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BL松

 目は口ほどに物を言う。
 そういうことわざがある。時と場合によって、目は口で話すのと同じくらい気持ちを伝える力を持つことがある、という言葉通りの意味を持つ。しつこいようだが、時と場合によるのだ。そうでないこともある。だから、おれには分からなかった。視線に込められた意味が、全くもって理解できなかった。
 ここ最近のおれの不快感は、頻繁に送られてくる突き刺さるような視線が原因だった。いつからか、あの男は、鏡でなくおれを見ていることが多くなった。自意識過剰かもしれない。ただ、何やら視線を感じて振り返れば、必ずと言っていいほど、背後にあいつがいた。正直言って、非常に居心地が悪い。何かやらかしただろうかと考えたところで、思い当たる節が多すぎて結論に至らなかった。
 平日の昼下がり。曜日感覚なんてとうの昔に失ってしまった。ソファの上で膝を立てて座り、おれは悶々と考え事をしている。そんなおれを、まるで珍しい野生動物がいるかのように奴は見てくる。それとも何だ。何か見えちゃいけないものが見えてたりするの?
 ギターを片手に、窓辺に座るカラ松。以前のあいつなら、「サンシャインを浴びる、オレ」とか、それこそ意味不明なことを考えていたのだろう。それが今は、天を仰ぎつつも、チラチラとこちらの様子を伺ってくる。そんなんじゃ、自分の世界に浸れないんじゃないの。
 「ねえ」
 とうとう、この時がやってきた。二階の子ども部屋には今、おれとこいつ以外誰もいない。おれはこの瞬間を、今か今かと待ち望んできた。二人だけになった時にこそ、問い詰めてやろうと企んでいたのだ。何がお前をそうさせるのかと。
 「んん?」
 丁度こちらを見ていたもんだから、視線がバチリと衝突した。僅かに動揺を見せたカラ松は、ギターを構え直し、口元を緩ませる。弟の話を聞く、オレ。そんなことを考えているんだろうな、と思いながら、重い口を再び開いた。
 「何か、おれに言いたいことでもあるの」
 そこまで問うて、相手の出方を伺う。カラ松は右手で頭を掻き、その手を顎に当て、数秒かけて首を傾げる。
 「いや、特にない」
 素直にそう答えたものだから、本心を話しているのだと思った。カラ松はいかにも不思議、というような顔をしていて、おれの質問の意図が掴めていないということが一目瞭然だった。これと言った用はない。だとしたら。
 「じゃあ、何で見てくんの」
 相手がそのつもりなら、こっちも思ったことをそのまま聞くまでだ。カラ松がわざと知らないふりをしているのではないことは承知の上だった。それでも、好奇心が打ち勝って、おれは返事を待たずに続けた。
 「最近、こっち見過ぎじゃない?」
おれにしては珍しい、ゆったりと落ち着いた口調だった。こいつと話す時は感情が昂ぶってしまうことが多い。それは奴の行動が一々癪に障るからであって、他意はない。
 「え?」
 今度は顎の手を、一旦離し、そのまま鼻の辺りを触る。きっと、サングラスの位置を正そうとしている。実物はないのだが。明らかにおかしい。
 「気のせいじゃないか?」
 不自然な動きをしながら、カラ松は立ち上がった。すたこらさっさ。部屋から立ち去ろうとするカラ松をおれは逃さない。
 「気のせいじゃない」
 相手の言葉を繰り返すことで、相手をそこに留める作戦だ。
 「…そうだろうか」
 膝を崩し、ソファの上で胡座をかく。襖の手前で静止したカラ松は、こちらへ向き直り、おれの前にやって来て、ギターを丁寧に床に置いた。その横で正座をし、きっちりと手を腿の上に添える。目線の高さが下にあることから、おれがカラ松を見下ろす形となった。
 「やけに見てくるからさ。気になるんだよね。常に監視されてるみたいでさ。何かあるんじゃないの?ないんだったら、やめて欲しいんだけど」
 一息で言い放った。おれが深く息を吸う間も、相手は何も言わなかった。やがて、カラ松は瞬きを一つすると、おれの脚まで視線を移動させ、次いでそれを横へ流した。
 「分かった」
 どこを見ているのか分からない目付きで、頷いた。
 「やめる」
 いや、潔いな!?思わず、脳内でつっこみを入れてしまった。やめてくれるのは良いよ。でも、理由を教えてくれるともっと良い。頭の中は騒がしくとも、室内は静かだった。カラ松もおれもその場から動かず、ただ座っている。なぜ、おれが気まずい思いをしなくちゃいけないのか。足首を触り、疑問に思っていたことを尋ねてみることにした。
 「あのさ、お前、幽霊とかそういう類のもの…」
 「見えないぞ」
 あっさりと否定された。流石にこれはないか。
 「一松」
 呼ばれて目を合わせると、凛々しい顔をしたかと思いきや、眉尻が小さく下がった。向けられた視線は鋭い。不本意ながらも、その瞳に惹きつけられているようで、息を呑んだ。まだ聞きたいことがあるのに、言葉が出てこない。
 「…何でもない」
 呟かれた言葉と同時に、束縛から解放された。カラ松は何かを諦めたような表情で、腰を浮かせた。押し入れの前にあったケースにギターを戻す様子を、呆然と見つめる。大事そうに蓋を下ろしたところで、動きが止まった。
 「自分でもよく分からないんだ」
 低い声だった。返すべき言葉に迷う。兄はおれに向けて微かに笑った。まるで謝られているような気がして、カラ松が部屋から出て行くのを、おれは何も言えずに見送った。

