シキヨミ怪奇譚
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入院生活三週間にして、早くも暇を持て余しつつあった伊達の元を訪れたのは数えてみれば両親と、交際中の彼女と、一課の顔馴染みが数人程度に留まり、一人の時間をこれでもかと言うほど過ごしていた。彼女であるナタリーは足繁く泊まりに行っていた頃の頻度会いに来てくれているが、もう直テスト期間という事もあり塾の仕事が忙しくなって来ているらしく、あまり来れなくなることを申し訳なさそうに話していた。何も気にすることはない、受け持った生徒の面倒を最後まで見てやれと送り出したのはつい先日の話だ。
一人でいるこの三週間のほとんどの間、いろいろとこの先のことを考えるようになっていた伊達は、退院してからの身の振り方を悩んでいた。手術を終えた直後には、退院後は当然のように刑事部に戻るつもりでいたのだが、今回は運良く、人ならざる者の気まぐれもあり助かったが、事故に遭ったと聞いてきたナタリーの今にも倒れそうなほど心配した顔を見てしまっては、その決断を揺らがせる。捜査一課はとても安全とは言い切れない部署だ。いくら自分が警視庁最強などと噂されようと、警察学校次席の成績をとっていようと、運が悪ければ呆気なく命を落とす可能性がある配属先だ。それ自体を恐怖に感じたことは無い、だが、もしそれによって、彼女が心を病んでしまったら。絶望して後追い自殺でもしてしまったら。それを思うと、これを機に転属するか、もしくは刑事をやめるかという選択肢頭の隅に浮かぶのだ。それを何度か、警察を目指した頃の思いを引っ張り出してかき消すが、彼女の存在がそれを躊躇わせる。この先、彼女を独りにしてしまう事への恐怖でじわじわと伊達の心情は浸食されていく。よく見知った同期達が目の前に現れたのはそんな頃だった。
軽いノックの後、こちらの返事など待ってもいないような雰囲気で病室の扉が開かれる。必然的にその方向に目を向ける事になるのだが、伊達は三週間と少し前のように自分の目を疑った。そこに佇んでいた男の風貌には見覚えがありすぎる。二年ほど前、突然同じ部署に飛ばされて来ていた。癖のある黒髪にサングラス、確か当時は喪に服した黒のスーツ姿だったか。同期の一人であり、親友の後を追うように向こう側へと旅立ったと記憶していたはずの、松田陣平がそこにいたのだ。
「よう、案外元気そうじゃねーか」
「松田……お前、生きてたのか」
「おう。化けて出た訳じゃねぇぞ」
姿は鮮明、言動もごく自然で、決して目の錯覚でも自分の脳が作り出した幻でもないと直感できる。しかし、話に聞いていた最期の瞬間から、とてもじゃないが無事に生還できたとは考えにくいと、否定的な感情が湧いてしまうのは確かだ。自身の入院しているこの病院が爆弾犯の間の手から救われたことが、何よりの証明ではないか。
「伊達、今お前が考えてること当ててやろうか? 『状況的には明らかに死んでるはずなのに、どうやって生き延びたんだ』ってとこだろ」
「……いつからエスパーになったんだ」
「いや? その感情に見に覚えがあったからな、そんなことだろうと思っただけだ」
松田のその言葉は、あたかも後の二人も生きているかのような。そんな些細な引っ掛かりを覚えたと同時に、伊達は自分の生死を分けたあの奇妙な布面の着物姿を脳裏に過ぎらせた。もしや、あの妖怪娘行っていた「奴ら」というのは、先に逝ったと伝え聞いていた同期達のことなのだろうか。
「一つ聞いてもいいか?」
「聞きたいことは一つに限らねぇだろ? 俺から言えることならいくらでも」
「じゃあいくつか聞くが、お前が助かったのには、妖怪ってやつが絡んでたか?」
「あぁ、俺は憂希に助けられた一人だ」
当然のようにあの妖怪の名が出るということは、伊達の予測は確かだった。
「一人、ってこたぁ、萩原や諸伏も生きてるってことでいいのか?」
