薄桜鬼
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血の匂いが鼻につくようになったのは、そればかりをかいでしまうようになったのは、いつからだろうか。
目の前でひとが切り捨てられる光景を目の当たりにしたとき、濃厚な瘴気をまとった鉄のにおいを感じた時だろうか。
いや、違う。
気づけば無意識に追うようになっていた、香と書物、そして墨のにおいがまざったやさしい香り、あのひとの香りに、強烈な血の匂いが混ざるようになってからだ。
それまで、他人ににおいがある事なんて、ほとんど意識した事がなかった。人間は汗をかくものだし、病人と向き合っているときにおいなんて気にしだしたらさらに悩まされるばかりだっただろう。
だから、気にしない、というより、意識した事がなかった。
それなのに、あの人——山南さんからは、肉体が発するような有機的なにおいのかわりに、さまざまな香りが混じり合った、しかしとても上品な香りがしたのだ。
それは父の書斎にこっそりと入り込んだ時、冷えた空気がまとう墨と書物の、私の思い出にしみつく大好きな香りに似ていた。
そこにかぎなれない、でも柔らかなお香の香りがほんのりとまざる。
はじめてそれを感じたときに、その懐かしく優しい香りにハッとなって、思わず辺りをきょろきょろと見回していた。
どこからする香りなのかと、ただそれを知りたくて目と鼻で探していて、ふと顔を向けた方向に、山南さんがいたのだ。
目が合って、きっと顔には出ていないだろうけど、心臓の音がひとつうるさくひびいた私に、彼は口角だけを少しだけ持ち上げて、笑う。
「……おや、どうかしましたか」
穏やかなその声は、どこか力なくも聞こえた。
私の視線の先で、彼の左腕は下にだらりと落ちたままだった。
そんな彼が再び剣を握るために羅刹となったあと、昼間にはあまりお会いする事ができなくなったあとでも、
私はふとした瞬間に彼の残り香を感じると、それだけで嬉しくなった。
私にだけわかる、あの人に通じる道しるべ。
冷静になってみれば、違うお部屋や書庫からのにおいもどこかで「その香り」と勘違いしているだけかもしれないけれど、それはそれで、感じた時には彼を思い出し、淡く幸福な気持ちになるものだったから、特にその香りの正体を気にした事もなかった。
わたしはただ、あの人がそこにいる、そう思わせてくれるような、優しい香りをたどればいい。
戦闘も激しくなっていって、つらいことが少しずつ増えてきても、その香りをこっそりと感じているだけで幸福になれた。
しかし、その香りに、強烈な血の匂いが混じるようになったのは、いつからだろうか。
隊服を真っ赤に染めて、やりすぎ、と言われてしまうほどの戦闘を経て戻ってくる山南さん。
血を真正面から浴び続けたのであろう幽鬼の様な表情を見て、私はいつも心臓がぎゅっと掴まれるような心地になっていた。
羅刹として生きるには血が必要だという。それでも、あの彼の優しさそのものだったような香りを血で消したままにするのは、あらわれはじめたほのかな狂気が、そのまま彼を覆い尽くしてしまうようで、怖かった。
もちろん怖いのは、彼自身の事ではない。あの人の知性と聡明さ、そしてわかりにくい優しさ、山南さんを構成する尊いものすべてが失われてしまうかもしれないということが、怖かったのだ。
思わず眉間にぎゅうっとしわが寄ってしまうようなくらい、濃い血のにおい。
まとった白の隊服が、真っ赤に染まっている。
山南さんは、夜中まで起きて彼を待っていたわたしを避けるようにしてすれ違って行こうとする。それでも、その血のにおいをそのままにするなんて、羅刹ではない私でさえ、意識が変になりそうだった。
「……山南さん!」
他の隊士さんたちはもう寝静まったころ、ぼんやりとしていればすぐに眠くなってしまいそうな真夜中。
わたしのあげた声は、想像していたよりも大きく、静かな夜に響く。
ゆらりと振り返った山南さんは、表情の抜け落ちたお顔をしていた。
うっすらと、しかし確実にあらわれている拒絶の色を気付いていないふりをして、続ける。
「山南さん、お風呂にはいってください」
「……わたしが汚らしいと言いたいのですか。……随分ですねぇ」
「……このままだと、あなたが汚れてしまうかもしれないと思ったのです」
山南さんの呟いた鋭いその言葉は避けきる事が出来ないままだったけれど、それを気にせず含みをもたせた言葉を返す。
「もうお湯も沸かしてあります、私があなたを他の隊士からは隠し通します。……それに、体調にだって良くないはずです、ずっと行水だけでは」
お願いします、どうか、小さく頭をさげてみる。
顔をあげた先で、山南さんは少し困惑した様な表情を浮かべて、何故そこまで君が、と、文句のようでありながらも、どこか諦めた様に呟いていた。
—————————
何故、こんなことに?
