……と』
「ある人物?」
私は暫し口を紡ぐ。依頼人は本名を忘れているし、唯一覚えている呼び名は曰く付き。しかも依頼の渦中の人物は訳あって偽名を使って暮らしている。とても安穏とした喫茶店で話す内容ではない、そんな気配がする。しかも隣りには純真無垢な女子高生、事実をそのまま伝えるのは躊躇われる。言葉を選ぶ私の背後で、スコッチが口添えした。
「本当の中に嘘を織り交ぜて話せれば一番いいんだけどな、それでなくても目的は二人きりで日を改めて落ち会えれば果たせるんじゃないか?」
そうだ、この場で事細かく詳細を語る必要は無い。場所を変えるべきだと判断してくれれば十分なのだ。話の方向性に目処を立て、私は口を開く。
『……スコッチ、という名前に聞き覚えはありませんか』
安室さんは、以前私が本名を呼んだ時以上に反応を示した。それまでの人当たりの良さそうな雰囲気が、一気に肌を刺すような冷たいものに変わった。
「どこで、その名前を」
『依頼人の自称です。彼はとある人物を救ってほしいと私に依頼しました。私が探しているのはその人です』
口元に笑みを称えたまま、まるで尋問のような問い方をする安室さんに内心では冷や汗をかきながら努めて平淡に答えた。本当ならその探し人の名前なりを聞くところを、依頼人の方に着目すると言うことは彼にとって無視出来ない要素なのだろう。名前を聞いただけで一変するくらいだ。
「その依頼人と知り合ったのはいつですか」
『数週間前です』
素直にそう答えると、彼は眼を伏せ詰めていた息を静かに吐き出した。
「すみませんが、その話には信憑性がありません」
「え? どうしてですか?」
「速水さんの依頼人という人物、僕の想像が正しければ四年前に死んでいるんですよ」
「えぇ!?」
死人が動き回り、人に頼み事をするなど、本来なら有り得ないこと。それは重々承知の上だ。それよりも当人が死んでからの年数だ。
『やはりそれだけ前ですか。それなら恐らく自分の名前も忘れるのも肯けます』
「……どういう、事です。まさかとは思いますが、幽霊がいるなんて言いませんよね。本当にあなたが彼を見たのならその特徴を上げてみてくれますか?」
隣で可哀想なほど青ざめている少女には悪いが、私はちらりと右側に佇む半透明の姿を見た。
『……短い黒髪に、つり目がちな青い眼……顎髭は似合ってませんけど、爽やかさのある、人当たりの良さそうな顔の……』
彼の反応が、事実であると証明しているようなものだ。これで私の機密は明るみに出てしまうようなものだが、疑われるよりはいくらかマシだ。
「……誰かに、彼のことを聞いたんですか」
『聞くも何も……彼はこの場にいますよ。私の隣に』
ガタンっと机が大きく揺れ、グラスが倒れてそのまま床に転がり落ちるのと、少女達が悲鳴を上げるのはほぼ同時だった。割れたグラスやらこぼれた飲み物の始末のため話は一時中断になり、怪談系の苦手な彼女達には冗談だとフォローを入れた。
「あなたの依頼については、日を改めてお窺いします」
片付いたテーブルに落ち着いた後、私の求めていた返答をする彼に少しばかり安堵する。あの流れから話を戻すのは少々はばかられたし、彼とは他の誰もいない状況で対面する必要があるのも事実だ。
『時間と場所の指定は、私にさせて頂けますか』
「……ええ、構いませんが」
『でしたら、明後日正午に、杯戸公園の噴水前で』
「分かりました、ではその時に」
これでようやく本題に移れるというもの。話に区切りがついたところで暇を告げると、この機会を呼び込んでくれた少女達は少しばかり名残惜しそうにしていたが、今度は彼女のおすすめのサンドを食べに来ると約束を提示すれば、嬉しそうに笑ってくれた。
コーヒーのお代だけ精算すると、探偵の顔からすっかりごく普通の喫茶店員の顔に戻った安室さんに見送られる。お釣りをしまったついでに前回と同じ性質の札を彼に差し出した。
『ほんの、気休め程度ですが』
「え? でもこれは……」
『明後日まで持っていてください』
彼の後ろで蠢くもの達が動きを見せないとも限らない。護符の効力が切れた隙を狙って来ないとも言いきれない以上は、護身してもらう方が安心できる。当然そんな理由は口には出さないのだが、先程までの私の言動やらで何か察するものがあったのだろう、彼は何も聞かずに護符を受け取った。
「上手く事を運べたみたいだな」