「……俺にそれは断言できねぇ。俺もそうだが戸籍上は確かに死んだことになってるからな」
記録としては確かに彼らは死んだものとして処理されている、しかし伊達と同じようにあの妖怪娘に助けられているのならどこかで生きていてもおかしくない。つまり松田が言いたいのはそういうことだろう。
「ま、その内こっちに顔出すんじゃねーか?」
「……だな、その時を気長に待つとするか。まだギプスの世話になってるだけに退院は遠そうだしな」
回復の経過は順調だと言う医師の話だが、脚のリハビリの為に入院が続いている状態だ。完治するまでは仕事に復帰しても支障が出るだろうという、刑事部長の寛大な措置のおかげである。
「んじゃ、そろそろ帰るな」
「おう、顔見れてよかった。またいつでも来いよな」
生きているとは思いもしなかった相手に別れの言葉が、ましてや再開の口約束ができるのは何とも不思議な気分だ。そんな奇妙でいて確かな喜びを噛み締めていれば、背を向けた松田が不意に思い出したように振り返る。
「そういや、生き残った後は偽名で通してんだ。今は松原陣って名乗ってるから、どっかで見かけたらそっちで呼んでくれ」
それだけ言うと、伊達の返事を待たずに扉の向こうに去っていった。
「……偽名か」
再び一人になった白い部屋でポツリと呟いた。わざわざ偽名を使って過ごしているということは、自分たちが生きていることを周りに、庁内の顔見知りに知らせる気はないのだろう。戸籍上ではとうに死亡し、空っぽの棺を荼毘に付すのは二度見届けたが、そのどちらも火にくべられたのは彼らの魂ではなく肩書きなのだと、ぼんやりと理解した。ただ、同期の主席であった降谷が物伝いに知らせてきた彼の幼馴染は、おそらく葬儀すら行えていない。いや、事実上の死亡は確認されているだろうが、なにせ公安部でのことだ。公的な儀式として喪に服す機会は無かったことだろう。遺品と思われる破損した携帯だけを伊達と同じ刑事部の彼の兄に渡してくれと、いつの間にかロッカーに忍ばせられていたのがその証拠だ。だが、そんな彼も恐らくどこかで生きているはずだ。松田は断言するのを避けていたが、彼が言っていた通り偽名を使って別人として生きていると解釈すれば、あの二人の名を持つ同期達は事実上の死亡確認がとられているから「生きている」ことを口に出せなかった、そう捉えるのが妥当だろうか。
「とりあえず、見舞いに来るのを待つか」
そこそこ広い病室にそこそこ大きな独り言を零しながら、起こしていた上肢を布団に預ける。窓の外では、寒さを耐え忍んだ白梅がその蕾を震わせていた。
日課になりつつあるリハビリから戻った時、タイミングを見計らったように見舞いの来客があった。それはやはり見知った顔で、つい先日まで逝ってしまったとばかり思っていた同期の一人だ。
「萩原! 元気にしてたか?」
「まあな。あんま驚いてないってことは、もしかして松田から聞いてたか」
「直接言われたわけじゃないが、発言から推測すればそういう事になるからな」
「さすが俺達の首席サマだ」
「茶化すのはよしてくれ。降谷には一度も勝てなかったんだからよ。首席が空白じゃ示しがつかねぇってんで後釜で繰り上がっただけだって、前も話したろ」
「覚えてるって」
警察学校を卒業する際、首席として生徒代表を務めたのは伊達だった。公安に引き抜かれることができる既に確定していた降谷を、表舞台に上げることはできないというのが警察庁の判断だったとは事前に聞いていたし、当然と言えば当然の流れだった。当時は、誰もそれにざわめきなどしなかった。同じ班だった四人、特筆すれば松田と萩原だが、度々酒を飲み交わしてはその話で軽口を叩いたりもしていたものだ。
思い出に浸りかける萩原だが、気を取り直してあることを問いかけた。
「諸伏とは会えたか?」
「ん? いま、まだ顔見てないな」
「先に行ってるって言ってたんだけど、どこかで追い越したか……」