新しい木の香りがただよう中、汚れた衣服を脱ぎ捨てながら、ふと思い起こす。
刀を持って出ていくたびに、疑われているのは知っていた。そんな中で何を言おうと言い訳にしかならないだろうから、もはや口をつぐんでおくほかない。
今までも、これからも、新選組以外のために人を切るつもりはないが、わたしの「狂気」は、その信念を彼らに届ける前に打ち消す力すら持っているようだった。
刀を握り続けるために手に入れた力、そのせいで、かつての仲間からまともでないかのように見られる。それでも彼らがまだ、あからさまなまでにはその不信を見せないのが幸いか。
その日も、隊に仇なす鼠を追って、みずからの血と、他人の血にまみれて屯所に戻った。
痛みは確かにあるのに、裂かれた傷が一瞬で消えていくと、その傷の痛みの存在感は異常に希薄になった。切り裂かれているということ自体が、まるで他人ごとのように思えてくる。
では私の身体は、一体どこにあるのだろうか。
痛みが遠ざかるだけでも妙な言葉が心に浮かぶものだと、やはり他人事のように思っていた。いまや、自らをこの身体にしばりつけるのは、羅刹の身体が血の渇きに飢えたときの苦しみだけなのかもしれない。
そう気づいてしまえば、身繕いのほとんどが、冷たい水で「道具」の汚れをそそぎ、落とすためのものでしかなくなった。
彼女が気を回して、たらいに沸かした湯を部屋に持ってくるようになってはいたとしても、あくまで汚れを拭うためだけのその行為の最中、あっという間にそれは冷えて水になる。
その行為は文字通り、まるで武具の手入れと同じなのだ。
そう思ってしまえば、羅刹となった今、どこか自分の体を離れた場所で見ているような奇妙な感覚は、どんどんと強くなるばかりだった。
しかし今、久しぶりに触れた温かい湯の中で、冷えた関節がほぐされているのを感じているだけで、そんな思いは遠ざかった。
湯に撫でられた皮膚に、自らと世界の境界線を意識させられる。
ここに自分がいるという感覚、その中でも一番原始的な部分を、無理矢理に思い起こさせられるようだった。
そしてその感覚は遊離しかけた意識を、再び自らの体に引き戻すには十分だった。
希薄になった痛みも自らの身体性も、こんな単純なことで、ふたたびその指先で触れる事が出来るとは。
彼女がそこまで考えていたわけではないだろう、底抜けのお人好しである彼女は、ふと血まみれの私を気にかけただけなのだ。
あのあと私を浴場に連れ込むまでも、少年の姿をした彼女は小さな武士のように、背筋を伸ばして、お互いに勝手知ったる場所であるはずの屯所の中を先導していった。
その小さな背中は、何かが出来るということ、ただそれだけで嬉しさが身体にみなぎっているように見えた。そのいじらしさに、わずかに心が乱され、そして自らもかつては覚えがあったその思いに、心臓のあたりがほのかに焼けるように痛む。
そんな事を考えていれば、ふと気がつくと外から砂利をふむ足音が聞こえてきた。息をひそめ水音を立てないように動きを止めていると、浴場の外で見張りを買って出た彼女が張り上げた声が聞こえてきた。
「申し訳ございません、本日は松本先生の命により、浴場でネズミよけの薬を焚いているのです」
もっともらしい事を並べ立て、不満を漏らす隊士に謝り通している声を聞き、そんな事をしている場合でないのに、思わず小さく笑みがこぼれる。なんというか、先ほどの自分との問答もそうだが、彼女もおかしな所で気が強くなるものだ。
いつまでも、優しい少女を夜空のもとに立たせておく訳にもいかない。
そう思いながら、湯船から立ち上がる。
