薄桜鬼
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昼間の屯所は、がらんどうだ。朝のうちは慌ただしくとも、嵐のごとくあっという間に隊士たちは鍛錬や巡察に出て行くせいで、建物の中はすぐに空っぽになる。
ひとがもたらす音はすべて、見えない一枚の壁を隔てた向こうに聞こえるようだった。右手に筆を握り文机に向かい合いながら、まるで自分の体の一部とは思えないような動かぬ左手を、じっと見つめる。
あの討ち入りで、失ったものが多すぎた。
今まで苦楽を共にした刀の一振りと、この左手。
魂の拠り所としていたものが、どちらも無残に壊された。
それだけされれば当たり前かもしれないが、自分でも嫌になるくらいに、自らの心が乱されているのが分かる。言葉は棘になり、それが誰かにつきささるたびに、無神経な他者への苛立ちと、自らへの嫌悪に転化する。
何故という思いははたえずつきまとった。なぜ私が、なぜ——。
答えの出る問いではないと知りながら、止めることのできない問答を、繰り返す。
蘭方の最新の情報から、ひいてははるか昔から伝わる漢方の薬まで。
手に入れられそうなものは何でも試した。それでも何も変わらない状況に、苛立ちは募った。
最適解はあの薬だけだと、頭のどこかで気付きながらまだ他の手に頼れるのではないかと淡い思いを抱いていた。
夜中に、悪夢で目覚める事も多くなった。自らの動かぬ手が冷え、腐り、色をどす黒く変えた肉が崩れこぼれ落ちる——。
そんな地獄の風景にうなされ、不快な寝汗にまみれた状態で小さく悲鳴を上げて目覚める。
そんな真夜中の風景程、孤独を覚えるものはない、そう思っていたが——。
(……存外、そんなものどこにでも転がっているものですね)
この穏やかな陽気が障子の向こうから注ぐ静かな屯所の中でも、その最悪の夜と同じくらい、いやもっと酷い孤独と虚無感がぎりぎりと胸を締め付けるように襲い来る。
「……」
こらえるように、筆を握りしめていた右手に力がこもる。
古くなっていた筆は、音も立てずにこの手の中で簡単に折れ曲がった。
ささくれだった木の感触に、手のひらを傷つけてしまったらと一瞬ぞっとなって慌てて手のひらを確認する。
折れた先が刺さっている事はなかったが、今までの鍛錬を経てかたくなっていたはずの手のひらが、若干柔らかく変化してしまった様に見えた。
そしてそんな事より、そんな確認をしてしまったのが何より滑稽だった。手のひらの傷が何だというのだ。もう剣も握れないというのに——。
「山南さん、お茶とお茶菓子に甘いものをご用意致しました! よろしければいかがでしょうか」
ふすまの向こうからは、とっても綺麗なおまんじゅうです頂いたんです、そう明るい声が続く。
……彼女は、どうしてこうも、……彼女のせいでは無いながらも、最悪の時にやって来てしまうのだろうか。
「……今は、いりません」
驚く程冷たい声が、自分の口からこぼれた。
少しだけ可哀想に思いつつも、彼女に対して気を回す余裕を、今は持ち合わせていなかった。
「し、失礼致しました……あ、あの」
「……まだ、何か」
「……ご気分が変わられましたら、気分転換でもさ、されたくなりましたら、……あの、台所まできてください。新しいものを、お出し致します」
言いきるが早いか、彼女は茶器の音を鳴らしながらあわてて戻って行く。
他の隊士ならば、一秒でもはやくこの場をやり過ごして戻りたい、そう思うであろう声音に対して、
ここまで言いきってから逃げ出すとは。
一人、歪んだ笑みで息が漏れる。
彼女からしてみれば、出会い頭に怒気をぶつけられたかのようなものなのに。
「……お人好し、なんですね」
小さく声に出すのはきっと、自分自身にあくまで彼女は「お人好し」だと思い込みたいから、どこかでそう気付いていた。
改めて筆を握り、半紙に向き合って一刻ほど。
ちょうどきりが良くなった辺りで、先ほどの言葉を思い出し今度こそ彼女に対して気を回してやるつもりで、立ち上がる。
廊下を辿っていけば、台所に辿り着くより、床を磨いている彼女に出会うのが先だった。
彼女は、私の顔を見るなり、急に嬉しそうにぱっと微笑んで、今お茶をご用意致しますね!と立ち上がってかけていく。