一緒に来るという選択肢はなかったのか、と何とも言えない顔になっていると、伊達は不意に視界の外で何かの気配を感じた。萩原も伊達の後ろの方に視線を向けていることに気付き、誘われるように振り返るとそこには。
「諸伏!? お前いつから!」
「伊達がここに戻ってきた時から」
いたずらに成功したような笑顔を向け、悪びれた様子のない彼の手には上質そうな黒い羽織がある。一目で事の次第を理解出来たのはこの場の中では萩原だけだ。
「さてはお前、羽織使いたかっただけだな?」
「ドッキリには打って付けだろ」
「……寿命縮んだらどうしてくれんだ。本当は生きてるって事前情報が無かったらいよいよ化けて出たかと思うだろ」
「天使の輪っかでも作ってつけてくれば良かったか?」
「洒落にならんからやめてくれ」
どっと肩が重くなった気になる伊達を余所に、景光はやり遂げたような顔をしていて、その対面では萩原がケラケラと笑う。楽しげな二人に、ふと警察学校時代のような懐かしい時間に舞い戻ったようで悪い気はしなかった。またあの頃のように、というのは難しいかもしれないが、自分のメールに返事も寄越さなくなった降谷を巻き込んで集まれたらと、在りし日の姿を思いながら夢を見るくらいは許されたい。
「……そういや」
ふと思い立ったのは二人はもちろん、以前顔を見せに来た松田のことだ。
「お前ら二人も偽名で過ごしてるのか?」
「まぁ、戸籍上では死んでるからな」
「俺は死んでないといろいろまずいのもあるし」
「……諸伏のはあの携帯見れば伝わる」
派手に損傷し、焼け焦げた彼の携帯は持ち主の生存など微塵も感じられないほどだった。それでも辛うじて裏面に刻まれた[H]の文字を視認できたおかげで、持ち主の正体だけは推察できたのだが。なぜそんな状況に追い込まれるのかというところは、公安部の人間だという点を鑑みれば納得は行く。と、この件はあくまでも彼が本当に逝去していた場合の話だ。今はそれはさておくとして、最初の来訪から気になっていたことだ。
「松田に聞きそびれたんだが、別人で通してるなら仕事とかどうしてるんだ?」
「配達業者だよ。本職で鍛えたモンも使えるし、運転するのにまず免許いるだろ? 佐山は企業で取らせてくれたから、偽名の身分証が手に入るのは強みだよな」
ほら、と提示してきたのは実際に有効と見なされているらしい運転免許証。氏名の欄には萩原が使っている「萩野研一」と印字されている。俺も同じく、と景光が取り出した方には「緋川晃」の文字があった。
「ほー、合理的だな。にしても萩原のこれ分かりやすいな」
「全然違う名前にして反応できなかった時に怪しまれたら嫌だろ?」
「分からんでもないが」
「そう考えると緋川って諸伏に何も被ってないよな」
「うーん、生憎偽名には慣れてるからな。むしろ潜入時代のやつから捩っただけ」
「そういう事」
公安の所属なら潜入調査も珍しくはない。一時景光が警察を辞めたと風の噂を耳にしたのは恐らくその捜査のためだったのだろう。それと似通った時期から降谷との連絡がつかなくなっていた事と、彼が託してきた景光の携帯の事を合わせれば、潜った先は同じだったはずだ。それと同時に、命の危険が平然とすぐ隣にいるような状況下に、降谷は今単身で潜っている。前から案じているが、自分の力を過信し過ぎて身を滅ぼさなければ良いのだが。
「諸伏、降谷が今どうしてるか分かるか?」
「ゼロ? ……状況は多分、良くも悪くもないってところだろうな。俺がスパイだってバレた後、暫く近くにいたゼロも疑われるのは必至だっただろうから。こう言うのも何だけど、向こうの信用を取り戻すためにいろいろ動いてたのは確かだ」
「そうか……」
「あいつ、俺達が死んだ状況を結構疑問視してるみたいだぞ」
萩原は少し前に、本庁の人間と何かの受け渡しをする降谷らしき人物を見かけていた事を話す。警備企画課の存在を知っている警視庁の人間と言えばほんの一握りしかいない。その人物を特定し、残された捜査資料の閲覧履歴を割り出せば、萩原と松田が殉職したとされる事件が浮かび上がった。その内容には、どちらも殉職したと思われる一名が行方不明と下の方に小さく書き足されていた。