彼女にまで同情されている、それはひどく自らを傷つける様な事実であったはずなのに、そのあまりにも真摯な思いに、少しずつ自分の中で何かが変わっていくのを感じていた。
再度服を身につけてから、そっと浴場の扉を叩けば、一度軽く扉叩く音が返る。
そのあと一瞬の間があってから、音を立てないようにか、慎重すぎるくらいにゆっくりと戸が引かれて、彼女が顔を出した。
「……お湯加減いかがでしたか? 熱くありませんでしたか」
「ちょうど良かったですよ」
「よかった! あ、もう外に出て頂いて大丈夫です!」
足音も出来るだけ立てぬよう、静かに土を踏みしめて外に出る。隣に並ぶと、彼女はこちらを見上げたままで嬉しそうに呟いた。
「……山南さん、とっても良い香りですね」
邪気のない笑顔でそう言われて、返す言葉が見つからず、一瞬面食らう。
しかし今の言葉に先に慌て出したのは彼女の方で、やけに恥ずかしいと呟きながら、逃げる様に自室へ向かう道を進んで行く。
「すみませんおかしな事を言いました……どうかお気になさらないで下さい、大変失礼致しました、申し訳ございません」
慌てながら言葉を重ねて早歩きになっていく彼女を、引き止める様にその名を呼ぶ。
「雪村君」
「な、んでしょう!」
「……ありがとう、ございました」
彼女は、一瞬驚いた顔をして見せたあと、返事のかわりに、眩しいものをみるかのように目を細めて、甘く微笑んだ。
目の前でひとが切り捨てられる光景を目の当たりにしたとき、濃厚な瘴気をまとった鉄のにおいを感じた時だろうか。
いや、違う。
気づけば無意識に追うようになっていた、香と書物、そして墨のにおいがまざったやさしい香り、あのひとの香りに、強烈な血の匂いが混ざるようになってからだ。
それまで、他人ににおいがある事なんて、ほとんど意識した事がなかった。人間は汗をかくものだし、病人と向き合っているときにおいなんて気にしだしたらさらに悩まされるばかりだっただろう。
だから、気にしない、というより、意識した事がなかった。
それなのに、あの人——山南さんからは、肉体が発するような有機的なにおいのかわりに、さまざまな香りが混じり合った、しかしとても上品な香りがしたのだ。
それは父の書斎にこっそりと入り込んだ時、冷えた空気がまとう墨と書物の、私の思い出にしみつく大好きな香りに似ていた。
そこにかぎなれない、でも柔らかなお香の香りがほんのりとまざる。
はじめてそれを感じたときに、その懐かしく優しい香りにハッとなって、思わず辺りをきょろきょろと見回していた。
どこからする香りなのかと、ただそれを知りたくて目と鼻で探していて、ふと顔を向けた方向に、山南さんがいたのだ。
目が合って、きっと顔には出ていないだろうけど、心臓の音がひとつうるさくひびいた私に、彼は口角だけを少しだけ持ち上げて、笑う。
「……おや、どうかしましたか」
穏やかなその声は、どこか力なくも聞こえた。
私の視線の先で、彼の左腕は下にだらりと落ちたままだった。
そんな彼が再び剣を握るために羅刹となったあと、昼間にはあまりお会いする事ができなくなったあとでも、
私はふとした瞬間に彼の残り香を感じると、それだけで嬉しくなった。
私にだけわかる、あの人に通じる道しるべ。
冷静になってみれば、違うお部屋や書庫からのにおいもどこかで「その香り」と勘違いしているだけかもしれないけれど、それはそれで、感じた時には彼を思い出し、淡く幸福な気持ちになるものだったから、特にその香りの正体を気にした事もなかった。
わたしはただ、あの人がそこにいる、そう思わせてくれるような、優しい香りをたどればいい。
戦闘も激しくなっていって、つらいことが少しずつ増えてきても、その香りをこっそりと感じているだけで幸福になれた。