その背中を視線で追って浮かぶこの口元の笑みは、きっと歪んでいないという事を、自分でも分かっていた。
冷えた肉の事も、その一瞬だけは確実に、忘れられていたのだ。
ひとがもたらす音はすべて、見えない一枚の壁を隔てた向こうに聞こえるようだった。右手に筆を握り文机に向かい合いながら、まるで自分の体の一部とは思えないような動かぬ左手を、じっと見つめる。
あの討ち入りで、失ったものが多すぎた。
今まで苦楽を共にした刀の一振りと、この左手。
魂の拠り所としていたものが、どちらも無残に壊された。
それだけされれば当たり前かもしれないが、自分でも嫌になるくらいに、自らの心が乱されているのが分かる。言葉は棘になり、それが誰かにつきささるたびに、無神経な他者への苛立ちと、自らへの嫌悪に転化する。
何故という思いははたえずつきまとった。なぜ私が、なぜ——。
答えの出る問いではないと知りながら、止めることのできない問答を、繰り返す。
蘭方の最新の情報から、ひいてははるか昔から伝わる漢方の薬まで。
手に入れられそうなものは何でも試した。それでも何も変わらない状況に、苛立ちは募った。
最適解はあの薬だけだと、頭のどこかで気付きながらまだ他の手に頼れるのではないかと淡い思いを抱いていた。
夜中に、悪夢で目覚める事も多くなった。自らの動かぬ手が冷え、腐り、色をどす黒く変えた肉が崩れこぼれ落ちる——。
そんな地獄の風景にうなされ、不快な寝汗にまみれた状態で小さく悲鳴を上げて目覚める。
そんな真夜中の風景程、孤独を覚えるものはない、そう思っていたが——。
(……存外、そんなものどこにでも転がっているものですね)
この穏やかな陽気が障子の向こうから注ぐ静かな屯所の中でも、その最悪の夜と同じくらい、いやもっと酷い孤独と虚無感がぎりぎりと胸を締め付けるように襲い来る。
「……」
こらえるように、筆を握りしめていた右手に力がこもる。
古くなっていた筆は、音も立てずにこの手の中で簡単に折れ曲がった。
ささくれだった木の感触に、手のひらを傷つけてしまったらと一瞬ぞっとなって慌てて手のひらを確認する。
折れた先が刺さっている事はなかったが、今までの鍛錬を経てかたくなっていたはずの手のひらが、若干柔らかく変化してしまった様に見えた。
そしてそんな事より、そんな確認をしてしまったのが何より滑稽だった。手のひらの傷が何だというのだ。もう剣も握れないというのに——。
「山南さん、お茶とお茶菓子に甘いものをご用意致しました! よろしければいかがでしょうか」
ふすまの向こうからは、とっても綺麗なおまんじゅうです頂いたんです、そう明るい声が続く。
……彼女は、どうしてこうも、……彼女のせいでは無いながらも、最悪の時にやって来てしまうのだろうか。
「……今は、いりません」
驚く程冷たい声が、自分の口からこぼれた。
少しだけ可哀想に思いつつも、彼女に対して気を回す余裕を、今は持ち合わせていなかった。
「し、失礼致しました……あ、あの」
「……まだ、何か」
「……ご気分が変わられましたら、気分転換でもさ、されたくなりましたら、……あの、台所まできてください。新しいものを、お出し致します」
言いきるが早いか、彼女は茶器の音を鳴らしながらあわてて戻って行く。
他の隊士ならば、一秒でもはやくこの場をやり過ごして戻りたい、そう思うであろう声音に対して、
ここまで言いきってから逃げ出すとは。
一人、歪んだ笑みで息が漏れる。
彼女からしてみれば、出会い頭に怒気をぶつけられたかのようなものなのに。
「……お人好し、なんですね」
小さく声に出すのはきっと、自分自身にあくまで彼女は「お人好し」だと思い込みたいから、どこかでそう気付いていた。
改めて筆を握り、半紙に向き合って一刻ほど。
ちょうどきりが良くなった辺りで、先ほどの言葉を思い出し今度こそ彼女に対して気を回してやるつもりで、立ち上がる。
廊下を辿っていけば、台所に辿り着くより、床を磨いている彼女に出会うのが先だった。
彼女は、私の顔を見るなり、急に嬉しそうにぱっと微笑んで、今お茶をご用意致しますね!と立ち上がってかけていく。
その背中を視線で追って浮かぶこの口元の笑みは、きっと歪んでいないという事を、自分でも分かっていた。
冷えた肉の事も、その一瞬だけは確実に、忘れられていたのだ。