店を出て人通りの少ない路地に逸れた辺りで、無言でついてきていたスコッチが告げる。私としてはもう少し手短に話をまとめるつもりだったのだが、少々余計な事を話しすぎてしまったように思う。この依頼人である亡霊が視えている事など、言うつもりではなかった。あれを事実と受け止められているかは別として、自ら口にするなど避けねばならないことだった。幸い、彼はリアリストのようだし、私の言葉をただはぐらかすための虚言だと思ってくれているとも考えられる。あの少女達から勧められた毛利探偵への依頼を断っていた辺りで、彼女達がいる前で語りたくない内容があると判断してくれたのかも知れない。もしくは私が出した依頼人の名に関することを気にしてのことか。どちらにせよ悪い結果ではないのは確かだ。あとは取り付けた時刻までに下準備をしておけばいい。
あれから二日、私は約束の時刻の10分前に所定の場所にいた。ちらほら人の姿は見受けられるが、この噴水前に屯する者は殆どいないことは把握済みだ。その証拠に、地面に書き記した陣を誰も見てもいなければ気付いてもいない。ましてや陣を記す私の姿さえ誰の気にも止まっていない。それくらい、公園の割には人気の希薄な場所だ。5分ほど待てば、早めにと考えていたであろう彼の姿が公園の入口に見えた。噴水前に立ち尽くす私に気付くと、真っ直ぐ歩を進めるが、残り数メートルになり第一声を発しようとしたところで、私は彼の言葉を遮った。
『止まってください』
彼が足を止めた場所は、丁度書き記した陣の中央だ。何かあるのかと首を傾げる安室さんを余所に、私は全神経を研ぎ澄ませる。カッターの先で右手親指から血を滲ませ、陣の中に数滴垂らした。今からやろうとしているのは、ある種の契約。
『──……我、彼の者を護りし者。盟約に従い、汝の御力を以て悪しき異形の者を打ち払え』
言葉に呼応するように空気がざわ付き、1つ手を打ち鳴らすと、記した陣に沿って清浄な光が溢れ出して視界がホワイトアウトする。吹き付ける風が轟々と耳の横を通り過ぎる音に混ざり、声とも言えない怪異の断末魔がいくつも聞こえていた。
視界を取り戻した時、地面には記した陣も血の跡も無く、代わりに無数の木の葉が散っていた。そして、当の安室さんは呆然とその場に佇んでいた。その背後にはもう何も見えない。薄らと銀色の輪光が彼の近くで煌めいて、神格に近い加護を授かったのは明白だ。これでもう、異形に憑かれることも無いだろう。今し方彼に近づいた怪異は銀色の光に当てられて崩れ去り消えてしまった。そこまで見届けていると、ようやく我に返った安室さんが言葉を紡いだ。
「……速水さん……、今のは…」
『信じなくても構いませんが……悪霊とか妖怪とか、そういう物を引っ括めて私は怪異と呼んでいます。最初にあなたを見かけた時、生きているのが不思議なくらいその怪異があなたに憑いているのを視ました。今のは、それらを祓っただけの事です』
怪異、と小さく呟く様子を見るに、到底信じられないと思っているのだろう。
『ごめんなさい……依頼というのは嘘なんです』
「……それは、どちらの」
『人探しの方です。私に依頼してきた人物がいるのは事実で、あなたを救ってほしいと頼まれたのは本当なんです。あなたが四年前に亡くなったと言った彼は、怪異となって存在しています……』
「……あいつが」
『ええ。彼は、あなたに取り憑く淀んだ怪異からあなたを護るために、ずっと傍にいたんでしょう……命を落としたその時から』
当の彼は先ほどの祓いで消えた訳ではなく、私に憑き直すことで消滅を免れていた。今こうして神格に護られた安室さんに彼が再び触れることは到底かなわないのだが、それも仕方の無い事だ。彼が怪異として現世に留まる限り、神格憑きの人間とは完全に世界を隔てるしかない。この日、この計画を実行に移す際、彼にはこの事実は伝えている。それも承知の上で、私に怪異祓いをさせたのだ。
死んだ人間というのはどれもエゴイストだ。勝手な思いで取り憑いて、勝手に事を起こして、勝手に去っていく、生者の思いなどを汲んではくれない。現にこうして勝手な頼み事を押し付けてきた彼の存在を知り、ぼろぼろと涙を零す人がいるというのに、肝心の当人にはどうすることも出来ないのだから。
「……──」
涙に咽ぶ彼が呟いた言葉は風音に阻まれて私の耳には届かなかった。けれど。
「……あぁ、俺はここにいたよ。ゼロ、お前といたんだ」
そんな言葉を返したスコッチを見て、きっと今のが、彼の本当の名前だったのだろうと察した。今に神格に弾かれてもおかしくない、その彼が、温もりもとうに消えた指先で、滲んだ薄氷色から零れた雫をひとつ掬った。当然、怪異が生者の一部に干渉できるはずもなく、通り抜けるだけなのだが、彼の心か、強い思いか、そんな不確かなものが伝わったのだろうか、透き通るような金色の髪を揺らして、視線が虚空を捉えた。
「……そこに、いるのか……?」