しかし、その香りに、強烈な血の匂いが混じるようになったのは、いつからだろうか。
隊服を真っ赤に染めて、やりすぎ、と言われてしまうほどの戦闘を経て戻ってくる山南さん。
血を真正面から浴び続けたのであろう幽鬼の様な表情を見て、私はいつも心臓がぎゅっと掴まれるような心地になっていた。
羅刹として生きるには血が必要だという。それでも、あの彼の優しさそのものだったような香りを血で消したままにするのは、あらわれはじめたほのかな狂気が、そのまま彼を覆い尽くしてしまうようで、怖かった。
もちろん怖いのは、彼自身の事ではない。あの人の知性と聡明さ、そしてわかりにくい優しさ、山南さんを構成する尊いものすべてが失われてしまうかもしれないということが、怖かったのだ。
思わず眉間にぎゅうっとしわが寄ってしまうようなくらい、濃い血のにおい。
まとった白の隊服が、真っ赤に染まっている。
山南さんは、夜中まで起きて彼を待っていたわたしを避けるようにしてすれ違って行こうとする。それでも、その血のにおいをそのままにするなんて、羅刹ではない私でさえ、意識が変になりそうだった。
「……山南さん!」
他の隊士さんたちはもう寝静まったころ、ぼんやりとしていればすぐに眠くなってしまいそうな真夜中。
わたしのあげた声は、想像していたよりも大きく、静かな夜に響く。
ゆらりと振り返った山南さんは、表情の抜け落ちたお顔をしていた。
うっすらと、しかし確実にあらわれている拒絶の色を気付いていないふりをして、続ける。
「山南さん、お風呂にはいってください」
「……わたしが汚らしいと言いたいのですか。……随分ですねぇ」
「……このままだと、あなたが汚れてしまうかもしれないと思ったのです」
山南さんの呟いた鋭いその言葉は避けきる事が出来ないままだったけれど、それを気にせず含みをもたせた言葉を返す。
「もうお湯も沸かしてあります、私があなたを他の隊士からは隠し通します。……それに、体調にだって良くないはずです、ずっと行水だけでは」
お願いします、どうか、小さく頭をさげてみる。
顔をあげた先で、山南さんは少し困惑した様な表情を浮かべて、何故そこまで君が、と、文句のようでありながらも、どこか諦めた様に呟いていた。
—————————
何故、こんなことに?
新しい木の香りがただよう中、汚れた衣服を脱ぎ捨てながら、ふと思い起こす。
刀を持って出ていくたびに、疑われているのは知っていた。そんな中で何を言おうと言い訳にしかならないだろうから、もはや口をつぐんでおくほかない。
今までも、これからも、新選組以外のために人を切るつもりはないが、わたしの「狂気」は、その信念を彼らに届ける前に打ち消す力すら持っているようだった。
刀を握り続けるために手に入れた力、そのせいで、かつての仲間からまともでないかのように見られる。それでも彼らがまだ、あからさまなまでにはその不信を見せないのが幸いか。
その日も、隊に仇なす鼠を追って、みずからの血と、他人の血にまみれて屯所に戻った。
痛みは確かにあるのに、裂かれた傷が一瞬で消えていくと、その傷の痛みの存在感は異常に希薄になった。切り裂かれているということ自体が、まるで他人ごとのように思えてくる。
では私の身体は、一体どこにあるのだろうか。
痛みが遠ざかるだけでも妙な言葉が心に浮かぶものだと、やはり他人事のように思っていた。いまや、自らをこの身体にしばりつけるのは、羅刹の身体が血の渇きに飢えたときの苦しみだけなのかもしれない。
そう気づいてしまえば、身繕いのほとんどが、冷たい水で「道具」の汚れをそそぎ、落とすためのものでしかなくなった。
