現在地、どこかの海上。いや東京湾から太平洋に出た事は間違いないのだが、どの辺りかと言われるとGPSにでも聞いてくれという具合だ。今現在、豪華客船ほどではないものの、中堅クラスの船旅を満喫中である。この後はホエールウォッチングよろしく、回遊魚の鑑賞タイムが設けられている。その後相模湾に向かい、江ノ島のホテルで一泊した後東京に帰るというツアーになっている。他にもいろいろ見て回るが、その解説は割愛しておく。

「あ、あの辺カモメが集ってる。鳥山ってやつだ」
「よく知ってるね」
「そりゃあダッ●ュ見てるから」

　某アイドルがそろそろ本格的な職人になっている長寿番組である。ところで、この船旅には古渓兄妹と安室の三人と言う不思議な組み合わせで参加していた。事の発端は、数週間前まで遡る。

　路地裏の件から僅か二日後、いつものスーパーでの事だった。お互い贔屓にしている店ではあるし、どこかで鉢合わせる事は覚悟していたのだがいくら何でも早すぎではないだろうか。別れ際に暗黙の了解を取り決めた、何も知らない体で接するという約束を守りながら、当たり障りのない会話をしたのは当然の流れだった。

「ここでお会いするのは久しぶりな気がしますね」
『まぁ、そうでしょうね。あんまり来る時間も被らない訳だし』

　この日は完全に表向きモードのようで、口にする言葉に鉛のような冷たさはない。見切り品を手に取って献立を考える姿を見れば、ついこの間後ろ暗い仕事をしていたことなど忘れてしまいそうだ。安室は完璧にダブルフェイスを使い分けている。ここに更に、表向きの「安室透」を演じる本来の自身まで居るという話なのだから、この人役者にでもなれるのではないかと思っていた。
　ところで、このスーパーでは最近客寄せのためか、福引キャンペーンなんてものを始めている。千円毎に福引券一枚を貰えるようだが、この懸賞の類には全く持って信用がないので期待などするはずもなかった。一等は高性能家電、二等に一泊二日の湾岸船旅ペアチケット、といった具合なのだが、当たる訳も無いだろうと考えているほどだ。しかしまぁ、買い物を終えてみれば手元に一枚舞い込んだ訳で、腐らせるのも偲びないという事でダメ元で回す事にしたのである。因みに同じような考えで、安室も例の券を消費していくようだ。

「一枚で一回ですね。それではどうぞ！」

　イベントガールさながらの弾んだ声のトーンで急かされつつ、ガラガラとハンドルを回す。転がり出た玉の色は青、どうやら四等のようだ。

「おめでとうございます！　こちらの箱ティシュ1セットですね」

　なかなかの引きではないだろうか。1セットで5箱なので、当分家置きのティシュを買う手間が省けるのはありがたい。さすがは主婦の味方主催のイベントである。無欲の勝利というやつだ。
　問題はこの後の、安室の結果だ。それが全ての元凶である。少し離れた場所で何となく待っていると、ベルの音と共にわっと会場が沸き立った。何かと思えば、二等のペア旅行券を引き当ててしまったらしい。使う宛、あるのか？と少々心配になりつつ、何とも言えない表情で戻ってきた安室に言葉をかけた。

『当たっちゃったんですか』
「ええ……全く使う宛ないんですが」

　事情を無視すれば使う宛もありそうな容姿だが、さすがに仕事上そんな相手を作っている暇など無いのは察しがついている。

「よければお譲りしますよ」
『いや、俺にも誘う宛ないですし』
「杏樹ちゃんを連れていってあげては？」

　なるほどその手があったか。うまく丸め込まれたような気持ちになりながらチケットを受け取ってしまった訳だが、ふと裏面の説明書きに目を通した。

『これ、小学生以下一人無料で同伴可って書いてありますよ』

　以下、となっているなら六年生まで対象だろう。子供を持つ夫婦にも打って付けのプランな辺り、スーパー利用者の層をよく考えられている。しかし杏樹がこの無料枠に入れるとなると、貧乏性の気がある諒は素直に受け取る気にはなれない。一先ずこの現状を杏樹に連絡することにした。

　──安室さんから旅行券(ペアチケ)貰ったんだが。因みに小学生以下は無料で同伴可。お前この枠で行くなら誰誘えばいい？
　──え、あむぴ。
　──は？
　──安室さん。
　──は？
　──だから