「受け渡したの多分風見さんだと思うんだけど、あの人も大分うっかりだよな」
「それでいいのか公安部……」
先行きが不安になるような景光の発言はともかく、例の記載がある捜査資料を確認した降谷なら恐らく、景光の時も含めて三人が忽然と姿を消していることには気付いているだろう。
「釈然としないだろうな」
現実主義の降谷のことだ、人の目に映らない存在を信じているはずもなければ、それが実在しているなどと思い当たりもしないはずだ。そうなれば、後に残るのは多大な違和感のみ。府に落ちるところがまるで無い、もやもやした状態を引きずるしかないのだ。
「早いとこ会えれば良いんだけどな、下手に近付けば組織の認識化下に入る可能性もあるし」
「難しいところだな。潜入任務の弊害になるのはまずい」
当事者だった景光と大まかな事情を聞いていた萩原が都合のいいタイミングを図りかねている中、伊達はふと妙案を思い立った。
「なぁ、俺が退院してからの話になるが、こういうのはどうだ?」
今度は伊達が、悪巧みをする子供のような笑みを浮かべる番だった。
***
あの日の病室で話し合われた内容はその日の内に松田にも伝えられ、伊達の退院を待ち構える日々であった。都合よく当日に出向けるわけもないので、一先ず三人が未だに狭い狭いと言いながら暮らし続けているアパートを言伝し、退院したらここまで出向いてもらう事にしているが、それなりに身の丈のある男三人が雑魚寝するのもやっとなスペースにさらに体格の良い伊達が加わるとなると深刻な問題が発生する。いつかのようにあの妖怪娘がふらりと現れれば、また一段とむさくるしさに拍車がかかったとでも言われそうだ。すっかり見かけなくなってしまったあの鶯色を思い出すと、無くしたはずの場所が疼くような感覚になる。出逢ってからとうに六年が経っている間柄ではあったが、伊達の一件以来姿を見かけていない。萩原は元々妖の類は視ない、彼女が視えていたのは一時とはいえ死の淵を見たせいだ。助かった後も当たり前のように彼女の姿を認識できていたから忘れかけていたのだが、憂希は確かに妖怪で、見えないことが当然なのだ。
「………見えないってのも、案外寂しいもんだな」
知らなければ何も変わらなかった光景も、その存在を知ってしまえばどこか欠けたような景色に見えてしまう。もはや憂希がいたという証明は、壁の縁に吊るされた黒い羽織だけだ。
ピーッと無機質な高周波音で意識を現実に引き戻される。安売りされていた、いくらか前に出たモデルの電子レンジが解凍修了を知らせていた。昨晩、最後の診断の結果が良好で翌日の退院が決まったと伊達から連絡を受けていて、丁度この日が非番だった萩原は快気祝いを口実に夕食を豪勢にしてやろうと思い立ち、昼間から備え付けの狭い調理場にこもっているという訳だ。同期の中で一番料理の腕があったのは降谷だったが、時点で誰かという話になったときに判明したのが、萩原が料理ができたということだった。病院食では満足出来なかった伊達のためにも、ガッツリ食べられるメニューを用意するつもりである。
「さて、やりますか」
買い込んできた野菜もふんだんに使いながら、様々な肉料理でテーブルを埋めるべく腕を振るうのだった。
解凍の住んだ豚ロースを細切りにした後、ボウルに移して塩胡椒で下味をつけてから片栗粉を全体にまぶす。それとは別に種とワタを取ったピーマンとパプリカを細切りにして、市販の細切りタケノコを水切りしておく。下味をつけた豚肉をゴマ油を熱したフライパンで解しながら火を通し、後から野菜を加えてしんなりするまで炒める。仕上げに、オイスターソース、料理酒、醤油、砂糖、中華ダシの素を加えて味を整えれば、まずは一品目の青椒肉絲の完成である。まだ残っている薄切り豚ロースでもう一品、薄力粉を薄くまぶしてこれまたゴマ油を熱したフライパンで焼き、焼き色がつき始めたところで料理酒、みりん、醤油、砂糖、ガーリックパウダーを加えて味を馴染ませれば、照り焼きになる。皿に移してから入胡麻と刻みネギでもあれば見栄えも問題ない。