彼女が気を回して、たらいに沸かした湯を部屋に持ってくるようになってはいたとしても、あくまで汚れを拭うためだけのその行為の最中、あっという間にそれは冷えて水になる。
その行為は文字通り、まるで武具の手入れと同じなのだ。
そう思ってしまえば、羅刹となった今、どこか自分の体を離れた場所で見ているような奇妙な感覚は、どんどんと強くなるばかりだった。
しかし今、久しぶりに触れた温かい湯の中で、冷えた関節がほぐされているのを感じているだけで、そんな思いは遠ざかった。
湯に撫でられた皮膚に、自らと世界の境界線を意識させられる。
ここに自分がいるという感覚、その中でも一番原始的な部分を、無理矢理に思い起こさせられるようだった。
そしてその感覚は遊離しかけた意識を、再び自らの体に引き戻すには十分だった。
希薄になった痛みも自らの身体性も、こんな単純なことで、ふたたびその指先で触れる事が出来るとは。
彼女がそこまで考えていたわけではないだろう、底抜けのお人好しである彼女は、ふと血まみれの私を気にかけただけなのだ。
あのあと私を浴場に連れ込むまでも、少年の姿をした彼女は小さな武士のように、背筋を伸ばして、お互いに勝手知ったる場所であるはずの屯所の中を先導していった。
その小さな背中は、何かが出来るということ、ただそれだけで嬉しさが身体にみなぎっているように見えた。そのいじらしさに、わずかに心が乱され、そして自らもかつては覚えがあったその思いに、心臓のあたりがほのかに焼けるように痛む。
そんな事を考えていれば、ふと気がつくと外から砂利をふむ足音が聞こえてきた。息をひそめ水音を立てないように動きを止めていると、浴場の外で見張りを買って出た彼女が張り上げた声が聞こえてきた。
「申し訳ございません、本日は松本先生の命により、浴場でネズミよけの薬を焚いているのです」
もっともらしい事を並べ立て、不満を漏らす隊士に謝り通している声を聞き、そんな事をしている場合でないのに、思わず小さく笑みがこぼれる。なんというか、先ほどの自分との問答もそうだが、彼女もおかしな所で気が強くなるものだ。
いつまでも、優しい少女を夜空のもとに立たせておく訳にもいかない。
そう思いながら、湯船から立ち上がる。
彼女にまで同情されている、それはひどく自らを傷つける様な事実であったはずなのに、そのあまりにも真摯な思いに、少しずつ自分の中で何かが変わっていくのを感じていた。
再度服を身につけてから、そっと浴場の扉を叩けば、一度軽く扉叩く音が返る。
そのあと一瞬の間があってから、音を立てないようにか、慎重すぎるくらいにゆっくりと戸が引かれて、彼女が顔を出した。
「……お湯加減いかがでしたか? 熱くありませんでしたか」
「ちょうど良かったですよ」
「よかった! あ、もう外に出て頂いて大丈夫です!」
足音も出来るだけ立てぬよう、静かに土を踏みしめて外に出る。隣に並ぶと、彼女はこちらを見上げたままで嬉しそうに呟いた。
「……山南さん、とっても良い香りですね」
邪気のない笑顔でそう言われて、返す言葉が見つからず、一瞬面食らう。
しかし今の言葉に先に慌て出したのは彼女の方で、やけに恥ずかしいと呟きながら、逃げる様に自室へ向かう道を進んで行く。
「すみませんおかしな事を言いました……どうかお気になさらないで下さい、大変失礼致しました、申し訳ございません」
慌てながら言葉を重ねて早歩きになっていく彼女を、引き止める様にその名を呼ぶ。
「雪村君」
「な、んでしょう!」
「……ありがとう、ございました」
彼女は、一瞬驚いた顔をして見せたあと、返事のかわりに、眩しいものをみるかのように目を細めて、甘く微笑んだ。