　ここまで来て画面が着信に切り替わる。嫌な予感がしつつ応答するのだが、開口一発目からスピーカー要らずの大声が飛んできた。

「安室さん誘えって言ってんじゃんこのゲーオタクソニート！」
『うっせぇこの性癖ガバガバ野郎』

　この手の悪口は本心である。おおよそ年の離れた兄妹がする問答ではないが、突然の罵詈に安室は驚愕のあまり思考停止した。諒は一分ほど電話口で話すと、通話状態のまま安室に差し出した。

『杏樹が直訴させろと』
「直訴って……。もしもし、杏樹ちゃんかい？」
「安室さんと旅行行きたい！」
「……すごい直球だね。でもいいのかい？　二人で家族旅行して来てもいいんだよ」
「それじゃ勿体ないでしょー！　折角あたしがペア枠消化しなくても行けるのに！」
「諒さんと全く同じこと言うんだね杏樹ちゃん……分かったよ、僕も同席させてもらうよ」
「やったー！　マジ神！」

　むしろその回答しか求めてなかっただろうに、と半ば諦めつつ通話の切れた携帯を返した。

『……あいつ、言い出したら聞かないもんで』
「そうみたいですね。でも安心しました、子供らしい一面もあって。聡明な子ですし、我が儘を言ってはいけないと思っているんじゃないかと……」

　確かに、ただの小学生があの聞き分けなら安室の考えも正しいが、実際あれは二十三歳児だ。中身は普通の社会人なのである。何とも言えない感覚になり、適当に言葉を濁した。

『なんか、あんたの方が杏樹の親っぽいな』

　諒のこの発言もまたこの場を微妙な空気にするのだった。
　このような事情があり、奇妙な三人旅に成り果てたと言う訳だ。船は暫しの間停船し、船底の潜水艦じみたスペースから水中を見られるようになっている。近海を泳ぐ魚がそこかしこに泳いでいくのが見て取れるので、水族館よりはリアルな絵面だろう。

「見てあれイワシの大群？」
「そうだね。こんなに間近で見るのは初めてだなぁ」
「美味しそう」
「え」

　基本的に海の生き物を食料としか見ていない杏樹は、無邪気な顔をしてそんなことを呟く。隣で聞いていた安室は軽く引いているが。

　──食材が泳いでると思ってるって認識されるのは良いのか。

　杏樹的には普段見られないものに目を輝かせる誰かさんが見たかったようだが、三十路前の成人男性にそういうものを求めるなと。そう弁論しようかと思ったが諒は黙っておくことにした。変人の思考回路をトレースできるのもまた変人だ、そんな風に思われる筋合いはない。はてさて、どこに腹が空く要素があったかは定かでないが、我空腹なりと訴えた杏樹の一言によって船内の食堂に移動する事になった。
　食堂では特にランチタイムの制限があるわけでもなく、船に乗っている間はいつでも利用できるようだ。いくつかのメニューの中から好みに合わせて注文すれば直に出てくるというスタイルで、ツアーの昼食としてはなかなか融通が効くのが分かる。

「あたし鰹のカルパッチョとホッケ塩焼き！」
『お前マジでイワシの大群見て腹減ったんじゃねーだろうな』
「はっはっは、正解！」
『何なのこいつ』

　さり気なく普段手を付けられない物を注文する辺りが子供らしさの欠片もない。なんだホッケって。しかも居酒屋のメニューのようなセレクトである。まぁ船旅のランチなだけあって魚介料理中心の和食が豊富なので無理はないが。

「杏樹ちゃん、結構味の好み渋いよね」
「そうかな、美味しいのは美味しいから好きなだけだよ。安室さんのハムサンドも」
「それはありがとう」
「兄ちゃんのも毎日普通に食べられるくらいには美味いしねぇ」
『……』

　これほどまでに全くありがたみを感じない褒め言葉が未だかつてあっただろうか。なぜか胡散臭く聞こえる杏樹には生返事で返しておく。

「そう言えば、諒さんとは料理の話はしても作ってるところは見たことないですね」
『……言われてみればそうですね』
「じゃあ今度は安室さんがウチで食べてってよ、前にご馳走になったわけだし」
『何で作りもしないお前が決めるんだ。まぁそれも一理あるか……』
「あ、でも負担でしたら無理に誘って頂かなくても構いませんよ」
『別に負担ではないですよ。あんたも言ってたように、二人分も三人分も変わりませんし』

　そもそも何人前などと言う分量的な区切りはさして気にしていない。殆どが目分量、いつもより少し多め程度で作れば何ら関係ないのだ。一年間毎日食卓を担っていればスキルは容易に身につく。材料と調理法さえ抑えておけば後は案外どうにでもなるものだ。機会があればこの件が果たされる事もあるだろう、というところで料理が運ばれてきたので、話を切り上げて海鮮御膳に手をつけることにした。



End