本来なら視ることの無い姿をその眼に映しているのか。それとも彼に宿った神格が視せているのか。私に確かめる術はないのだが、彼は確かに、怪異となった友人を見据えているように見えた。その真偽を知ってか知らずか、スコッチはやわい金色をくしゃりと撫でる。
「じゃあな、……零」
ああ、全く、とんだエゴイストだ。もう一人でも大丈夫だ、なんて、そんなことがあるはずもないのに。タイムリミットだと言うように、神格が彼を弾いた。まるで、さよならだけが彼らの結末なのだと、そう嘲笑うかのように、ぬるい午後の風が吹き抜けていった。
木陰に覆われたベンチに場所を移し、暫く無言の時間を過ごしていれば現実を消化して少し落ち着いた安室さんは静かに言葉を紡いだ。
「……すみません、取り乱してしまって」
『いえ……取り乱すという程では……、あの、大丈夫ですか?』
「……ええ、ご心配おかけしました」
これは直感だが、恐らく嘘だ。けれどそれを指摘したとして、どうする事もできない私には引き下がることしか出来なかった。この人は嘘をつく事に慣れている、それは初めて会った時から薄ら分かっているつもりだ。彼にとって必要なのだろうということも、何となく想像出来てしまう。だからきっと、"もう大丈夫"は、大丈夫じゃない。そんな危うい印象を覚えても、何にもなれない自分に不甲斐なさを感じる。私が極端に人との関わり方が下手くそなだけなら良いが、きっと今この状況下で隣にいるのが私じゃなかったとしてもこの人はあの嘘を吐く。そんな気がしてしまう。
『……あの、安室さん』
「はい?」
見切り発車で名前を呼ぶが、言葉を選ぶ私の視界の奥でスコッチが首を横に振る。踏み込むべきでは無いと言うように。当たり前だ。成り行きとはいえ本名を知ってしまっている訳だが、本来なら有り得るはずのないルートを辿った関係だ。この縁は結んではならない、これ以上を想ってはならないのだ。
『……いえ。頑張って、くださいね、……探偵のお仕事』
「……ええ」
これで、何の接点もない赤の他人に戻れただろう。彼の方はこの後例の喫茶店の仕事があると言うので公園を立ち去る後ろ姿をそのまま見送った。人の疎らなグラウンドを眺めたまま、完全に歩く気力を無くした私の隣にスコッチはまだ居座った。
『……なんでまだいるの』
「なんでって、お前に憑いたんだからそりゃいるだろ」
『いや、成仏してください。視える人間が怪異に憑かれてるといろいろ面倒なんだから』
「そうは言っても、どうすりゃ成仏できるのか俺にも分からなくて」
『……祓えばいいの?』
「やめてくれ」
とはいえ、人に取り憑いただけの亡霊は長く留まりすぎるとやがて現世と癒着してしまい、本来逝くべきところに行けなくなってしまう。仏教で言う処の輪廻転生の輪から外れてしまうのだ。成仏するか、強制的に現世から追い出すかしなければ、人魂は妖堕ちをして二度と生まれ変わることが出来なくなってしまう。彼にそんな重荷を背負わせることなど、私にはできない。それを正直に伝えると、スコッチは少し考えてから言葉を紡いだ。
「お前はどうなるんだ」
『……はい?』
「俺が消えたら、また一人になるんだろ? お前が人付き合いヘタクソなのは充分わかった。だから、今度は俺が何かしてやりたいんだ。せめてお前が独りで生きなくていいようにさ」
『私は……今まで充分一人で生きました。これからも、それは変わらなくていいんです。変える義理も、願いもありません。……今更、誰かと縁を結ぶなんて、私には過ぎた話です』
彼からしてみれば、意地を張っているようにでも見えるのだろうか。少し困ったような顔で笑っていた。
「じゃあ、余計なお節介だと思うなら俺を祓ってくれよ。お前ならそれもできるだろ? もしそうじゃないなら、まだお前の傍にいさせてくれ」
『……意思の疎通が出来る怪異を、合意無しに強制的に祓うなんて、そんなこと、私にできる訳ないじゃないですか』
「じゃ、決まりだな!」
太陽を思わせるような笑顔を向けてくる彼が眩しくて、眼を背ける。
『底抜けにお人好しだと思えば、案外策士なのね』
「まぁ、こういう性分だからな。俺はあいつらほど、真っ直ぐじゃなかった」
今はもう過去になってしまった友人のことを思い浮かべているのか、彼の瞳にはどこか寂しさのようなものが混ざり込んでいるように見えた。
『……あなたの呼び名を、考えなきゃいけませんね。いつまでもお酒の名前で呼ぶ訳にはいかないだろうし、本当の名前で縛り付けたくはない』
いつでも彼が現世と別れられるように、選択肢は残して置かなければ。
『……──光。そう呼んでもいいですか』
一泊遅れて、眩いばかりの笑顔で頷く彼の存在が、私の世界に差し込む光になり得るだろうか。
End