「後作るとしたら、挽き肉解凍してハンバーグと……あとオムレツでも作っとくか。あいつらもあれば食うだろ」
今更だが他の二人も交代で食事当番を回しているが、大体が一品物の男飯。松田なんかは特に典型的だ。一応調味料等もいろいろ揃えてはいるが、実際に使うのはほぼ萩原のみ。今回はそれを存分に活かせるのだが。解凍を待つ間に後回しにしていた炊飯作業に取り掛かる。一人一合は平気で食べるような連中が四人も集まるのだ、いつもは四合半のところを六合分磨いでおく。余れば冷凍してしまえば良いし、足りないと言われるよりはマシだ。炊飯器を仕掛け終えた時、玄関の施錠が開けられ帰宅を告げるセリフが舞い込んでくる。
「ただいま」
「おかえりー。あ、なんだ伊達も一緒だったのか」
「おう、丁度諸伏と出くわしたもんだから着いてきたぜ。実際呼ばれてるしな」
「萩原、なんかすごく腹の減る匂いしてんだけど、もしかしてもう晩飯準備してんのか?」
「今日は伊達お快気祝いも兼ねて奮発してるからな」
「おお、そりゃ楽しみだ」
「そうだ景光君ちょっと手伝って」
「? 分かった、とりあえず着替えてくる」
同居するにしてはプライベート空間のあまりにも無いこの家では自室などあるはずもないので、着替えですら洗面所に引っ込む必要があるのがつくづく不便なのだが、こんな生活でも何年もしていれば慣れてしまうというもの。伊達は病み上がりだからとちゃぶ台のそばで寛がされている中、さっさと着替えて手洗いを済ませてきた景光が調理場に戻ってくる。
「何手伝えって?」
「これ」
萩原が突き出してきたのは五センチ幅の輪切りになった大根とおろし器。つまりすりおろせということだ。
「魚焼く訳じゃないよな?」
「普通の荒挽きでもいいんだけど、どうせならおろしポン酢で和風にしてもいいかなって思ったわけで。松田が帰ってくるまでまだ時間もあるし」
「なるほど。了解」
受け取った景光は居間のちゃぶ台に持っていき、本日のシェフに課せられたノルマを消化しにかかった。
「なんか、母ちゃんに家事の手伝いさせられる息子みたいだな」
「なんとも言えない例えを出して来るなよー……親戚宅で育ったからその辺身に覚えがありまくるんだ」
「突っ込むとこそこか」
たまに天然なのか計算なのか分からないレベルでボケを殺してくるのが景光という男だ。
調理場では玉ねぎを微塵切りにしていた萩原が若干涙目になりながら、バターと一緒に玉ねぎをレンジに放り込んでいた。入れ替えで出してきた挽き肉に塩胡椒、パン粉を加えて捏ねておく。それよりも小さめのボウルにも挽き肉を分けておき、こちらは後で使うものだ。加熱して少し粗熱の取れたそれぞれのボウルに分け入れ、ハンバーグのタネの方には卵と牛乳を追加して粘り気が出るまで混ぜ合わせる。空気を抜きながら手で成型し、真ん中にくぼみを作ったタネを量産すれば、あとは焼くだけだ。油を熱したところに並べて中火で焼き、両面に焼き色がついたら酒を加えて蒸し焼きにする。その隙にもう一つのボウルに卵を入れてよくかき混ぜ、塩胡椒と牛乳を少し加えておく。
「……流石に少し野菜が足りないか?」
作ろうとしているメニューを見ても、まともに緑黄色野菜が入っているのが一品しかないのはいかがなものかと、冷蔵室のレタスを取り出して水で洗い、即席サラダにしてしまう。ついでにトマトも同じく水に晒して八つ切りにすれば彩りも問題ない。頃合いを見て水蒸気で中身の見えなくなった蓋を開ければ、食欲を掻き立てる肉の焼ける匂いが辺りに漂い、それは例外なく居間の二人の元にも届いているだろう。肝心のものは爪楊枝を刺してみれば透明な肉汁が流れているのでよく焼き上がっているようだ。これも大皿にあけ移して、最後の一品に取り掛かる。大きな円形に焼き固めてしまって、挽き肉と玉ねぎのスパニッシュオムレツ風に仕上げる算段だ。卵が焼き固まってきたら丸ごと裏返し、再び蓋をかぶせて蒸し焼きにする。中まで火が通れば完成だ。