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 あの日から一週間が過ぎた。三丁目の路地裏は今日も寒い。
 にゃあ、と足元の猫が鳴いた。まるで慰めてくれているようだが、別におれは落ち込んでいるのではない。黒茶色の猫をひと撫でして、マスクを鼻まで引き上げる。最低気温が氷点下を下回る今日、こんなところに長居しているのは、仲間がいるから、そして家に帰ればあいつがいるからだ。
 カラ松は宣言通り、おれのことを見ることはなくなった。お陰様で、変なストレスを感じることがなくなり、肩が軽くなった。しかし、カラ松はおれが考えていた以上のアホだった。単純な思考回路を持つあいつは何を思ったのか。こんなの嫌がらせだろう。カラ松は、おれを避けるようになった。銭湯に行く時は近くを歩かない。布団の中ではおれに背中を向けて寝ようとする。試しにあいつを観察してみると、露骨にこちらへ目線を向けないようにしていることがわかった。当たり前だが、目が合うなんてことは一切なくなった。
 自業自得だ、とどこかで考えている。その事実が悔しくて、ムカつく。家族に避けられるというのは意外にも息苦しいことで、自分が悪いことをしたつもりはなくとも、家にいる間は罪悪感を抱えて過ごさなくてはならない。生活をより良いものにするためにしたはず行動が、おれの毎日を不自由にした。
 何かしなくてはならない。面倒だけど、このままでは埒が明かないのだ。極端なあいつはいつだっておれの怒りの元で、それでも家族であることに変わりはないのだ。
 空き缶をビニール袋にしまい、おれは家路についた。家に帰るまでの間に、何か策を練ろうとしたのだが、結局は直談判しかない。次、二人になるのはいつだろう。冬空を見上げて、考える。家には人が多い。兄弟六人のうちの一人と二人きりになる状況は、無理にでも作り出さない限りは半年に一回あるかないかだ。無理をするまでの案件でもないのかもしれない。只々、溜息をつくしかなかった。