先に作っていた料理を温め直していると白米も炊き上がりを告げ、それを待ち構えていたように松田も帰宅した。
「お、ちょうど帰ってきた」
「今日の夕飯はすごいぞー」
「ただいま。って何だその量、机埋まってんじゃねーか」
「俺の快気祝いだっつって萩原が張り切っててな!」
「そういう事」
先ほどから立ち込めている香ばしい匂いによって、よく食べる部類各位は例えるならはらぺこあおむしである。食べ過ぎて腹を壊すことはないと思うが。さっさと着替えてきた松田が合流し、ついでに景光と伊達が揃ってこさえて来た缶ビールを狭い食卓に滑り込ませたところで、宴会のような雰囲気に包まれる。
「そんじゃまぁ、伊達、退院おめでとうってことで」
「「乾杯ー!」」
ざっくりとした音頭など気にする間柄でも無く、銘々に酒を煽りながら数ある料理に手をつけていく。豚肉料理がどちらも濃い味付けだからか、和風仕立てにしたおろしポン酢ハンバーグのさっぱりした味付けはなかなかに好評で白米が止まらないようだった。これについてはおろしを剃った景光が一番の功労者だろうか。
暫く美味い美味いと言いながら食べ進めていた面々がペースを緩めてきたところで、これからの、半ば人生相談のような話が誰からともなく切り出された。
「とりあえず伊達の場合は俺達みたいに戸籍はなくならないし、家も仕事も安泰だろ」
「……それなんだが、刑事を辞めようと思ってるんだ」
「なんでまた?」
「ナタリーにな、余計な心配かけたくねぇってのが大きい」
「あぁ、彼女さん」
「事故にあった時、彼女の両親に挨拶に行く前日だったって言うのもあったから余計にな」
確かに、入籍を決めたと報告に行く間際にそんな事故に遭っていたとなれば不安が生じるのも仕方が無い。今よりも安全な職に就ければ、お互いも、挨拶に向かう予定だった彼女の両親も安心できるだろうということだ。
「明日にでも辞表出すつもりだ」
「手が速いな。因みに再就職のアテは?」
「お前達と同じ所だ」
にかっと歯を見せて笑う伊達に先程までのやや憂いた様子はなく、どうやら一課への未練はさっぱりないと見て取れる。
「伊達も来るなら賑やかになるな」
景光の零した言葉は誰にも否定されなかった。底抜けに人の良い伊達のことだ、職場の人間ともすぐに打ち解けてしまうのが目に見える。その辺りの心配はまるっきりしていないし、何より剛毅さの滲み出た風貌に似合いすぎるくらいだ。
「つーか、彼女の所に行かなくてよかったのか? 折角退院したのに」
「もう暫く忙しいみたいだしな……塾生のテスト期間が落ち着くまでは自宅待機だ。それが済んだら、そうだな、籍入れて同棲するか」
「へーーーーーえ?」
「この色男がよぉ」
「隅に置けないよな」
「生暖かい目を向けるな。式に呼ばねぇぞ」
「いやそれだと目的が果たせないだろ」
式の話が出たところでようやく本来話し合うべき内容に移行する。あの日の病室で、潜入中の降谷にごく自然に三人の生存を伝えるために伊達が出した妙案とは、兼ねてから視野に入れていたナタリーとの婚約を決め、式を挙げるというものだ。気心知れた友人の喜ばしい知らせとなれば、降谷も出席とまではできずとも陰ながら様子を見に来るくらいのことはできるだろう。そこで三人の姿を見せれば、生存していたことが伝えられるはずだ。それを降谷が素直に受け入れるとは思えないが、怪しんで尾行しに来れば自然に接触できるだろうということだ。めでたい席を釣りに使うようでやや良心が痛むところもあるが、伊達本人からの提案なので気にしないことにした。今から準備を整えるとすると、この計画が遂行されるのは恐らく夏の盛りの頃だろうか。
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