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 玄関からは見慣れたチェックのシャツが覗いていた。
 「あ、おかえり」
 そう告げたのはチョロ松の影になって見えていなかったトド松だ。一つ上の兄はおれを見るなりラッキーと呟き、胸の前で手を合わせた。
 「ごめん、一松」
 「え?」
 「この荷物、二階に置いておいてくれない?」
 見れば、靴箱の横には大きな紙袋が置かれていた。袋の柄と、中に見える物からして、またアイドル関連のグッズのようだ。
 「何でおれが」
 正直に思ったこと訊く。チョロ松は自分の足元に目をやり、そしておれの足元を見る。お前、サンダルじゃん、と言った。だから何なんだ。
 「今日父さんたちいないから、夕飯はおでんだよ」
 携帯を凝視していたトド松が会話に混ざってくる。そういえば今朝、現地集合の話が出ていた。マスクの下で鼻をすする。
 「そう。だからさ、俺たちこのまま行こうって話になったんだ」
 チョロ松は申し訳なさそうに首をひねった。
 「ぼく、今丁度帰ったところでさ。この荷物はどけておかなきゃ、父さんたちが帰ってきた時に何言われるか分かんないじゃん」
 「でも靴を脱いで家に上がるのは面倒くさい、と」
 「そう!よく分かったね」
 どんだけだよ。おれも人のことを言えたもんじゃないが、面倒くさがり屋にも程があるのではないか。それくらい自分で行けよ、と思った。だけど、ゴミの処理もあることだし、確かにおれはサンダルだ。少しの労力で、恩を売っておいた方が、後が楽になるかもしれない。
 「いいよ」
 そんな下心満載で、仕事を引き受けた。
 「流石!ありがとう!」
 おれの心中を知る由もないチョロ松は、愛想良い顔でおれの肩を叩いた。加えてトド松も、「一松兄さん優しい」といかにも棒読みで褒めてくれる。まあ、褒められて悪い気はしないよね。
 「じゃあ、また後でね」
 頼みごとが済んだ兄は、くるりと向きを変え、家の外へ出ていく。靴を履いて律儀に待っていたトド松も兄の後を追い、手を振りながら引き戸を閉めた。
 一人になった途端、急に面倒に思えた。しかし、引き受けた以上やるしかない。家に上がり、台所でゴミを捨てる。廊下は冷え切っていて、歩く度に足の裏が悲鳴を上げていた。床暖房とかほしいわ。くだらないことを考えつつ、玄関の荷物を持ち上げる。予想以上重くて、身体が前に倒れそうになる。運動不足にはきつい仕事だった。チョロ松ってそんなに力持ちだったか?おれが衰えているのか。
 階段を一段一段、慎重に進む。今度は手が悲鳴を上げていたが、意識すると一気にやる気をなくしてしまう。無視だ。頂上に着くなり、手の荷物を乱雑に下ろした。バサリと音を立てて紙袋の中身が顔を出す。自分の顔が引きつるのを感じるが、我慢。先回りしてこども部屋の襖を開けて、荷物を整え、部屋の中へ。鮮やかなオレンジのコーンがある位置まで耐える。やっとの思いで預かり物を床に置いた。
 これだけの作業でも、体温がかなり上がってしまった。湿ったマスクが邪魔くさい。でも、外は寒いだろうし…。新しいものと取り替えよう。耳にかかった紐を外すと小さく痛む。しょっちゅうあることだから、気にしない。それよりも、マスクを取った時の開放感が好きだった。大きく息を吸って、呼吸が落ち着いてきたことを確認。本棚にある替えを取る前に、外したばかりのマスクを捨てるべし。ゴミ箱へと振り返る。
 ついでに、さっきから気になっていたソファを一瞥する。やっぱり、そうだった。お前はいつもそこで寝ているな。可哀想に、おれがここに来なければ、誰にも気づかれないまま、置いていかれるところだったのか。カラ松はパーカー姿で気持ち良さそうに寝息を立てていた。
 起こす気分にもなれなくて、放っておこうかな、と思った。起こしても変な空気になるだけだ。現地集合の話が出た時には、こいつもその場にいたはずだ。起きたら勝手に来るだろう。ゴミを捨て終わり、さあ行くかと踵を返せば、ソファから聞こえた鼾に何となく足を止めた。もう一度向き直り、寝ている兄を覗き見る。何もかけずに眠っているものだから、涎を垂らした間抜け面が丸見えだった。
 「プッ」
 つい吹き出してしまい、慌てて口を押さえた。寝顔自体は、隣に寝ているのだから毎晩目にしている。ただ、こいつの顔を正面から見るのは久しぶりであるような気がした。まだ一週間しか立ってはいないけど、昼間の間は、顔を向け合うこともなくなったからだ。
 「んん…」
 おれの気配を感じたのか、カラ松は眉間にしわを寄せる。起こしてしまっただろうかと身体を硬直させていたが、どうやら違うようだった。
 …こうしていると、あの日を嫌でも思い出す。こいつがここで寝ていて、おれがこいつの服を拝借してしまったあの日。根暗だとか闇人間だと称しているおれだが、人並みの好奇心は持ち合わせている。そして、時にはそれをすぐ行動に移してしまうことが、自分の隠れた弱点であると薄々感じていた。
 あれは悲惨だった。おそ松兄さんが部屋に入ってきて、どうにかやり過ごしたものの、カラ松が最悪のタイミングで目を覚ましてしまった。そして、空気が読めるのだか読めないのだか分からないあいつは、おれの真似事をしてその場を乗り切ろうとしたのだ。全く似てなかったけど。二十数年間、一緒にいたのに、どうしたらあそこまで似ていない真似ができるのか。それだけの間、おれ達を見てきたのに。
 そうだ。こいつは昔から、兄弟をよく見ていたのだ。おれは何かあれば大抵は兄弟に合わせ、一緒に馬鹿騒ぎしているけど、カラ松の場合、そうでないこともある。あいつはたまに無口だ。兄弟の話や行動の行く末を黙って眺めていることも多かった。
 一時期、それを疑問に思い、訊いてみたことがあった。その時、カラ松はなんて答えたのか。そう、確か…
 「見ることには愛がある」
 無意識のうちに、言葉に出していた。
 突然、強い不安を覚えた。辺りの音が遠くに聞こえるようになって、心拍が速まる。己を誤魔化そうと深呼吸を試みるも、上手くできない。じっとしていられなくて、跪く。ソファで眠り続ける男を見つめた。
 「ねえ」
 一週間前とは逆の立場にいるようだ。おれはソファの下から、寝ていると分かっていながら、呼びかける。寝ていると分かっているから、おれは言った。
 「見ているうちは愛があるってことならさ」


 「今は、もうないの?」
 言うべきでないことだ。頭の中で、忠告の声が響いていた。頬に温かいものを感じ、おれは言葉に詰まる。可能な限り息を吸い込んで、忠告を回避することを選んだ。
 「おれのこと、嫌いになったの」
 たかが七日間。こいつから注がれる視線がなくなっただけで、おれはここまで弱ってしまうのか。情けない。恥ずかしい。自分が異常であるように思えてきた。これでは、淋しくて死んでしまう動物みたいじゃないか。依存し過ぎているんだ。兄弟に、こいつに。
 でも、やっぱり嫌なんだ。七日間、おれはこいつを見てきた。おれに見向きもしないこいつを、おれは見ていた。最初は良かった、と素直に思った。近頃、カラ松に見られていると思うと、気が気じゃなくて、変に苛ついていたからだ。でも、違った。今度は見られていないことに違和感があって、落ち着かなかった。どんなにおれが視線を送っても、あいつは返してこなかった。どこか物足りない、そんな感情を抱いていた。

 「…ない」
 低い声だった。小さく聞こえた声に耳を澄ませば、暖かい何かがおれの頬に触れた。目から溢れ出た水分を指で拭われる。
 「嫌いになんて、なれる訳ない」
 目が合った。それだけで、悲しくて、嬉しくて、腹立たしかった。カラ松はおれから目を離さず、しっかりとおれを見据えている。
 「なあ、一松」
 姿勢を徐々に起こし、頬に置かれた手を滑らせた。おれと向き合うように座り直し、手を腿に乗せ、カラ松は言葉を続ける。
 「一週間、オレはお前を見なかった。結果として避けるみたいになってしまったことは謝る。だけどな、分かったんだ。お前に指摘されたことの理由が。目で追ってしまう、その理由が」
 そこまで言うと、カラ松は言い淀む。おれが急かすように頷くと、はじめて視線を宙へ彷徨わせた。
 「理由は?」
 言われたことを繰り返すことで、更に言葉を要求する。兄は首を横に振った。眉尻が下がって、いかにも困ったな、という顔をしている。
 「ここから先を話すとな、後戻りできなくなるんだ」
 絞り出すように話すカラ松が、目線をおれに合わせる。真剣な面持ちだった。おれは何も言えなくて、ただ、その瞳に惹きつけられている。相手の目に映った自分が、小さく笑った。それを合図に、おれは頷いた。
 「いいよ」
 目を閉じて、開く。
 「きかせて」




 「好きだ」
 きゅうと、胸を締め付けられる感覚。その目は優しくて、暖かった。
 抱きしめられたい。そう思った瞬間、腕を伸ばしていた。驚いたカラ松は躊躇いがちに腕を回す。肩口に頭を擦り寄せると、抱き寄せられる力が強くなる。安心する匂いがする。また、泣きそうになる。好きなんだ、という声がする。その声が、キスができそうなくらい近い距離が、おれを惑わせる。何かが、心の中で何かが、腑に落ちた。

 目は口ほどに物を言う。
 そういうことわざがある。時と場合によって、目は口で話すのと同じくらい気持ちを伝える力を持つことがある、という言葉通りの意味を持つ。しつこいようだが、時と場合によるのだ。そうでないこともある。だけど、おれには分かった。視線に込められてきた意味が、今なら全て、分かるような気がした。

 おれもだよ。そう言ったら、兄はどんな顔をするだろう。きっと、びっくりして、でも、笑ってくれる。
 あの、愛しいものを見る目で、おれを見てくれる。それはきっと、とても歯がゆくて、すごく幸せなことなんだ。
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